このようなテーマで想像し、意見交換をするのは楽しいもの。色々な人と話してみたいところですが、実際にどの時代、どの地域で生活するかは、自分では殆ど選べません。時代は選ぶことは出来ず、生活する地域も自分の願い以外の条件で決まることが多いものです。(世界のどこでも自分の願う場所で生活出来るという人は、いたとしても極僅かでしょう。)
それでは、なぜ私は、この時代、この地域で生きているのでしょうか。クリスチャンの答え、聖書の答えは明確です。神様が私たちに取り組むべき使命を与え、命を与えて下さっているから。他の時代、他の地域ではない。今、この場所で私が生きているのには、神様が私に与えている使命を果たすため。その確信のもとに生きるのが、クリスチャンの生き方でした。
そうだとすれば、神を信じる者、聖書の教えに従って生きる者、私たちクリスチャンは、神様が私に願われていることは何か。私に与えている使命は何か。考えながら日々を生きる者と言えます。いかがでしょうか。そのように、神様との関係の中で、自分の生き方、自分の使命を確認して、毎日過ごしているでしょうか。
朝起きて、自分の立てたスケジュールを必死にこなして、クタクタになって寝るという毎日を繰り返すことのないように。祈りと聖書を通して、神様が私に願われていることを考えながら、毎日を過ごす者でありたいと思います。
私の説教の際、断続的に取り組んでいます一書説教。(聖書の一つの書を丸ごと扱い説教するもの)。今日は十七回目。旧約聖書、第十七の巻、エステル記となります。神様が自分に願っていることは何か。真剣に考え、それに取り組む一人の女性に焦点が当てられる書。神様に与えられた使命を果たすことが、どれほど祝福の道なのか、確認したいと思います。
毎回のことですが、一書説教の際には、扱われた書を読むことをお勧めいたします。一書説教が進むにつれて、教会の皆で聖書を読み進めていくという恵みにあずかりたいと願っています。
このエステル記は、第十五の巻、エズラ記に記された時代と重なります。覚えていますでしょうか。神様を信じる者、神の民として歩んできた者たち、南ユダの者たち、ユダヤ人は、バビロンに敗北し、奴隷として連れていかれました。バビロン捕囚です。ところが、バビロンがペルシャに敗北し、ペルシャの政策により、ある者たちはもとの場所に帰ることが出来た。バビロン捕囚からの帰還です。イスラエル地方に最初に帰って、神殿再建を為したのが、ゾロバベル、祭司ヨシュアたちでした。これがエズラ記の前半に記されていたことです。エズラ記の後半は、神殿再建から約六十年経った後の学者エズラの活躍が記されていました。ネヘミヤ記(第十六の巻)も、このエズラ記の後半の時代、イスラエル地方で何があったのか記されていたものです。
今日読むエステル記は、エズラ記の前半と後半の間、約六十年の間に、イスラエル地方に帰還しなかった者たち、つまりペルシャの中心地で起こったことが記されたものです。バビロン捕囚から帰還して神殿を再建した者たちがいた。一方、バビロン(ペルシャ)に残った者たちは、どのようなことがあったのか。それがエステル記です。全十章の短い書ですが、概観したいと思います。
まずは一章。エステル記の背景が記されます。
エステル記1章1節~3節
「アハシュエロスの時代のこと――このアハシュエロスは、ホドからクシュまで百二十七州を治めていた。――アハシュエロス王がシュシャンの城で、王座に着いていたころ、その治世の第三年に、彼はすべての首長と家臣たちのために宴会を催した。それにはペルシヤとメディヤの有力者、貴族たちおよび諸州の首長たちが出席した。」
アハシュエロスの時代のこと。この王は、世界史ではクセルクセスという名で有名です。ペルシャが非常に強い力をもっていた時代。ホドからクシュまで。インドからエチオピアまでと、非常に広範囲を治めた王。歴史を見渡す時、様々な権力者を挙げることが出来ますが、その中でも特に大きな権力を持っていた人物。エステル記は、このアハシュエロスの第三年目のことから始まります。
この時、アハシュエロスは大宴会を催しました。何故か。聖書には明確な理由が記されていませんが、この時ギリシャと戦争状態にあり、この宴会は戦闘前の景気付け、決起集会のような意味があったと思われます。
この宴会で一つの事件が起こります。王妃ワシュティの美しさを人々に見せたいと思い、宴会に出てくるように王が命じるも、王妃自身はそれを拒んだというのです。この王妃の態度に激怒したアハシュエロスは、ワシュティを王妃の立場から退け、新たな王妃を捜すことになりました。
続けて二章。この書の名にもなっているエステルと、養父モルデカイの登場です。
エステル記2章7節
「モルデカイはおじの娘ハダサ、すなわち、エステルを養育していた。彼女には父も母もいなかったからである。このおとめは、姿も顔だちも美しかった。彼女の父と母が死んだとき、モルデカイは彼女を引き取って自分の娘としたのである。」
ペルシャ名でエステル。星という意味。星子さん。ユダヤ名はハダサ。ミルトスという木の名前。花子さん。このエステルは、姿も顔だちも美しかったといいます。そして、この時、この場所で、姿も顔立ちも美しいというのは、例の王妃選びの対象になるということです。
一般的に言って、王妃選びの対象となるというのは、名誉なこと、喜ばしいことです。しかし、アハシュエロスが為した王妃選びはひどいものでした。
エステル記2章12節~14節
「おとめたちは、婦人の規則に従って、十二か月の期間が終わって後、ひとりずつ順番にアハシュエロス王のところに、はいって行くことになっていた。これは、準備の期間が、六か月は没薬の油で、次の六か月は香料と婦人の化粧に必要な品々で化粧することで終わることになっていたからである。このようにして、おとめが王のところにはいって行くとき、おとめの願うものはみな与えられ、それを持って婦人部屋から王宮に行くことができた。おとめは夕方はいって行き、朝になると、ほかの婦人部屋に帰っていた。そこは、そばめたちの監督官である王の宦官シャアシュガズの管理のもとにあった。そこの女は、王の気に入り、指名されるのでなければ、二度と王のところには行けなかった。」
美しいと評判の者たちはシュシャンの城に集められ、一年かけて準備がなされ、一晩王と過ごす。もし王の気に入り、指名されることがなければ、二度と王のもとには行けない。王妃選びと言えば聞こえが良いですが、権力者による公の暴行、凌辱行為。罪ある者が強力な権力者となると、ひどいことが起こる実例の一つです。
この王妃選びの結果、王妃にはエステルが選ばれました。王から寵愛を受けたエステルですが、王に会う前、監督者からも好意を得ていました。外見だけでなく、優れた内面の持ち主。会う人に好意を持たれる。神様に祝福された者の一つの特徴と見ることも出来ます。
エステルが王妃に選ばれた。淡々と記されていますが、ここに至るエステルの思い、養父モルデカイの思いを想像しながら読み進めたいところです。なお、この二章の終わりには、モルデカイが王の暗殺計画を事前に察知し食い止めたことが記録されていますが、後々重要な意味を持つことになります。
そして三章。見事なまでの悪人、ハマンの登場です。王より認められた重臣ハマン。権力を得た結果、虚栄心の怪物のようになった人物。王より、ハマンが通る際には、王の家来はひざまずくようにとの命令が出ていました。いかに高い評価と信頼を得ていたのかが分かります。
このハマンに対してひざをかがめ、ひれ伏すようにとの命令を、あのモルデカイは実行しませんでした。この世界をつくられた神様以外を礼拝しない信仰を持っていたモルデカイにとり、この命令は受け入れられないものでした。神の民として当然と見るか。相当の決意と覚悟をもって反抗した、信仰熱心なモルデカイと見るか。
ハマンは、自分にひれ伏さないモルデカイに対して激怒し、またその理由が信仰心にあると考え、モルデカイだけではない、ユダヤ人を全滅させようと考えます。王に対して、「ある民族が王の法令を守っていない。このままにしておくと、王のためにならない。」と言って、ユダヤ人を全て殺して家財を奪うようにとの法令を作ります。一人の虚栄心が、一民族を滅ぼす計画へとつながる。ひどい話です。それにしても、あまりにハマンの思惑通りに事が進みます。アハシュエロス王はあまりに無能ではないかと思えるところ。何にしろ、この法令はくじにより、約一年後に効力を発揮するものとして発行されました。
続く四章。ハマンの発行した法令により大混乱が起こる中、モルデカイは着物を裂き、荒布をまといます。モルデカイの様子を聞いたエステルは、何事かと思い問い合わせたところ、事の経緯を知ることになる。モルデカイは、あなたは王妃なのだから、王に頼んで、ユダヤ人全体の窮地を助けてもらうようにしなさいと勧めるのですが、一つ問題がありました。王に呼ばれていない者が、自ら王のところに行くのは禁じられた行為。王が助けようと意思を示さない限り、死刑になる。そして、王妃であるエステルも、この三十日間、王に会っていませんでした。王の愛情は別な者へと向けられた恐れがある。この状態でエステルが王のもとに行くというのは、大きな危険を伴うもの。エステル自身、死を覚悟しないと行けない状況。それでも、モルデカイはエステルに王のもとへ行くようにと勧め、エステルは決心するという場面。
是非読んで頂きたい場面。エステル記のクライマックス。非常に印象的な場面です。後ほど、もう少し詳しく扱います。
そして五章。王のもとに行くエステル。死を覚悟して臨んだエステルでしたが、王の好意を得て、死を免れただけでなく、「何がほしいのか、王国の半分でもやれるのだが。」と言われます。あの心配は何だったのかと思う程、継続して王の寵愛を受けているエステルでした。(とはいえ、この王の言葉は真に受けるものではなく、それでも慎ましくするのか試された言葉と考えることも出来ます。)王の言葉に対してエステルは、ここで問題の本質を話さずに、宴会を催すので、王とハマンと来て欲しいと願います。さらに宴会の席上で、王に何を願うのかと聞かれたエステルは、明日、またハマンとともに宴会に来て欲しいと言うのです。
なぜ、エステルはすぐに王に願わなかったのでしょうか。なぜ、一日置いたのでしょうか。エステルにどのような意図があったのか。言いづらい雰囲気でもあったのか。なぜ、一日あけたのか、聖書にその理由が記されていません。しかし、結果から見ると、この一日待ったことに意味があったのです。
それが六章です。エステルが催した宴会の日の夜、王は眠れず、家来に、ペルシャ王国の記録の書を読ませます。すると、モルデカイが暗殺計画を食い止めた記録(二章に記されいた出来事)が出てくるも、まだ褒章を与えていないことが分かりました。この時、もう明け方になっていたのか。ハマンが王のもとに来ます。王はハマンに対して、褒章すべき者には、どのようにしたら良いかと問うと、聞かれたハマンは自分こそが褒章を受ける者だと勘違いをし、思いつく限りのことを上申します。その結果、モルデカイは高い地位を手にします。
七章は、遂に二回目のエステルの宴会です。ここに来て、エステルは本当に願いたいことを王に伝える。この時になって、エステルがユダヤ人であることを知ったハマンは、この事態に恐怖します。慌ててエステルに命乞いをするハマンですが、その姿を見たアハシュエロスは、ハマンがエステルに暴行を加えようとしていると思い、すぐさま、ハマンの処刑がなされます。あっという間の失墜劇。一気に滑り落ちたハマンです。
八章から終わりの十章までは展開が早くなります。ハマン亡き後、その地位にはモルデカイが就くことになります。なぜ、モルデカイが選ばれたのか。簡単です。六章に記された出来事に由来しているのです。それはつまり、エステルが一日目の宴会で王に真意を伝えていたら、ハマン亡き後のハマンの地位はモルデカイではなかったということです。あの時、何故か一日待ったということが、このような結論に繋がるのです。
問題のハマンの立てた法令ですが、一度立てた法令は変えることが出来ないとされ、それならばと新たな法令を立てることで対応します。新たに立てられた法令は、ユダヤ人はもし自分たちを襲う者がいたら、結束して立ち向かっても良い。相手の家財を奪うのも良いとされました。ユダヤ人を襲っても良いという法令に対して、ユダヤ人は襲ってくる者たちに反撃しても良いという法令では、対策として弱いのではないかと感じますが、新たな法令が出されたことで王はユダヤ人を助ける側にいることが分かり、ユダヤ人に抵抗する者はいなくなったと記されています。
こうして神の民、ユダヤ人に起きた危機が回避された記録がエステル記です。この一連の出来事を記念して、プリムの祭りが定められますが、これ以降、現在にいたるまでユダヤ人は喜びの祭りとして、プリムの祭りを行っています。
以上、エステル記の概観でした。興味深いことに、エステル記の中には、神様の名前が一度も出てきません。それにもかかわらず、神様の導きと配慮に満ち溢れている書。ある人は、「神の名まえがすかし模様のように織り込まれている」書と表現します。概観してみて感じるのは、エステル記に記されているのは、細々としたことまで、それこそ王が夜になかなか寝られなかったことまで、神様の計画の伏線であったということ。私たちは、神様が世界を支配しておられると告白しますが、神様の支配とは、ここまでのものなのかと驚きます。
是非とも、エステル記を読み、私たちの神様がどのようなお方で、その方の前で私たちはどのように生きるべきなのか、味わって頂きたいと思います。
最後に、エステル記の一つのクライマックス、四章を確認して終わりたいと思います。
エステル記4章13節~14節
「モルデカイはエステルに返事を送って言った。『あなたはすべてのユダヤ人から離れて王宮にいるから助かるだろうと考えてはならない。もし、あなたがこのような時に沈黙を守るなら、別の所から、助けと救いがユダヤ人のために起ころう。しかしあなたも、あなたの父の家も滅びよう。あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、この時のためであるかもしれない。』」
王に頼みにいくようにとモルデカイが伝えたところ、エステルは「行くことが出来ない。勝手に行けば死刑になる可能性があり、この三十日間呼ばれてないことを思えば、その可能性が十分高い。」と答えたところ、そのエステルに言ったモルデカイの言葉です。
モルデカイは、神様が願われていることは何か。神様が与えている使命は何かを考える信仰の持ち主でした。この時代、この場所にいるのは何故なのか、神様との関係で見出そうとする人。
そしてエステルに言うのです。神様は私たち神の民を必ず助けて下さる。仮にエステルが何もしなくても、助けて下さる。その場合、使命を与えられていたあなたが、何もしなかったというのは非常に良くない。自分から王の前に行く危険よりも、神様から与えられた使命を果たさないことの方が、より危ない。よく考えなさい。あなたが王妃の立場にいるというのは、この時のためであるかもしれない。と勧めるのです。
この言葉を受けて、エステルは決心しました。
エステル4章16節
「『行って、シュシャンにいるユダヤ人をみな集め、私のために断食をしてください。三日三晩、食べたり飲んだりしないように。私も、私の侍女たちも、同じように断食をしましょう。たとい法令にそむいても私は王のところへまいります。私は、死ななければならないのでしたら、死にます。』」
モルデカイにしても、エステルにしても、私がとても励まされるのは、この時、王のもとに願い出ることは、神様が与えた使命だと断定していないことです。モルデカイは、「この時のためであるかもしれない。」と言いました。エステルも、そうかもしれないと思いながら、同時に恐れもあり、祈りの要請をし、死をも覚悟しました。
これが神様が私に与えた使命。これは必ずうまくいく。とは二人とも考えていません。当然のこと、私たちに神様のお考え全てが分かるわけではないのです。状況を見て、祈りのうちに、何をすべきなのか考える。それも謙虚のうちに取り組むのが、クリスチャンの生き方だと教えられるのです。
それでは、私に与えられている使命は何でしょうか。皆さまに与えられている使命は何でしょうか。あのエステルのように一世一代の「この時のため」もあるかもしれませんし、毎日の生活の中で「この時のため」があるかもしれません。愛すべき時、仕えるべき時、従うべき時、赦すべき時、福音を伝えるべき時。その機会を逃さないように。神様との関係の中で、謙虚のうちに、この時代、この場所で生きているのは、この使命を果たすためと考えながら生きるクリスチャンの幸いを、皆さまとともに味わいたいと思います。