1月から、礼拝説教では信仰生活の基本となる事柄を扱ってきました。最初は礼拝特に賛美について、二回目は礼拝特に献金について、三回目は伝道、四回目は交わりと続き、今日は「賜物と神と人に仕える働き、奉仕」について考えたいと思います。信仰生活の基本を扱うシリーズ、今年度はこれをもって最後となります。
ところで、いかがでしょうか。皆様は賛美について、ささげ物について、伝道について、交わりについて、自分の課題に目が開かれ、あるいは新たな思いを神様から与えられ取り組んでゆこうとしているでしょうか。
私自身は先週の大竹先生の説教を聞き、今年は交わりの充実に取り組みたいと考えています。先ず神様との交わりでは、みことばを読み、みことばを通して神様を思う交わりの時間を充実させたいと思い、一年で二回を目標に聖書の通読を始めました。
また、教会員の皆様に交わりの場を提供することと、個人的には大好物のラーメンをはじめともに食べることを楽しむ交わりをできる限り実行できたらと願っています。
皆様も何か具体的な目標を立て、実行し、一年の終わりには神様からの恵みに感謝する。そんな2014年にできたらと思います。
さて、今日のテーマは賜物と働き、賜物と奉仕です。
神様がこの世界を創造した最初の時、エデンの園に置かれた人間には園を耕し、守る働きが命じられたと聖書の創世記は教えています。土地を耕し作物を育て、園の資源や生き物を守り管理する働きをなすために、つまり神様が造られた世界をさらに良いものする働きのために人間には賜物が与えられていたということです。
働くと聞くと、苦労が人間に課されたのかと思われますが、働くことが苦労、苦痛になったのは、人間が神様に背いた後のことで、それ以前は働くこと、神様に仕える奉仕は楽しみであり、喜びだったのです。
つまり、神様は私たち人間を、与えられた賜物を活かし働き、この世界を良くすることができた時喜びを感じる者として創造されたのです。しばしば誤解されているように、働くことは神様に背いた人間に対する罰ではなく、創造の最初から人間の喜びのため、楽しみのために与えられた恵みでした。
しかし、神様に背いた人間は与えられた賜物を正しく生かすことができなくなりました。アダムの子どもカインの子孫からは、家畜を飼う者、音楽家、鍛冶屋が出てきました。家畜を飼うという牧畜の働き、楽器を作り、音楽を作り、演奏すると言う芸術活動、自然に眠る金属を用いて様々な道具を作りだす働き。これらはみな、神様に賜物を与えられた人間だけが為しうる働きです。
けれども、カインの子孫たちは自分を富ませるため、自分の力を誇示し、人々を支配し、虐げるために賜物を用いました。彼らは神と人とに仕えるという本来の目的を忘れ、逆に人々を強いて働かせる者となったため祝福を受ける事はできなかったのです。
それ以降、人間のなす働きの価値は収入、社会的地位、名声や力によって計られるようになり、神と人とに愛を持って仕えたかどうかとの聖書の視点は、まったく無視される人間社会となってしまいました。
この様な悲惨な状況の中、神様が遣わした救い主イエス・キリストを信じる者は
良い行い、つまり神と人とに喜んで仕える能力が与えられ、人間本来の生き方を回復することが約束されたのです。
エペソ2:10「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。」
「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。」というパウロの自覚のことばは、「キリスト・イエスにあって救われたのです」と言い換えることもできるでしょう。
キリストの十字架の恵みによって救われた私たちはただ罪赦されただけでなく、良い行いをするため、与えられた賜物を活かし神と人とに仕える働きを為すための思いと力を回復して頂いた、ひとりひとりが神様の尊い作品なのです!
このパウロのことばに皆様は同意できるでしょうか。神様の尊い作品として造られ、生かされている自分を自覚し、喜んでいるでしょうか。賜物と働き、奉仕について考える時、何よりも大切なのは、神様と人とに喜んで仕え、働く者として造りかえられた自分を自覚することと思われます。
イエス・キリストの十字架の死。この尊い犠牲によって救われたのは、収入や地位、名声によらず、与えられた賜物を活かし神と人に喜んで仕え、働くという本来の人間のあり方、生き方を私たちがこの世において示すためであることを改めて確認したいと思います。
ところで、教会において神様が私たち一人一人を造られたそのあり方を最も生かすことのできる働き、奉仕を見出すためにはどうすればよいのでしょうか。パウロが兄弟姉妹に勧めたことを記すローマ12:1~8に目を留めたいと思います。
先ず、自分のからだを神様にささげ、自分に対する神様の御心を知ることが勧められます。
ローマ12:1,2「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」
私たちの体すなわち私たちのすべてを神様に対する供え物としてささげ、神様のものとしていただく。この霊的な礼拝と言われていることが最初の一歩と教えられます。
そして、自分に対する神様の御心を知ることです。「自分など何の賜物もなく、何の奉仕もできない」という無力感に従わないように。「金銭的報酬も、名誉も得られない働きに何の価値があるのか」というこの世の声に調子を合わせることが無いように。
与えられた賜物を用いて神と人とに仕えるために生かされている者、神様の大切な尊い作品として、その輝きを放つよう期待されている者であることを自覚することでした。
第二に、正直に自分を評価することが勧められています。
12:3「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」
「だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけない。神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」一言で言うなら、パウロが願っているのは、私たちが自分自身について神様の前で正直になることでした。
私たちはみな各々に長所、短所を抱えています。長所と短所がセットになっていることもあるでしょう。真の謙遜とは自分の長所を否定することではなく、与えられた長所を感謝することであり、自分の短所、弱さについても正直になることと言われます。
私たちの教会にはことばに長けている人がいます。数字に強い人もいます。人間関係の上手な人もいれば、物を管理することが得意な人もいます。神様から与えられたものを値引きせずに受け止め、感謝して活用させていただくこと、これが謙遜であり、慎み深い考え方であることを教えられたいと思います。
第三に、キリストのからだに属する器官として、互いに協力することです。
12:4、5「一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。」
パウロお得意の教会を人間の体に喩えての薦めです。ところで、人間のからだを覆っている皮膚もその場所によって厚さ、薄さが様々であることはご存知かと思います。人間の体の皮膚の中で最も薄いのは唇の皮膚、最も厚いのは御尻の皮膚で、最も頑丈なのが足の裏の皮膚と言われます。
体の中に入れる食べ物が熱いか冷たいか、硬いか柔らかいか。唇の皮膚は繊細な感覚がなければつとまりません。それに対して、たとえ石があろうが、泥だらけの道であろうが乗り越えてゆく頑丈さ、強さがなければ足の裏の皮膚は用をなさない。どちらも協力し合って体を守っています。
教会にも唇の皮膚タイプの人がいます。人の思いに敏感で、繊細な心の持ち主です。心弱り果てた人の話を聞いて慰めを与えるのに向いているかもしれません。一方、足の裏の皮膚タイプの人は、少々の困難や反対があってもそれを乗り越えて物事を実行して行きます。
もし、唇の皮膚タイプの人が足の裏の皮膚タイプの人を「大雑把でがさつだ」と批判し、足の裏の皮膚タイプが唇の皮膚タイプを「神経質で細かすぎる」と責めるなら、その教会は立ち行かないことになります。しかし、お互いがキリストのからだに属する欠くことのできない器官であることを認め合うなら、そのような教会は俄然大きな力を発揮することになるでしょう。
パウロは、このようにお互いの賜物の違いを認め、欠くことのできない存在であることを覚えて尊敬し、協力し合うことをここで勧めているのです。
第四に、賜物を自由な心で活用することです。
12:6~8「私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行なう人は喜んでそれをしなさい。」
預言、奉仕、教え、勧め、分け与えること、指導に慈善。ここにあげられているのは教会を建て上げる賜物、霊的な賜物の一部に過ぎません。大切なのはどのような働きであれ、人目を気にしてではなく、強いられてでもなく、自由な心から行なうこと。惜しまず、熱心に、喜んでなすことと教えられます。
四日市教会がまだ八王子にあった時代のこと。洗礼を受けた人はみな教会学校の先生をやるように勧められた、いや命じられたそうです。その頃は若き女工さんたちが多く、いわば強いられた奉仕でしたが、皆がお話の担当の時には一週間なれない聖書と教案とを読みながら、一生懸命準備したのだそうです。
しかし、あの強いられた奉仕のお陰で自分の信仰と聖書知識はいかに強められたことか。当時を振り返って懐かしく語ってくれる姉妹方が今も教会を支えてくれています。強いられた奉仕にも恵みありとすれば、自ら志した奉仕にどれだけの恵みがあることかと思わされます。
自分の賜物がよく分からないという人は、人に勧められた奉仕に取り組んでみるというのも良いのではないでしょうか。自分の中に眠っていた賜物が花開き、それが人にも喜んでいただけるというのも嬉しいことですし、そのような経験を味わえるのが教会の良さでした。
最初に、私たちは良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られた神様の尊い作品であることを自覚し、喜ぶことの大切さをお伝えしました。作品ということばは、工場で大量に作られる画一的な製品ではなく、ひとつひとつに神様の思いの込められたかけがえのない存在であることを意味しています。
そうだとすれば、自分がどのような神の作品であるかを考え、知ることが必要であり、責任でもあるでしょう。
神様と教会の兄弟姉妹に仕えるために与えられている賜物は何か。自分が関心を抱き、それをしている時情熱を感じることは何か。生まれながらに与えられた能力、学びや職業を通して身につけた能力は何か。自分の性格はどのようなものか。人生において与えられた様々な経験の意味を考え、それがどのような人の役に立つのか考えること。
霊的な賜物、関心、能力、性格や経験。これらすべてが私たちに与えられた神様の贈り物であることを感謝し、それを神様と人に仕えるために活用、善用することに取り組む。そのために、兄弟姉妹のアドバイスにも耳を傾ける。
くれぐれも神様からの贈り物を奥に仕舞い込んで、宝の持ち腐れにしない。私の頂いた物が少しでもお役に立つのならと使わせていただく。そのような姿勢でこの一年間をみなが歩めたらと思います。今日の聖句です。
Ⅰペテロ4:10「それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。」
最後に、お勧めしたいのは、いわゆる奉仕疲れ防止法です。奉仕疲れとは、心のエネルギーが枯渇したまま奉仕し続け、身も心も疲れきってしまうことを言います。これを防ぐには、神様との交わりそして信頼できる兄弟姉妹との交わりに自分の身を置くことが有効かと思います。
カルバンは私たちの奉仕、働きについて次のように言っています。「律法にしばられている人は、日ごとに主人の前に仕事を言いつけられるしもべのようだ。その仕事を間違いなくやり遂げるまでは何かを成し遂げたと思わないし、主人の前に出ようともしない。しかし、父親に広い心でざっくばらんに接してもらってきた子どもは、自分の仕事が不完全でも、中途半端で欠点があっても、父親にその仕事を見せることをためらわない。なぜなら、父が望んでいた水準までいかなかったとしても、自分の父親への愛と信頼が父に受け入れられていると信じているからだ。私たちもそのような子どもでなければならない。私たちの働きがいかに小さく、不完全なものであっても、最も哀れみ深い父がそれを見て満足してくださる。そう固く信じなければならないのだ。」私たちの不完全な欠点だらけの働きを、私たちの愛のゆえに喜び満足し受け入れてくれる神様と信仰の友。この様な交わりが、私たちには是非とも必要なことを覚えたいのです。