2014年1月26日日曜日

コロサイ人への手紙3章16節 「交わりの祝福」

2014年が始まりまして早くも一ヶ月が終わろうとしています。あっという間の一ヶ月。皆様はどのようにこの一ヶ月を過ごしたでしょうか。
 礼拝説教は山崎先生との分担で、年初めの五回の説教で、信仰の基本的な事柄を確認しているところです。一年のうち一回は、礼拝説教で信仰の基本的な事柄を確認したいと考えたのですが、それならば、年の初め、気持ちを新たにした時が良いと考えてのことです。一回目が礼拝の中から主に賛美。二回目が礼拝の中から主に献金。三回目が伝道。四回目が交わり。五回目は賜物を用いることが扱われます。今日は第四聖日。交わりに焦点を当てて考えていきたいと思います。

 ところで皆さまは教会での交わりが好きでしょうか。お互いのことを知り合い、教会の仲間とともに過ごすことがとても好きという方。特に用事があるわけではないけれども、教会で仲間との時間を大切にしたいという方。いらっしゃると思います。教会の仲間と良い関係を持ち、その交わりが本当に楽しい、嬉しいと感じられるとしたら、それは本当に大きな恵みです。
しかし、教会での交わりが苦手という方もいらっしゃると思います。一人でいる方が居心地が良い。他の人にどのように思われるのかとても気になる。これまでクリスチャンの交わりの中で傷ついたことがある。あるいは、他の人を傷つけてしまい、また同じことをしてしまうのではないかと恐れている。
 信仰生活、教会生活が長くなると、交わりの喜びと、交わりの難しさ、その両方味わうのが一般的だと思います。交わりが楽しいと感じる時もあれば、交わりが怖い、教会での交わりを避けたくなる時もあります。

 私もこれまでの信仰生活の中で、教会の方にひどく傷つけられたと感じたことがあります。そのような時は、その人の顔を見て、悪い感情が出てくるのが嫌で、あまり教会にいたくないと感じました。あるいは、自分の発言や行動で、教会の方をひどく傷つけてしまったこと。自分のあまりの未熟さに、他の人と関わらない方が良いのではないかと考えたこともあります。皆さまはそのような経験があるでしょうか。
 交わりを避けたい。交わりを望まないという時。神様を信じるだけで十分ではないか。聖書を読み、祈る時間を充実させれば良いではないか。教会の人と顔を会わせるのは礼拝の時だけで良いではないか、という思いが沸き出てきます。
このような思い。交わりを避けたい、交わりを望まないというのは、極少数のクリスチャンしか味わうことがないのかと言えば、そうではありません。聖書が記された時代にも、交わりを避ける人がいました。交わりを避ける人たちには、それぞれ事情があったと思いますが、それでも聖書は明確に交わりの重要性を訴えていました。

 ヘブル10章25節
「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」

 集まることをやめないように。キリスト者の交わりをやめないように。信仰生活を一人で送らないように。共に生きることに取り組むように。今日は、キリストを信じる者が交わりを持つことの重要性を再確認したいと思います。

 なぜキリストを信じる者にとって、交わりが重要なのか。聖書から色々と理由を挙げることが出来ます。
 私たちの神様は三位一体の神様。ご自身の中で完全なる愛の交わりがある方。そのような表現は聖書にないのですが、敢えて言えば私たちの神様は交わりの神様です。その神様が私たちをつくられた時、このように言われていました。
 創世記1章26節
「そして神は、『われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。』と仰せられた。」

 交わりの神様が、ご自身に似せて私たちをつくられました。それはつまり、私たちも交わりの中で最も自分らしく生きることが出来る存在と言えます。エバがつくられる前。アダム一人の時に、神様は「人が一人でいるのはよくない」と言われていました。私たち人間は、もともと交わる存在。交わりは、私たちの本質と関係がある。創造の御業と深く結びついているのです。

 ところが人間が罪を犯し、堕落した結果、神様との関係は断絶し、人間同士の関係も壊れました。罪の恐ろしさは、交わりが壊れる点にあります。交わる存在としてつくられた私たちが、交わることが出来ない者となった。つくられた目的から外れたのです。
イエス・キリストは私たちを罪から救う方。この罪からの救いを交わりという点で見るならば、関係の修復、和解という意味です。パウロが次のように言っています。
 エペソ2章14節~15節a
「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。」

 キリストの救いの御業は、交わることが出来なくなっていた者が、あるべき交わりが出来る者へと変えられる、と言うことも出来ます。交わりは、救いの御業と深く結びついています。

 また救われた者の歩みを考えた時にも、交わりの重要性を挙げることが出来ます。救われた者は一人で生きるのではない。教会として、救われた者の集まりで生きていくことが教えられていますが、その教会は次のように表現されていました。
 Ⅰコリント12章27節
「あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。」

 教会はキリストの体。キリストを信じる者たちは、各器官とするならば、交わらないということを考えられていない。交わりの中でキリスト者として生きていくことが前提となっている言葉です。交わりは、教会の本質と深く結びついています。

 交わりがなぜ重要なのか。創造論からも、救済論からも、教会論からも考えることが出来ます。それはつまり、神様は、私たちが交わる者として生きるよう、強く願っておられるということ。神様の目標は、私たちキリストを信じる者たちが聖書的な交わりを持つことです。この神様の思いを受けとめて、私たちも互いに愛することに取り組みたいと思います。

 それでは、聖書が教える私たちのあるべき交わりの姿とは、どのようなものでしょうか。実に多くの具体的な教えが聖書に記されています。今日はいくつか確認していきたいと思います。
 Ⅰテサロニケ5章11節
「ですから、あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。」

 聖書的な交わりとは何か。ここでは「互いに励まし合う」ことが教えられています。互いに励まし合う。
これまで教会に来る時に、教会の仲間を励まそうと思って、来たことはあるでしょうか。礼拝の時、近くに座っているあの方を励ましたい。ともに奉仕をしているあの方を励ましたい。最近辛い思いをされたあの方を励ましたい。
どのようにしたら励ますことが出来るのか。よく考え、準備して教会に来るということに取り組みたい。心も体も疲れ、信仰面でも衰えている時。教会の仲間と過ごせば、元気になれる。そのような教会として、歩みたいのです。
 昨晩この説教を作りながら、私もこの御言葉に従いたいと思い、取り組むことにしました。どの方を励ますのが良いのか。少し悩みましたが、礼拝の司会の長老を。どのように励ませば良いのか。司会の奉仕をして下さることへの感謝を手紙にして書きました。取り組んでみて分かったのは、励ましたいと思い取り組むことは、私自身にとって喜びであるということ。励まされることだけでなく、励まそうとすることも喜びでした。是非、私たち皆で、「互いに励まし合う」という交わりを味わいたいのです。

 あるいは次のような箇所もあります。
 ローマ12章10節
「兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。」

 昨年度の年間聖句。ここで勧められる聖書的な交わりは、「互いに尊敬する」ことです。「あながた尊敬する人は誰ですか?」と問われたら、誰を思い浮かべるでしょうか。通常、尊敬するというのは、意識せずにすること。自分が考える尊敬出来る条件に合う人を、尊敬します。
しかし、キリストを信じる者の交わりにおいては、尊敬は意識的であり、決意的です。年齢も性別も国籍も関係ない。社会的立場も学歴も関係ない。教会でどのような奉仕をしているのか、クリスチャンになり何年なのかも関係ない。何が出来るからでもなく、何かをしたからでもなく、神様が愛している存在だから尊いとして、心から敬う。そのように、相手の人格を尊ぶ関係を築くことが出来たら、どれほど良いか。
 私自身、この御言葉にも従いたいと思い、教会の皆さまを尊敬する決意をもって今日来ました。もし私が偉ぶっている姿を見かけた時は、注意して頂きますようお願いいたします。

 また次のような箇所もあります。
 ローマ15章14節
「私の兄弟たちよ。あなたがた自身が善意にあふれ、すべての知恵に満たされ、また互いに訓戒し合うことができることを、この私は確信しています。」

 聖書的な交わりの一つのあり方。それは互いに訓戒すること。先に確認したように、私たちは互いに尊敬することが求められている。しかし、ともかく尊敬すればそれで良いというのではない。間違いがあれば正すこと。互いに訓戒することも聖書的な交わりなのです。
皆さまは、教会の仲間が悪に走ろうとする時、気付くでしょうか。気付いたとして、戒めることが出来るでしょうか。あるいは、その戒めを素直に聞くことが出来るでしょうか。
 昨年十一月にアメリカ研修に行った教会でのこと。男性の小グループで、互いに訓戒することの良い例を聞きました。ある男性が出張に行った際、ホテルでパソコンをつなぎ、卑猥なサイトを見たいと思ったそうです。それを教会の仲間に伝え、誘惑に負けないように祈ってほしいと伝え、皆で祈ったという話。
 このような交わりを持てることは本当に羨ましいと思いますが、同時にとても難しいことも分かります。自分が悪いことをしている。あるいは、罪を犯しそうだと思った本人が、それを教会の仲間に言うことが出来る。これは凄い信頼関係。しかし、それを築きたいのです。

 聖書的な交わりの具体例は、これ以外にも多数あります。互いに仕えること。互いに受け入れること。互いに赦し合うこと。互いに挨拶を交わすこと。互いに重荷を負い合うこと。互いに従うこと・・・。ある本によれば、互いに~~しないという教えは、新約聖書の中だけで五十八箇所あるそうです。これからも、聖書に示された交わりのあり方を見つけ、皆で取り組むことが出来たら良いと思います。

 このように交わりの具体例は多くあるのですが、是非とも四日市キリスト教会で取り組みたいと思う交わりがあり、最後に確認したいと思います。
 コロサイ3章16節
「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。」

 ここで勧められている第一のことは、「キリストのことばを、自分のうちに豊かに住まわせること」。聖書を通して、イエス様の人格に触れること。聖書を通して神様と交わること。聖書をよく読み、深く味わい、実践することが勧められています。
その上で勧められる第二のことが、「知恵を尽くして互いに教え」「互いに戒める」こと。キリストの言葉、聖書の言葉、私たちの神様がどれ程素晴らしいお方なのか、分かち合うことが勧められるのです。
更に第三の勧めとして、「感謝に溢れて心から神に向かって歌う」こと。

御言葉を味わい、神様との交わりを楽しむ。そして教会の仲間と御言葉を分かち合う、神様を分かち合う。そして仲間とともに神様を賛美する。この順番は非常に大事です。神様と交わることが赦された者として、まず神様との交わりを楽しむこと。その上で、教会の仲間と交わること。言葉を換えると、自分の力で教会の仲間と交わるのではないということです。神様と交わることが許された者として、同じ仲間とともに神様を喜ぶ。これぞ教会。これぞキリスト者の交わりという姿。
このような交わりを、是非とも皆さまと味わいたいのです。是非、今日の礼拝の後から、頂いた御言葉を深く味わい、教会の仲間と分かち合う歩みに取り組んでまいりましょう。

 今日の聖句を皆で一緒に読みたいと思います。
 ヨハネの手紙第一1章3節
「私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。」