人間の本性は、危機的状況に立たされた時現れると言われます。その際、私たちから滲み出てくるものは一体何でしょうか。人々へ感謝でしょうか。愛でしょうか。それとも自分のことを理解し認めてくれない人々への不平や批判でしょうか。大変な試練に直面したり、大きな仕事や責任を委ねられると、つい取り乱したり、余裕を失って自分のことしか考えられなくなる私たち。それを思うと、当時最も残酷で、屈辱的な死に方とされた十字架の死を間近に見つめながら、弟子たちのため愛を残るところなく、終わりの時まで現されたイエス・キリストの生き方は驚きとしか言い様がありません。
先回からヨハネの福音書の後半に入りました。特に13章から16章は、イエス様が弟子たちと別れるに当たり、今後彼らが新しい歩みを進められるようにと願い語られた言葉が記されるところで、惜別説教と呼ばれています。また、ここは、その頃ユダヤで最も重要な祭りであった過越しの祭りの食事、ダビンチが描いて有名になった所謂最後の晩餐の場面であることを心に留め、読み進めてゆきたいところです。
さて、先回、弟子たちのため当時奴隷の仕事とされた洗足を為し、愛するとは仕えることと自ら模範を示し、教えられたイエス様ですが、今日の箇所では、その愛を喜ばないただ一人の弟子ユダを残るところなく愛された姿が描かれます。
13:21 イエスは、これらのことを話されたとき、霊の激動を感じ、あかしして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ります。」
「霊の激動を感じ」は、ユダに対するイエス様の思いを表すことば。イエス様の心は鉄でも石でもなく、欲に駆られて裏切りの道を一直線に進むユダのことに深く心を痛め、悲しんでおられた、と言うのです。それでは、ユダがイエス様を裏切ろうとする思いを抱くようになったのは、いつのことだったのでしょうか。それは一週間前のこと。ベタニヤ村にあるシモンと言う弟子の家で起こった事件からだったようです。
その日、和やかな晩餐の席が一瞬にして重苦しい雰囲気に包まれたのは、マリヤが非常に高価な香油の壺をもってきて、中身のすべてをイエス様の体に注ぎかけた時のことです。「なぜ、この香油を三百デナリに売って、貧しい人々に施さなかったのか。」と、ユダが激しくこれを非難しました。一デナリは労働者一日分の賃金。およそ一人の男性の一年分の収入に相当する金額が一瞬にして使われたことを責めるユダ。それに対し、何も答えられず座り込んだままのマリヤ。やがて、マリヤを救うため、「そのままにしておきなさい。マリヤはわたしの葬りの日のために、それを取っておこうとしていたのです。」とイエス様が語られた場面です。
実際、どこまでマリヤがイエス様の葬り、つまり死を意識していたのかわかりませんが、イエス様に対する感謝と献身の思いを精一杯表したいという思いがあったことはよく分かります。それを受けとめたイエス様は、ユダの厳しい非難から彼女を守り、その感謝と献身を受け入れ、ご自身の十字架の死への準備という、さらに豊かな意味付けを与え、褒めてくださったとのでしょう。
イエス様の愛、とくに弟ラザロを墓からよみがえらせてくださったイエス様の愛を知ったマリヤは、感謝の思いを込めて香油をささげ尽くしました。それに対して、注がれた香油は300gで300デナリと、その量と金銭的価値を見つめていたのがユダと男の弟子でした。特に、ユダの場合は、弟子団の財布を預かる会計係でありながら、それを着服する盗人であったので、「勿体ない」との思いが強く、イの一番に声を上げたのかもしれません。
300gの香油が幾らであろうと、それはマリヤのささげものであって、ユダのものではありませんし、ユダが損をしたわけでもない。しかし、金銭に執着する心が一際強い盗人ユダは、まるで自分が損をしたような気持になったのでしょうか。
そこに、ユダヤ教指導者たちがイエス様の命を狙っているとの噂を耳にし、情報を提供すれば幾らかの金になるのではないかと、ユダは考えたらしいのです。マルコの福音書は、この出来事の後の行動について、次のように書いていました。
14:10、11 ところで、イスカリオテ・ユダは、十二弟子のひとりであるが、イエスを売ろうとして祭司長たちのところへ出向いて行った。彼らはこれを聞いて喜んで、金をやろうと約束した。そこでユダは、どうしたら、うまいぐあいにイエスを引き渡せるかと、ねらっていた。
殺害を計画したものの、民衆に絶大な人気を誇るイエス様を密かに逮捕する方法がなく、悩んでいた宗教指導者たちにとって、ユダの行動は飛んで火にいる夏の虫。両者の思いが一致して、キリスト殺害は俄然現実味を帯びてきたのです。そして、ユダの思いをご存じであったイエス様は、罪の悔い改めに導こうと、この最後の晩餐の席で再三ユダに向かい語りかけておられました。他の弟子には知られないように、直接的ではなく間接的にという配慮をもってです。しかし、それが通じないと見るや否や、さらにユダに語るべく、衝撃の一言を口にされました。
13:21、22 イエスは、これらのことを話されたとき、霊の激動を感じ、あかしして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ります。」弟子たちは、だれのことを言われたのか、わからずに当惑して、互いに顔を見合わせていた。
ショックを受けた弟子たちはお互いに顔を見合わせるばかり。しかし、こうした時、じっとしてはいられないタイプの人ペテロは、イエス様の右側、最も近くにいた仲良しのヨハネに「誰のことか聞いてみてくれ」と、目で合図を送ります。恐らく、ペテロは遠い席におり、率直なペテロもさすがに大声を出すことを憚ったと考えられます。
13:23、24 弟子のひとりで、イエスが愛しておられた者が、イエスの右側で席に着いていた。そこで、シモン・ペテロが彼に合図をして言った。「だれのことを言っておられるのか、知らせなさい。」
イエスが愛しておられた者とは、この福音書を書いたヨハネ自身を指し、イエス様とヨハネが特別に親しい関係にあったと考えられる表現です。このヨハネの問いに答え、イエス様はある行動に出られました。
13:26~30 イエスは答えられた。「それはわたしがパン切れを浸して与える者です。」それからイエスは、パン切れを浸し、取って、イスカリオテ・シモンの子ユダにお与えになった。彼がパン切れを受けると、そのとき、サタンが彼にはいった。そこで、イエスは彼に言われた。「あなたがしようとしていることを、今すぐしなさい。」席に着いている者で、イエスが何のためにユダにそう言われたのか知っている者は、だれもなかった。ユダが金入れを持っていたので、イエスが彼に、「祭りのために入用の物を買え。」と言われたのだとか、または、貧しい人々に何か施しをするように言われたのだとか思った者も中にはいた。ユダは、パン切れを受けるとすぐ、外に出て行った。すでに夜であった。
パン切れをぶどう酒に浸して与えると言うのは、家の主が大切なお客様に対して心からの敬意と親しみを込めて為すおもてなしです。イエス様は、ユダが裏切りの決意を抱き、何食わぬ顔で席に連なっているのを知りながら、どこまでもご自分にとって大切な存在であることを示したいと思い、自ら親しくパンをお与えになりました。
しかし、ユダの心がサタンの誘惑に占領されていることを知ると、今度は「あなたがしようとしていることを、今すぐしなさい」と告げられたと言うのです。このことばの意味はユダだけが理解できるものでした。ですから、他の弟子たちが不思議に思い、イエス様が祭りのために必要な買い物を命じたのだとか、貧しい人々に施しをするように言われたのでは等、様々に憶測した様子を、ヨハネは記しています。
何故、イエス様がここで「あなたがしようとしていることを、今すぐしなさい」とユダに言われたのか。非常に難しい所です。個人的には、ユダに裏切りを促したとかユダを見放したという考えにはくみしません。それよりも、イエス様はユダが隠していた悪しき思いをよくよく知りながら、「その様なあなたでも、いやその様なあなただからこそ、心から足を洗い、パンを分け与えるほどに、わたしはあなたを愛している」、そう伝えたかったと考えたいところです。
公然と非難され、責められても仕方のないことをしていたユダ。イエス様ならそれをする権利がありましたのに、むしろ、悲惨な道を行こうとしているユダに心を痛め、何とか間違った道から引き返して欲しいと願う愛の心が伺われます。しかし、徹底的に仕える愛もユダには通じずでした。パン切れを受け取ると、外の暗闇に消えて行ったユダ。その後姿を見つめるイエス様の心は、どれ程悲しくあったことかと思わされます。
他方、ユダが出て行ったことにより、自らの死が近づいたことを覚えたイエス様は、十字架の死とその後の昇天が、神の栄光を表す重要な意味があることを弟子たちが憶えているようにと、念を押します。
13:31、32 ユダが出て行ったとき、イエスは言われた。「今こそ人の子は栄光を受けました。また、神は人の子によって栄光をお受けになりました。神が、人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も、ご自身によって人の子に栄光をお与えになります。しかも、ただちにお与えになります。
「今こそ人の子は栄光を受けました」「神は人の子によって栄光をお受けになりました」の栄光は、十字架の死によって、イエス・キリストが人類の罪を贖い、神様の栄光、神様の無限の愛を表したことを指します。また、「神も、ご自身によって人の子に栄光をお与えになります。しかも、ただちにお与えになります」の栄光は、父なる神様がイエス・キリストを復活、昇天させたことを指し、イエス様の生涯が神様のみこころにかなった正しいものであることの証明と言う意味があります。こうして、やがて彼らが十字架の死と昇天という出来事に直面しても、落胆しないように、むしろその意味を理解して新しい歩みへと進んでゆけるように、準備されたのです。そして、いよいよ死を前にしたイエス様最大のメッセージが告げられます。
13:33~35 子どもたちよ。わたしはいましばらくの間、あなたがたといっしょにいます。あなたがたはわたしを捜すでしょう。そして、『わたしが行く所へは、あなたがたは来ることができない。』とわたしがユダヤ人たちに言ったように、今はあなたがたにも言うのです。あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」
「子どもたちよ」と言う優しい呼びかけは、親が死の別れに際し可愛い子どもたちのために語る遺言を思い起こさせます。このイエス様の遺言、新しい戒めについてはこの後取り上げることにして、最後に今日の箇所で私たちが憶えるべき二つのことのうち、ひとつめのポイントを確認しておきたいと思います。
それは、ユダの罪の悲惨さということです。ユダの罪と言うと、普通弟子グループのお金を盗んでいたこと、欲に惹かれてイエス様を金銭で売り渡したことがあげられます。盗み、金銭欲、裏切りと言う道徳的罪です。しかし、そうした罪の奥に、ユダの本当の問題、根本的な罪があることを、今日の箇所は教えているのではないでしょうか。
ユダは、自分の目の前にいるイエス・キリストがどのようなお方であるか、全く気がついていなかったように見えます。イエス・キリストが、自分の歩み、自分の思い、そのすべてを他の誰よりも深く、誠実に、完全に知っておられ、その上で心から自分を愛しておられる神であることを最後の最後まで知らなかったのではないかと思えます。
すでにキリストを裏切り、引き渡す策略を心に抱きながら、あたかも、それが知られていないかのように同席し、キリストの愛の語りかけ、愛の奉仕に心閉ざしたままでいたユダ。最も悲惨な罪とは、私たちの罪や汚れ、悪しき思いや欠点、それらすべてを知ったうえで、どこまでも愛を以て仕えてくださる神様の存在に気がつかない事と覚えたいのです。
果たして、皆様はこの様な人格的な神様を知っているでしょうか。この神様の前に立ち自分の歩みを振り返る時、神様からの愛の語りかけを聞く時間を取っているでしょうか。私たちのすべてを知っておられる神様の前を歩む者でありたいと思います。
ふたつめは、新しい戒めです。「わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」隣人愛については既に旧約聖書でも教えられていました。ですから、イエス様が言われる新しい戒めの新しさは、「わたしがあなたがたを愛したように」という点にあります。
イエス様は、「誰が一番偉いか」を論じ合う、自我の塊のような弟子たちの足を洗われました。しもべとなって人に仕える愛です。裏切りの思いを抱くユダに語りかけ、大切なお客様のように仕えました。人を赦し、人に仕える愛です。
どちらも実行すること、実行し続けるのが難しいことです。悲しいことですが、些細なすれ違いや誤解などをきっかけに、私たちの愛はすぐに冷めてしまいます。自分が軽んじられていると感じたり、自分の考えが重んじられていないと思うと、私たちの心はその人から離れ、心を向けることも、仕えることも嫌になります。人を赦せない口実を考えて自分を正当化したり、人の欠点を非難することは得意ですが、赦し、仕えることには否定的、消極的なのです。
しかし、今日の箇所でイエス・キリストが弟子たちに示された愛は、私たちにとって愛の力の源、学ぶべき模範ではないでしょうか。私たちは家族に、身近な方々に福音を伝えたいと思います。しかし、それがなかなか叶わないのは、もしかすると私たちの歩みが、新しい戒めから離れてしまっているからかもしれません。福音は語られるべきものですが、私たちの具体的な愛のあかし、実践と共に伝えられるものです。新しい戒めに生きるよう招かれていることを、日々自覚する者でありたいと思います。
Ⅰヨハネ3:23 神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。