2014年2月23日日曜日

ウェルカム礼拝 第2コリント4章16節 「坂を上る力」

 本日はウェルカム礼拝の日です。初めて礼拝に来て下さった方、久しぶりに来て下さった方を心から歓迎いたします。今日、来て下さったことを大変嬉しく思いますし、また次週以降、続けて来て下さることも楽しみにしています。教会員の方、毎週来られている方とともに礼拝が出来ることも、大変嬉しく思っています。
 今年度、ウェルカム礼拝は四回を予定し、今日が四回目です。春、夏、秋、冬に一回ずつ。春は幼少期を意識して「誕生・命」をテーマに。夏は青年期を意識して「自分を見つけること」をテーマに。秋は壮年期を意識して「結婚・人間関係」をテーマに。この冬は老年期を意識して「歳を重ねることの意味」をテーマにしています。つまり、人生の四季、人生を四つの段階に分けて、実際の四季、春夏秋冬に割り当ててウェルカム礼拝を行ってきたわけです。
 今日の説教題は「坂を上る力」となりました。これは歳を重ねることに、どのような意味があるのか。どのようにしたら歳を重ねることを喜べるのか。どのように、歳を重ねていけば良いのか。「歳を重ねることの意味」について、聖書はどのように語っているのか。皆さまとともに考えていきたいと思います。

皆さまは歳を重ねることは喜びでしょうか。嬉しいこと、感謝なことでしょうか。若い時、歳をとることは成長ですが、ある年齢からは成長というより衰退、老化となる。先日、十七歳の誕生日を迎える高校生が、「歳をとりたくない」と言っているのを聞き愕然としましたが、そのような意見があることも頭の片隅に置きながらも、一般的には、成長は嬉しく、老化を喜ぶことは難しいものと言えます。
 老化を喜ぶことは難しい。それでも万人に必ずやってくる老化。例外はありません。果たして私たちは、歳を重ね、衰退、老化することを喜ぶことが出来るでしょうか。

調べてみたところ、古今東西、偉人、哲人、宗教家、歌人、作家、実に多くの人が、歳を重ねることがいかに辛いことか、いかに嫌なことか、述べています。死よりも辛いと言われる老化現象の厳しさです。いくつか紹介したいと思いますが、例えば、

「貰ふこと いやでござるといひながら とらねばならぬ くれて行く年」
(大我夢庵)

 数え年では、正月を迎えることが、新たに年をとること。年の瀬の物悲しさと、年をとる物悲しさが重なります。貰いたいくない、でも受け取ることしか出来ない、くれていく年。年をとる寂しさを歌ったものです。あるいは、

「口惜しや 身は老いというくせものに 頭をさげつ 腰をかがめつ」 
(唐衣橘州)

 嫌な相手に頭を下げざるをえない口惜しさを、年を重ねて頭が下がり、腰が下がる悔しさと重ねて歌ったもの。歳はとりたくないという思いが、言葉巧みに表現されています。

 なぜ歳をとることが嫌なことなのか。なぜ歳をとりたくないのか。より具体的に歳を重ねる辛さを歌った、「老人六歌仙」(仙崖和尚)というものもあります。
 「しわがよる ほくろができる 腰曲がる
   頭ははげる ひげ白うなる
  手は振るう 足はひょろつく 歯は抜ける
   耳は聞こえず 目はうとうなる
  身に添うは頭巾 えり巻き 杖 眼鏡
   たんぽ 温石 しびん 孫の手
  聞きたがる 死にともながる さびしがる
   心が曲がる 欲深うなる
  くどくなる 気短になる 愚痴になる
   出しゃばりたがる 世話やきたがる
  またしても 同じ話に 孫ほめる
   達者自慢に 人はいやがる」

 心身ともに弱くなっていく。老いの姿を如実に歌ったものです。ある人の話ではなく、私たち全員が味わうことなのですから、寂しがる必要はない、恐れることはないと思いつつも、このような歌を読むと、どこか寂しさを感じる。直視したくない現実を見せられるような気になるのです。

 このような歳を重ねることの寂しさ、辛さはを歌ったものは、聖書の中にも出てきます。今より三千年前の人物。知恵者として名高い、大王ソロモンが、老人の姿を遠回しに歌ったもの。
 伝道者の書12章3節~7節
「その日(老年)には、家を守る者は震え(身体が震えるようになり)、力のある男たちは身をかがめ(腰が曲がり)、粉ひき女たちは少なくなった仕事を辞め(歯が抜け落ち)、窓からながめている女の目は暗くなる(目は霞み、耳は遠く、鼻は利かなくなる)。通りのとびらは閉ざされ(口数が減り)、臼をひく音も低くなり(食事も減り)、人は鳥の声に起き上がり(早く目が覚め寝ていられない)、歌を歌う娘たちは皆うなだれる(声が出なくなる)。彼らはまた高い所を恐れ、道でおびえる(足元がふらつき、転びやすくなる)。アーモンドの花は咲き(髪や髭が白くなり)、いなごはのろのろ歩き(足を引きずって歩く)、ふうちょうぼくは花を開く(欲望が衰える)。だが、人は永遠の家へと歩いて行き(死期が迫り)、嘆く者たちが通りを歩きまわる(まわりの人が苦労する)。こうしてついに、銀のひもは切れ(筋肉が弱り)、金の器は打ち砕かれ(意識も弱り)、水がめは泉のかたわらで砕かれ(呼吸が弱り)、滑車が井戸のそばでこわされる(心臓がだめになり)。ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る(ついには死ぬ)。」

 「老」の辛さ、寂しさは、三千年前から歌われていたこと。三千年を経ても変わらない事実なのです。
ところで、ソロモンが年老いていく様をこのように辛いものとして記した理由に触れておきますと、だからこそ「若い時から、創造者を覚えよ。」、「若い時から、神を信じなさい。」と言うためでした。

 伝道者の書12章1節a
「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。」

 見聞き出来るうちに聖書に触れ、理解出来るうちに真理を会得し、出来る時に仕えるように。その上で、老年を迎えるようにとの勧めでした。

 紹介したのは多くある中のごく一部。実に多くの人が、歳を重ね、老いを味わうことは辛いこと、寂しいこと、大変なことと感じる。祖父、祖母が弱くなる姿を見て悲しく思い、やがて父、母が弱くなる姿を見て寂しく感じ、遂には自分自身が弱くなることを経験して愕然とするのです。
 ところで、何故、私たちは、歳を重ね、老いを味わうことは辛いこと、寂しいこと、大変なことだと思うのでしょうか。よく考えてみると、そのように感じるのは不思議なことでもあります。何しろ、老いるということは誰もが知っていること。分かっていること。知らないことが起こるのではないのです。また、ある日突然老人になるのではなく、徐々に変化していくもの。そうなることは分かっていて、徐々に変化しているのにもかかわらず、私たちは歳を重ね、老いを味わうことが辛く、寂しく、大変に感じるのです。何故でしょうか。何故、老いることを嫌がる気持ちが自分のうちにあるのでしょうか。

 何故、歳を重ねることが辛く、寂しいのか。
その最大の理由は、「出来ていたことが出来なくなる」からです。私たちの人生は、老いを味わうまで、何かが出来るようになることを繰り返します。何も出来ない赤子で生まれてから、出来ることを増やしていく歩みをしているのです。何かが出来るようになることは嬉しいこと。それによって、人から評価されるのも嬉しいこと。そしていつしか、「これが出来る」ことが、自分のアイデンティティとなるのです。
それが歳を重ねるにつれ、出来たことが出来なくなることを味わいます。それまで築き上げてきたプライドが削ぎ落とされ、自分らしさを失うのではないかという恐怖を味わうことになる。出来ないことが増えれば増える程、自分は必要とされていない。自分は迷惑をかけてばかり。何のために生きているのか分からない思いが強くなる。出来ないことが増えるにつれて、辛さ、寂しさが増すことになる。
かつて小学校の教師をしていた祖母の最晩年。ベッドの上で生活し、移動する時には車椅子が必要な状態。その祖母が、一番悲しんでいたのは、手が震えて、字が上手くかけなくなったことでした。涙を流しながら、字が上手くかけないことが寂しいと言っていたことを思い出します。字が上手くかけなくても問題はないこと。字が上手くかけなくても、私にとって大切な存在であることを伝えても、本人は字が上手くかけないことを寂しがっていました。全ての人が歳をとる。自分も老化を味わうと分かっていても、「出来ていたことが出来なくなる」というのは、辛いこと。寂しいことなのです。

 今日の説教のテーマは「坂を上る力」。多くの人が、歳をとることを苦しみ、悲しむ中で、どのようにしたら歳を重ねることを喜べるのか。死ぬ時まで、輝き続ける人生とは、どのようなものか。聖書から考えたいのですが、それはつまり、「出来ていたことが出来なくなる」ことにどのような意味があるのか考えること。「出来ていたことが出来なくなる」ことに備えることです。

 それでは、「出来ていたことが出来なくなる」ことに、どのような意味があるのか。聖書はどのように教えているでしょうか。この点、聖書は驚く程積極的な考えを提示します。
 Ⅱコリント4章16節
「私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」

 ここに「外なる人」と「内なる人」という言葉が出てきます。「外なる人」とは私たちの体のこと。「内なる人」は、「心」とか「人格」という意味ですが、ここでは特に、この世界を造られた神様の前での自分自身という意味です。
 「外なる人」が傷つき、弱まり、苦しむ時。それまで「出来ていたことが出来なくなる」時。その時に何が起こるのかと言えば、「内なる人が新たにされていく。」より神様を知り、神様の前での自分自身を知り、より神様に近づく者とされるというのです。
 歳を重ね、体が弱まり、「出来ていたことが出来なくなる」ことを私たちは恐れ、辛く思います。「外なる人」が衰えることを、とても苦しく思う。しかし、聖書はその時こそ重要な時であること。その時こそ、取り組むべきことがあること。自分自身に向き合い、神様に近づく良い時であると言うのです。

 考えてみますと、そもそも私たちはこの世界を造り、支配されている神様の恵みによって生きているもの。自分の体も、心も、自分で用意したものではなく、自分の力で命を支えているのでもない。それにもかかわらず、出来ることが増えていく人生を送るにつれ、知らず知らずのうちに、自分の力で生きているかのように思うことが増える。生かされていると思うよりも、生きていると感じる。神様の恵みに目を留めるよりも、自分の力や功績に目を留めるようになることが多いのです。
 そのような私たちが歳を重ね、肉体的にも社会的にも弱くなり、「出来ていたことが出来なくなる」中で、もう一度自分を見つめ直すことになるのです。自分の力で生きていると思うよりも、神様に生かされていると感じる。自分の力に目を留めるよりも、神様の恵みに目を留める歩みとなる。「外なる人」が衰えるにつれて、「内なる人」が新たにされる。この世界を造り支配されている神様を知る者にとって、「出来ていたことが出来なくなる」ことは、実に重要な歩みを送っているのです。

 この「弱くなればなるほど、神様の恵みを味わう者となる」というテーマは、次のように表現されることもあります。
 Ⅱコリント12章9節
「主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」

 この世界を造られた神様抜きに考えるならば、弱くなるのは恐ろしいこと。「出来ていたことが出来なくなる」ことは辛いこと。弱さを誇るなど、とても出来ない。しかし、この世界を造られた神様を前にした時、弱くなることに重要な意味があることを見出すのです。
 「弱くなればなるほど、神様の恵みを味わう者となる」。これが真実だとすれば(私は真実だと思っているのですが)、それはつまり、歳を重ね、出来ることが少なくなっても、取り組むべきことがあるということです。非常に弱くなり、助けがないと生きることが出来なくなっても、成長があり、新しい世界が広がっているということです。老いの中でこそ、人生の真髄を見出す歩みがあるのです。
 本日の礼拝のテーマは「輝き続ける歩み」です。「輝き続ける歩み」とはどのようなものか。聖書の一つの答えは、自分の力で生きていると思うよりも、神様に生かされていると確信する歩み。自分の力に目を留めるよりも、神様の恵みに目を留める歩み。「外なる人」が衰えるにつれて、「内なる人」が新たにされる歩み。弱くなればなるほど、神様の恵みを味わう者となる歩みです。皆さまは、聖書が言う輝き続ける歩みを送りたいと思うでしょうか。

 最後に二つのことをお勧めして終わりにしたいと思います。まずは普段教会に来ていない方へのお勧めです。歳を重ね、老いることは大変なこと、辛いこと。しかし、弱くなる歩みをする中でも、絶望することはない。むしろ、その時にこそ、取り組むべきことがあると聖書は言います。「内なる人が新たにされる生き方。」より神様を知り、神様の前での自分自身を知り、より神様に近づく者となる生き方をするようにとの勧めです。
この歩みをする第一歩は、まず世界を造られた神様を知ること、信じること。どうぞ、この聖書の神様を知って下さいますように、心からお勧めいたします。

もう一つのお勧めは、普段、教会に来られている方、クリスチャンの方で、とりわけ今、老いを感じ、弱さを覚えている方へのお勧め、あるいはお願いと言えるでしょうか。
 人生の先輩、信仰者の先輩へのお勧めというか、お願いは、「外なる人が衰えても、内なる人が新たにされる」歩みに取り組んで頂きたいということです。弱くなることを嘆きながらも、内なる人が新たにされる喜びを教えて頂きたいのです。人がどのように老いて、どのように天に召されていくのか。その中で、内なる人が新たにされる生き方とは、具体的にどのようなものなのか。天に召される、その時まで、生きる意味があり、取り組みがあることを、その生き様で教えて頂きたいのです。
 私たちは皆老いる。その時、人生の先輩の、教会の先輩の生き様をお手本にするのです。そして大変感謝なことに、これまでの四日市キリスト教会の歩みの中で、お手本となる信仰者が多くいました。これからも、聖書が教える輝き続ける歩みを、皆で出来るように、心から願います。

2014年2月2日日曜日

ローマ書12章1節ー18節 「賜物を輝かせる」

1月から、礼拝説教では信仰生活の基本となる事柄を扱ってきました。最初は礼拝特に賛美について、二回目は礼拝特に献金について、三回目は伝道、四回目は交わりと続き、今日は「賜物と神と人に仕える働き、奉仕」について考えたいと思います。信仰生活の基本を扱うシリーズ、今年度はこれをもって最後となります。
ところで、いかがでしょうか。皆様は賛美について、ささげ物について、伝道について、交わりについて、自分の課題に目が開かれ、あるいは新たな思いを神様から与えられ取り組んでゆこうとしているでしょうか。
私自身は先週の大竹先生の説教を聞き、今年は交わりの充実に取り組みたいと考えています。先ず神様との交わりでは、みことばを読み、みことばを通して神様を思う交わりの時間を充実させたいと思い、一年で二回を目標に聖書の通読を始めました。
また、教会員の皆様に交わりの場を提供することと、個人的には大好物のラーメンをはじめともに食べることを楽しむ交わりをできる限り実行できたらと願っています。
皆様も何か具体的な目標を立て、実行し、一年の終わりには神様からの恵みに感謝する。そんな2014年にできたらと思います。
さて、今日のテーマは賜物と働き、賜物と奉仕です。
神様がこの世界を創造した最初の時、エデンの園に置かれた人間には園を耕し、守る働きが命じられたと聖書の創世記は教えています。土地を耕し作物を育て、園の資源や生き物を守り管理する働きをなすために、つまり神様が造られた世界をさらに良いものする働きのために人間には賜物が与えられていたということです。
働くと聞くと、苦労が人間に課されたのかと思われますが、働くことが苦労、苦痛になったのは、人間が神様に背いた後のことで、それ以前は働くこと、神様に仕える奉仕は楽しみであり、喜びだったのです。
つまり、神様は私たち人間を、与えられた賜物を活かし働き、この世界を良くすることができた時喜びを感じる者として創造されたのです。しばしば誤解されているように、働くことは神様に背いた人間に対する罰ではなく、創造の最初から人間の喜びのため、楽しみのために与えられた恵みでした。
しかし、神様に背いた人間は与えられた賜物を正しく生かすことができなくなりました。アダムの子どもカインの子孫からは、家畜を飼う者、音楽家、鍛冶屋が出てきました。家畜を飼うという牧畜の働き、楽器を作り、音楽を作り、演奏すると言う芸術活動、自然に眠る金属を用いて様々な道具を作りだす働き。これらはみな、神様に賜物を与えられた人間だけが為しうる働きです。
けれども、カインの子孫たちは自分を富ませるため、自分の力を誇示し、人々を支配し、虐げるために賜物を用いました。彼らは神と人とに仕えるという本来の目的を忘れ、逆に人々を強いて働かせる者となったため祝福を受ける事はできなかったのです。
それ以降、人間のなす働きの価値は収入、社会的地位、名声や力によって計られるようになり、神と人とに愛を持って仕えたかどうかとの聖書の視点は、まったく無視される人間社会となってしまいました。
この様な悲惨な状況の中、神様が遣わした救い主イエス・キリストを信じる者は
良い行い、つまり神と人とに喜んで仕える能力が与えられ、人間本来の生き方を回復することが約束されたのです。

エペソ2:10「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。」

「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。」というパウロの自覚のことばは、「キリスト・イエスにあって救われたのです」と言い換えることもできるでしょう。
キリストの十字架の恵みによって救われた私たちはただ罪赦されただけでなく、良い行いをするため、与えられた賜物を活かし神と人とに仕える働きを為すための思いと力を回復して頂いた、ひとりひとりが神様の尊い作品なのです!
このパウロのことばに皆様は同意できるでしょうか。神様の尊い作品として造られ、生かされている自分を自覚し、喜んでいるでしょうか。賜物と働き、奉仕について考える時、何よりも大切なのは、神様と人とに喜んで仕え、働く者として造りかえられた自分を自覚することと思われます。
イエス・キリストの十字架の死。この尊い犠牲によって救われたのは、収入や地位、名声によらず、与えられた賜物を活かし神と人に喜んで仕え、働くという本来の人間のあり方、生き方を私たちがこの世において示すためであることを改めて確認したいと思います。
ところで、教会において神様が私たち一人一人を造られたそのあり方を最も生かすことのできる働き、奉仕を見出すためにはどうすればよいのでしょうか。パウロが兄弟姉妹に勧めたことを記すローマ121~8に目を留めたいと思います。
先ず、自分のからだを神様にささげ、自分に対する神様の御心を知ることが勧められます。

ローマ121,2「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」

私たちの体すなわち私たちのすべてを神様に対する供え物としてささげ、神様のものとしていただく。この霊的な礼拝と言われていることが最初の一歩と教えられます。
そして、自分に対する神様の御心を知ることです。「自分など何の賜物もなく、何の奉仕もできない」という無力感に従わないように。「金銭的報酬も、名誉も得られない働きに何の価値があるのか」というこの世の声に調子を合わせることが無いように。
与えられた賜物を用いて神と人とに仕えるために生かされている者、神様の大切な尊い作品として、その輝きを放つよう期待されている者であることを自覚することでした。
第二に、正直に自分を評価することが勧められています。

12:3「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」

「だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけない。神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」一言で言うなら、パウロが願っているのは、私たちが自分自身について神様の前で正直になることでした。
私たちはみな各々に長所、短所を抱えています。長所と短所がセットになっていることもあるでしょう。真の謙遜とは自分の長所を否定することではなく、与えられた長所を感謝することであり、自分の短所、弱さについても正直になることと言われます。
私たちの教会にはことばに長けている人がいます。数字に強い人もいます。人間関係の上手な人もいれば、物を管理することが得意な人もいます。神様から与えられたものを値引きせずに受け止め、感謝して活用させていただくこと、これが謙遜であり、慎み深い考え方であることを教えられたいと思います。
第三に、キリストのからだに属する器官として、互いに協力することです。

12:45「一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。」

パウロお得意の教会を人間の体に喩えての薦めです。ところで、人間のからだを覆っている皮膚もその場所によって厚さ、薄さが様々であることはご存知かと思います。人間の体の皮膚の中で最も薄いのは唇の皮膚、最も厚いのは御尻の皮膚で、最も頑丈なのが足の裏の皮膚と言われます。
体の中に入れる食べ物が熱いか冷たいか、硬いか柔らかいか。唇の皮膚は繊細な感覚がなければつとまりません。それに対して、たとえ石があろうが、泥だらけの道であろうが乗り越えてゆく頑丈さ、強さがなければ足の裏の皮膚は用をなさない。どちらも協力し合って体を守っています。
教会にも唇の皮膚タイプの人がいます。人の思いに敏感で、繊細な心の持ち主です。心弱り果てた人の話を聞いて慰めを与えるのに向いているかもしれません。一方、足の裏の皮膚タイプの人は、少々の困難や反対があってもそれを乗り越えて物事を実行して行きます。
もし、唇の皮膚タイプの人が足の裏の皮膚タイプの人を「大雑把でがさつだ」と批判し、足の裏の皮膚タイプが唇の皮膚タイプを「神経質で細かすぎる」と責めるなら、その教会は立ち行かないことになります。しかし、お互いがキリストのからだに属する欠くことのできない器官であることを認め合うなら、そのような教会は俄然大きな力を発揮することになるでしょう。
パウロは、このようにお互いの賜物の違いを認め、欠くことのできない存在であることを覚えて尊敬し、協力し合うことをここで勧めているのです。
第四に、賜物を自由な心で活用することです。

12:68「私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行なう人は喜んでそれをしなさい。」

預言、奉仕、教え、勧め、分け与えること、指導に慈善。ここにあげられているのは教会を建て上げる賜物、霊的な賜物の一部に過ぎません。大切なのはどのような働きであれ、人目を気にしてではなく、強いられてでもなく、自由な心から行なうこと。惜しまず、熱心に、喜んでなすことと教えられます。
四日市教会がまだ八王子にあった時代のこと。洗礼を受けた人はみな教会学校の先生をやるように勧められた、いや命じられたそうです。その頃は若き女工さんたちが多く、いわば強いられた奉仕でしたが、皆がお話の担当の時には一週間なれない聖書と教案とを読みながら、一生懸命準備したのだそうです。
しかし、あの強いられた奉仕のお陰で自分の信仰と聖書知識はいかに強められたことか。当時を振り返って懐かしく語ってくれる姉妹方が今も教会を支えてくれています。強いられた奉仕にも恵みありとすれば、自ら志した奉仕にどれだけの恵みがあることかと思わされます。
自分の賜物がよく分からないという人は、人に勧められた奉仕に取り組んでみるというのも良いのではないでしょうか。自分の中に眠っていた賜物が花開き、それが人にも喜んでいただけるというのも嬉しいことですし、そのような経験を味わえるのが教会の良さでした。
 最初に、私たちは良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られた神様の尊い作品であることを自覚し、喜ぶことの大切さをお伝えしました。作品ということばは、工場で大量に作られる画一的な製品ではなく、ひとつひとつに神様の思いの込められたかけがえのない存在であることを意味しています。
 そうだとすれば、自分がどのような神の作品であるかを考え、知ることが必要であり、責任でもあるでしょう。
神様と教会の兄弟姉妹に仕えるために与えられている賜物は何か。自分が関心を抱き、それをしている時情熱を感じることは何か。生まれながらに与えられた能力、学びや職業を通して身につけた能力は何か。自分の性格はどのようなものか。人生において与えられた様々な経験の意味を考え、それがどのような人の役に立つのか考えること。
霊的な賜物、関心、能力、性格や経験。これらすべてが私たちに与えられた神様の贈り物であることを感謝し、それを神様と人に仕えるために活用、善用することに取り組む。そのために、兄弟姉妹のアドバイスにも耳を傾ける。
くれぐれも神様からの贈り物を奥に仕舞い込んで、宝の持ち腐れにしない。私の頂いた物が少しでもお役に立つのならと使わせていただく。そのような姿勢でこの一年間をみなが歩めたらと思います。今日の聖句です。

Ⅰペテロ410「それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。」

最後に、お勧めしたいのは、いわゆる奉仕疲れ防止法です。奉仕疲れとは、心のエネルギーが枯渇したまま奉仕し続け、身も心も疲れきってしまうことを言います。これを防ぐには、神様との交わりそして信頼できる兄弟姉妹との交わりに自分の身を置くことが有効かと思います。

カルバンは私たちの奉仕、働きについて次のように言っています。「律法にしばられている人は、日ごとに主人の前に仕事を言いつけられるしもべのようだ。その仕事を間違いなくやり遂げるまでは何かを成し遂げたと思わないし、主人の前に出ようともしない。しかし、父親に広い心でざっくばらんに接してもらってきた子どもは、自分の仕事が不完全でも、中途半端で欠点があっても、父親にその仕事を見せることをためらわない。なぜなら、父が望んでいた水準までいかなかったとしても、自分の父親への愛と信頼が父に受け入れられていると信じているからだ。私たちもそのような子どもでなければならない。私たちの働きがいかに小さく、不完全なものであっても、最も哀れみ深い父がそれを見て満足してくださる。そう固く信じなければならないのだ。」私たちの不完全な欠点だらけの働きを、私たちの愛のゆえに喜び満足し受け入れてくれる神様と信仰の友。この様な交わりが、私たちには是非とも必要なことを覚えたいのです。