2015年4月12日日曜日

ヨハネの福音書17章20節~26節 「みな一つとなるために」

聖書によれば、神様を離れ罪に落ちた人間が失ったものがふたつあります。一つは、神様との親しい交わり。もう一つは互いに愛し合う交わりです。
事実、人類最初の夫婦アダムとエバの間も喧嘩をしたことが記されています。夫アダムは禁断の木の実を食べたことを妻のせいに、妻エバは誘惑した蛇のせいに、各々責任転嫁し争いました。最初もっていた親密な交わりを失ったのです。ある意味で、聖書は、それ以降、夫婦親子隣人、民族と民族、国と国。人間の交わりがいかに酷いものになってしまったか。どれ程あるべき状態から落ちてしまったのか。その記録と言えます。
そして、状況は現代においても変わらないかもしれない。いや、より深刻になったとも感じます。人間を機械の歯車のように扱う企業。女性を性的な商品のように扱う男性。親が子を、子が親を、夫と妻が互いを利用し合い、争う家族。友人を望みながら、傷つくのを恐れ、親しくなるのを避ける人々。アンケートでは人生において大切なものは、家族や信頼できる友と答えるものの、多くの人が孤独に悩んでいるのではという気がします。
さて、受難週とイースター、二回の礼拝を間に挟みましたが、今日私たちはヨハネの福音書17章にある、イエス・キリストによる大祭司の祈りの学びに戻ります。
この祈りは、十字架前夜、最後の晩餐の席上、イエス・キリストが天の父に向けてささげたもの。今まで、ご自身のため、次に席を同じくする弟子たちのためと祈ってこられたイエス・キリストが、今日の箇所では、今世界中に広がる私たちクリスチャンのことを覚えて、祈りをささげておられます。
そして、この祈りの中心にあるのは、イエス・キリストを信じる私たちの中に、失ってしまった愛の交わりが回復するようにとの願いであることに注目したいと思うのです。

17:20,21「わたしは、ただこの人々(席を同じくする弟子たち)のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々(今世界中に広がる私たちクリスチャン)のためにもお願いします。それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。」

この祈りの中で私たちが一つになるようにと何度祈られたか、わかるでしょうか。三度です。もって、これがイエス様にとっていかに大切な願いであるかが分かります。
それでは、「一つとなるため」の「一つ」の意味は何でしょうか。それは、「統一」ではなく「一致」ということばにより近いものです。譬えて言うなら、デパートや銀行で店員さんが皆同じ制服を着ていること、これは統一でした。それに対して、三本の異なる色の糸がより合わされ、より豊かな色合いの一本の糸となることが一致と言えるでしょうか。
つまり、多様性が認められる中で、皆が心を合わせ一つに結ばれることです。教会をキリストの体にたとえたパウロは、「器官は多くありますが、からだはひとつ」と語り、「それは、からだの中に分裂がなく、みながいたわり合うためです」(Ⅰコリント12:20,25)と書いていますが、様々な器官がバラバラでなく、一つからだ一ついのちとして機能する状態、これを一致と言っても良いでしょう。
「あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるため」と、イエス様は言われました。天の父がイエス様におられ、イエス様が天の父にいる様に、私たちが一つとなる。これは、どういうことでしょうか。
人を愛する時、その人の存在はたとえ場所が離れていても私たちの心にいると言う経験を、皆様はされたことがあるのではないかと思います。親が遠く外国に住む我が子のことを心に思い浮かべ、心配したり、励ましたりする。戦場で戦う夫を思い、母国に残る妻が心の中で語りかける。確かに、私たちが愛する人は私たちの中に存在するのです。
天におられる父なる神様と地上にいるイエス様も、その様な関係にありました。ですから、天の父がイエス様におられ、イエス様が天の父にいる様に私たちが一つとなるとは、私たちが自由な愛によって一つに結ばれる。その様な関係をイエス様が心から願っておられるということになります。
天の父とイエス様とが異なるように、私たちもお互いに性格、賜物、働き、生まれ育った環境等様々な点で異なっています。愛を表現する方法、愛を受け取る態度も異なります。
しかし、罪の中にある私たちにとって、お互いの違いを受け入れつつ、一つになることは、非常に難しいことです。何故なら、罪とは神中心ではなく自分中心に考え、生きることだからです。
私たちは自分と同じ考えに人が立つこと、自分の理想どおりに人が行動することを一致と思い、そうでない人の存在にイライラしたり、さばいたり、排除したりする性質を宿してします。しかもそうした自分になかなか気がつかないと言う、厄介な存在なのです。
けれども、そうした罪の性質を取り除くため、天の父がイエス様に与え、イエス様が私たちに与えてくださったものがあると言われます。

17:22,23「またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです。」

天の父がイエス様に与え、イエス様が私たちに与えてくださった栄光とは、罪の贖いの恵み、あるいは聖霊を指すと考えられます。自分と異なる人を妬み、さばき、排除する性質。自分と異なる人を受け入れることのできない不寛容。それら愛の交わりを妨げる罪の性質を取り除くため、イエス様が十字架で成し遂げてくださった罪の贖いの恵みとそれを心に届けてくださる聖霊を、イエス様を信じる者はみな受け取ることができる。この聖書の福音、良き知らせを、私たちも受け取る者でありたいと思います。
ところで、私たちが愛によって一つとなることをイエス様が願ったのは、この世の人々のことをも愛しているからでした。「あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるため」「あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたことを、この世が知るため」とある様に、私たちの交わりを通して、イエス様の存在と父なる神様の愛をこの世の人々は知ることができるのです。
松尾牧師と言う方の証しを聞いたことがあります。この方は元僧侶でしたが、キリスト教を信じて牧師となり、寺を捨てた人物です。その改心のきっかけは夫人の改心であったそうです。夫人は駅前で配られた集会のチラシを見て、生まれて初めて教会の門をくぐったのですが、説教はよくわからずじまい。しかし、心をとらえて離さなかったのが教会の中にあった何とも形容しがたい和でした。老若男女、仕事も性格も異なる様々な人々がいるのに、どうしてこれほど仲良くしていられるのか。それが不思議でならなかったのです。
やがて、夫人は寺に帰りますが、寺の現実とかけ離れている、教会の和と一致とに心惹かれ、翌日も教会に行き、やがてキリストを信じるに至ります。こともあろうに僧侶の奥さんがクリスチャンになったと言うことで、みなが大騒ぎ。ご主人も檀家の人々も随分反対したそうです。しかし、やがて夫人の心の中に神様から与えられたとしか思えない平安と力とを見たご主人が、奥さんの信じる神様に関心を向けるようになり、とうとう二人してお寺を出て、牧師になったと言う証しです。
私たちは、この世の人々が教会の何に心惹かれるのか、気がついていないのかもしれなません。壮麗な建物、数多くのプログラム、伝統や格式。案外私たちはそうしたものに、人々は魅力を感じて教会に足を運ぶのではと考えていないでしょうか。
しかし、この世になく教会にあるもの、いや教会にあるべきもの、愛の交わりこそ、人々が神様の存在に心を向ける源。その様な教会をつくるため、わたしは十字架にいのちをささげた。この祈りの中に、私たちこの様なイエス様の御声を聞くことができたらと思うのです。
さらに、イエス様の願いはこれにとどまりませんでした。私たちと永遠にともにいることを、天の父に強く願われたのです。

17:24「父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。」

この直後、イエス様は十字架に死に、天に帰って行きますが、地上に残る私たちのことを忘れてはおられなかったのです。むしろ、「時が来たら必ずや彼らを天の御国に導いて、わたしとともに生活できるようにしてください」。念を押すように祈るイエス様の姿が目に浮かぶところです。
もちろん、今もイエス様は聖霊によって私たちともにいてくださいます。地上にいても、私たちはイエス様がともにおられるのを覚えることができます。しかし、その知り方は、残念ながら直接ではなく間接に、直にと言うよりみことばを介してのものです。ですから、信仰の弱い私たちは、ともにおられるはずのイエス様を見失ってしまう様な心細さを覚える時もあるでしょう。
ですから、ここでイエス様が天の父にお願いしているのは、私たちが直接イエス様を知り、さらに親しくなること、顔と顔とを見合わせてお話しすること、栄光のイエス様のもとにこの体をもって、いつでも、何度でも、安心して行ける関係が完全にまた永遠に続く状態なのです。
私たち夫婦は、結婚する前7年間交際しましたが、最初の一年ぐらいが恋愛絶頂期、最盛期だったと思います。昼間大学の食堂で一緒にご飯を食べる。クラブで出会う。授業が終わるとデートをする。デートが終わると家の近くまで電車を乗り継ぎ、なるべく長く一緒にいる為駅からバスを使わず、歩く。夜アパートに帰ると、財布を十円玉で一杯にして、近くの公衆電話から彼女の家に、家族の人が出ないようにと祈りながら、電話をする。
今振り返ると、よくあれ程一緒にいたいと言う気持ちが湧いてきたものだと、不思議に感じます。何をしたか、何を話したかは全く覚えていませんが、とにかく一緒にいることが楽しい、一緒にいたいと言う思いが湧き続けて途切れないという状態は、あれが人生で最初にして最後という気がします。
イエス様の私たちに対する思いも同じではないでしょうか。イエス様は、貧しくとも富んでいても、病をもっていても健康でも、何ができてもできなくても、性格が明るくても暗くても、この地上でも、天の御国でも、私たちとともにいることを強く強く願っているお方です。イエス様は、私たちが持っているものではなく、私たち自身を愛し、私たちの存在そのものを大切に思っておられるお方なのです。この祈りも、私たちの心を慰め、励ましてくれるものではないでしょうか。
そして、天の御国での生活が実現するその時まで、「天の父よ、わたしはあなたの愛が彼らの中にあるよう、地上にいる者たちにあなたのことを知らせ続けます」と語る,誓いの祈りで締めくくられます。

17:25,26「正しい父よ。この世はあなたを知りません。しかし、わたしはあなたを知っています。また、この人々は、あなたがわたしを遣わされたことを知りました。そして、わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。それは、あなたがわたしを愛してくださったその愛が彼らの中にあり、またわたしが彼らの中にいるためです。」

最後に、今日のところから、私たち心に刻みたいことが二つあります。
ひとつは、イエス様は、私たちが父なる神様の愛を心に受け取り、それに憩うことを何よりも、切に願っているということです。
「あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛された」また「あなたがわたしを愛してくださったその愛が彼らの中にある」と言われる通り、父なる神様はイエス様を愛されたのと全く同じ愛で、私たちを愛しておられます。罪を持ったままの汚れた私たちが、罪のないイエス様と全く等しく、天の父から愛されていると言うのです。
また、二千年前に為された祈りのうちに、イエス様が私たちのこと思い、心に覚え、刻祈りつつ、十字架の道を進んでくださった姿を確認することができました。
私たちは、教会で奉仕をしたり、献金したり、この世で働いたり、他人を助ける等、神様のために何かをすることで自分の信仰を証明したり、評価する傾向があります。
しかし、イエス様が願うのは、私たちが何かをする前に、まず神様の愛を受け取り、憩うこと、安らぐことです。神様の愛を喜び、感謝することなのです。その上で、神様が自分に期待していることは何かを考え、行動すれば良いのです。日々その様な歩みを進めてゆきたいと思います。
二つ目は、私たちが愛し合う交わりを築くことは、この世に対して非常に大きな影響力があるということです。ですから、この世の人々が神様のことを知るため、私たち教会が一つになるようにと、イエス様は繰り返し祈りました。
けれども、旧約聖書の神の民イスラエルも、新約聖書の教会も、様々な問題で分裂、分派、対立を起こし、この様な交わりを築くことに失敗してきました。その後のキリスト教会の歴史を見ても、何度も同じ失敗が繰り返されています。
この様な教会が何故地上から消えてなくならないのか。それは、私たちは不真実でもイエス様は真実だから、イエス様が全身全霊私たちのためにとりなし、祈り続けておられるからであることを、今日の祈りで確認したいのです。
イエス様は今も祈り、期待しておられます。神様に背いて以来、人間が失ってしまった愛の交わりを、たとえ不完全であっても、私たちがこの地上に築くことを応援し、期待しているのです。イエス・キリストの罪の贖いの恵みを受けた者にしか築くことのできない交わり、人々にとって最も必要な愛の交わりを、何としてでもこの世界に残し、広げることを願い、それを私たちに託しておられるのです。私たちが、このイエス様の期待を感じながら、教会生活を送れたらと思います。今日の聖句です。

エペソ4:32「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」

2015年4月5日日曜日

Ⅰコリント人への手紙15章20節~27節 「キリストによってすべての人が生かされ」

 今日はイースターの礼拝。イエス・キリストの復活の意味を考え、永遠のいのちの望みについて確認する礼拝となります。
 聖書によれば、神様は世界の初め、人間を永遠に生きることができる者として創造されました。しかし、それは無条件にではありませんでした。神様を信頼し続ける時、人間は神様とともに永遠に生きると言う祝福に入ることができたのです。
 けれども、人類の先祖アダムはこのテストに失敗。アダムは神様に背き、それ以降、アダムの子孫である人間は死すべき者となったのです。そして、人間の死には、神様との交わりを失い、罪を持ったまま生きる霊的な死と、肉体の死と言う二つの側面がありました。
しかし、死すべき者となったものの、人間の心から永遠へのいのちへの思いが消え去ることはなかったのです。
形あるものは壊れ、咲いた花は散る。それらが決して不思議なことではなく、自然のことであるのと同じ様に、生まれた人間が死ぬのは自然なこと、当然のことではないかと考える人々がいます。
しかし、それは人間の頭がひねり出した一つの理屈ではないかと感じます。何故なら、親しい者の死に直面して、私たちの心に悲しみが湧き上がるのはなぜでしょう。愛する親や子どもの死をありうべからざることのように感じ、嘆くのは、どうしてなのでしょうか。
私が死後の世界を意識したのは、小学校1年生の時のことです。可愛がってくれた祖母が53歳で亡くなりました。声をかけても答えてくれない祖母の姿に驚き、悲しくなった私は、親戚の叔父に「おばあちゃんはどこへ行ったの?」と聞いたのです。
すると、叔父は「おばあちゃんにはおばあちゃんの住む所があって、そこに今行くことはできないけれど、お盆になると家に帰ってきてくれるよ」と慰めてくれました。叔父は普段、人間は死んだら土に帰り消えてなくなる」と言っている人でした。しかし、さすがにそれを言ったら子どもが傷つくと考えたのか。それとも、自分自身を納得させるためのことばであったのか。ともかく、死後の世界があることを説いて、私の心を静めてくれようとしたのだと思います。こうした深い感情は、頭で考えた理屈では割り切れないものと感じます。
また、古代エジプト人は死者が永遠に生きることを願ってミイラを造り、日用品をも埋葬しました。その涙は病を癒し、その血を口にすると不死のいのちを授かると言われるフェニックス、不死鳥伝説は世界中に残っています。
強大な権力を手に入れた中国の始皇帝は死を恐れ、不老不死を手に入れようと部下達に無理難題を押し付けますが、無謀な命令を受けた彼らが作りだしたのは水銀などを原料とした丸薬であり、それを飲んだ始皇帝は猛毒によって死亡した、とも言われます。
古今東西、多くの人が氏を自然なことと割り切れず、永遠に生きることを強く願ってきたと言えます。
さらに、現代の仏教研究家の一人は、こう語っています。「死後の問題は信念の問題であって、事実や科学の問題ではありません。私は死後はないとみるよりも、有ると信じたいのです。死後の世界がないと考えたのでは、現実の自分の行動を納得のゆくように説明することはできません。私たちは無意識のうちに、死後の世界の存在を認めつつ、現実の世界で決断し、行動しているのです。」
    この様に時代を経て、科学が進歩しても、人々の心から死後の世界を望む気持ちが消えないのは何故なのでしょうか。それは、神様が人の心に永遠への思いを植えつけたからと、聖書は語っています。

    伝道者の書314「…神はまた人の心に永遠への思いを与えられた。」

    時代が変わっても、国が異なっても、人々の心に残っている永遠への思い、死後の世界への関心は、神様の恵みだったのです。
しかし、親しい者の死に直面して誰もが覚える悲しみの感情、世界中に残る不死鳥や不老不死の伝説に見られる死後のいのちへの願い、死後の世界がなければこの世を正しく生きられないとする信念。この様な人間の姿は、聖書の神を抜きにして死後の問題を考える時、私たちに本当の解決はないことを示しているようにも見えます。
    先程も言いました通り、人間は神様に背いてから、永遠のいのちを失いました。しかし、その様な人間を神様はあわれみ、もう一度神様とともに永遠に生きることのできるいのち、人間本来のいのちへと回復するため、イエス・キリストを送られたと、聖書は教えているのです。
    そして、私たちを永遠のいのちへと活かすため、イエス・キリストは十字架で罪の贖いの死を遂げ、復活された。これがイースターの意味であり、私たちがキリストの復活を祝う理由なのです。
ですから、キリストの十字架と復活を、弟子たちはこの世界で起こった現実の出来事、歴史の事実として、いのちをかけて伝えていました。そのいのちがけの思いは、もし、キリストの復活が現実に起こらなかったとしたら、復活が単なる希望にすぎないとしたら、キリスト教信仰のゆえにこれ程苦しめられている自分たちは、この世で最もあわれな存在ではないかと語るパウロのことばに、よく表れています。
 
15:19「もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。」

 しかし、これは実際にキリストが復活したことを知り、目撃した人の逆説的表現でした。だからこそ、復活したキリストに出会い大きく人生を変えられたパウロは、その事実と意味を次の様に告げています。

15:20「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」

「眠った者」とは聖書独特の表現。イエス・キリストを信じた人々の死を、神様の御手の中に守られて眠り、やがて復活という目覚めの時を待つ姿として、美しく描いています。その様な死者の初穂、つまり先駆けとしてキリストが復活したことは、やがて将来キリストを信じるが皆復活する確かな証拠だと言うのです。
3月の上旬。私は教会の姉妹の方々と、なばなの里に行き、河津桜を見てきました。河津桜は一番咲の桜です。それが花をつけると、私たちは日本全国に桜前線が近づいているのを知ることができるからです。
言わば、河津桜は日本中の桜の初穂。それと同じく、二千年前に起こったイエス・キリストの復活は、将来の私たちの復活の初穂でした。
そして、イエス・キリストの存在がいかに大切なものか。それは、神様に信頼し続けることに失敗した人類の先祖アダムが死をもたらしたのとは逆に、十字架の死に至るまで神様に信頼し続けたキリストが私たちにいのちをもたらしたから、と聖書は教えています。

15:21~23「というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。」

私たちが失った永遠のいのちは、私たち自身の努力によっては回復できない。ただ、イエス・キリストの十字架の死と復活を信じることによる。アダムの子孫であり、死すべき者であった私たちも、キリストを信じて永遠のいのちに生かされる。これが、聖書の良い知らせ、福音です。
しかし、よく見ると、復活には定められた順番がありと示されていました。まず二千年前のキリストの復活。これが初穂。その後、将来の再臨の時に、キリストを信じる者たちの復活が続くとされます。
では、何故イエス・キリストを信じた者はすぐに復活せず、将来を待たなければならないでしょうか。それは、親が生れ来るわが子のため最良の環境を用意するようつとめるでしょう。同様に、神様も私たちが生活するにふさわしい世界、最良の世界を整えてくださっているのであり、その完成がキリストの再臨の時でした。つまり、私たちがすぐに復活しないのは、神様の愛であり、配慮のゆえだったのです。
私たちが死んで後、再び生れ来る世界が、もしこの悲惨なままの世界であるとしたら、何の益があるでしょうか。何を好んで、もう一度この罪の世で生活したいと思う人がいるでしょうか。誰もが正義と平和と愛に満ちる世界で生活することを望むことでしょう。
その様な世界は、イエス・キリストの再臨によってもたらされるのです。

15:24~27a「それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。最後の敵である死も滅ぼされます。 「彼は万物をその足の下に従わせた。」からです。」

「滅ぼす」と言うことばは、「無効にする、無用なものとする」との意味です。イエス・キリストが再びこの世界に来られた時、無用なものとする支配、権威、権力の中には、キリストに敵対する権力ばかりか、神様によって立てられたこの世のすべての権力も、そこに含まれるとされます。
人々を苦しめる為政者、貧しい者から搾取する特権階級がいなくなる世界。犯罪も戦争も起こらないため、この世では必要とされた警察や軍隊が無用の長物として消え去る世界。主人と召使、王と平民、身分階級の区別も終わりを告げる世界。ことばを代えれば、すべての人が対等、平等で、自分よりも隣人を尊び、喜び、愛する世界の到来です。
最初に読んだ黙示録のことばを用いれば、神様がともにおられ、私たちの眼の涙をすっかり拭い去り、もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない世界。この世の悪しきものがすべて過ぎ去った世界と言えるでしょうか。この様な最良、最高の世界を準備し終えたタイミングで、神様は私たちを復活させてくださる。これもまた、大いなる
恵みではないかと思います。
最後に確認したいのは、永遠のいのちと言う視点で、人生を考えることの大切さです。その様な視点に立つ時、先ず変わってくるのは、死の意味です。
大きな鎌を持った死神、骸骨、黒いカラス、青ざめた馬。昔から人々は、死を不気味な存在、恐ろしいものと考えてきました。しかし、神様が備えてくださる世界を目指す者にとって、死はもはや恐れの対象ではありません。
永遠のいのちと言う視点に立つなら、一つの通過点です。それも、今よりも遥かに良い世界、今よりもお互いが愛し合い、今よりも神様と親しく生活できる世界であることを思うと、喜ぶべき通過点とも言えるのではないでしょうか。
さらに、永遠のいのちと言う視点で人生を考える時、私たちはこの世のものに捕われ、この世のものに縛られる苦しみから解放される気がします。
この世がすべて、この世でしか生きられないと考えるなら、私たちは、この世での仕事の成功に、この世での財産の獲得に、この世での地位や名誉に、この世での快楽を貪ることに心を向け、いつしかそれらのものに縛られてがんじがらめ。そうした生き方が実に重荷、ストレスとなります。
しかし、私たちの心を縛らず、重荷ともならない、真の成功、真の財産、真の名誉、真の快楽。それらをすべて備えた完全な世界が用意されていると信じるなら、私たちは必要以上の荷物を背負わないことを第一の心得とし、神様と人を愛することに心集中して生きることができるのではないでしょうか。今日の聖句です。

Ⅰコリント15:58「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」