今年度、ウェルカム礼拝は四回を予定し、今日が四回目です。春、夏、秋、冬に一回ずつ。春は幼少期を意識して「誕生・命」をテーマに。夏は青年期を意識して「自分を見つけること」をテーマに。秋は壮年期を意識して「結婚・人間関係」をテーマに。この冬は老年期を意識して「歳を重ねることの意味」をテーマにしています。つまり、人生の四季、人生を四つの段階に分けて、実際の四季、春夏秋冬に割り当ててウェルカム礼拝を行ってきたわけです。
今日の説教題は「坂を上る力」となりました。これは歳を重ねることに、どのような意味があるのか。どのようにしたら歳を重ねることを喜べるのか。どのように、歳を重ねていけば良いのか。「歳を重ねることの意味」について、聖書はどのように語っているのか。皆さまとともに考えていきたいと思います。
皆さまは歳を重ねることは喜びでしょうか。嬉しいこと、感謝なことでしょうか。若い時、歳をとることは成長ですが、ある年齢からは成長というより衰退、老化となる。先日、十七歳の誕生日を迎える高校生が、「歳をとりたくない」と言っているのを聞き愕然としましたが、そのような意見があることも頭の片隅に置きながらも、一般的には、成長は嬉しく、老化を喜ぶことは難しいものと言えます。
老化を喜ぶことは難しい。それでも万人に必ずやってくる老化。例外はありません。果たして私たちは、歳を重ね、衰退、老化することを喜ぶことが出来るでしょうか。
調べてみたところ、古今東西、偉人、哲人、宗教家、歌人、作家、実に多くの人が、歳を重ねることがいかに辛いことか、いかに嫌なことか、述べています。死よりも辛いと言われる老化現象の厳しさです。いくつか紹介したいと思いますが、例えば、
「貰ふこと いやでござるといひながら とらねばならぬ くれて行く年」
(大我夢庵)
数え年では、正月を迎えることが、新たに年をとること。年の瀬の物悲しさと、年をとる物悲しさが重なります。貰いたいくない、でも受け取ることしか出来ない、くれていく年。年をとる寂しさを歌ったものです。あるいは、
「口惜しや 身は老いというくせものに 頭をさげつ 腰をかがめつ」
(唐衣橘州)
嫌な相手に頭を下げざるをえない口惜しさを、年を重ねて頭が下がり、腰が下がる悔しさと重ねて歌ったもの。歳はとりたくないという思いが、言葉巧みに表現されています。
なぜ歳をとることが嫌なことなのか。なぜ歳をとりたくないのか。より具体的に歳を重ねる辛さを歌った、「老人六歌仙」(仙崖和尚)というものもあります。
「しわがよる ほくろができる 腰曲がる
頭ははげる ひげ白うなる
手は振るう 足はひょろつく 歯は抜ける
耳は聞こえず 目はうとうなる
身に添うは頭巾 えり巻き 杖 眼鏡
たんぽ 温石 しびん 孫の手
聞きたがる 死にともながる さびしがる
心が曲がる 欲深うなる
くどくなる 気短になる 愚痴になる
出しゃばりたがる 世話やきたがる
またしても 同じ話に 孫ほめる
達者自慢に 人はいやがる」
心身ともに弱くなっていく。老いの姿を如実に歌ったものです。ある人の話ではなく、私たち全員が味わうことなのですから、寂しがる必要はない、恐れることはないと思いつつも、このような歌を読むと、どこか寂しさを感じる。直視したくない現実を見せられるような気になるのです。
このような歳を重ねることの寂しさ、辛さはを歌ったものは、聖書の中にも出てきます。今より三千年前の人物。知恵者として名高い、大王ソロモンが、老人の姿を遠回しに歌ったもの。
伝道者の書12章3節~7節
「その日(老年)には、家を守る者は震え(身体が震えるようになり)、力のある男たちは身をかがめ(腰が曲がり)、粉ひき女たちは少なくなった仕事を辞め(歯が抜け落ち)、窓からながめている女の目は暗くなる(目は霞み、耳は遠く、鼻は利かなくなる)。通りのとびらは閉ざされ(口数が減り)、臼をひく音も低くなり(食事も減り)、人は鳥の声に起き上がり(早く目が覚め寝ていられない)、歌を歌う娘たちは皆うなだれる(声が出なくなる)。彼らはまた高い所を恐れ、道でおびえる(足元がふらつき、転びやすくなる)。アーモンドの花は咲き(髪や髭が白くなり)、いなごはのろのろ歩き(足を引きずって歩く)、ふうちょうぼくは花を開く(欲望が衰える)。だが、人は永遠の家へと歩いて行き(死期が迫り)、嘆く者たちが通りを歩きまわる(まわりの人が苦労する)。こうしてついに、銀のひもは切れ(筋肉が弱り)、金の器は打ち砕かれ(意識も弱り)、水がめは泉のかたわらで砕かれ(呼吸が弱り)、滑車が井戸のそばでこわされる(心臓がだめになり)。ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る(ついには死ぬ)。」
「老」の辛さ、寂しさは、三千年前から歌われていたこと。三千年を経ても変わらない事実なのです。
ところで、ソロモンが年老いていく様をこのように辛いものとして記した理由に触れておきますと、だからこそ「若い時から、創造者を覚えよ。」、「若い時から、神を信じなさい。」と言うためでした。
伝道者の書12章1節a
「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。」
見聞き出来るうちに聖書に触れ、理解出来るうちに真理を会得し、出来る時に仕えるように。その上で、老年を迎えるようにとの勧めでした。
紹介したのは多くある中のごく一部。実に多くの人が、歳を重ね、老いを味わうことは辛いこと、寂しいこと、大変なことと感じる。祖父、祖母が弱くなる姿を見て悲しく思い、やがて父、母が弱くなる姿を見て寂しく感じ、遂には自分自身が弱くなることを経験して愕然とするのです。
ところで、何故、私たちは、歳を重ね、老いを味わうことは辛いこと、寂しいこと、大変なことだと思うのでしょうか。よく考えてみると、そのように感じるのは不思議なことでもあります。何しろ、老いるということは誰もが知っていること。分かっていること。知らないことが起こるのではないのです。また、ある日突然老人になるのではなく、徐々に変化していくもの。そうなることは分かっていて、徐々に変化しているのにもかかわらず、私たちは歳を重ね、老いを味わうことが辛く、寂しく、大変に感じるのです。何故でしょうか。何故、老いることを嫌がる気持ちが自分のうちにあるのでしょうか。
何故、歳を重ねることが辛く、寂しいのか。
その最大の理由は、「出来ていたことが出来なくなる」からです。私たちの人生は、老いを味わうまで、何かが出来るようになることを繰り返します。何も出来ない赤子で生まれてから、出来ることを増やしていく歩みをしているのです。何かが出来るようになることは嬉しいこと。それによって、人から評価されるのも嬉しいこと。そしていつしか、「これが出来る」ことが、自分のアイデンティティとなるのです。
それが歳を重ねるにつれ、出来たことが出来なくなることを味わいます。それまで築き上げてきたプライドが削ぎ落とされ、自分らしさを失うのではないかという恐怖を味わうことになる。出来ないことが増えれば増える程、自分は必要とされていない。自分は迷惑をかけてばかり。何のために生きているのか分からない思いが強くなる。出来ないことが増えるにつれて、辛さ、寂しさが増すことになる。
かつて小学校の教師をしていた祖母の最晩年。ベッドの上で生活し、移動する時には車椅子が必要な状態。その祖母が、一番悲しんでいたのは、手が震えて、字が上手くかけなくなったことでした。涙を流しながら、字が上手くかけないことが寂しいと言っていたことを思い出します。字が上手くかけなくても問題はないこと。字が上手くかけなくても、私にとって大切な存在であることを伝えても、本人は字が上手くかけないことを寂しがっていました。全ての人が歳をとる。自分も老化を味わうと分かっていても、「出来ていたことが出来なくなる」というのは、辛いこと。寂しいことなのです。
今日の説教のテーマは「坂を上る力」。多くの人が、歳をとることを苦しみ、悲しむ中で、どのようにしたら歳を重ねることを喜べるのか。死ぬ時まで、輝き続ける人生とは、どのようなものか。聖書から考えたいのですが、それはつまり、「出来ていたことが出来なくなる」ことにどのような意味があるのか考えること。「出来ていたことが出来なくなる」ことに備えることです。
それでは、「出来ていたことが出来なくなる」ことに、どのような意味があるのか。聖書はどのように教えているでしょうか。この点、聖書は驚く程積極的な考えを提示します。
Ⅱコリント4章16節
「私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」
ここに「外なる人」と「内なる人」という言葉が出てきます。「外なる人」とは私たちの体のこと。「内なる人」は、「心」とか「人格」という意味ですが、ここでは特に、この世界を造られた神様の前での自分自身という意味です。
「外なる人」が傷つき、弱まり、苦しむ時。それまで「出来ていたことが出来なくなる」時。その時に何が起こるのかと言えば、「内なる人が新たにされていく。」より神様を知り、神様の前での自分自身を知り、より神様に近づく者とされるというのです。
歳を重ね、体が弱まり、「出来ていたことが出来なくなる」ことを私たちは恐れ、辛く思います。「外なる人」が衰えることを、とても苦しく思う。しかし、聖書はその時こそ重要な時であること。その時こそ、取り組むべきことがあること。自分自身に向き合い、神様に近づく良い時であると言うのです。
考えてみますと、そもそも私たちはこの世界を造り、支配されている神様の恵みによって生きているもの。自分の体も、心も、自分で用意したものではなく、自分の力で命を支えているのでもない。それにもかかわらず、出来ることが増えていく人生を送るにつれ、知らず知らずのうちに、自分の力で生きているかのように思うことが増える。生かされていると思うよりも、生きていると感じる。神様の恵みに目を留めるよりも、自分の力や功績に目を留めるようになることが多いのです。
そのような私たちが歳を重ね、肉体的にも社会的にも弱くなり、「出来ていたことが出来なくなる」中で、もう一度自分を見つめ直すことになるのです。自分の力で生きていると思うよりも、神様に生かされていると感じる。自分の力に目を留めるよりも、神様の恵みに目を留める歩みとなる。「外なる人」が衰えるにつれて、「内なる人」が新たにされる。この世界を造り支配されている神様を知る者にとって、「出来ていたことが出来なくなる」ことは、実に重要な歩みを送っているのです。
この「弱くなればなるほど、神様の恵みを味わう者となる」というテーマは、次のように表現されることもあります。
Ⅱコリント12章9節
「主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」
この世界を造られた神様抜きに考えるならば、弱くなるのは恐ろしいこと。「出来ていたことが出来なくなる」ことは辛いこと。弱さを誇るなど、とても出来ない。しかし、この世界を造られた神様を前にした時、弱くなることに重要な意味があることを見出すのです。
「弱くなればなるほど、神様の恵みを味わう者となる」。これが真実だとすれば(私は真実だと思っているのですが)、それはつまり、歳を重ね、出来ることが少なくなっても、取り組むべきことがあるということです。非常に弱くなり、助けがないと生きることが出来なくなっても、成長があり、新しい世界が広がっているということです。老いの中でこそ、人生の真髄を見出す歩みがあるのです。
本日の礼拝のテーマは「輝き続ける歩み」です。「輝き続ける歩み」とはどのようなものか。聖書の一つの答えは、自分の力で生きていると思うよりも、神様に生かされていると確信する歩み。自分の力に目を留めるよりも、神様の恵みに目を留める歩み。「外なる人」が衰えるにつれて、「内なる人」が新たにされる歩み。弱くなればなるほど、神様の恵みを味わう者となる歩みです。皆さまは、聖書が言う輝き続ける歩みを送りたいと思うでしょうか。
最後に二つのことをお勧めして終わりにしたいと思います。まずは普段教会に来ていない方へのお勧めです。歳を重ね、老いることは大変なこと、辛いこと。しかし、弱くなる歩みをする中でも、絶望することはない。むしろ、その時にこそ、取り組むべきことがあると聖書は言います。「内なる人が新たにされる生き方。」より神様を知り、神様の前での自分自身を知り、より神様に近づく者となる生き方をするようにとの勧めです。
この歩みをする第一歩は、まず世界を造られた神様を知ること、信じること。どうぞ、この聖書の神様を知って下さいますように、心からお勧めいたします。
もう一つのお勧めは、普段、教会に来られている方、クリスチャンの方で、とりわけ今、老いを感じ、弱さを覚えている方へのお勧め、あるいはお願いと言えるでしょうか。
人生の先輩、信仰者の先輩へのお勧めというか、お願いは、「外なる人が衰えても、内なる人が新たにされる」歩みに取り組んで頂きたいということです。弱くなることを嘆きながらも、内なる人が新たにされる喜びを教えて頂きたいのです。人がどのように老いて、どのように天に召されていくのか。その中で、内なる人が新たにされる生き方とは、具体的にどのようなものなのか。天に召される、その時まで、生きる意味があり、取り組みがあることを、その生き様で教えて頂きたいのです。
私たちは皆老いる。その時、人生の先輩の、教会の先輩の生き様をお手本にするのです。そして大変感謝なことに、これまでの四日市キリスト教会の歩みの中で、お手本となる信仰者が多くいました。これからも、聖書が教える輝き続ける歩みを、皆で出来るように、心から願います。