2013年7月21日日曜日

ウェルカム礼拝 ヨハネ1:14~18「ことばはひととなり」

今日はウェルカム礼拝です。自分らしく輝く、自分なりの生きがいを感じながら、喜んで生きるためには何が必要か。聖書から一緒に考えてみたいと思います。
もう十年以上前になるでしょうか。私はある方と会うため松坂に出かけました。用事が済んでの帰りがけ、相手の方が「ほんの気持ちですが、この地方の名物です。」と言われ、手土産を下さいました。
手渡された袋の重さ、松坂、名物と連想すると、私の頭の中にはある物が浮かんできたのです。「ああ、三重県に来て初めてあれが食べられるのか」と思うと、思わずいつもより深めに頭を下げてしまいました。
帰りの車の中、ある物が鍋の中でグツグツ煮えている様子を思い浮かべていた私は途中のコンビニに寄ったのです。家に電話をして、白滝や焼き豆腐を買っておくように言う積りでした。
ところが、大切な物を車の中に残しては置けないと考え、袋を手にした途端我慢できずに開いてみると、袋の中身は私が確信していたある物ではなく、赤福餅だったのです。
早合点で間違った思い込みをした自分が恥ずかしいやら、家に電話して白滝や焼き豆腐を注文する前で良かったと安心するやら。本来なら大好物の赤福が何となく味気なく感じたという、ちょっと恥ずかしい経験でした。
私たちは様々な点で間違った思い込みをします。それが食べ物についてなら笑い話で済むでしょう。しかし、もし自分がこの世界に存在する意味について間違った思い込みをしているとしたらとても悲惨なことと思われます。
人間は社会的な生き物と言われます。それは、各々にその社会の中で果たすべき役割があり、それを自覚しているということです。
社会的な生き物は人間に限りません。例えば蜂にも蜂の社会があります。しかし、蜂と人間には違いがあります。それは、人間は自分の存在意味について考えると言う点です。
蜂の社会では女王蜂は卵を産むのが専門で八年程生きます。それに対して働き蜂は巣作り、子育て、餌取りなど毎日働きに働いてわずか一ヶ月の命。それなのに、働き蜂は自分の短い生涯に何の意味があるのか等とは考えません。
しかし、人間は違うのです。山田太一さんと言うドラマ作家がいて、私はこの人の大ファンなのですが、定年退職をしたサラリーマンが主人公のテレビドラマがありました。
第一回は確かこんな場面で始まりました。主人公は息子と息子のお嫁さん、それに孫二人の五人家族。朝玄関で「お義父さん、行ってらっしゃい」とお嫁さんからカバンを手渡されると「ああ、行ってくる。」と主人公の初老の男性が玄関を出るのですが、様々な駅で降りてぶらぶら歩き回るばかりで会社には行かない。最終的には公園のベンチで居眠りを始めるのです。
何故か。実は行くべき会社がなかったのです。主人公は退職前会社から子会社で働いて欲しいと言われていたのですが、それが会社の都合でダメになった。でも、家族にはそのことを言えないまま時間が過ぎ、ちょっと見栄を張って会社に行く格好だけつけるはめになってしまったと言うわけです。
主人公の気持ち、よくわかるような気がします。今までは働いて給料をもらい家族を養うこと、社会で認められるような地位にあることを生きがいとしてきた主人公が働きの場も地位も家族を養うと言う役割も失った時、自分の存在意味は一体何かと考え、迷っているからです。
しかし、大人だけではありません。私たち人間は生まれた時から、自分の存在意味を確認しながら生きる者ではないかと思います。
小さな子どもが親に必ず尋ねることのひとつは、「お母さん、どうして私を生んだの?私がうまれてどう思った?」と言う質問だそうです。
自分の誕生が親に望まれたものであること、自分の誕生を親が喜んでいることを知って、子どもは安心できるのです。
しかし、そのように自分の存在を喜んでくれる人が回りにいなかった場合、つまり自分の存在意味を感じることができない人生がどんなに辛いものか。それを伝えてくれるのが、アンデルセンの童話「みにくいアヒルの子」です。
他のアヒルの子に比べて体が大きく、羽が灰色で、上手く泳げないというだけで、「みにくい」「のろま」と兄弟からも仲間からも除け者にされたアヒルの子、実は白鳥の子。
ある時お母さんアヒルにも「あんたなんていなくなればいいのに」と心無いことばをかけられ、すっかり自分を「みにくいアヒルの子」と思い込み、ついには「自分など生きていても仕方がない」と寂しく思うようになります。
しかし、最後に「みにくいアヒルの子」だとばかり思ってきた自分が、実は美しい姿で空を飛ぶことのできる白鳥の子だと知って幸せになるという、皆さんも良くご存知の物語です。
けれども、みにくいアヒルの子の悩みは昔の話でも、童話の世界のことでもありません。ある日の新聞にこのような青年の相談が載っていました。
「子どもの頃から思っていたことですが、最近改めて考えさせられることがあります。それは、この世の中は僕が消えても何も困らず、回って行くないのではないかということです。特に職場でそれを感じます。いくら僕が一生懸命やっても、それで職場が盛り上がっても、そしてその先で僕がやめたとしても、職場は変わることなく進み続けるんだろうなと。どんなに頑張っても、所詮僕は組織のどうでもいい一部でしかないのに、その一部として必死に頑張る自分て何なんでしょうね。」
色々なことを話してきましたが、私たちが自分らしく輝き生きるために必要なのは、自分の存在意味を知ること。そう確認できたと思います。
それでは、一般的に私たちが自分の存在意味、所謂生きがいを感じるものとは何でしょうか。財産、仕事、能力を発揮できる事、家族などをあげることができると思います。
聖書にも、財産に生きがいを見出した人の姿が、イエス・キリストのたとえ話の中に登場してきます。

ルカ12:1621「それから人々にたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作であった。そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』
しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」

すでに十分金持ちであるのに、有り余った穀物や財産を貯めこむために心を砕く男。蓄財に精を出し、満足していた男の姿。これは人事ではありません。財産と呼べる程のものを持たない私たちも、この男の境遇を羨ましいと感じるなら、同じ穴の狢、同じ仲間でしょう。
しかし、神様はこの人を愚か者と言われました。金は天下の回り物。移ろいやすい金銭、財産に生きがいを見出すなど何と愚かな生き方よと釘を指したのです。
同じ様に、仕事に自分の存在意味を求めてやまない仕事人間は、その仕事ができなくなった時どうするか。自分の存在意味を能力発揮に置く能力人間はその能力を失ったらどうするか。家族が生きがいだとするなら、家族を失った人は何を生きがいとしたらよいのか。そんなことを考えさせてくれるイエス・キリストのことばです。
一方、自分の存在には意味がないと考える人もいます。作家芥川龍之介は自分についてこう書いています。「四分の一は僕の遺伝、四分の一は僕の境遇、四分の一は僕の偶然、僕の責任は四分の一だけだ。」
遺伝に境遇に偶然。そういう人間にはどうしようもないものに支配されている自分の無力さ、そんな無力な自分が生きる意味などないと考えた芥川龍之介は自ら命を絶ちます。作家として大きな仕事をし、地位も築き、能力にも恵まれていた人が、何故自分の存在意味を見出すことができなかったのでしょうか。
聖書にも、能力にも、富にも恵まれ、王として偉大な仕事をなしたソロモン王が全く同じことを語っていました。

伝道者の書2911「私は、私より先にエルサレムに生まれた誰よりも偉大な者となった。しかも、私の知恵は私から離れなかった。私は、私の目の欲するものは何でも拒まず、心のおもむくままに、あらゆる楽しみをした。実に私の心はどんな労苦をも喜んだ。これが、私のすべての労苦による私の受ける分であった。しかし、私が手がけたあらゆる事業と、そのために私が骨折った労苦とを振り返ってみると、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。日の下には何一つ益になるものはない。」

念のために言っておきますが、ソロモンはこの世で労苦して働くこと、知恵や能力を発揮すること、仕事をすること、食事や文化を楽しむことが虚しいといっているのではありません。神様なしにそれらをすることがいかに虚しいかを、自分の経験から語っているのです。
この様に、変わりやすいものに生きがいを見出そうとすること、どんなに財産や能力に恵まれ仕事ができても、心の底から自分の存在意味を感じることができないこと。この悲惨な状態は、私たち人間が神に背き、神を無視して生きるようになった結果と聖書は教えているのです。
ですから、私たちが本当に自分の存在の意味を知りたいと思うなら、聖書を通して語りかける神様のことばを聞かなければなりません。そして、今日皆様に聞いていただきたいのは、聖書の中でも最も重要な神様のことば、私たちに対する神様の告白です。

イザヤ434a「わたしの眼にあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」

「わたし」とはこの世界を創造した神様です。この豊かで、美しく、広大な世界を創造した全能の神様が私たちを高価、何よりも大切な存在と思っておられる。太陽よりも星よりも、世界中の多種多様な生き物よりもあなたが大切だと言ってくださる。
神様を離れ、神様を無視して生きてきた私たちであるにも拘らず、心からかけがえのない存在と思っておられる。誰もあなたの代わりになる者はいない、それ程わたしはあなたを愛していると言ってくださる。
さらに神様は私たちに対する熱烈な愛を告白するだけでなく、実行してくださいました。神様が自ら人となり、私たちの背きの罪を全部背負って十字架に死んでくださった。私たちへの愛が口先でなく全身全霊、命がけの愛であることを示してくださったのです。
私には三人の子どもがいます。長男は一言うと一行うけれど後はマイペースというタイプ。長女は一言わなくても十頑張るのだけれど、そのストレス発散が結構激しいというタイプ。次男は十を言って一やるかどうか怪しい、少々無愛想だけれど人に優しいところがあるのんびりタイプ。それぞれ性格も能力も違いますが、私にとってはひとしくかけがえのない存在です。
今長男はイギリス、長女は東京、次男はベトナムに住んでいます。長男が英語が分からなくて大変だと聞くと、英語で苦労している姿が浮かんできて「頑張れ」と声をかけます。
長女が「難しい仕事が上手くいった」と聞くと、得意満面の顔が浮かんできて「あんまり無理するなよ」と言いたくなります。次男が交通事故にあったけれど大丈夫と聞くと、事故の場面が浮かんできて、「そんなこと言っていないで早く病院に行け」とノンビリ屋を急かしている自分に気がつきます。つまり、住んでいる場所は遠く離れていても、親の心にはひとりひとりの子どもがいるということです。
父親失格の私のような親の心にも子どもらが生きているとすれば、神様の心にはいつも私たちひとりひとりの存在が生きており、心砕いてくださっていることは間違いありません。その愛は人の親が子に向けるよりもはるかに深く、熱いものなのです。
この神様の愛を受け取り、喜ぶために私たちは造られ、生かされていると聖書は教えています。そしてこの神様の愛を受け取り、喜ぶとき、私たちは自分の存在が神様にとっていかに大切で、かけがえがないものかを知ることができるのです。
さて、最後に二つのことを皆様にお勧めしたいと思います。
ひとつは、神様に愛されている者として生きることです。この世界を創造した神様が世界の中では小さなチリのような私たちに向かって、「わたしはあなたを愛している」と呼びかけてくださるそのことばを、私たちは聞きました。
現在世界の人口は70億人。私たちはその中のひとりです。それでは神様の私たちへの愛も70億分の一なのでしょうか。そうではありません。神様は「わたしはあなたを愛している」と語っています。神様の全身全霊、命がけの愛が一人一人に注がれているのです。
この人格的な神様と親しく交わり、神様のことばを聞き、神様を喜ぶ者となる事、これが神様に愛されている者として生きることです。私たちは自分の努力で存在の意味を知ることができない存在です。神様に愛され、喜ばれている者であることを知って、自分の存在の意味、価値を知ることができるからです。
二つ目は神様に愛されている者として生きる時、私たちは自分らしく輝くことができるということです。
最初にも言いましたが人間は社会的な生き物です。社会には各々が役割を果たすとか、協力し合うなど大切な意味があります。しかし、問題もあります。それは私たちが自分の存在意味を人に認めてもらうために努力をしなければと思い、しばしばそれがストレスになるということです。
しかし、神様に愛されていることを知る者はそうしたストレスから解放されます。神様が十分すぎるほどに自分を愛し、認めてくださっていることを知っていますから、人に認められねばというストレスから自由になれるのです。
そして、神様の愛に応えて、自分に与えられた財産や能力、経験を用いたい、神様と人を愛するわざを行いたいと願うようになるのです。そのような思いで仕事や家族のための働き、隣人との交わりをなす時、私たちは自分らしく輝く生き方ができる。このことを確認し、今日のメッセージを閉じたいと思います。