2013年7月28日日曜日

喜ぶべきこと ルカ10章17節~20節

 四日市キリスト教会では第一礼拝、第二礼拝と毎週二回の礼拝が行われています。第一礼拝の時間、お隣の「めぐみの園幼稚園」では、「めぐみチャペル」というプログラムが行われています。前半は親子でともに、賛美や聖書の話の時間。後半、子どもは工作などの時間。保護者は成人科と言いまして保護者向けの聖書の話の時間となります。
 この成人科では、私も月に一、二回聖書の話をするのですが、ここ数回、「Q&A」を行っています。「Question & Answer」「質問と答え」。保護者の方に質問を出して頂き、その質問にキリスト教の視点で答えるというものです。これまで、保護者の方に色々な質問を出して頂いたのですが、答えやすい質問もあれば、どのように答えたら良いのか悩む質問もありました。
 どのように答えたら良いか悩んだ質問の一つは、「クリスチャンになると何が変わりますか?」というものです。「クリスチャンになると何が変わるのか。」一見、答えやすい質問に感じるところ。しかし、いざ答えようとすると、意外と難しい。
 「罪が赦されます。」とか、「永遠のいのちをもらえます。」と言えれば簡単です。しかし、キリスト教をそれほど知らない方に答えるとしたら、これだけでは意味が伝われない。罪とは何か、永遠のいのちとは何かという説明が必要になります。「幸せになれます。」というのはどうでしょうか。しかし、キリスト教信仰を持つ人の幸せと、持たない人の幸せは、意味が異り、「クリスチャンになると幸せになる」とだけしか言わないと、勘違いを生みそうです。もし皆さまが「クリスチャンになると何が変わりますか?」と聞かれたら、どのように答えるでしょうか。

 キリスト教をそれほど知らない方に「クリスチャンになると何が変わるのか。」と聞かれた場合、どのように答えるのが良いのか。これだけが正解というものはなく、色々な答えがあって良いと思いますが、めぐみチャペル成人科で、私が一番お伝えしたいと思ったのは「世界観が変わります。」という答えでした。
「世界観が変わる。」これはどのような意味でしょうか。「世界観が変わる」とはどのようなことかお伝えするために、私がよく使うたとえは次のようなものです。「私と妻と子どもの三人が、一つの家に住むとします。私と妻は、子どもに対して、世界というのはこの家の中だけ。世界には人間は三人しかいないと教え込んだとします。やがて子どもが二十歳になる頃、私と妻が死にます。すると、その子はそれまで食事を作ってくれた人がいなくなる。お腹が減ってたまらない。それで、恐る恐る家から出てみるのです。すると、世界は家の中だけではない。広大な空間が広がっているのです。人間は三人ではない。七十億人以上いるのです。」この時、その子に起こっていること。世界はこの家だけ、人間は三人と思っていたのが、世界は果たしなく広く、人間も多大にいると知った。これが、世界観が変わるということです。

 クリスチャンになると世界観が変わります。どのように変わるのでしょうか。それまで人生というのは私が主人公。いかに私が喜び、私が幸せになるかが大事でした。そのための無病息災、家内安全、商売繁盛でした。
 ところが、世界を創られた方、支配されている神様を知る。自分はその神様に創られた存在だと気が付くと、大事なのは神様との関係、神様が私に何を願い、期待されているのか。本当の喜び、本当の幸せというのも、この神様抜きには考えられるものではないと思い至るのです。
 「クリスチャンになると何が変わるのか。」という問いに「世界観が変わります。」という答え。この答えに、皆さまは納得されるでしょうか。

 ところで、クリスチャンになり世界観が変わると、自分が何を喜ぶのかということにも変化が起こります。
 特に神様との関係、教会に関わる事柄で、その変化は顕著です。神などいない。自分がどう生きるのかが全てと考えていた時、礼拝や祈りは無価値、無意味なものと考えていた。ところがクリスチャンになり、世界観が変わった結果、礼拝すること、祈ること、賛美すること、ささげること、奉仕すること、伝道することの意味、意義を理解し、それが喜びとなるのです。

 長い前口上になりましたが、以上のことを踏まえて、皆さまに質問したいと思います。自分にとって喜びとは何でしょうか。特に神様との関係、教会に関わる事柄で、最近感じた喜びはどのようなものでしょうか。あの礼拝で感じた神のご臨在。祈りが聞かれた喜び。賛美をささげた感動。想像以上にささげることが出来た感謝。僅かな奉仕が大きく用いられた驚き。イエス様のことを伝えたいと思っていた友人が教会に来てくれた。あるいは、しばらくクリスチャンとしての喜びを感じていないという方もいるでしょうか。

 今日の聖書箇所は、約二千年前、イエス様の弟子たちは喜びに満たされていた場面。それも、キリストを信じる者ならではの、喜びに満たされている場面です。
 ルカ10章17節a
「さて、七十人が喜んで帰って来て、こう言った。」

 おそらくはAD29年、秋か初冬のこと。イエス様によって、町々に伝道旅行へと派遣された弟子たちが帰って来て、報告をしたという場面。
 キリストの弟子のうち、有名なのは十二人。十二弟子、使徒と呼ばれ、それぞれの名前が聖書に記されています。その十二弟子も、イエス様に派遣されて町々を伝道旅行したことが聖書に記録されています(ルカ9章)。その有名な十二弟子とは別に、七十人の弟子が選ばれ、伝道旅行へと派遣された様子が、十章の冒頭に記されていました。
 無名の弟子たち。財布も旅行も持たないで旅をするように(ルカ10章4節)。徹底的に神様に頼るようにと、丸腰での伝道旅行。その上、イエス様はこの七十人を送り出すことを「わたしがあなたがたを遣わすのは、狼の中に小羊を送り出すようなものです。」(ルカ10章3節)と言われていました。その七十名が、ついに帰ってきて報告の時となった。
 出発の時に弟子たちが感じていたであろう、心配や恐れはどこへやらで、行く先々での思ってもみなかった恵み、守りを大いに喜んでいたのです。

 ルカ10章17節
「さて、七十人が喜んで帰って来て、こう言った。『主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。』」

 良かった、良かった。イエス様聞いて下さい。あそこでは、こんなことが。ここでは、あんなことが。と、伝道の報告をする弟子たちの喜びの様。この時、伝道旅行をしたのは、無名の七十人の弟子。ですので、余計に喜びも大きかったのです。私たちのような者でも、あなたの御名によって、悪霊どもを服従させることが出来ました。興奮し、感動し、喜ぶ弟子たちの姿が目に浮かぶような場面。
 これぞ、キリストを信じる者、クリスチャンならではの喜びです。神様を宣べ伝える働きをして、想像以上の成果を挙げた。神様のために労する働きをすることが出来た。このような喜びを私たちも是非味わいたいと思います。

 このような弟子たち。自分のような者でも、神様にお役に立てた。その喜びに、興奮し感動し、目を輝かせている弟子たちの報告をイエス様は、どのような思いで聞かれたのでしょうか。
 ルカ10章18節~19節
「イエスは言われた。『わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました。確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。』」

 イエス様にとっても、この弟子たちの喜びは、嬉しかった。その弟子たちが、弟子たちならではの喜びを感じていることが、イエス様も嬉しかった。
七十人の働きは、サタンを失墜させるものであったと評価します。「蛇やさそりを踏みつけ」とは、蛇がサタンの象徴としての言葉でしょうか。(創世記3章)それとも、旅の間、蛇やさそりの害から守られたという意味でしょうか。どちらにしろ、その働きが成功するように、弟子たち自身が守られるように、神様の守りがあったのです。「あなたがたに害を加えるものは何一つない」と言われるほどの守りと導きだったのです。

 神様のために働けたことを喜ぶ弟子たち。クリスチャンならではの喜びを感じている弟子たちの姿を喜ぶイエス様。何とも麗しい場面。
 ところが、この場面はこれで終わりではありませんでした。「え?」と驚く言葉が続くのです。

 ルカ10章20節a
「だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではいけません。」

 「あれ?」と思います。神様のために労することが出来た。それが嬉しい弟子たち。その弟子たちの姿を、確かにイエス様も喜んでいたように読めるのです。弟子たちの報告を聞きながら、「わたしの目には、サタンが失墜したのが見えました」との評価。「なたたがたに害を加えるものは何一つない」と弟子たちの働きを通して神様を賛美していました。それがここにきて、「悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではいけません。」との宣言。果たして、この言葉はどのような意味なのか。キリストを信じる者が、神様のために労することが出来たことを、喜んではいけないとの教えなのでしょうか。皆さまは、この言葉をどのように受けとめるでしょうか。

 イエス様の「悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではいけません。」との言葉。これは「神様のために労することを喜んではいけない。」という意味ではないでしょう。そうではなく、それよりも、もっと喜ぶべきことがあると教えられているのです。神様のために労することよりも、もっと喜ぶべきことは何か。奉仕し用いられることの喜びや、伝道し成果をあげることよりも、もっと喜ぶべきこととは何か。

 ルカ10章20節
「だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではいけません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」

 何にも増して喜ぶようにと教えられたのは、「ただあなたがたの名が天に書き記されていること」でした。「汝らの名の天に録されたるを喜べ」と。天に名前が記される。これは聖書の様々な箇所に出てくる表現で、罪赦された者として神様に認められていること。天国へ行くことが許されていることの表現です。(出エジプト記32章、ダニエル12章など。ピリピ4章には「いのちの書」という表現も。)
 つまり、最も喜ぶべきは、罪赦されていること。救われていること。神の子とされたこと。それこそを何にも増して喜ぶように、と教えられるのです。

 「うむむ」とうなりたくなります。喜びながら、伝道旅行の成果を報告している時。私のような者でも、役に立つことが出来たと感激している時。何も、この時に言わなくても、という気もします。
 しかし、イエス様からすれば、この時だからこそ、なのでしょう。
この七十人の喜び、感激は今は良いとしても、しばらくすれば落ち着き、それはやがて自慢話となる危険があった。証とは名ばかりの、武勇伝と化ける可能性があった。この時だからこその忠告、勧告でしょうか。
あるいは、神様のために労する喜び。それは非常に貴く、良いものではあるけれども、それに集中し過ぎて、神様が私に何をして下さったのか忘れることの危険を説いた言葉かもしれません。「私が何をする」ではなく、「神様が私に何をして下さったのか。」その視点の方が、より重要であること。「何をするか」ではなく、「何をして頂いたのか」。これこそ、キリスト教であり、恵みの宗教。それを教える良い機会として、この時が選ばれたのか。

 この言葉を弟子たちはどのように受けとめたのでしょうか。「いやいやイエス様、そうは言いましても、天に名が記されているのは、昨日も今日も変わりません。しかし、伝道旅行は今、この時だけのことです。この時ぐらいは、伝道旅行が成功した喜びを最上としても良いじゃないですか。」と言ったでしょうか。それとも、「その通りです。」と頭を垂れたでしょうか。
 聖書には、このイエス様の言葉を聞いた弟子たちの姿が記されていないので、分かりません。弟子たちのことはよいとして、それでは私たちはこのイエス様の言葉をどのように受けとめるでしょうか。
 キリストを信じる者。クリスチャンとして第一に喜ぶべきことは、自分の名前が天に記されていること。最も喜ぶべきことは、自分が救われていること。自分が何をするのかよりも、神様が何をして下さったのか。それに焦点を当てるようにと言われて、私たちはどのように応じるでしょうか。

 今日は私たち皆で、自分の信仰生活を振り返りたいと思います。「天に名が記されていることがたまらなく嬉しい。」「救われたことが何よりも嬉しい。」と感じたのは、いつでしょうか。どれ位前でしょうか。これまでの信仰生活で、「あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」と言われたイエス様の言葉を、どれだけ真剣に聞いてきたでしょうか。
 私たちは一度、しっかりと神様の前で額ずいて、救われた喜びを確認する必要があります。仕事や奉仕を一度停めて、あらゆる重荷をおろして、しっかりと「汝らの名の天に録されたるを喜べ」との声に耳を傾けるべきです。奉仕マシーンとして生きるのではなく、神の子として生きるべきです。
 今日の一日の中で、どうぞ神様と向き合う時間をとって下さい。救われた喜びを確認する時間をとって下さい。「汝らの名の天に録されたるを喜べ」との声をしっかりと聞いて下さい。そして、もし自分の中に、救われた喜びがない。天に名が記されていることを喜べないと感じるならば、次の聖書の言葉を思い出して下さい。

 今日の聖句です。ヨハネの手紙第一4章13節
「神は私たちに御霊を与えてくださいました。それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります。」

 ここで言われている、「私たちが神のうちにおり、神もわたしたちのうちにおられる」ということは、天に名前が記されていることの別な表現です。つまり、救われた喜びは、聖霊なる神様によって頂くものなのです。そして、聖書は求める者には、聖霊は与えられると約束していました。(ルカ11章9節~13節)
 もし自分の中に救われた喜びがない。天に名が記されていることを喜べないとしたら、私たちは自分を鞭打ちながら、なんとかして喜べるようにするのではなく、聖霊なる神様を求めること。聖霊なる神様を通して、救われた喜びを頂くことです。

 私たち一同で、天に名が記されていることを喜ぶ。救われたことを喜ぶ。そのような、クリスチャンの歩みを送りたいと思います。

2013年7月21日日曜日

ウェルカム礼拝 ヨハネ1:14~18「ことばはひととなり」

今日はウェルカム礼拝です。自分らしく輝く、自分なりの生きがいを感じながら、喜んで生きるためには何が必要か。聖書から一緒に考えてみたいと思います。
もう十年以上前になるでしょうか。私はある方と会うため松坂に出かけました。用事が済んでの帰りがけ、相手の方が「ほんの気持ちですが、この地方の名物です。」と言われ、手土産を下さいました。
手渡された袋の重さ、松坂、名物と連想すると、私の頭の中にはある物が浮かんできたのです。「ああ、三重県に来て初めてあれが食べられるのか」と思うと、思わずいつもより深めに頭を下げてしまいました。
帰りの車の中、ある物が鍋の中でグツグツ煮えている様子を思い浮かべていた私は途中のコンビニに寄ったのです。家に電話をして、白滝や焼き豆腐を買っておくように言う積りでした。
ところが、大切な物を車の中に残しては置けないと考え、袋を手にした途端我慢できずに開いてみると、袋の中身は私が確信していたある物ではなく、赤福餅だったのです。
早合点で間違った思い込みをした自分が恥ずかしいやら、家に電話して白滝や焼き豆腐を注文する前で良かったと安心するやら。本来なら大好物の赤福が何となく味気なく感じたという、ちょっと恥ずかしい経験でした。
私たちは様々な点で間違った思い込みをします。それが食べ物についてなら笑い話で済むでしょう。しかし、もし自分がこの世界に存在する意味について間違った思い込みをしているとしたらとても悲惨なことと思われます。
人間は社会的な生き物と言われます。それは、各々にその社会の中で果たすべき役割があり、それを自覚しているということです。
社会的な生き物は人間に限りません。例えば蜂にも蜂の社会があります。しかし、蜂と人間には違いがあります。それは、人間は自分の存在意味について考えると言う点です。
蜂の社会では女王蜂は卵を産むのが専門で八年程生きます。それに対して働き蜂は巣作り、子育て、餌取りなど毎日働きに働いてわずか一ヶ月の命。それなのに、働き蜂は自分の短い生涯に何の意味があるのか等とは考えません。
しかし、人間は違うのです。山田太一さんと言うドラマ作家がいて、私はこの人の大ファンなのですが、定年退職をしたサラリーマンが主人公のテレビドラマがありました。
第一回は確かこんな場面で始まりました。主人公は息子と息子のお嫁さん、それに孫二人の五人家族。朝玄関で「お義父さん、行ってらっしゃい」とお嫁さんからカバンを手渡されると「ああ、行ってくる。」と主人公の初老の男性が玄関を出るのですが、様々な駅で降りてぶらぶら歩き回るばかりで会社には行かない。最終的には公園のベンチで居眠りを始めるのです。
何故か。実は行くべき会社がなかったのです。主人公は退職前会社から子会社で働いて欲しいと言われていたのですが、それが会社の都合でダメになった。でも、家族にはそのことを言えないまま時間が過ぎ、ちょっと見栄を張って会社に行く格好だけつけるはめになってしまったと言うわけです。
主人公の気持ち、よくわかるような気がします。今までは働いて給料をもらい家族を養うこと、社会で認められるような地位にあることを生きがいとしてきた主人公が働きの場も地位も家族を養うと言う役割も失った時、自分の存在意味は一体何かと考え、迷っているからです。
しかし、大人だけではありません。私たち人間は生まれた時から、自分の存在意味を確認しながら生きる者ではないかと思います。
小さな子どもが親に必ず尋ねることのひとつは、「お母さん、どうして私を生んだの?私がうまれてどう思った?」と言う質問だそうです。
自分の誕生が親に望まれたものであること、自分の誕生を親が喜んでいることを知って、子どもは安心できるのです。
しかし、そのように自分の存在を喜んでくれる人が回りにいなかった場合、つまり自分の存在意味を感じることができない人生がどんなに辛いものか。それを伝えてくれるのが、アンデルセンの童話「みにくいアヒルの子」です。
他のアヒルの子に比べて体が大きく、羽が灰色で、上手く泳げないというだけで、「みにくい」「のろま」と兄弟からも仲間からも除け者にされたアヒルの子、実は白鳥の子。
ある時お母さんアヒルにも「あんたなんていなくなればいいのに」と心無いことばをかけられ、すっかり自分を「みにくいアヒルの子」と思い込み、ついには「自分など生きていても仕方がない」と寂しく思うようになります。
しかし、最後に「みにくいアヒルの子」だとばかり思ってきた自分が、実は美しい姿で空を飛ぶことのできる白鳥の子だと知って幸せになるという、皆さんも良くご存知の物語です。
けれども、みにくいアヒルの子の悩みは昔の話でも、童話の世界のことでもありません。ある日の新聞にこのような青年の相談が載っていました。
「子どもの頃から思っていたことですが、最近改めて考えさせられることがあります。それは、この世の中は僕が消えても何も困らず、回って行くないのではないかということです。特に職場でそれを感じます。いくら僕が一生懸命やっても、それで職場が盛り上がっても、そしてその先で僕がやめたとしても、職場は変わることなく進み続けるんだろうなと。どんなに頑張っても、所詮僕は組織のどうでもいい一部でしかないのに、その一部として必死に頑張る自分て何なんでしょうね。」
色々なことを話してきましたが、私たちが自分らしく輝き生きるために必要なのは、自分の存在意味を知ること。そう確認できたと思います。
それでは、一般的に私たちが自分の存在意味、所謂生きがいを感じるものとは何でしょうか。財産、仕事、能力を発揮できる事、家族などをあげることができると思います。
聖書にも、財産に生きがいを見出した人の姿が、イエス・キリストのたとえ話の中に登場してきます。

ルカ12:1621「それから人々にたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作であった。そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』
しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」

すでに十分金持ちであるのに、有り余った穀物や財産を貯めこむために心を砕く男。蓄財に精を出し、満足していた男の姿。これは人事ではありません。財産と呼べる程のものを持たない私たちも、この男の境遇を羨ましいと感じるなら、同じ穴の狢、同じ仲間でしょう。
しかし、神様はこの人を愚か者と言われました。金は天下の回り物。移ろいやすい金銭、財産に生きがいを見出すなど何と愚かな生き方よと釘を指したのです。
同じ様に、仕事に自分の存在意味を求めてやまない仕事人間は、その仕事ができなくなった時どうするか。自分の存在意味を能力発揮に置く能力人間はその能力を失ったらどうするか。家族が生きがいだとするなら、家族を失った人は何を生きがいとしたらよいのか。そんなことを考えさせてくれるイエス・キリストのことばです。
一方、自分の存在には意味がないと考える人もいます。作家芥川龍之介は自分についてこう書いています。「四分の一は僕の遺伝、四分の一は僕の境遇、四分の一は僕の偶然、僕の責任は四分の一だけだ。」
遺伝に境遇に偶然。そういう人間にはどうしようもないものに支配されている自分の無力さ、そんな無力な自分が生きる意味などないと考えた芥川龍之介は自ら命を絶ちます。作家として大きな仕事をし、地位も築き、能力にも恵まれていた人が、何故自分の存在意味を見出すことができなかったのでしょうか。
聖書にも、能力にも、富にも恵まれ、王として偉大な仕事をなしたソロモン王が全く同じことを語っていました。

伝道者の書2911「私は、私より先にエルサレムに生まれた誰よりも偉大な者となった。しかも、私の知恵は私から離れなかった。私は、私の目の欲するものは何でも拒まず、心のおもむくままに、あらゆる楽しみをした。実に私の心はどんな労苦をも喜んだ。これが、私のすべての労苦による私の受ける分であった。しかし、私が手がけたあらゆる事業と、そのために私が骨折った労苦とを振り返ってみると、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。日の下には何一つ益になるものはない。」

念のために言っておきますが、ソロモンはこの世で労苦して働くこと、知恵や能力を発揮すること、仕事をすること、食事や文化を楽しむことが虚しいといっているのではありません。神様なしにそれらをすることがいかに虚しいかを、自分の経験から語っているのです。
この様に、変わりやすいものに生きがいを見出そうとすること、どんなに財産や能力に恵まれ仕事ができても、心の底から自分の存在意味を感じることができないこと。この悲惨な状態は、私たち人間が神に背き、神を無視して生きるようになった結果と聖書は教えているのです。
ですから、私たちが本当に自分の存在の意味を知りたいと思うなら、聖書を通して語りかける神様のことばを聞かなければなりません。そして、今日皆様に聞いていただきたいのは、聖書の中でも最も重要な神様のことば、私たちに対する神様の告白です。

イザヤ434a「わたしの眼にあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」

「わたし」とはこの世界を創造した神様です。この豊かで、美しく、広大な世界を創造した全能の神様が私たちを高価、何よりも大切な存在と思っておられる。太陽よりも星よりも、世界中の多種多様な生き物よりもあなたが大切だと言ってくださる。
神様を離れ、神様を無視して生きてきた私たちであるにも拘らず、心からかけがえのない存在と思っておられる。誰もあなたの代わりになる者はいない、それ程わたしはあなたを愛していると言ってくださる。
さらに神様は私たちに対する熱烈な愛を告白するだけでなく、実行してくださいました。神様が自ら人となり、私たちの背きの罪を全部背負って十字架に死んでくださった。私たちへの愛が口先でなく全身全霊、命がけの愛であることを示してくださったのです。
私には三人の子どもがいます。長男は一言うと一行うけれど後はマイペースというタイプ。長女は一言わなくても十頑張るのだけれど、そのストレス発散が結構激しいというタイプ。次男は十を言って一やるかどうか怪しい、少々無愛想だけれど人に優しいところがあるのんびりタイプ。それぞれ性格も能力も違いますが、私にとってはひとしくかけがえのない存在です。
今長男はイギリス、長女は東京、次男はベトナムに住んでいます。長男が英語が分からなくて大変だと聞くと、英語で苦労している姿が浮かんできて「頑張れ」と声をかけます。
長女が「難しい仕事が上手くいった」と聞くと、得意満面の顔が浮かんできて「あんまり無理するなよ」と言いたくなります。次男が交通事故にあったけれど大丈夫と聞くと、事故の場面が浮かんできて、「そんなこと言っていないで早く病院に行け」とノンビリ屋を急かしている自分に気がつきます。つまり、住んでいる場所は遠く離れていても、親の心にはひとりひとりの子どもがいるということです。
父親失格の私のような親の心にも子どもらが生きているとすれば、神様の心にはいつも私たちひとりひとりの存在が生きており、心砕いてくださっていることは間違いありません。その愛は人の親が子に向けるよりもはるかに深く、熱いものなのです。
この神様の愛を受け取り、喜ぶために私たちは造られ、生かされていると聖書は教えています。そしてこの神様の愛を受け取り、喜ぶとき、私たちは自分の存在が神様にとっていかに大切で、かけがえがないものかを知ることができるのです。
さて、最後に二つのことを皆様にお勧めしたいと思います。
ひとつは、神様に愛されている者として生きることです。この世界を創造した神様が世界の中では小さなチリのような私たちに向かって、「わたしはあなたを愛している」と呼びかけてくださるそのことばを、私たちは聞きました。
現在世界の人口は70億人。私たちはその中のひとりです。それでは神様の私たちへの愛も70億分の一なのでしょうか。そうではありません。神様は「わたしはあなたを愛している」と語っています。神様の全身全霊、命がけの愛が一人一人に注がれているのです。
この人格的な神様と親しく交わり、神様のことばを聞き、神様を喜ぶ者となる事、これが神様に愛されている者として生きることです。私たちは自分の努力で存在の意味を知ることができない存在です。神様に愛され、喜ばれている者であることを知って、自分の存在の意味、価値を知ることができるからです。
二つ目は神様に愛されている者として生きる時、私たちは自分らしく輝くことができるということです。
最初にも言いましたが人間は社会的な生き物です。社会には各々が役割を果たすとか、協力し合うなど大切な意味があります。しかし、問題もあります。それは私たちが自分の存在意味を人に認めてもらうために努力をしなければと思い、しばしばそれがストレスになるということです。
しかし、神様に愛されていることを知る者はそうしたストレスから解放されます。神様が十分すぎるほどに自分を愛し、認めてくださっていることを知っていますから、人に認められねばというストレスから自由になれるのです。
そして、神様の愛に応えて、自分に与えられた財産や能力、経験を用いたい、神様と人を愛するわざを行いたいと願うようになるのです。そのような思いで仕事や家族のための働き、隣人との交わりをなす時、私たちは自分らしく輝く生き方ができる。このことを確認し、今日のメッセージを閉じたいと思います。



2013年7月14日日曜日

礼拝説教 Ⅰヨハネ3:13~19「行いと真実をもって愛する~交わりの大切さ~」

 赤ちゃんが始めて口にすることば。それは「ママ、パパ」など親を示すことばが多いそうです。多くの日本人は死を前にして単に死ぬとは言いません。「ご先祖様のところに行く」と言います。生まれる時も死ぬ時も、人間にとって大切なのは人とのつながり、特に愛する人とのつながりであると考えられます。
 これは生きている間も変わらないようです。ある住宅会社が「恋人や配偶者のいる男女」に行ったアンケートによると、「あなたの人生において、最も大切なものは何ですかという質問に対し、男性の一位は「妻、恋人」、二位は「子ども」、三位が「健康」。それに対して女性の一位は「子ども」、二位に「夫、恋人」、三位は「健康」という結果でした。
 以前は仕事やお金が上位に入っていましたが、東日本大震災以後、回答の中身が随分変わってきたとも言われます。
 これらは、私たちにとって人と人とのつながり、愛し合う交わりを築くことがいかに大切なものであるかを物語っていると考えられます。
 そして、これは聖書が教えることと非常に合っていました。聖書は神様が人間を創造する時の様子をこの様に描いています。

 創世記12627「そして神は、『われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地を這うすべてのものを支配させよう。』と仰せられた。神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」

 「われわれ」とは三位一体の神様、父、子、聖霊の神を表します。他のものを造る時には、「光よ、あれ」とか「鳥は天の大空を飛べ」とただ一言命じ創造してきた神様が、人間の場合には父と子と聖霊とが互いに交わり、相談して、神のかたちに造ることを決めたという場面です。
 そして、神様の交わりとはどのようなものだったのか。聖書は語ります。

 Ⅰヨハネ416「神は愛です。・・・」

 時々教会学校の子どもが口にする質問があります。「神様って世界を造る前は何をしてたの?何にもすることがなくて暇だったの?」この質問に対する答えは、「神様は愛し合っていた」です。
 愛は愛する対象を必要とします。各々独立した自由な人格の間に愛し合う関係は成立します。「神は愛です」ということばは、父、子、聖霊の神が永遠の昔から愛し合っており、その様な神様の愛のうちにこの世界も人間も造られたことを教えているのです。
 人間が、そして人間だけが神のかたちに創造されたことの意味はいくつかありますが、少なくともひとつの意味は、三位一体の神様がそうであったように、私たちも愛し合う交わりの中に生きるために造られた者ということを覚えておきたいと思います。
 事実、最初の人アダムのために神様はエデンの園を住まいとし、様々な実のなる樹、川の流れ、金属や宝石、様々な動物や生き物など多くの贈り物を与えました。しかし、何と言っても、アダムに対する最上の贈り物は妻のエバでした。
 確かに、木の実はお腹を満たしてくれる。しかし、いくら木の実を食べても心は満ち足りない。確かに生き物もみなすばらしい。しかし、生き物とは語り合うことばがない。人間のことばで、人間の心で語り合い、喜怒哀楽を対等に分かち合える相手、助け合える友が欲しい。そう思っていたアダムに与えられたのがエバだったのです。
 エバを与えられ、愛し合う交わりの中に生きるという人間としての最高の喜びを味わったアダムの声、「これこそ、今や私の骨からの骨、私の肉からの肉」は彼にとってエバがいかに大切でかけがえのない存在であったかを感じさせ、感動的です。
 この間、NHKテレビで「クジラ対シャチ、大海原の決闘」という番組を見ました。クジラの大群がプランクトンを食べるため南の海から遥々旅をし、北のアリューシャン列島の海でシャチと戦う、その様子を捕えた貴重な映像です。
 クジラもシャチも地球上で最大級の生き物ですから、その決闘は迫力満点でした。しかし見ていて胸打たれたのは、獰猛なシャチの集団攻撃から我が子を守るため命をかけて戦う母クジラの姿です。体を傷つけられても、食いちぎられても、窒息死しそうになっても子クジラを守る母クジラ。無償の愛と見えました。
 しかし、これほど献身的な愛を示した母クジラも旅を終え、子クジラが一人前になると最早親子の交わりはなく、群れの一頭と一頭、それぞれ離れ離れの生活になるのだそうです。
 それに対して、私たち人間の親子、家族は生涯交わりを続けます。親が親としての役割を終えても子が独立しても、さらに愛し合う関係を求め続けます。人間とはまさに交わるために造られた存在であることを覚えさせられました。
 しかし、です。神様に背を向け、神様を離れた生きるようになった人間は、この愛し合う交わりを築く能力を失ってしまったと聖書は教えています。正確に言えば、人間は相変わらず交わりを求めて生きるのだけれども、その交わり方その関係が愛とは違うものによって歪められてしまったのです。
 そして、その歪んだ形の交わりはこの世はもちろん教会のうちにも見られると、先ほど読んだ箇所でヨハネは指摘していました。
歪んだ形の交わり。その特徴のひとつは自己中心の交わりという点です。

 313,15「兄弟たち。世があなたがたを憎んでも、驚いてはいけません。・・・兄弟を憎む者はみな、人殺しです。いうまでもなく、だれでも人を殺す者のうちに、永遠のいのちがとどまっていることはないのです。」
 「兄弟たち。世があなたがたを憎んでも、驚いてはいけません。」余りにも生々しいことばに驚かされますが、実はこの箇所の背景には、兄が弟を殺すという人類最初の殺人事件がありました。

 312「カインのようであってはいけません。彼は悪い者から出た者で、兄弟を殺しました。なぜ兄弟を殺したのでしょう。自分の行いは悪く、兄弟の行いは正しかったからです。」

 兄のカインは農夫で畑の作物からささげ物を持ってきて神を礼拝した。弟のアベルは羊飼い、羊の中からささげ者を携えて神を礼拝した。しかし、弟のささげものは最良のものとして神はこれを受け入れたが、兄のささげものはどうもおざなりの、かたちばかりのささげ物だったらしく、神はこれを受け入れなかった。そこで兄は弟を妬み、憎み、ついにこれを殺してしまったという有名な事件です。
 カインは自分と違った価値観、生き方をする弟アベルを妬み、受け入れることができず、これを排除しました。自分に対して何の害を与えたわけでもないのに、ただその正しい生き方が気に入らない、嫌いだ、妬ましいというだけで排除する自己中心。
 この様な自己中心はカインの子孫にも見られ、彼らは力によって人を支配し、自分のために人を徹底的に利用したことが創世記に出てきます。
 しかし、この様なカイン的心は私たちのうちにも存在しないでしょうか。自分が気に入らない人、疎ましい人を遠ざけ、気の合う人とだけ交わろうとする心。自分の意見が通らなかったり、反対されたりすると途端に機嫌が悪くなる心。自分の基準、理想どおりに行動しない人を見下し、責める心。
 神様の聖なる眼から見る時、私たちはどれだけ心の中で殺人の罪を犯していることか。このことをイエス・キリストははっきりと教えていました。

 5:2124「昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし。』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。
だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行ってまずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。」

どんな理由であれ兄弟に腹を立てる者、兄弟を能無し、ばか者と見下し、交わりから遠ざけようとする者は、みな心の中の殺人者。神のさばきに値するというイエス様のことばは痛烈でした。さらに、自分のことを恨んでいる兄弟がいるなら、きっとその人をあなたは好きではないだろうけれども、たとえ神礼拝の最中であっても自分の方から仲直りしに行きなさいとの勧めにいたっては、私たち胸を叩くことしかできないでしょう。
兄弟を憎む者はみな、人殺しです。いうまでもなく、だれでも人を殺す者のうちに、永遠のいのちがとどまっていることはないのです。」と語るヨハネの心には間違いなくこのイエス様の教えが響いていたはずです。
さて、人間が神に背いたために歪んでしまった交わり。その二つ目の特徴は愛の行いを伴わない交わりでした。

316,17「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛が分かったのです。ですから私たちは、兄弟のためにいのちを捨てるべきです。世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているのでしょう。
子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛そうではありませんか。」

私たちはイエス・キリストが私たちの罪のためにいのちをお捨てになったその愛を受け取った者、体験した者。それなのに、私たちは兄弟が困っているのを見て、あわれみの心を閉ざし、金銭や物を惜しんではいないか。ことばや口先だけの愛にとどまってはいないか。
心の思いにおいて自己中心という問題をもつ私たちは、愛を実行する、実行し続けるという点においても弱点を抱えている。これを指摘されたらグーの音も出ない、誰もが降参するしかありません。
しかし、それならこんな私たちが愛し合う交わり築くために努めることには何の意味もないのでしょうか。決してそうではないとヨハネは言います。兄弟を愛すること、全ての兄弟姉妹と愛し合うよう努めることには大きな祝福ありと励ましてくれるのです。

314「私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。それは、兄弟を愛しているからです。愛さない者は、死のうちにとどまっているのです。」

祝福の第一は、兄弟姉妹との交わりを通して、私たちは霊的な死の状態から、永遠のいのちつまり神様と交わりつつ歩む状態へと移されたことを確認、確信できるということです。
交わりのなかで、私たちは弱さや問題を抱えた兄弟姉妹がそれでも神様の助けを借りて愛を実行しようとする姿に励まされます。お互いの問題を告白し、祈り合うことで慰められます。兄弟姉妹の人生を導いておられる神様を知って喜び、感謝できます。
交わり効果というのでしょうか。信仰の仲間との交わりが深まれば深まるほど、私たちは自分が既にこの世の者ではなく、神様の者、神の子であることを確認、確信できるのです。
祝福の第二は、神様による平安です。

319「それによって、私たちは、自分が真理に属する者であることを知り、そして、神のみ前に心を安らかにされるのです。」

先程も言ったように、私たちは愛することに努めるほど自分が愛することにおいていかに無力な者であるかを覚えます。心の思いにおいて行ないにおいて、いかに神様の望まれる愛から遠いところにあるかを思い、心が痛くなります。
しかし、この様な時こそ私たちの心が神様に向い、結びつくのではないでしょうか。神様がイエス・キリストのゆえに、罪をもったままの私たちを丸ごと受け入れてくださっていること、「何度失敗しても良いから、わたしの愛を受け取り兄弟姉妹を愛せよ」と期待してくださることを覚えて、平安を得る事ができるのです。
教会は罪赦された罪人の集まりと言われます。しかし、今日の箇所を読み終えると、罪人が愛し合う喜び、愛し合う難しさを体験しながら、愛を学ぶ神様の学校ということもできるかと思います。
聖書には様々な神様の命令があります。その殆どは神様をそして人を愛することに関連しています。また、最終的に十字架に命を捨てることで愛を表されたイエス様も、様々なことばや行いで愛を示しておられます。つまり、愛するとはこういうことという簡単なマニュアルはないということです。
私たちは愛について全てを知ったので、愛を実行できる者なので、神様に救われ、教会に導かれたのではありません。むしろ、聖書、特にイエス・キリストの生涯を通して、また教会の交わりを通して、愛を学んでゆく者となるために神様に救われ、教会に導かれたことを覚えたいのです。
私たちもみなでこの様な意識に立って、愛し合う交わりを築くことに労を厭わない教会になりたく思います。