四日市キリスト教会では第一礼拝、第二礼拝と毎週二回の礼拝が行われています。第一礼拝の時間、お隣の「めぐみの園幼稚園」では、「めぐみチャペル」というプログラムが行われています。前半は親子でともに、賛美や聖書の話の時間。後半、子どもは工作などの時間。保護者は成人科と言いまして保護者向けの聖書の話の時間となります。
この成人科では、私も月に一、二回聖書の話をするのですが、ここ数回、「Q&A」を行っています。「Question
& Answer」「質問と答え」。保護者の方に質問を出して頂き、その質問にキリスト教の視点で答えるというものです。これまで、保護者の方に色々な質問を出して頂いたのですが、答えやすい質問もあれば、どのように答えたら良いのか悩む質問もありました。
どのように答えたら良いか悩んだ質問の一つは、「クリスチャンになると何が変わりますか?」というものです。「クリスチャンになると何が変わるのか。」一見、答えやすい質問に感じるところ。しかし、いざ答えようとすると、意外と難しい。
「罪が赦されます。」とか、「永遠のいのちをもらえます。」と言えれば簡単です。しかし、キリスト教をそれほど知らない方に答えるとしたら、これだけでは意味が伝われない。罪とは何か、永遠のいのちとは何かという説明が必要になります。「幸せになれます。」というのはどうでしょうか。しかし、キリスト教信仰を持つ人の幸せと、持たない人の幸せは、意味が異り、「クリスチャンになると幸せになる」とだけしか言わないと、勘違いを生みそうです。もし皆さまが「クリスチャンになると何が変わりますか?」と聞かれたら、どのように答えるでしょうか。
キリスト教をそれほど知らない方に「クリスチャンになると何が変わるのか。」と聞かれた場合、どのように答えるのが良いのか。これだけが正解というものはなく、色々な答えがあって良いと思いますが、めぐみチャペル成人科で、私が一番お伝えしたいと思ったのは「世界観が変わります。」という答えでした。
「世界観が変わる。」これはどのような意味でしょうか。「世界観が変わる」とはどのようなことかお伝えするために、私がよく使うたとえは次のようなものです。「私と妻と子どもの三人が、一つの家に住むとします。私と妻は、子どもに対して、世界というのはこの家の中だけ。世界には人間は三人しかいないと教え込んだとします。やがて子どもが二十歳になる頃、私と妻が死にます。すると、その子はそれまで食事を作ってくれた人がいなくなる。お腹が減ってたまらない。それで、恐る恐る家から出てみるのです。すると、世界は家の中だけではない。広大な空間が広がっているのです。人間は三人ではない。七十億人以上いるのです。」この時、その子に起こっていること。世界はこの家だけ、人間は三人と思っていたのが、世界は果たしなく広く、人間も多大にいると知った。これが、世界観が変わるということです。
クリスチャンになると世界観が変わります。どのように変わるのでしょうか。それまで人生というのは私が主人公。いかに私が喜び、私が幸せになるかが大事でした。そのための無病息災、家内安全、商売繁盛でした。
ところが、世界を創られた方、支配されている神様を知る。自分はその神様に創られた存在だと気が付くと、大事なのは神様との関係、神様が私に何を願い、期待されているのか。本当の喜び、本当の幸せというのも、この神様抜きには考えられるものではないと思い至るのです。
「クリスチャンになると何が変わるのか。」という問いに「世界観が変わります。」という答え。この答えに、皆さまは納得されるでしょうか。
ところで、クリスチャンになり世界観が変わると、自分が何を喜ぶのかということにも変化が起こります。
特に神様との関係、教会に関わる事柄で、その変化は顕著です。神などいない。自分がどう生きるのかが全てと考えていた時、礼拝や祈りは無価値、無意味なものと考えていた。ところがクリスチャンになり、世界観が変わった結果、礼拝すること、祈ること、賛美すること、ささげること、奉仕すること、伝道することの意味、意義を理解し、それが喜びとなるのです。
長い前口上になりましたが、以上のことを踏まえて、皆さまに質問したいと思います。自分にとって喜びとは何でしょうか。特に神様との関係、教会に関わる事柄で、最近感じた喜びはどのようなものでしょうか。あの礼拝で感じた神のご臨在。祈りが聞かれた喜び。賛美をささげた感動。想像以上にささげることが出来た感謝。僅かな奉仕が大きく用いられた驚き。イエス様のことを伝えたいと思っていた友人が教会に来てくれた。あるいは、しばらくクリスチャンとしての喜びを感じていないという方もいるでしょうか。
今日の聖書箇所は、約二千年前、イエス様の弟子たちは喜びに満たされていた場面。それも、キリストを信じる者ならではの、喜びに満たされている場面です。
ルカ10章17節a
「さて、七十人が喜んで帰って来て、こう言った。」
おそらくはAD29年、秋か初冬のこと。イエス様によって、町々に伝道旅行へと派遣された弟子たちが帰って来て、報告をしたという場面。
キリストの弟子のうち、有名なのは十二人。十二弟子、使徒と呼ばれ、それぞれの名前が聖書に記されています。その十二弟子も、イエス様に派遣されて町々を伝道旅行したことが聖書に記録されています(ルカ9章)。その有名な十二弟子とは別に、七十人の弟子が選ばれ、伝道旅行へと派遣された様子が、十章の冒頭に記されていました。
無名の弟子たち。財布も旅行も持たないで旅をするように(ルカ10章4節)。徹底的に神様に頼るようにと、丸腰での伝道旅行。その上、イエス様はこの七十人を送り出すことを「わたしがあなたがたを遣わすのは、狼の中に小羊を送り出すようなものです。」(ルカ10章3節)と言われていました。その七十名が、ついに帰ってきて報告の時となった。
出発の時に弟子たちが感じていたであろう、心配や恐れはどこへやらで、行く先々での思ってもみなかった恵み、守りを大いに喜んでいたのです。
ルカ10章17節
「さて、七十人が喜んで帰って来て、こう言った。『主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。』」
良かった、良かった。イエス様聞いて下さい。あそこでは、こんなことが。ここでは、あんなことが。と、伝道の報告をする弟子たちの喜びの様。この時、伝道旅行をしたのは、無名の七十人の弟子。ですので、余計に喜びも大きかったのです。私たちのような者でも、あなたの御名によって、悪霊どもを服従させることが出来ました。興奮し、感動し、喜ぶ弟子たちの姿が目に浮かぶような場面。
これぞ、キリストを信じる者、クリスチャンならではの喜びです。神様を宣べ伝える働きをして、想像以上の成果を挙げた。神様のために労する働きをすることが出来た。このような喜びを私たちも是非味わいたいと思います。
このような弟子たち。自分のような者でも、神様にお役に立てた。その喜びに、興奮し感動し、目を輝かせている弟子たちの報告をイエス様は、どのような思いで聞かれたのでしょうか。
ルカ10章18節~19節
「イエスは言われた。『わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました。確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。』」
イエス様にとっても、この弟子たちの喜びは、嬉しかった。その弟子たちが、弟子たちならではの喜びを感じていることが、イエス様も嬉しかった。
七十人の働きは、サタンを失墜させるものであったと評価します。「蛇やさそりを踏みつけ」とは、蛇がサタンの象徴としての言葉でしょうか。(創世記3章)それとも、旅の間、蛇やさそりの害から守られたという意味でしょうか。どちらにしろ、その働きが成功するように、弟子たち自身が守られるように、神様の守りがあったのです。「あなたがたに害を加えるものは何一つない」と言われるほどの守りと導きだったのです。
神様のために働けたことを喜ぶ弟子たち。クリスチャンならではの喜びを感じている弟子たちの姿を喜ぶイエス様。何とも麗しい場面。
ところが、この場面はこれで終わりではありませんでした。「え?」と驚く言葉が続くのです。
ルカ10章20節a
「だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではいけません。」
「あれ?」と思います。神様のために労することが出来た。それが嬉しい弟子たち。その弟子たちの姿を、確かにイエス様も喜んでいたように読めるのです。弟子たちの報告を聞きながら、「わたしの目には、サタンが失墜したのが見えました」との評価。「なたたがたに害を加えるものは何一つない」と弟子たちの働きを通して神様を賛美していました。それがここにきて、「悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではいけません。」との宣言。果たして、この言葉はどのような意味なのか。キリストを信じる者が、神様のために労することが出来たことを、喜んではいけないとの教えなのでしょうか。皆さまは、この言葉をどのように受けとめるでしょうか。
イエス様の「悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではいけません。」との言葉。これは「神様のために労することを喜んではいけない。」という意味ではないでしょう。そうではなく、それよりも、もっと喜ぶべきことがあると教えられているのです。神様のために労することよりも、もっと喜ぶべきことは何か。奉仕し用いられることの喜びや、伝道し成果をあげることよりも、もっと喜ぶべきこととは何か。
ルカ10章20節
「だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではいけません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」
何にも増して喜ぶようにと教えられたのは、「ただあなたがたの名が天に書き記されていること」でした。「汝らの名の天に録されたるを喜べ」と。天に名前が記される。これは聖書の様々な箇所に出てくる表現で、罪赦された者として神様に認められていること。天国へ行くことが許されていることの表現です。(出エジプト記32章、ダニエル12章など。ピリピ4章には「いのちの書」という表現も。)
つまり、最も喜ぶべきは、罪赦されていること。救われていること。神の子とされたこと。それこそを何にも増して喜ぶように、と教えられるのです。
「うむむ」とうなりたくなります。喜びながら、伝道旅行の成果を報告している時。私のような者でも、役に立つことが出来たと感激している時。何も、この時に言わなくても、という気もします。
しかし、イエス様からすれば、この時だからこそ、なのでしょう。
この七十人の喜び、感激は今は良いとしても、しばらくすれば落ち着き、それはやがて自慢話となる危険があった。証とは名ばかりの、武勇伝と化ける可能性があった。この時だからこその忠告、勧告でしょうか。
あるいは、神様のために労する喜び。それは非常に貴く、良いものではあるけれども、それに集中し過ぎて、神様が私に何をして下さったのか忘れることの危険を説いた言葉かもしれません。「私が何をする」ではなく、「神様が私に何をして下さったのか。」その視点の方が、より重要であること。「何をするか」ではなく、「何をして頂いたのか」。これこそ、キリスト教であり、恵みの宗教。それを教える良い機会として、この時が選ばれたのか。
この言葉を弟子たちはどのように受けとめたのでしょうか。「いやいやイエス様、そうは言いましても、天に名が記されているのは、昨日も今日も変わりません。しかし、伝道旅行は今、この時だけのことです。この時ぐらいは、伝道旅行が成功した喜びを最上としても良いじゃないですか。」と言ったでしょうか。それとも、「その通りです。」と頭を垂れたでしょうか。
聖書には、このイエス様の言葉を聞いた弟子たちの姿が記されていないので、分かりません。弟子たちのことはよいとして、それでは私たちはこのイエス様の言葉をどのように受けとめるでしょうか。
キリストを信じる者。クリスチャンとして第一に喜ぶべきことは、自分の名前が天に記されていること。最も喜ぶべきことは、自分が救われていること。自分が何をするのかよりも、神様が何をして下さったのか。それに焦点を当てるようにと言われて、私たちはどのように応じるでしょうか。
今日は私たち皆で、自分の信仰生活を振り返りたいと思います。「天に名が記されていることがたまらなく嬉しい。」「救われたことが何よりも嬉しい。」と感じたのは、いつでしょうか。どれ位前でしょうか。これまでの信仰生活で、「あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」と言われたイエス様の言葉を、どれだけ真剣に聞いてきたでしょうか。
私たちは一度、しっかりと神様の前で額ずいて、救われた喜びを確認する必要があります。仕事や奉仕を一度停めて、あらゆる重荷をおろして、しっかりと「汝らの名の天に録されたるを喜べ」との声に耳を傾けるべきです。奉仕マシーンとして生きるのではなく、神の子として生きるべきです。
今日の一日の中で、どうぞ神様と向き合う時間をとって下さい。救われた喜びを確認する時間をとって下さい。「汝らの名の天に録されたるを喜べ」との声をしっかりと聞いて下さい。そして、もし自分の中に、救われた喜びがない。天に名が記されていることを喜べないと感じるならば、次の聖書の言葉を思い出して下さい。
今日の聖句です。ヨハネの手紙第一4章13節
「神は私たちに御霊を与えてくださいました。それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります。」
ここで言われている、「私たちが神のうちにおり、神もわたしたちのうちにおられる」ということは、天に名前が記されていることの別な表現です。つまり、救われた喜びは、聖霊なる神様によって頂くものなのです。そして、聖書は求める者には、聖霊は与えられると約束していました。(ルカ11章9節~13節)
もし自分の中に救われた喜びがない。天に名が記されていることを喜べないとしたら、私たちは自分を鞭打ちながら、なんとかして喜べるようにするのではなく、聖霊なる神様を求めること。聖霊なる神様を通して、救われた喜びを頂くことです。
私たち一同で、天に名が記されていることを喜ぶ。救われたことを喜ぶ。そのような、クリスチャンの歩みを送りたいと思います。