2014年7月27日日曜日

ヨハネの福音書13章21節~35節 「あなたがたに新しい戒めを」

 人間の本性は、危機的状況に立たされた時現れると言われます。その際、私たちから滲み出てくるものは一体何でしょうか。人々へ感謝でしょうか。愛でしょうか。それとも自分のことを理解し認めてくれない人々への不平や批判でしょうか。大変な試練に直面したり、大きな仕事や責任を委ねられると、つい取り乱したり、余裕を失って自分のことしか考えられなくなる私たち。それを思うと、当時最も残酷で、屈辱的な死に方とされた十字架の死を間近に見つめながら、弟子たちのため愛を残るところなく、終わりの時まで現されたイエス・キリストの生き方は驚きとしか言い様がありません。
先回からヨハネの福音書の後半に入りました。特に13章から16章は、イエス様が弟子たちと別れるに当たり、今後彼らが新しい歩みを進められるようにと願い語られた言葉が記されるところで、惜別説教と呼ばれています。また、ここは、その頃ユダヤで最も重要な祭りであった過越しの祭りの食事、ダビンチが描いて有名になった所謂最後の晩餐の場面であることを心に留め、読み進めてゆきたいところです。
さて、先回、弟子たちのため当時奴隷の仕事とされた洗足を為し、愛するとは仕えることと自ら模範を示し、教えられたイエス様ですが、今日の箇所では、その愛を喜ばないただ一人の弟子ユダを残るところなく愛された姿が描かれます。

13:21 イエスは、これらのことを話されたとき、霊の激動を感じ、あかしして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ります。」

 「霊の激動を感じ」は、ユダに対するイエス様の思いを表すことば。イエス様の心は鉄でも石でもなく、欲に駆られて裏切りの道を一直線に進むユダのことに深く心を痛め、悲しんでおられた、と言うのです。それでは、ユダがイエス様を裏切ろうとする思いを抱くようになったのは、いつのことだったのでしょうか。それは一週間前のこと。ベタニヤ村にあるシモンと言う弟子の家で起こった事件からだったようです。 
その日、和やかな晩餐の席が一瞬にして重苦しい雰囲気に包まれたのは、マリヤが非常に高価な香油の壺をもってきて、中身のすべてをイエス様の体に注ぎかけた時のことです。「なぜ、この香油を三百デナリに売って、貧しい人々に施さなかったのか。」と、ユダが激しくこれを非難しました。一デナリは労働者一日分の賃金。およそ一人の男性の一年分の収入に相当する金額が一瞬にして使われたことを責めるユダ。それに対し、何も答えられず座り込んだままのマリヤ。やがて、マリヤを救うため、「そのままにしておきなさい。マリヤはわたしの葬りの日のために、それを取っておこうとしていたのです。」とイエス様が語られた場面です。
実際、どこまでマリヤがイエス様の葬り、つまり死を意識していたのかわかりませんが、イエス様に対する感謝と献身の思いを精一杯表したいという思いがあったことはよく分かります。それを受けとめたイエス様は、ユダの厳しい非難から彼女を守り、その感謝と献身を受け入れ、ご自身の十字架の死への準備という、さらに豊かな意味付けを与え、褒めてくださったとのでしょう。
イエス様の愛、とくに弟ラザロを墓からよみがえらせてくださったイエス様の愛を知ったマリヤは、感謝の思いを込めて香油をささげ尽くしました。それに対して、注がれた香油は300gで300デナリと、その量と金銭的価値を見つめていたのがユダと男の弟子でした。特に、ユダの場合は、弟子団の財布を預かる会計係でありながら、それを着服する盗人であったので、「勿体ない」との思いが強く、イの一番に声を上げたのかもしれません。
300gの香油が幾らであろうと、それはマリヤのささげものであって、ユダのものではありませんし、ユダが損をしたわけでもない。しかし、金銭に執着する心が一際強い盗人ユダは、まるで自分が損をしたような気持になったのでしょうか。
そこに、ユダヤ教指導者たちがイエス様の命を狙っているとの噂を耳にし、情報を提供すれば幾らかの金になるのではないかと、ユダは考えたらしいのです。マルコの福音書は、この出来事の後の行動について、次のように書いていました。

14:10、11 ところで、イスカリオテ・ユダは、十二弟子のひとりであるが、イエスを売ろうとして祭司長たちのところへ出向いて行った。彼らはこれを聞いて喜んで、金をやろうと約束した。そこでユダは、どうしたら、うまいぐあいにイエスを引き渡せるかと、ねらっていた。

 殺害を計画したものの、民衆に絶大な人気を誇るイエス様を密かに逮捕する方法がなく、悩んでいた宗教指導者たちにとって、ユダの行動は飛んで火にいる夏の虫。両者の思いが一致して、キリスト殺害は俄然現実味を帯びてきたのです。そして、ユダの思いをご存じであったイエス様は、罪の悔い改めに導こうと、この最後の晩餐の席で再三ユダに向かい語りかけておられました。他の弟子には知られないように、直接的ではなく間接的にという配慮をもってです。しかし、それが通じないと見るや否や、さらにユダに語るべく、衝撃の一言を口にされました。

13:21、22 イエスは、これらのことを話されたとき、霊の激動を感じ、あかしして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ります。」弟子たちは、だれのことを言われたのか、わからずに当惑して、互いに顔を見合わせていた。

 ショックを受けた弟子たちはお互いに顔を見合わせるばかり。しかし、こうした時、じっとしてはいられないタイプの人ペテロは、イエス様の右側、最も近くにいた仲良しのヨハネに「誰のことか聞いてみてくれ」と、目で合図を送ります。恐らく、ペテロは遠い席におり、率直なペテロもさすがに大声を出すことを憚ったと考えられます。

13:23、24 弟子のひとりで、イエスが愛しておられた者が、イエスの右側で席に着いていた。そこで、シモン・ペテロが彼に合図をして言った。「だれのことを言っておられるのか、知らせなさい。」

 イエスが愛しておられた者とは、この福音書を書いたヨハネ自身を指し、イエス様とヨハネが特別に親しい関係にあったと考えられる表現です。このヨハネの問いに答え、イエス様はある行動に出られました。

13:26~30 イエスは答えられた。「それはわたしがパン切れを浸して与える者です。」それからイエスは、パン切れを浸し、取って、イスカリオテ・シモンの子ユダにお与えになった。彼がパン切れを受けると、そのとき、サタンが彼にはいった。そこで、イエスは彼に言われた。「あなたがしようとしていることを、今すぐしなさい。」席に着いている者で、イエスが何のためにユダにそう言われたのか知っている者は、だれもなかった。ユダが金入れを持っていたので、イエスが彼に、「祭りのために入用の物を買え。」と言われたのだとか、または、貧しい人々に何か施しをするように言われたのだとか思った者も中にはいた。ユダは、パン切れを受けるとすぐ、外に出て行った。すでに夜であった。
 
パン切れをぶどう酒に浸して与えると言うのは、家の主が大切なお客様に対して心からの敬意と親しみを込めて為すおもてなしです。イエス様は、ユダが裏切りの決意を抱き、何食わぬ顔で席に連なっているのを知りながら、どこまでもご自分にとって大切な存在であることを示したいと思い、自ら親しくパンをお与えになりました。
 しかし、ユダの心がサタンの誘惑に占領されていることを知ると、今度は「あなたがしようとしていることを、今すぐしなさい」と告げられたと言うのです。このことばの意味はユダだけが理解できるものでした。ですから、他の弟子たちが不思議に思い、イエス様が祭りのために必要な買い物を命じたのだとか、貧しい人々に施しをするように言われたのでは等、様々に憶測した様子を、ヨハネは記しています。
 何故、イエス様がここで「あなたがしようとしていることを、今すぐしなさい」とユダに言われたのか。非常に難しい所です。個人的には、ユダに裏切りを促したとかユダを見放したという考えにはくみしません。それよりも、イエス様はユダが隠していた悪しき思いをよくよく知りながら、「その様なあなたでも、いやその様なあなただからこそ、心から足を洗い、パンを分け与えるほどに、わたしはあなたを愛している」、そう伝えたかったと考えたいところです。
 公然と非難され、責められても仕方のないことをしていたユダ。イエス様ならそれをする権利がありましたのに、むしろ、悲惨な道を行こうとしているユダに心を痛め、何とか間違った道から引き返して欲しいと願う愛の心が伺われます。しかし、徹底的に仕える愛もユダには通じずでした。パン切れを受け取ると、外の暗闇に消えて行ったユダ。その後姿を見つめるイエス様の心は、どれ程悲しくあったことかと思わされます。
 他方、ユダが出て行ったことにより、自らの死が近づいたことを覚えたイエス様は、十字架の死とその後の昇天が、神の栄光を表す重要な意味があることを弟子たちが憶えているようにと、念を押します。

13:31、32 ユダが出て行ったとき、イエスは言われた。「今こそ人の子は栄光を受けました。また、神は人の子によって栄光をお受けになりました。神が、人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も、ご自身によって人の子に栄光をお与えになります。しかも、ただちにお与えになります。

 「今こそ人の子は栄光を受けました」「神は人の子によって栄光をお受けになりました」の栄光は、十字架の死によって、イエス・キリストが人類の罪を贖い、神様の栄光、神様の無限の愛を表したことを指します。また、「神も、ご自身によって人の子に栄光をお与えになります。しかも、ただちにお与えになります」の栄光は、父なる神様がイエス・キリストを復活、昇天させたことを指し、イエス様の生涯が神様のみこころにかなった正しいものであることの証明と言う意味があります。こうして、やがて彼らが十字架の死と昇天という出来事に直面しても、落胆しないように、むしろその意味を理解して新しい歩みへと進んでゆけるように、準備されたのです。そして、いよいよ死を前にしたイエス様最大のメッセージが告げられます。

13:33~35 子どもたちよ。わたしはいましばらくの間、あなたがたといっしょにいます。あなたがたはわたしを捜すでしょう。そして、『わたしが行く所へは、あなたがたは来ることができない。』とわたしがユダヤ人たちに言ったように、今はあなたがたにも言うのです。あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」

 「子どもたちよ」と言う優しい呼びかけは、親が死の別れに際し可愛い子どもたちのために語る遺言を思い起こさせます。このイエス様の遺言、新しい戒めについてはこの後取り上げることにして、最後に今日の箇所で私たちが憶えるべき二つのことのうち、ひとつめのポイントを確認しておきたいと思います。
 それは、ユダの罪の悲惨さということです。ユダの罪と言うと、普通弟子グループのお金を盗んでいたこと、欲に惹かれてイエス様を金銭で売り渡したことがあげられます。盗み、金銭欲、裏切りと言う道徳的罪です。しかし、そうした罪の奥に、ユダの本当の問題、根本的な罪があることを、今日の箇所は教えているのではないでしょうか。
 ユダは、自分の目の前にいるイエス・キリストがどのようなお方であるか、全く気がついていなかったように見えます。イエス・キリストが、自分の歩み、自分の思い、そのすべてを他の誰よりも深く、誠実に、完全に知っておられ、その上で心から自分を愛しておられる神であることを最後の最後まで知らなかったのではないかと思えます。
 すでにキリストを裏切り、引き渡す策略を心に抱きながら、あたかも、それが知られていないかのように同席し、キリストの愛の語りかけ、愛の奉仕に心閉ざしたままでいたユダ。最も悲惨な罪とは、私たちの罪や汚れ、悪しき思いや欠点、それらすべてを知ったうえで、どこまでも愛を以て仕えてくださる神様の存在に気がつかない事と覚えたいのです。
 果たして、皆様はこの様な人格的な神様を知っているでしょうか。この神様の前に立ち自分の歩みを振り返る時、神様からの愛の語りかけを聞く時間を取っているでしょうか。私たちのすべてを知っておられる神様の前を歩む者でありたいと思います。
 ふたつめは、新しい戒めです。「わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」隣人愛については既に旧約聖書でも教えられていました。ですから、イエス様が言われる新しい戒めの新しさは、「わたしがあなたがたを愛したように」という点にあります。
イエス様は、「誰が一番偉いか」を論じ合う、自我の塊のような弟子たちの足を洗われました。しもべとなって人に仕える愛です。裏切りの思いを抱くユダに語りかけ、大切なお客様のように仕えました。人を赦し、人に仕える愛です。
どちらも実行すること、実行し続けるのが難しいことです。悲しいことですが、些細なすれ違いや誤解などをきっかけに、私たちの愛はすぐに冷めてしまいます。自分が軽んじられていると感じたり、自分の考えが重んじられていないと思うと、私たちの心はその人から離れ、心を向けることも、仕えることも嫌になります。人を赦せない口実を考えて自分を正当化したり、人の欠点を非難することは得意ですが、赦し、仕えることには否定的、消極的なのです。
しかし、今日の箇所でイエス・キリストが弟子たちに示された愛は、私たちにとって愛の力の源、学ぶべき模範ではないでしょうか。私たちは家族に、身近な方々に福音を伝えたいと思います。しかし、それがなかなか叶わないのは、もしかすると私たちの歩みが、新しい戒めから離れてしまっているからかもしれません。福音は語られるべきものですが、私たちの具体的な愛のあかし、実践と共に伝えられるものです。新しい戒めに生きるよう招かれていることを、日々自覚する者でありたいと思います。
 
Ⅰヨハネ3:23 神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。

2014年7月20日日曜日

エステル4章8節~16節 「一書説教、エステル記」~この時のために~

 どの時代、どの地域でも良いので、自分で選び生活出来るとしたら、皆さまはどの時代、どの地域を選ぶでしょうか。日本が良いか。それ以外の地域が良いか。過去が良いか。それとも未来が良いか。クリスチャンは、聖書に記された時代、地域が良いという人が多いでしょうか。それとも、現在の日本、四日市で生活をするのが良いと答える方もいるでしょうか。
 このようなテーマで想像し、意見交換をするのは楽しいもの。色々な人と話してみたいところですが、実際にどの時代、どの地域で生活するかは、自分では殆ど選べません。時代は選ぶことは出来ず、生活する地域も自分の願い以外の条件で決まることが多いものです。(世界のどこでも自分の願う場所で生活出来るという人は、いたとしても極僅かでしょう。)
 それでは、なぜ私は、この時代、この地域で生きているのでしょうか。クリスチャンの答え、聖書の答えは明確です。神様が私たちに取り組むべき使命を与え、命を与えて下さっているから。他の時代、他の地域ではない。今、この場所で私が生きているのには、神様が私に与えている使命を果たすため。その確信のもとに生きるのが、クリスチャンの生き方でした。
 そうだとすれば、神を信じる者、聖書の教えに従って生きる者、私たちクリスチャンは、神様が私に願われていることは何か。私に与えている使命は何か。考えながら日々を生きる者と言えます。いかがでしょうか。そのように、神様との関係の中で、自分の生き方、自分の使命を確認して、毎日過ごしているでしょうか。
 朝起きて、自分の立てたスケジュールを必死にこなして、クタクタになって寝るという毎日を繰り返すことのないように。祈りと聖書を通して、神様が私に願われていることを考えながら、毎日を過ごす者でありたいと思います。

私の説教の際、断続的に取り組んでいます一書説教。(聖書の一つの書を丸ごと扱い説教するもの)。今日は十七回目。旧約聖書、第十七の巻、エステル記となります。神様が自分に願っていることは何か。真剣に考え、それに取り組む一人の女性に焦点が当てられる書。神様に与えられた使命を果たすことが、どれほど祝福の道なのか、確認したいと思います。
毎回のことですが、一書説教の際には、扱われた書を読むことをお勧めいたします。一書説教が進むにつれて、教会の皆で聖書を読み進めていくという恵みにあずかりたいと願っています。

 このエステル記は、第十五の巻、エズラ記に記された時代と重なります。覚えていますでしょうか。神様を信じる者、神の民として歩んできた者たち、南ユダの者たち、ユダヤ人は、バビロンに敗北し、奴隷として連れていかれました。バビロン捕囚です。ところが、バビロンがペルシャに敗北し、ペルシャの政策により、ある者たちはもとの場所に帰ることが出来た。バビロン捕囚からの帰還です。イスラエル地方に最初に帰って、神殿再建を為したのが、ゾロバベル、祭司ヨシュアたちでした。これがエズラ記の前半に記されていたことです。エズラ記の後半は、神殿再建から約六十年経った後の学者エズラの活躍が記されていました。ネヘミヤ記(第十六の巻)も、このエズラ記の後半の時代、イスラエル地方で何があったのか記されていたものです。
 今日読むエステル記は、エズラ記の前半と後半の間、約六十年の間に、イスラエル地方に帰還しなかった者たち、つまりペルシャの中心地で起こったことが記されたものです。バビロン捕囚から帰還して神殿を再建した者たちがいた。一方、バビロン(ペルシャ)に残った者たちは、どのようなことがあったのか。それがエステル記です。全十章の短い書ですが、概観したいと思います。

まずは一章。エステル記の背景が記されます。
 エステル記1章1節~3節
「アハシュエロスの時代のこと――このアハシュエロスは、ホドからクシュまで百二十七州を治めていた。――アハシュエロス王がシュシャンの城で、王座に着いていたころ、その治世の第三年に、彼はすべての首長と家臣たちのために宴会を催した。それにはペルシヤとメディヤの有力者、貴族たちおよび諸州の首長たちが出席した。」

 アハシュエロスの時代のこと。この王は、世界史ではクセルクセスという名で有名です。ペルシャが非常に強い力をもっていた時代。ホドからクシュまで。インドからエチオピアまでと、非常に広範囲を治めた王。歴史を見渡す時、様々な権力者を挙げることが出来ますが、その中でも特に大きな権力を持っていた人物。エステル記は、このアハシュエロスの第三年目のことから始まります。
この時、アハシュエロスは大宴会を催しました。何故か。聖書には明確な理由が記されていませんが、この時ギリシャと戦争状態にあり、この宴会は戦闘前の景気付け、決起集会のような意味があったと思われます。
 この宴会で一つの事件が起こります。王妃ワシュティの美しさを人々に見せたいと思い、宴会に出てくるように王が命じるも、王妃自身はそれを拒んだというのです。この王妃の態度に激怒したアハシュエロスは、ワシュティを王妃の立場から退け、新たな王妃を捜すことになりました。

 続けて二章。この書の名にもなっているエステルと、養父モルデカイの登場です。
 エステル記2章7節
「モルデカイはおじの娘ハダサ、すなわち、エステルを養育していた。彼女には父も母もいなかったからである。このおとめは、姿も顔だちも美しかった。彼女の父と母が死んだとき、モルデカイは彼女を引き取って自分の娘としたのである。」

 ペルシャ名でエステル。星という意味。星子さん。ユダヤ名はハダサ。ミルトスという木の名前。花子さん。このエステルは、姿も顔だちも美しかったといいます。そして、この時、この場所で、姿も顔立ちも美しいというのは、例の王妃選びの対象になるということです。
 一般的に言って、王妃選びの対象となるというのは、名誉なこと、喜ばしいことです。しかし、アハシュエロスが為した王妃選びはひどいものでした。

 エステル記2章12節~14節
「おとめたちは、婦人の規則に従って、十二か月の期間が終わって後、ひとりずつ順番にアハシュエロス王のところに、はいって行くことになっていた。これは、準備の期間が、六か月は没薬の油で、次の六か月は香料と婦人の化粧に必要な品々で化粧することで終わることになっていたからである。このようにして、おとめが王のところにはいって行くとき、おとめの願うものはみな与えられ、それを持って婦人部屋から王宮に行くことができた。おとめは夕方はいって行き、朝になると、ほかの婦人部屋に帰っていた。そこは、そばめたちの監督官である王の宦官シャアシュガズの管理のもとにあった。そこの女は、王の気に入り、指名されるのでなければ、二度と王のところには行けなかった。」

 美しいと評判の者たちはシュシャンの城に集められ、一年かけて準備がなされ、一晩王と過ごす。もし王の気に入り、指名されることがなければ、二度と王のもとには行けない。王妃選びと言えば聞こえが良いですが、権力者による公の暴行、凌辱行為。罪ある者が強力な権力者となると、ひどいことが起こる実例の一つです。
 この王妃選びの結果、王妃にはエステルが選ばれました。王から寵愛を受けたエステルですが、王に会う前、監督者からも好意を得ていました。外見だけでなく、優れた内面の持ち主。会う人に好意を持たれる。神様に祝福された者の一つの特徴と見ることも出来ます。
 エステルが王妃に選ばれた。淡々と記されていますが、ここに至るエステルの思い、養父モルデカイの思いを想像しながら読み進めたいところです。なお、この二章の終わりには、モルデカイが王の暗殺計画を事前に察知し食い止めたことが記録されていますが、後々重要な意味を持つことになります。

 そして三章。見事なまでの悪人、ハマンの登場です。王より認められた重臣ハマン。権力を得た結果、虚栄心の怪物のようになった人物。王より、ハマンが通る際には、王の家来はひざまずくようにとの命令が出ていました。いかに高い評価と信頼を得ていたのかが分かります。
 このハマンに対してひざをかがめ、ひれ伏すようにとの命令を、あのモルデカイは実行しませんでした。この世界をつくられた神様以外を礼拝しない信仰を持っていたモルデカイにとり、この命令は受け入れられないものでした。神の民として当然と見るか。相当の決意と覚悟をもって反抗した、信仰熱心なモルデカイと見るか。
 ハマンは、自分にひれ伏さないモルデカイに対して激怒し、またその理由が信仰心にあると考え、モルデカイだけではない、ユダヤ人を全滅させようと考えます。王に対して、「ある民族が王の法令を守っていない。このままにしておくと、王のためにならない。」と言って、ユダヤ人を全て殺して家財を奪うようにとの法令を作ります。一人の虚栄心が、一民族を滅ぼす計画へとつながる。ひどい話です。それにしても、あまりにハマンの思惑通りに事が進みます。アハシュエロス王はあまりに無能ではないかと思えるところ。何にしろ、この法令はくじにより、約一年後に効力を発揮するものとして発行されました。

 続く四章。ハマンの発行した法令により大混乱が起こる中、モルデカイは着物を裂き、荒布をまといます。モルデカイの様子を聞いたエステルは、何事かと思い問い合わせたところ、事の経緯を知ることになる。モルデカイは、あなたは王妃なのだから、王に頼んで、ユダヤ人全体の窮地を助けてもらうようにしなさいと勧めるのですが、一つ問題がありました。王に呼ばれていない者が、自ら王のところに行くのは禁じられた行為。王が助けようと意思を示さない限り、死刑になる。そして、王妃であるエステルも、この三十日間、王に会っていませんでした。王の愛情は別な者へと向けられた恐れがある。この状態でエステルが王のもとに行くというのは、大きな危険を伴うもの。エステル自身、死を覚悟しないと行けない状況。それでも、モルデカイはエステルに王のもとへ行くようにと勧め、エステルは決心するという場面。
 是非読んで頂きたい場面。エステル記のクライマックス。非常に印象的な場面です。後ほど、もう少し詳しく扱います。

 そして五章。王のもとに行くエステル。死を覚悟して臨んだエステルでしたが、王の好意を得て、死を免れただけでなく、「何がほしいのか、王国の半分でもやれるのだが。」と言われます。あの心配は何だったのかと思う程、継続して王の寵愛を受けているエステルでした。(とはいえ、この王の言葉は真に受けるものではなく、それでも慎ましくするのか試された言葉と考えることも出来ます。)王の言葉に対してエステルは、ここで問題の本質を話さずに、宴会を催すので、王とハマンと来て欲しいと願います。さらに宴会の席上で、王に何を願うのかと聞かれたエステルは、明日、またハマンとともに宴会に来て欲しいと言うのです。
 なぜ、エステルはすぐに王に願わなかったのでしょうか。なぜ、一日置いたのでしょうか。エステルにどのような意図があったのか。言いづらい雰囲気でもあったのか。なぜ、一日あけたのか、聖書にその理由が記されていません。しかし、結果から見ると、この一日待ったことに意味があったのです。

 それが六章です。エステルが催した宴会の日の夜、王は眠れず、家来に、ペルシャ王国の記録の書を読ませます。すると、モルデカイが暗殺計画を食い止めた記録(二章に記されいた出来事)が出てくるも、まだ褒章を与えていないことが分かりました。この時、もう明け方になっていたのか。ハマンが王のもとに来ます。王はハマンに対して、褒章すべき者には、どのようにしたら良いかと問うと、聞かれたハマンは自分こそが褒章を受ける者だと勘違いをし、思いつく限りのことを上申します。その結果、モルデカイは高い地位を手にします。

 七章は、遂に二回目のエステルの宴会です。ここに来て、エステルは本当に願いたいことを王に伝える。この時になって、エステルがユダヤ人であることを知ったハマンは、この事態に恐怖します。慌ててエステルに命乞いをするハマンですが、その姿を見たアハシュエロスは、ハマンがエステルに暴行を加えようとしていると思い、すぐさま、ハマンの処刑がなされます。あっという間の失墜劇。一気に滑り落ちたハマンです。

 八章から終わりの十章までは展開が早くなります。ハマン亡き後、その地位にはモルデカイが就くことになります。なぜ、モルデカイが選ばれたのか。簡単です。六章に記された出来事に由来しているのです。それはつまり、エステルが一日目の宴会で王に真意を伝えていたら、ハマン亡き後のハマンの地位はモルデカイではなかったということです。あの時、何故か一日待ったということが、このような結論に繋がるのです。
 問題のハマンの立てた法令ですが、一度立てた法令は変えることが出来ないとされ、それならばと新たな法令を立てることで対応します。新たに立てられた法令は、ユダヤ人はもし自分たちを襲う者がいたら、結束して立ち向かっても良い。相手の家財を奪うのも良いとされました。ユダヤ人を襲っても良いという法令に対して、ユダヤ人は襲ってくる者たちに反撃しても良いという法令では、対策として弱いのではないかと感じますが、新たな法令が出されたことで王はユダヤ人を助ける側にいることが分かり、ユダヤ人に抵抗する者はいなくなったと記されています。
 こうして神の民、ユダヤ人に起きた危機が回避された記録がエステル記です。この一連の出来事を記念して、プリムの祭りが定められますが、これ以降、現在にいたるまでユダヤ人は喜びの祭りとして、プリムの祭りを行っています。

 以上、エステル記の概観でした。興味深いことに、エステル記の中には、神様の名前が一度も出てきません。それにもかかわらず、神様の導きと配慮に満ち溢れている書。ある人は、「神の名まえがすかし模様のように織り込まれている」書と表現します。概観してみて感じるのは、エステル記に記されているのは、細々としたことまで、それこそ王が夜になかなか寝られなかったことまで、神様の計画の伏線であったということ。私たちは、神様が世界を支配しておられると告白しますが、神様の支配とは、ここまでのものなのかと驚きます。
 是非とも、エステル記を読み、私たちの神様がどのようなお方で、その方の前で私たちはどのように生きるべきなのか、味わって頂きたいと思います。

 最後に、エステル記の一つのクライマックス、四章を確認して終わりたいと思います。
 エステル記4章13節~14節
「モルデカイはエステルに返事を送って言った。『あなたはすべてのユダヤ人から離れて王宮にいるから助かるだろうと考えてはならない。もし、あなたがこのような時に沈黙を守るなら、別の所から、助けと救いがユダヤ人のために起ころう。しかしあなたも、あなたの父の家も滅びよう。あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、この時のためであるかもしれない。』」

 王に頼みにいくようにとモルデカイが伝えたところ、エステルは「行くことが出来ない。勝手に行けば死刑になる可能性があり、この三十日間呼ばれてないことを思えば、その可能性が十分高い。」と答えたところ、そのエステルに言ったモルデカイの言葉です。
 モルデカイは、神様が願われていることは何か。神様が与えている使命は何かを考える信仰の持ち主でした。この時代、この場所にいるのは何故なのか、神様との関係で見出そうとする人。
 そしてエステルに言うのです。神様は私たち神の民を必ず助けて下さる。仮にエステルが何もしなくても、助けて下さる。その場合、使命を与えられていたあなたが、何もしなかったというのは非常に良くない。自分から王の前に行く危険よりも、神様から与えられた使命を果たさないことの方が、より危ない。よく考えなさい。あなたが王妃の立場にいるというのは、この時のためであるかもしれない。と勧めるのです。

 この言葉を受けて、エステルは決心しました。
 エステル4章16節
「『行って、シュシャンにいるユダヤ人をみな集め、私のために断食をしてください。三日三晩、食べたり飲んだりしないように。私も、私の侍女たちも、同じように断食をしましょう。たとい法令にそむいても私は王のところへまいります。私は、死ななければならないのでしたら、死にます。』」

 モルデカイにしても、エステルにしても、私がとても励まされるのは、この時、王のもとに願い出ることは、神様が与えた使命だと断定していないことです。モルデカイは、「この時のためであるかもしれない。」と言いました。エステルも、そうかもしれないと思いながら、同時に恐れもあり、祈りの要請をし、死をも覚悟しました。
 これが神様が私に与えた使命。これは必ずうまくいく。とは二人とも考えていません。当然のこと、私たちに神様のお考え全てが分かるわけではないのです。状況を見て、祈りのうちに、何をすべきなのか考える。それも謙虚のうちに取り組むのが、クリスチャンの生き方だと教えられるのです。

 それでは、私に与えられている使命は何でしょうか。皆さまに与えられている使命は何でしょうか。あのエステルのように一世一代の「この時のため」もあるかもしれませんし、毎日の生活の中で「この時のため」があるかもしれません。愛すべき時、仕えるべき時、従うべき時、赦すべき時、福音を伝えるべき時。その機会を逃さないように。神様との関係の中で、謙虚のうちに、この時代、この場所で生きているのは、この使命を果たすためと考えながら生きるクリスチャンの幸いを、皆さまとともに味わいたいと思います。

2014年7月13日日曜日

ヨハネの福音書13章1節~20節 「残るところなく示された愛」

 もし、明日が人生最後の一日だとしたら、皆様は一体何をするでしょうか。自分が心から欲することを行うだろうとまでは言えても、果たして、自分が心から欲することが何かと言われると、考えてしまいます。親友に会うことか、好きな音楽を聴くことか、大好物を思う存分頬張ることか、思い出の場所に出かけることか、家族に遺言を書くことか、それとも不安で一杯で何も手につけられない状態となるのか。
紀元年30頃の春。過越しの祭りで賑わうユダヤの都エルサレム。イエス様にとって地上最後の日となる日の前夜、弟子のヨハネが感じていたのは、イエス様がご自分の者、つまり弟子たちに注がれた愛でした。イエス様が心から欲していたのは、ご自分の者を愛すること、それも残るところなく愛を示すことだったと言うのです。
先回読みました12章で、イエス様の公の活動を描く、ヨハネの福音書の前半が終了。今日の13章からは後半となります。特に13章から17章は告別説教と呼ばれ、地上に残る弟子たちを思い遣るイエス様の愛が心に迫るところです。

13:1「さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。」

過越しの祭りは、昔大国エジプトの地にあって奴隷として苦しみを受けていたイスラエルの民が、神様によって救い出されたことを記念し、毎年盛大に行われたもの。祭りでは、人々が家族毎、グループ毎に集まって、パンと葡萄酒、小羊の肉の晩餐を囲み、祈りと賛美を共に神様ささげるのが習わしでした。
この晩餐の前、「この世を去って父のみもとに行くべき自分の時」、つまり当時最も残酷な死に方と言われた十字架の死を間近に見つめたイエス様が、なお愛の人であったというのは驚きではないでしょうか。
私たちがその様な最期を前にしたら、心乱れ、自分のことしか考えられない。人のことを思い遣る余裕など全くなくなるのが普通ですのに、イエス様ときたら、ご自分のことはそっちのけ。弟子たちのこれからの歩みを心配し、思い遣ることに全力を集中されたと言うのです。イエス様は終わりの時まで、すべての愛を注いで弟子たちを愛された。その愛が今も私たちに注がれていることを覚えながら、続きを読み進めたいと思います。

13:2~4「夕食の間のことであった。悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていたが、イエスは、父が万物を自分の手に渡されたことと、ご自分が父から来て父に行くことを知られ、夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。」

イエス様を売り渡す思いを抱くユダが、この晩餐の席にいたことの意味は後ほど考えることとします。私たちは突然晩餐の席から立ち上がって、弟子たちの足を洗い始めたイエス様の姿とそれを驚き見つめる弟子たちの様子を想像したいと思います。
他の福音書を見ますと、この夜がイエス様との最後の晩餐になるなど思っても見ない弟子たちは、いつもと変わらず愚かな議論に興じていました。それは、「この中で誰が一番偉いのか」というもの。常に自分を人と比べ、少しでも自分が高い所に立ちたいと願う人間の罪をご覧になったイエス様は、ことばではなく行動によって彼らの心を変え、人としてあるべき生き方を教えようとされたのです。
当時、人々は床に体を横たえて食事を行っていましたから、立ち上がったイエス様に弟子たちの眼は釘づけだったでしょう。さらに、イエス様は上着を脱ぎ、手拭いを腰にまとい、盥に水をいれ、足を投げ出す弟子たちの前に膝まづいたというのです。
その頃、ユダヤ人の奴隷にも強要されることのなかった洗足。異邦人の奴隷がもっぱら行っていたとされる足を洗うと言う仕事。最も低い身分の者が高い立場にいる者のためにした奉仕を、イエス様が自分たちのために行い始めた。自分たちの汚れた足を両手で抱きかかえ、盥に入れ、きれいに洗ってくださる。弟子たちは驚きのあまり、声も出なかったに違いありません。しかし、一人の弟子が声をあげました。思っていることを心に秘めておけないタイプの人ペテロです。

13:6、7「こうして、イエスはシモン・ペテロのところに来られた。ペテロはイエスに言った。『主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。』イエスは答えて言われた。『わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。』」

「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。」ペテロの声は、弟子たちの思いを代弁していたでしょう。「本当なら、私があなたのためにすべきことなのに、あなたが私にしてくださるとは。」そんな驚きと戸惑いが込められています。
そんなペテロに、イエス様は「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」と答えました。汚れた弟子の足を洗うことは、イエス・キリストの十字架の死によって、彼らの罪が洗われ、きよめられることを、前もって示すと言う意味があることを、やがてペテロも理解しますが、この時はちんぷんかんぷん、全く意味が分からなかったのです。ですから、「やがてわかるなどと暢気なことを言われても」と納得のゆかないペテロは、強く固辞します。

13:8~11「ペテロはイエスに言った。『決して私の足をお洗いにならないでください。』イエスは答えられた。『もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。』シモン・ペテロは言った。『主よ。わたしの足だけでなく、手も頭も洗ってください。』イエスは彼に言われた。『水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。あなたがたはきよいのですが、みながそうではありません。』イエスはご自分を裏切る者を知っておられた。それで、『みながきよいのではない。』と言われたのである。」

やがてわかるその時を待ってはいられない、せっかちなペテロは「決して私の足をお洗いにならないでください。」と一旦は断ります。しかし、「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」と言われると、ここでイエス様との関係が切れたら、今までの苦労も水の泡と考えたのでしょうか。大慌てで「それなら、足だけでなく、手も頭もお願いします」と言い出す始末。せっかちなペテロは早合点でもあったようで、「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。」と、イエス様からたしなめられたと言う一幕です。
しかし、驚き戸惑いながらも、しもべとなって仕えてくれたイエス様の愛を喜んでいた弟子たちとは裏腹に、一人冷たい目でこれを見る弟子のことをイエス様はご存知でした。それがユダ。イエス様はその思いを知りながら、ユダに対してもしもべとなって愛を注がれたのです。こうして、十二人全員の足を洗い終えると、再び席に戻られたイエス様は、あなたがたも互いに足を洗いあえと教えます。

13:12~15「イエスは、彼らの足を洗い終わり、上着を着けて、再び席に着いて、彼らに言われた。「わたしがあなたがたに何をしたか、わかりますか。あなたがたはわたしを先生とも主とも呼んでいます。あなたがたがそう言うのはよい。わたしはそのような者だからです。それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。」

愛は相手に期待します。イエス様が勿体ぶった様子もなく、まるで当然のことであるかのように、上着を脱ぎ、弟子たちの足を洗った行いは、その霊的な意味は理解できないまでも、弟子たちの心に強い印象を残したと思われます。イエス様が彼らに模範を示されたのは、彼らの将来に期待しておられたからでした。
勿論、彼らの罪をイエス様はよく知っておられたでしょう。イエス様の前で「誰が一番偉いのか」と何度も論じ合うほど、弟子たちはプライドに縛られ、競い合うことに縛られていた彼らの愚かさを知っておられたのです。人のために喜んで仕えるイエス様の謙遜、しもべの心はまだ芽も出ていませんでした。
しかし、弟子たちの高慢の罪と愚かな行いをことばで責めるのではなく、やがてイエス様のように、しもべとして人に喜んで仕える人生を彼らが歩むことを期待して、自ら模範となられた。これが、イエス様の示された愛なのです。さらに、励ましの言葉が続きます。

13:16,17「まことに、まことに、あなたがたに告げます。しもべはその主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさるものではありません。あなたがたがこれらのことを知っているのなら、それを行なうときに、あなたがたは祝福されるのです。」

しもべとなって人に仕えると言うことは口で言うほど簡単なことではありません。それを実践しようとすればするほど、恐れも感じますし、心が揺らぎます。自分が謙遜になりすぎると、相手がどんどん付け込んでくるのではと恐れることもあります。仕えても仕えても変わらない相手の態度に心が揺らぐことも、腹が立つこともあります。自らの愛の足りなさにひどく落ち込むこともあるでしょう。つまり、私たちはイエス様のように心から人に仕えることができないのです。
しかし、イエス様は「あなたがはわたしのしもべであり、遣わされた者なのだから、それでよい」と仰っているのではないかと思います。むしろ、そうした自分の罪や弱さに気がつき、イエス・キリストの十字架の愛に頼りつつ、人に仕える生き方を実行する。その様な者には祝福があると励ましてくださる優しい御声を聞きたいところです。
そして、ここに再び繰り返されるのが、イスカリオテのユダのことでした。裏切りの思いを胸に秘め、席に連なっていたユダのことを、イエス様は人一倍気にかけていたのです。

13:18~20「わたしは、あなたがた全部の者について言っているのではありません。わたしは、わたしが選んだ者を知っています。しかし聖書に『わたしのパンを食べている者が、わたしに向かってかかとを上げた。』と書いてあることは成就するのです。わたしは、そのことが起こる前に、今あなたがたに話しておきます。そのことが起こったときに、わたしがその人であることをあなたがたが信じるためです。まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしの遣わす者を受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。わたしを受け入れる者は、わたしを遣わした方を受け入れるのです。」

「あなたがたはきよいのですが、みながそうではありません。」「あなたがたは幸いなのですが、みながそうなのではありません。」イエス様は、繰り返し繰り返しユダに問いかけています。そして、三度目はユダに対する愛を表すことばを語られました。
「聖書に『わたしのパンを食べている者が、わたしに向かってかかとを上げた』と書いてあることは成就するのです。」と語られた中で、「わたしのパンを食べている者が、わたしに向かってかかとを上げた」とあるのは、旧約聖書詩篇41篇のことばです。
この詩篇は、ダビデ王が片腕と信頼し、親しい友でもあったアヒトフェルの裏切りを知った時の悲しみを歌ったもの。同じパンを食べ、分け合う程親しかったアヒトフェルが反乱軍に寝返り敵となったことを、馬が飼い主に対しかかとをあげて蹴ろうとする姿に重ねて、「わたしに向かってかかとをあげた」と表現しています。日本語で言えば、「飼い犬に手をかまれる」と言ったところでしょうか。
イエス様はこのダビデの詩を引くことで、ご自分がどれ程愛する者の裏切りに心を痛め、悲しく思っているかを伝えたものと考えられます。イエス様は、どこまでもユダがご自身の愛を受けとめ、悔い改めることを願っておられたのです。やがて弟子たちは、愚かで高慢な自分たちも、裏切りを実行したユダも、イエス様の愛を残ることなく注がれていた者であることを知り、キリストへの信頼をさらに深めることとなります。
 こうして読み終えた今日の箇所。私たち二つのことを確認しておきたいと思います。ひとつ目は、この時、洗足の霊的な意味が分からなかった弟子たちが、やがて十字架の死によって自分たちの罪が洗われたと信じるなら、神様からきよい者と認められ、決してさばかれることはないと言う福音を伝えるようになったということです。
皆様は、この福音を信じているでしょうか。私たちは地上にある間罪を犯し続けますが、キリストの十字架の死はどんなひどい罪をも赦し、私たちの心をきよめる力があることを経験しているでしょうか。もし、赦される必要のある罪は自分にはないと考え、十字架の恵みを拒むなら、これほど神様を悲しませることはないと覚えたいのです。日々罪を悔い改め、十字架の恵みを受け取る歩みを進めてゆきたいと思います。
二つ目は、しもべとして人に仕える生き方に取り組むということです。皆様は、これが人として最も幸いな生き方であるとイエス様が言われ、自ら足を洗い、模範を示された姿を心に刻むことができたでしょうか。
 家庭において、夫は妻に、妻は夫に仕える。親は子に、兄は弟に仕える。職場では、上司は部下に仕える。教会では兄弟姉妹互いに仕えあう。相手が仕えてくれるのを待つのではなく、相手がどうであろうと自ら進んでしもべとなる。
 これは、私たちの信仰が本当に試される生き方、私たちの限界を思い知らされ、自我に死ぬと言う意味において苦しい生き方でもあります。しかし、イエス様に倣う生き方を実践する者には祝福があることを覚えたいのです。今日の聖句です。

 Ⅰヨハネ3:18,19「子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。それによって、私たちは、自分が真理に属するものであることを知り、そして、神の御前に心を安らかにされるのです。」

 愛する思いも力もない自分を徹底的に知る中で、心から真理であるイエス様に頼り、イエス様の愛の中を歩む。そうした歩みを続ける内に、どんな状況にあっても、イエス・キリストの者であることを喜び、神様からの平安を心に頂いて生きられるようになる。私たち皆がこの様な祝福を味わえたらと思います。