2013年7月14日日曜日

礼拝説教 Ⅰヨハネ3:13~19「行いと真実をもって愛する~交わりの大切さ~」

 赤ちゃんが始めて口にすることば。それは「ママ、パパ」など親を示すことばが多いそうです。多くの日本人は死を前にして単に死ぬとは言いません。「ご先祖様のところに行く」と言います。生まれる時も死ぬ時も、人間にとって大切なのは人とのつながり、特に愛する人とのつながりであると考えられます。
 これは生きている間も変わらないようです。ある住宅会社が「恋人や配偶者のいる男女」に行ったアンケートによると、「あなたの人生において、最も大切なものは何ですかという質問に対し、男性の一位は「妻、恋人」、二位は「子ども」、三位が「健康」。それに対して女性の一位は「子ども」、二位に「夫、恋人」、三位は「健康」という結果でした。
 以前は仕事やお金が上位に入っていましたが、東日本大震災以後、回答の中身が随分変わってきたとも言われます。
 これらは、私たちにとって人と人とのつながり、愛し合う交わりを築くことがいかに大切なものであるかを物語っていると考えられます。
 そして、これは聖書が教えることと非常に合っていました。聖書は神様が人間を創造する時の様子をこの様に描いています。

 創世記12627「そして神は、『われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地を這うすべてのものを支配させよう。』と仰せられた。神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」

 「われわれ」とは三位一体の神様、父、子、聖霊の神を表します。他のものを造る時には、「光よ、あれ」とか「鳥は天の大空を飛べ」とただ一言命じ創造してきた神様が、人間の場合には父と子と聖霊とが互いに交わり、相談して、神のかたちに造ることを決めたという場面です。
 そして、神様の交わりとはどのようなものだったのか。聖書は語ります。

 Ⅰヨハネ416「神は愛です。・・・」

 時々教会学校の子どもが口にする質問があります。「神様って世界を造る前は何をしてたの?何にもすることがなくて暇だったの?」この質問に対する答えは、「神様は愛し合っていた」です。
 愛は愛する対象を必要とします。各々独立した自由な人格の間に愛し合う関係は成立します。「神は愛です」ということばは、父、子、聖霊の神が永遠の昔から愛し合っており、その様な神様の愛のうちにこの世界も人間も造られたことを教えているのです。
 人間が、そして人間だけが神のかたちに創造されたことの意味はいくつかありますが、少なくともひとつの意味は、三位一体の神様がそうであったように、私たちも愛し合う交わりの中に生きるために造られた者ということを覚えておきたいと思います。
 事実、最初の人アダムのために神様はエデンの園を住まいとし、様々な実のなる樹、川の流れ、金属や宝石、様々な動物や生き物など多くの贈り物を与えました。しかし、何と言っても、アダムに対する最上の贈り物は妻のエバでした。
 確かに、木の実はお腹を満たしてくれる。しかし、いくら木の実を食べても心は満ち足りない。確かに生き物もみなすばらしい。しかし、生き物とは語り合うことばがない。人間のことばで、人間の心で語り合い、喜怒哀楽を対等に分かち合える相手、助け合える友が欲しい。そう思っていたアダムに与えられたのがエバだったのです。
 エバを与えられ、愛し合う交わりの中に生きるという人間としての最高の喜びを味わったアダムの声、「これこそ、今や私の骨からの骨、私の肉からの肉」は彼にとってエバがいかに大切でかけがえのない存在であったかを感じさせ、感動的です。
 この間、NHKテレビで「クジラ対シャチ、大海原の決闘」という番組を見ました。クジラの大群がプランクトンを食べるため南の海から遥々旅をし、北のアリューシャン列島の海でシャチと戦う、その様子を捕えた貴重な映像です。
 クジラもシャチも地球上で最大級の生き物ですから、その決闘は迫力満点でした。しかし見ていて胸打たれたのは、獰猛なシャチの集団攻撃から我が子を守るため命をかけて戦う母クジラの姿です。体を傷つけられても、食いちぎられても、窒息死しそうになっても子クジラを守る母クジラ。無償の愛と見えました。
 しかし、これほど献身的な愛を示した母クジラも旅を終え、子クジラが一人前になると最早親子の交わりはなく、群れの一頭と一頭、それぞれ離れ離れの生活になるのだそうです。
 それに対して、私たち人間の親子、家族は生涯交わりを続けます。親が親としての役割を終えても子が独立しても、さらに愛し合う関係を求め続けます。人間とはまさに交わるために造られた存在であることを覚えさせられました。
 しかし、です。神様に背を向け、神様を離れた生きるようになった人間は、この愛し合う交わりを築く能力を失ってしまったと聖書は教えています。正確に言えば、人間は相変わらず交わりを求めて生きるのだけれども、その交わり方その関係が愛とは違うものによって歪められてしまったのです。
 そして、その歪んだ形の交わりはこの世はもちろん教会のうちにも見られると、先ほど読んだ箇所でヨハネは指摘していました。
歪んだ形の交わり。その特徴のひとつは自己中心の交わりという点です。

 313,15「兄弟たち。世があなたがたを憎んでも、驚いてはいけません。・・・兄弟を憎む者はみな、人殺しです。いうまでもなく、だれでも人を殺す者のうちに、永遠のいのちがとどまっていることはないのです。」
 「兄弟たち。世があなたがたを憎んでも、驚いてはいけません。」余りにも生々しいことばに驚かされますが、実はこの箇所の背景には、兄が弟を殺すという人類最初の殺人事件がありました。

 312「カインのようであってはいけません。彼は悪い者から出た者で、兄弟を殺しました。なぜ兄弟を殺したのでしょう。自分の行いは悪く、兄弟の行いは正しかったからです。」

 兄のカインは農夫で畑の作物からささげ物を持ってきて神を礼拝した。弟のアベルは羊飼い、羊の中からささげ者を携えて神を礼拝した。しかし、弟のささげものは最良のものとして神はこれを受け入れたが、兄のささげものはどうもおざなりの、かたちばかりのささげ物だったらしく、神はこれを受け入れなかった。そこで兄は弟を妬み、憎み、ついにこれを殺してしまったという有名な事件です。
 カインは自分と違った価値観、生き方をする弟アベルを妬み、受け入れることができず、これを排除しました。自分に対して何の害を与えたわけでもないのに、ただその正しい生き方が気に入らない、嫌いだ、妬ましいというだけで排除する自己中心。
 この様な自己中心はカインの子孫にも見られ、彼らは力によって人を支配し、自分のために人を徹底的に利用したことが創世記に出てきます。
 しかし、この様なカイン的心は私たちのうちにも存在しないでしょうか。自分が気に入らない人、疎ましい人を遠ざけ、気の合う人とだけ交わろうとする心。自分の意見が通らなかったり、反対されたりすると途端に機嫌が悪くなる心。自分の基準、理想どおりに行動しない人を見下し、責める心。
 神様の聖なる眼から見る時、私たちはどれだけ心の中で殺人の罪を犯していることか。このことをイエス・キリストははっきりと教えていました。

 5:2124「昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし。』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。
だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行ってまずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。」

どんな理由であれ兄弟に腹を立てる者、兄弟を能無し、ばか者と見下し、交わりから遠ざけようとする者は、みな心の中の殺人者。神のさばきに値するというイエス様のことばは痛烈でした。さらに、自分のことを恨んでいる兄弟がいるなら、きっとその人をあなたは好きではないだろうけれども、たとえ神礼拝の最中であっても自分の方から仲直りしに行きなさいとの勧めにいたっては、私たち胸を叩くことしかできないでしょう。
兄弟を憎む者はみな、人殺しです。いうまでもなく、だれでも人を殺す者のうちに、永遠のいのちがとどまっていることはないのです。」と語るヨハネの心には間違いなくこのイエス様の教えが響いていたはずです。
さて、人間が神に背いたために歪んでしまった交わり。その二つ目の特徴は愛の行いを伴わない交わりでした。

316,17「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛が分かったのです。ですから私たちは、兄弟のためにいのちを捨てるべきです。世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているのでしょう。
子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛そうではありませんか。」

私たちはイエス・キリストが私たちの罪のためにいのちをお捨てになったその愛を受け取った者、体験した者。それなのに、私たちは兄弟が困っているのを見て、あわれみの心を閉ざし、金銭や物を惜しんではいないか。ことばや口先だけの愛にとどまってはいないか。
心の思いにおいて自己中心という問題をもつ私たちは、愛を実行する、実行し続けるという点においても弱点を抱えている。これを指摘されたらグーの音も出ない、誰もが降参するしかありません。
しかし、それならこんな私たちが愛し合う交わり築くために努めることには何の意味もないのでしょうか。決してそうではないとヨハネは言います。兄弟を愛すること、全ての兄弟姉妹と愛し合うよう努めることには大きな祝福ありと励ましてくれるのです。

314「私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。それは、兄弟を愛しているからです。愛さない者は、死のうちにとどまっているのです。」

祝福の第一は、兄弟姉妹との交わりを通して、私たちは霊的な死の状態から、永遠のいのちつまり神様と交わりつつ歩む状態へと移されたことを確認、確信できるということです。
交わりのなかで、私たちは弱さや問題を抱えた兄弟姉妹がそれでも神様の助けを借りて愛を実行しようとする姿に励まされます。お互いの問題を告白し、祈り合うことで慰められます。兄弟姉妹の人生を導いておられる神様を知って喜び、感謝できます。
交わり効果というのでしょうか。信仰の仲間との交わりが深まれば深まるほど、私たちは自分が既にこの世の者ではなく、神様の者、神の子であることを確認、確信できるのです。
祝福の第二は、神様による平安です。

319「それによって、私たちは、自分が真理に属する者であることを知り、そして、神のみ前に心を安らかにされるのです。」

先程も言ったように、私たちは愛することに努めるほど自分が愛することにおいていかに無力な者であるかを覚えます。心の思いにおいて行ないにおいて、いかに神様の望まれる愛から遠いところにあるかを思い、心が痛くなります。
しかし、この様な時こそ私たちの心が神様に向い、結びつくのではないでしょうか。神様がイエス・キリストのゆえに、罪をもったままの私たちを丸ごと受け入れてくださっていること、「何度失敗しても良いから、わたしの愛を受け取り兄弟姉妹を愛せよ」と期待してくださることを覚えて、平安を得る事ができるのです。
教会は罪赦された罪人の集まりと言われます。しかし、今日の箇所を読み終えると、罪人が愛し合う喜び、愛し合う難しさを体験しながら、愛を学ぶ神様の学校ということもできるかと思います。
聖書には様々な神様の命令があります。その殆どは神様をそして人を愛することに関連しています。また、最終的に十字架に命を捨てることで愛を表されたイエス様も、様々なことばや行いで愛を示しておられます。つまり、愛するとはこういうことという簡単なマニュアルはないということです。
私たちは愛について全てを知ったので、愛を実行できる者なので、神様に救われ、教会に導かれたのではありません。むしろ、聖書、特にイエス・キリストの生涯を通して、また教会の交わりを通して、愛を学んでゆく者となるために神様に救われ、教会に導かれたことを覚えたいのです。
私たちもみなでこの様な意識に立って、愛し合う交わりを築くことに労を厭わない教会になりたく思います。