2014年7月13日日曜日

ヨハネの福音書13章1節~20節 「残るところなく示された愛」

 もし、明日が人生最後の一日だとしたら、皆様は一体何をするでしょうか。自分が心から欲することを行うだろうとまでは言えても、果たして、自分が心から欲することが何かと言われると、考えてしまいます。親友に会うことか、好きな音楽を聴くことか、大好物を思う存分頬張ることか、思い出の場所に出かけることか、家族に遺言を書くことか、それとも不安で一杯で何も手につけられない状態となるのか。
紀元年30頃の春。過越しの祭りで賑わうユダヤの都エルサレム。イエス様にとって地上最後の日となる日の前夜、弟子のヨハネが感じていたのは、イエス様がご自分の者、つまり弟子たちに注がれた愛でした。イエス様が心から欲していたのは、ご自分の者を愛すること、それも残るところなく愛を示すことだったと言うのです。
先回読みました12章で、イエス様の公の活動を描く、ヨハネの福音書の前半が終了。今日の13章からは後半となります。特に13章から17章は告別説教と呼ばれ、地上に残る弟子たちを思い遣るイエス様の愛が心に迫るところです。

13:1「さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。」

過越しの祭りは、昔大国エジプトの地にあって奴隷として苦しみを受けていたイスラエルの民が、神様によって救い出されたことを記念し、毎年盛大に行われたもの。祭りでは、人々が家族毎、グループ毎に集まって、パンと葡萄酒、小羊の肉の晩餐を囲み、祈りと賛美を共に神様ささげるのが習わしでした。
この晩餐の前、「この世を去って父のみもとに行くべき自分の時」、つまり当時最も残酷な死に方と言われた十字架の死を間近に見つめたイエス様が、なお愛の人であったというのは驚きではないでしょうか。
私たちがその様な最期を前にしたら、心乱れ、自分のことしか考えられない。人のことを思い遣る余裕など全くなくなるのが普通ですのに、イエス様ときたら、ご自分のことはそっちのけ。弟子たちのこれからの歩みを心配し、思い遣ることに全力を集中されたと言うのです。イエス様は終わりの時まで、すべての愛を注いで弟子たちを愛された。その愛が今も私たちに注がれていることを覚えながら、続きを読み進めたいと思います。

13:2~4「夕食の間のことであった。悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていたが、イエスは、父が万物を自分の手に渡されたことと、ご自分が父から来て父に行くことを知られ、夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。」

イエス様を売り渡す思いを抱くユダが、この晩餐の席にいたことの意味は後ほど考えることとします。私たちは突然晩餐の席から立ち上がって、弟子たちの足を洗い始めたイエス様の姿とそれを驚き見つめる弟子たちの様子を想像したいと思います。
他の福音書を見ますと、この夜がイエス様との最後の晩餐になるなど思っても見ない弟子たちは、いつもと変わらず愚かな議論に興じていました。それは、「この中で誰が一番偉いのか」というもの。常に自分を人と比べ、少しでも自分が高い所に立ちたいと願う人間の罪をご覧になったイエス様は、ことばではなく行動によって彼らの心を変え、人としてあるべき生き方を教えようとされたのです。
当時、人々は床に体を横たえて食事を行っていましたから、立ち上がったイエス様に弟子たちの眼は釘づけだったでしょう。さらに、イエス様は上着を脱ぎ、手拭いを腰にまとい、盥に水をいれ、足を投げ出す弟子たちの前に膝まづいたというのです。
その頃、ユダヤ人の奴隷にも強要されることのなかった洗足。異邦人の奴隷がもっぱら行っていたとされる足を洗うと言う仕事。最も低い身分の者が高い立場にいる者のためにした奉仕を、イエス様が自分たちのために行い始めた。自分たちの汚れた足を両手で抱きかかえ、盥に入れ、きれいに洗ってくださる。弟子たちは驚きのあまり、声も出なかったに違いありません。しかし、一人の弟子が声をあげました。思っていることを心に秘めておけないタイプの人ペテロです。

13:6、7「こうして、イエスはシモン・ペテロのところに来られた。ペテロはイエスに言った。『主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。』イエスは答えて言われた。『わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。』」

「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。」ペテロの声は、弟子たちの思いを代弁していたでしょう。「本当なら、私があなたのためにすべきことなのに、あなたが私にしてくださるとは。」そんな驚きと戸惑いが込められています。
そんなペテロに、イエス様は「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」と答えました。汚れた弟子の足を洗うことは、イエス・キリストの十字架の死によって、彼らの罪が洗われ、きよめられることを、前もって示すと言う意味があることを、やがてペテロも理解しますが、この時はちんぷんかんぷん、全く意味が分からなかったのです。ですから、「やがてわかるなどと暢気なことを言われても」と納得のゆかないペテロは、強く固辞します。

13:8~11「ペテロはイエスに言った。『決して私の足をお洗いにならないでください。』イエスは答えられた。『もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。』シモン・ペテロは言った。『主よ。わたしの足だけでなく、手も頭も洗ってください。』イエスは彼に言われた。『水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。あなたがたはきよいのですが、みながそうではありません。』イエスはご自分を裏切る者を知っておられた。それで、『みながきよいのではない。』と言われたのである。」

やがてわかるその時を待ってはいられない、せっかちなペテロは「決して私の足をお洗いにならないでください。」と一旦は断ります。しかし、「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」と言われると、ここでイエス様との関係が切れたら、今までの苦労も水の泡と考えたのでしょうか。大慌てで「それなら、足だけでなく、手も頭もお願いします」と言い出す始末。せっかちなペテロは早合点でもあったようで、「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。」と、イエス様からたしなめられたと言う一幕です。
しかし、驚き戸惑いながらも、しもべとなって仕えてくれたイエス様の愛を喜んでいた弟子たちとは裏腹に、一人冷たい目でこれを見る弟子のことをイエス様はご存知でした。それがユダ。イエス様はその思いを知りながら、ユダに対してもしもべとなって愛を注がれたのです。こうして、十二人全員の足を洗い終えると、再び席に戻られたイエス様は、あなたがたも互いに足を洗いあえと教えます。

13:12~15「イエスは、彼らの足を洗い終わり、上着を着けて、再び席に着いて、彼らに言われた。「わたしがあなたがたに何をしたか、わかりますか。あなたがたはわたしを先生とも主とも呼んでいます。あなたがたがそう言うのはよい。わたしはそのような者だからです。それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。」

愛は相手に期待します。イエス様が勿体ぶった様子もなく、まるで当然のことであるかのように、上着を脱ぎ、弟子たちの足を洗った行いは、その霊的な意味は理解できないまでも、弟子たちの心に強い印象を残したと思われます。イエス様が彼らに模範を示されたのは、彼らの将来に期待しておられたからでした。
勿論、彼らの罪をイエス様はよく知っておられたでしょう。イエス様の前で「誰が一番偉いのか」と何度も論じ合うほど、弟子たちはプライドに縛られ、競い合うことに縛られていた彼らの愚かさを知っておられたのです。人のために喜んで仕えるイエス様の謙遜、しもべの心はまだ芽も出ていませんでした。
しかし、弟子たちの高慢の罪と愚かな行いをことばで責めるのではなく、やがてイエス様のように、しもべとして人に喜んで仕える人生を彼らが歩むことを期待して、自ら模範となられた。これが、イエス様の示された愛なのです。さらに、励ましの言葉が続きます。

13:16,17「まことに、まことに、あなたがたに告げます。しもべはその主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさるものではありません。あなたがたがこれらのことを知っているのなら、それを行なうときに、あなたがたは祝福されるのです。」

しもべとなって人に仕えると言うことは口で言うほど簡単なことではありません。それを実践しようとすればするほど、恐れも感じますし、心が揺らぎます。自分が謙遜になりすぎると、相手がどんどん付け込んでくるのではと恐れることもあります。仕えても仕えても変わらない相手の態度に心が揺らぐことも、腹が立つこともあります。自らの愛の足りなさにひどく落ち込むこともあるでしょう。つまり、私たちはイエス様のように心から人に仕えることができないのです。
しかし、イエス様は「あなたがはわたしのしもべであり、遣わされた者なのだから、それでよい」と仰っているのではないかと思います。むしろ、そうした自分の罪や弱さに気がつき、イエス・キリストの十字架の愛に頼りつつ、人に仕える生き方を実行する。その様な者には祝福があると励ましてくださる優しい御声を聞きたいところです。
そして、ここに再び繰り返されるのが、イスカリオテのユダのことでした。裏切りの思いを胸に秘め、席に連なっていたユダのことを、イエス様は人一倍気にかけていたのです。

13:18~20「わたしは、あなたがた全部の者について言っているのではありません。わたしは、わたしが選んだ者を知っています。しかし聖書に『わたしのパンを食べている者が、わたしに向かってかかとを上げた。』と書いてあることは成就するのです。わたしは、そのことが起こる前に、今あなたがたに話しておきます。そのことが起こったときに、わたしがその人であることをあなたがたが信じるためです。まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしの遣わす者を受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。わたしを受け入れる者は、わたしを遣わした方を受け入れるのです。」

「あなたがたはきよいのですが、みながそうではありません。」「あなたがたは幸いなのですが、みながそうなのではありません。」イエス様は、繰り返し繰り返しユダに問いかけています。そして、三度目はユダに対する愛を表すことばを語られました。
「聖書に『わたしのパンを食べている者が、わたしに向かってかかとを上げた』と書いてあることは成就するのです。」と語られた中で、「わたしのパンを食べている者が、わたしに向かってかかとを上げた」とあるのは、旧約聖書詩篇41篇のことばです。
この詩篇は、ダビデ王が片腕と信頼し、親しい友でもあったアヒトフェルの裏切りを知った時の悲しみを歌ったもの。同じパンを食べ、分け合う程親しかったアヒトフェルが反乱軍に寝返り敵となったことを、馬が飼い主に対しかかとをあげて蹴ろうとする姿に重ねて、「わたしに向かってかかとをあげた」と表現しています。日本語で言えば、「飼い犬に手をかまれる」と言ったところでしょうか。
イエス様はこのダビデの詩を引くことで、ご自分がどれ程愛する者の裏切りに心を痛め、悲しく思っているかを伝えたものと考えられます。イエス様は、どこまでもユダがご自身の愛を受けとめ、悔い改めることを願っておられたのです。やがて弟子たちは、愚かで高慢な自分たちも、裏切りを実行したユダも、イエス様の愛を残ることなく注がれていた者であることを知り、キリストへの信頼をさらに深めることとなります。
 こうして読み終えた今日の箇所。私たち二つのことを確認しておきたいと思います。ひとつ目は、この時、洗足の霊的な意味が分からなかった弟子たちが、やがて十字架の死によって自分たちの罪が洗われたと信じるなら、神様からきよい者と認められ、決してさばかれることはないと言う福音を伝えるようになったということです。
皆様は、この福音を信じているでしょうか。私たちは地上にある間罪を犯し続けますが、キリストの十字架の死はどんなひどい罪をも赦し、私たちの心をきよめる力があることを経験しているでしょうか。もし、赦される必要のある罪は自分にはないと考え、十字架の恵みを拒むなら、これほど神様を悲しませることはないと覚えたいのです。日々罪を悔い改め、十字架の恵みを受け取る歩みを進めてゆきたいと思います。
二つ目は、しもべとして人に仕える生き方に取り組むということです。皆様は、これが人として最も幸いな生き方であるとイエス様が言われ、自ら足を洗い、模範を示された姿を心に刻むことができたでしょうか。
 家庭において、夫は妻に、妻は夫に仕える。親は子に、兄は弟に仕える。職場では、上司は部下に仕える。教会では兄弟姉妹互いに仕えあう。相手が仕えてくれるのを待つのではなく、相手がどうであろうと自ら進んでしもべとなる。
 これは、私たちの信仰が本当に試される生き方、私たちの限界を思い知らされ、自我に死ぬと言う意味において苦しい生き方でもあります。しかし、イエス様に倣う生き方を実践する者には祝福があることを覚えたいのです。今日の聖句です。

 Ⅰヨハネ3:18,19「子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。それによって、私たちは、自分が真理に属するものであることを知り、そして、神の御前に心を安らかにされるのです。」

 愛する思いも力もない自分を徹底的に知る中で、心から真理であるイエス様に頼り、イエス様の愛の中を歩む。そうした歩みを続ける内に、どんな状況にあっても、イエス・キリストの者であることを喜び、神様からの平安を心に頂いて生きられるようになる。私たち皆がこの様な祝福を味わえたらと思います。