2013年11月24日日曜日

Ⅰ歴代誌22章6~13節 「一書説教 第一歴代誌 ~礼拝する者として~」

「私は~~です。」と言うとしたら、何と表現するでしょうか。自分をどのような存在だと思うでしょうか。
 私は会社員です。私は学生です。など、社会的立場を思い浮かべるでしょうか。私は身体が大きいです。私は英語が得意です。など、他の人と比べて特徴的なことが、思い浮かぶでしょうか。私は運動が好きです。私は音楽鑑賞が趣味です。など、自分の好きなことが思い浮かぶでしょうか。私は大きな仕事に取り組みたいです。私は家族が大事です。など、自分の目指す生き方が思い浮かぶでしょうか。
 答えは一つではなく、複数のことが思い浮かぶと思います。「私は会社員で、英語が得意、運動が好きで、大きな仕事に取り組みたい・・・。」などなど、一つの答えではなく複合的に出てくると思います。
 「私は~~です。」と言う時、色々な表現が出てくると思うのですが、その中から、最も中心的なこと。最も自分らしい答えを一つ挙げるとしたら、それは何でしょうか。自分のアイデンティティの中心にあるのは、何でしょうか。
自分を何者とするのか考えることは重要なこと。私たちの人生に大きな影響を与えます。もう一度聞きます。皆様は、自分を何者と考えて生きているでしょうか。
 私は誰なのか。自分は何者なのかを考える時、私たちクリスチャンは、聖書の中から答えを見つけるのが最上です。自分は何者なのか、自分で決めるのではなく、神様が何と言っているのか。自分がどのような存在なのか、聖書を通して見出す。神様との関係で見出すことが出来ればと願うところです。

私の説教の際、断続的に一書説教に取り組んでいます。今日は十三回目。旧約聖書、第十三の巻、第一歴代誌を扱うことになります。第一歴代誌を読む時にも、神様はどのようなお方で、その方の前で自分はどのような存在なのか、意識しながら読むことが出来るように。毎回のことですが、一書説教の際には、扱われた書を読むことをお勧めいたします。一書説教が進むにつれて、教会の皆で聖書を読み進めていくという恵みにあずかりたいと願っています。

 さて、前回扱いました第二列王記の最後を覚えているでしょうか。イスラエル王国が南北に分裂した後、北イスラエルはアッシリアに敗北、南ユダはバビロンに敗北する記録でした。
アッシリアに負けた北イスラエルは、民族としてのアイデンティティを失い消滅します。残念無念。片や南ユダの住民は、バビロンに奴隷として連れて行かれるも、アイデンティティは失われることなく、やがて約束の地カナンに戻ることになる。バビロン捕囚から帰還します。(第二列王記に記されていたのは、バビロンに連れて行かれたところまでで、バビロン捕囚からの帰還については、歴代誌の後、エズラ記に記されることになります。)
 神の民として歩んできたイスラエル王国。その王国が二つに分かれ、一つの王国は失われてしまった。残った南ユダの民にしても、しばらくの間、バビロンで奴隷として生きてきた後、今一度、約束の地カナンに戻ってきた。ここでもう一度、国を建て上げなければならないという状況。これはつまり、自分たちが何者なのか考える状況なのですが、この時に記されたのが、歴代誌です。
 想像出来ますでしょうか。大きな悲劇を味わい、国を再建しないといけない時。言葉によって、国の再建を目指す時。改めて自分たちは何者なのか、強く意識する時。自分が文章を記す者だとしたら、どのような内容を記すでしょうか。

 国の再建のために記された書。自分たちが何者なのか再確認する書。一体何が記されるのかと思い、聖書を開きますと、驚くべき内容となっています。
 第一歴代誌1章1節~4節
「アダム、セツ、エノシュ、ケナン、マハラルエル、エレデ、エノク、メトシェラ、レメク、ノア、セム、ハム、それにヤペテ。」

 国を再建する。自分たちが何者なのか意識する。そのための文章が、アダムから始まる名前の羅列でした。聖書の中には時々、名前の羅列、系図が記されますが、歴代誌の冒頭に記された系図は聖書中最長。何と九章までが系図。第一歴代誌の約三分の一がこの系図に割かれることになるのです。一体、これは何でしょうか。なぜ国の再建のため、自分たちが何者なのか考える際に、この人名の羅列なのか。皆様は、何を意味すると考えるでしょうか。
 アダムから始まる系図。人類の歴史、人類の祖先の系図。しかし、アダムの次はカインではなく、セツとなっていて、この系図が神様を信じ、神様を礼拝する者たちの歴史の確認であることが汲み取れます。
 つまり、歴代誌の著者の意図は、神様を礼拝する者の歴史の延長に自分たちがいることを思いおこさせること。自分たちが、世界の始めから続いている、神様を礼拝する者の系譜に連なる者であることを意識させることにあると思います。国を再建する上で、最も重要なこと。それは、世界の始まりからこれまでの間、礼拝する民を守られてきた神様の思いを知ること。自分たちが何者なのか。神様を礼拝する者なのだという主張です。

 世界の始めから、神様は礼拝する者を守られてきた。その礼拝の民に、自分も加えられている。この歴代誌の視点は、バビロンから帰ってきた南ユダの人々にも必要でしたが、私たちにも必要な視点です。
 偶像に満ち溢れた国。世界の創り主を礼拝する者が、非常に少ない日本。信仰の歴史と言っても、三代目、四代目のクリスチャンは稀。神様を礼拝するということが、特殊なことのように感じられます。しかし、果たして本当に、神様を礼拝する者として生きることは、特殊なことなのか。そうではないのです。歴史を貫いて、神様を礼拝する者がおこされてきた。日本の一地方にある教会の礼拝。その礼拝は神様が守り、導かれている大切な礼拝の一つであり、今日もその礼拝に導かれたことに私たちは大いに胸を張りたい。大いに喜びたいと思うのです。第一歴代誌の前半。名前の羅列の記事を、単調なものとして読むのではなく、歴史の重みを感じ、スケールの大きさに圧倒されながら、読むことが出来たらと思います。そして、歴代誌の視点を身に付けることが出来るようにと願います。

 九章まで系図が記された後、第一歴代誌の記録は、主にダビデ王の時代の記録。既に読みました、サムエル記の内容と重なります。
 サムエル記は主に出来事に焦点が当てられていました。戦いの場面が多く、困難の中にありながら、神様に従う(失敗も多くありましたが)ダビデの姿が中心でした。歴代誌の記録は、サムエル記と比べて、戦いの場面は少なく、出来事の記録も多くない。代わりに、その時代活躍した様々な人の記録が多くあります。戦士、勇士の記録。政治家の記録。契約の箱に仕える者たち、門衛や聖歌隊の記録など。十章以降にも、多くの人名が出てきます。
 あちらこちらに、活躍した人の記録が出てくるので、あえて一つを選ぶのは難しいのですが、例えば次のような記録があります。

 第一歴代誌12章8節~14節
「また、ガド人から離れて、荒野の要害をさしてダビデのもとに来た人々は、勇士であって戦いのために従軍している人であり、大盾と槍の備えのある者であった。彼らの顔は獅子の顔で、早く走ることは、山のかもしかのようであった。そのかしらはエゼル。第二はオバデヤ。第三はエリアブ。第四はミシュマナ。第五はエレミヤ。第六はアタイ。第七はエリエル。第八はヨハナン。第九はエルザバデ。第十はエレミヤ。第十一はマクバナイ。これらはガド族から出た軍のかしらたちで、その最も小さい者もひとりが百人に匹敵し、最も大いなる者は千人に匹敵した。」

アダムから始まる系図を、九章までまとめ挙げた著者が、今度は一つの時代に焦点を当てて、あの人もいた、この人もいたと記録していくのです。ダビデのような傑出した人物にのみ、神様の視点は注がれているのかと言えば、そうではない。一人一人に、神様の目は注がれているのです。長い歴史の中にいる自分という視点が大事であると同時に、一つの時代にいる一人一人に神様の視点が注がれているという視点も大事でした。
 それにしても、ここに記された人たちの紹介文は、面白いもの。その強さを表すのに、顔は獅子、足はかもしか。最も弱い者でも百人力。最も強い者は一騎当千であったと。どれ程凄かったのか。一体、どのような人たちだったのか。天国で会ってみたいと思うのです。

 歴代誌に記された出来事は多くはないのですが、重要なこととして、二つの事件が記されています。一つは契約の箱に関するウザ事件。もう一つは、ダビデが人口を数えた結果、裁きが下るという事件です。
 まずはウザ事件について確認します。ダビデより少し前の時代。神様のご臨在をあらわす契約の箱が、ペリシテ人に奪われるという事件がありました。その後、契約の箱はイスラエルのもとに戻ってくるのですが、特に大事にされていなかった。ダビデは、自分が全イスラエルの王になった時、この契約の箱を都エルサレムに運び込もうとします。その時に起こった事件。
 第一歴代誌13章7節~10節
「そこで彼らはアビナダブの家から神の箱を新しい車に載せた。ウザとアフヨがその車を御していた。ダビデと全イスラエルは、歌を歌い、立琴、十弦の琴、タンバリン、シンバル、ラッパを鳴らして、神の前で力の限り喜び踊った。こうして彼らがキドンの打ち場まで来たとき、ウザは手を伸ばして、箱を押えた。牛がそれをひっくり返しそうになったからである。すると、主の怒りがウザに向かって燃え上がり、彼を打った。彼が手を箱に伸べたからである。彼はその場で神の前に死んだ。」

 契約の箱を運び上るとき、牛がひっくり返しそうになった時、その御者のウザが箱に触れると、死んだという事件。ウザ事件です。一体何が起こったのか。何が問題だったのか。
そもそも、契約の箱はレビ人が担いで運ぶと定められていました。聖別された者にのみ与えられた役割だったのです。それを、牛に運ばせていた。そのためにおこった裁きの場面。このことに気付いたダビデは、次のように言い、再度、契約の箱をエルサレムに運ぶ作業に取り掛かります。

 第一歴代誌15章2節~3節
「そのとき、ダビデは言った。『レビ人でなければ、神の箱をかついではならない。主は、主の箱をかつがせ、とこしえまでも、ご自身に仕えさせるために、彼らを選ばれたからである。』ダビデは全イスラエルをエルサレムに呼び出して、主の箱を定めておいた場所へ運び上らせようとした。」

 この結果、契約の箱はエルサレムに運ばれることになりました。これが、歴代誌の著者が、敢えて選んだ、ダビデの時代のエピソードの一つです。

もう一つ重要な出来事として記されているのが、ダビデが人口を数えた結果、裁きが下るという事件です。
第一歴代誌21章1節、7節
「ここに、サタンがイスラエルに逆らって立ち、ダビデを誘い込んで、イスラエルの人口を数えさせた。・・・この命令で、王は神のみこころをそこなった。神はイスラエルを打たれた。」

 サタンの誘惑にあってダビデが人口調査をしたという記事。少し不思議に感じるところです。サタンの誘惑にあって、人妻を犯し、その夫を殺したというのならば分かります。ところが、ここに記されたのは、サタンの誘惑で人口調査をした。聖書の中には、その名も民数記という書で、神様の命令によって人口調査がされる記録がありました。サムエル記からすると、この時の人口調査は、飢饉の後の人口調査のため、国の状態の確認や税制度の立て直しなど、人口調査をする正当な理由があったと思われます。ところが、人口調査をしたことが、神様のみこころをそこなったと言う。何が問題だったのでしょうか。
 おそらく動機が問われたのだと思います。己の力を誇示するためのものか。税に頼る思い、富に頼る思いの表れか。多くの恵みを頂き、高い地位につくダビデだからこそ、特に厳しく糾弾されたのか。
 このダビデの人口調査の結果、預言者を通して裁きが下されることを宣告されるのですが、その内容はダビデが選ぶようにと言われます。三年間の飢饉、三ヶ月の剣、三日間の疫病。どれも恐ろしいものですがダビデは、三日間の疫病を選択。その結果、七万人もの人が疫病で倒れます。この自体にダビデは深く悔い改め、同時に神様に訴えました。

 第一歴代誌21章17節~18節
「ダビデは神に言った。『民を数えよと命じたのは私ではありませんか。罪を犯したのは、はなはだしい悪を行なったのは、この私です。この羊の群れがいったい何をしたというのでしょう。わが神、主よ。どうか、あなたの御手を、私と私の一家に下してください。あなたの民は、疫病に渡さないでください。』すると、主の使いはガドに、ダビデに言うようにと言った。『ダビデは上って行って、エブス人オルナンの打ち場に、主のために祭壇を築かなければならない。』」

 裁きの途中でのダビデの訴えに、祭壇を作り、いけにえをささげるようにとの命令。ダビデは、オルナンという人から土地を買い、祭壇を作り、いけにえがささげられ、それにより裁きが終わるという出来事。
ところで、この祭壇の場所は、後にソロモンが神殿を建てる場所となります。ダビデの悔い改めの場所が、後の神礼拝の場所となる。悔い改めの上に、礼拝があることを教える出来事と見ることも出来るでしょうか。何にしろ、これが歴代誌の著者が敢えて記した出来事の二つ目です。

 なぜ歴代誌の著者は、ウザ事件と、ダビデの人口調査の事件、敢えてこの二つを重要なこととして記したのでしょうか。もうお分かりだと思います。この二つとも、礼拝に関係のある事柄でした。ウザ事件の後に、契約の箱はエルサレムに運びこまれる。ダビデの人口調査事件の後に、オルナンの打ち場の祭壇が築かれ、そこが神殿の場所となる。
 ダビデの次の世代、ソロモンの時代には神殿での礼拝が行われるようになります。それは、息を飲むほどの荘厳な礼拝。しかし、そのような整った礼拝となるまでには、様々な事件を経ていたこと。先人たちの様々な苦労。あるいは失敗と悔い改めがあって、礼拝が整っていったことが教えられるのです。あるべき礼拝、より整えられた礼拝へ導かれていく歴史を確認することが、当時の南ユダの人々に大切なことだったのでしょう。そして、それは私たちも同様です。今、私たちにも素晴らしい礼拝堂が与えられ、様々な奉仕者によって、整えられた礼拝が出来ている。今、このような礼拝が出来るために、これまで、どれだけ多くの祈りと奉仕、ささげものがあったのか。そのことに目が開かれ、感謝をしながら、礼拝をする者でありたいと思います。

 以上、第一歴代誌を概観しました。教えられたことをまとめて、終わりにしたいと思います。確認しましたように、歴代誌は歴史を振り返ることを通して、礼拝者を整える目的がありました。それが国を再建する上で最重要なことと考えたのです。
世界の始めの時から、神様は礼拝する者をおこされ、守られてきたこと。神様は、その一人一人に注目していること。人間の歩みは紆余曲折ありながらも、神様はより整えられた礼拝へと導かれること。歴代誌を読み、この歴史の延長に自分たちがいること。この神様に導かれて自分たちがいることを、覚えたいと思います。
 私は誰なのかと言えば、神様を礼拝する者。礼拝者として生きることを皆で目指したいと思います。そして礼拝者であるというのは、日曜日の一時間、教会にいることだけを意味するのではありません。礼拝者として生きるというのは、生活の全てで、神様のために生きることなのだと教えるパウロの言葉を読み、終わりにしたいと思います。

今日の聖句です。ローマ人への手紙12章1節

「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」

2013年11月17日日曜日

ヨハネの福音書9章35~41節 「目の見えない者が見えるように」


 ヨハネの福音書第九章は、イエス・キリストと生まれつき盲目の男との物語です。今日が第三回目で最後となります
今までの流れを振り返りますと、第一部はイエス様と男との出会い。道端に座る男を見た弟子たちが、「先生、彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」と問う。当時ユダヤの社会で一般的であった「苦難の原因はその人か両親の罪」という考え方、所謂因果応報の考えから出た質問でした。
それに対し、「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです」と説いたイエス様は、唾で泥を固め盲人の目に塗ると、「シロアムの池に行き洗いなさい」と命じます。そのことばに従い、男が池の水で目を洗うと目が開き、見えるようになった。これが事の発端です。
第二部は、盲人の目が癒されたのが安息日であることを知り、再三安息日に禁じられている癒しのわざを為すイエス様を咎めるパリサイ人ら宗教指導者が、盲人と彼の両親を裁判の席に呼び、尋問を行うという場面でした。
しかし、多勢に無勢、権力者と貧しい庶民。弱い立場にあるはずの元盲人は卑劣な脅かしにも屈せず、イエス様を「預言者」「神から出た人」と呼び、ついに「あなた方も、あの方の弟子になりたいのですか」と攻勢をしかけます。
勢いに押され窮した指導者たちは、「お前は全く罪の中に生まれながら、私たちエリートを教えるのか」と罵倒した末、会堂からの追放処分、村八分にしたのです。
イエス様に目を開けて貰い、長年の苦難から解放され万々歳かと思いきや、今度は、権力者から苦しめられた末に、またもや社会の片隅に追いやられる。しかし、そんな男のことを我が事のように心配し、じっと見守っていたのがイエス様です。
イエス様が男と再会し、彼を信仰に導く第三部今日の箇所は、第九章の最初にイエス様が言われた「この人に神のわざが現れるため」とはどういうことなのか。それが明らかになる印象的な締めくくりとなっています。
ところで、今日の箇所を読み進める前に、聖書が教える苦難の意味について整理しておきたいと思います.
第一に、人間の受ける苦しみは人間の罪に対する神様の刑罰という意味を持っている場合があります。弟子たちはこの点に目をつけた訳ですが、彼らは苦難の意味を罪に対する罰という一点に限って理解するという誤りを犯していました。
第二に、人間の受ける苦しみは、その人を訓練し神様のきよさに預からせるという意味を持つ場合があります。「神様はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。」(ヘブル127)という聖書のことばはこれを教えています。
しかし、聖書はこれらを越えた苦しみがあることを教えています。それは、その人が神様のものとなるため、神様との人格的な交わりに入れられるため、あるいは神様との交わりがより深められるために与えられる苦難があるということです。
ヨハネの福音書第九章の主人公、盲目の男の受けた苦難は、この三番目の場合に当たるのではないかと考えられます。
それでは、ご自分が心からのあわれみをもって癒した男が会堂追放の処分を受けたとの知らせを耳にしたイエス様が彼に再会するところからです。

9:3538「イエスは、彼らが彼を追放したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。『あなたは人の子を信じますか。』その人は答えた。『主よ。その方はどなたでしょうか。私がその方を信じることができますように。』イエスは彼に言われた。『あなたはその方を見たのです。あなたと話しているのがそれです。彼は言った。『主よ。私は信じます。』そして彼はイエスを拝した。」

イエス様と男の再会は偶然ではありませんでした。イエス様の側が彼を見つけ出したのです。この可哀想な元盲人がユダヤの会堂から追い出されると、すぐにイエス様は彼を見つけ慰めのことばをかけておられる。この人にとってこの処分がどれほどひどい苦しみであったか良く知っておられたからこそ、すぐに優しいことばをかけて励まそうとされたのです。
しかし、これは命がけの行いでした。既にイエス様を殺そうと狙うパリサイ人は男の後をつけていたらしく、その場に居合わせましたから、まさに危険を承知の上の再会だったのです。
そして、この男のためにイエス様はご自分のすべてを現されました。「あなたは人の子を信じますか」。「人の子」は旧約聖書ダニエル書に預言された救い主を指します。

ダニエル713,14「私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲に乗ってこられ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。この方に、主権と栄光と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えるようになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることはない。」

神の国の王であるお方、人の子、救い主を信じますかと尋ねるイエス様。それに対して「主よ。その方はどなたでしょうか。私がその方を信じることができますように」と応答する男。さらに「あなたはその方を見たのです。わたしがそれです」と答える救い主のイエス様。
聖書中、これほど積極的にご自分を現すイエス様は稀でした。そして、男の心は既に命がけで自分の目を開き、自分を見つけ出してくれたイエス・キリストの愛に動かされていましたから、「主よ。私は信じます。」と答え、イエス様を神様として礼拝したのです。
ここに肉体の目ばかりか、心の目開かれイエス・キリストを信じ、神様と人格的な交わりの関係に入れられた男の姿があります。「神のわざがこの人に現れるため」というイエス様のことばは、生まれつきの盲目と権力者の不当な仕打ちという苦難を通して、この人がキリストの愛を知り、神様との正しい関係、神様との親しい交わりに導かれることにおいて実現したのです。まさに、ハレルヤと言いたくなる場面です。
しかし、次の一言は、喜び二人の姿を冷たい目で眺めていたパリサイ人を意識してのものだったと思われます。

9:39 「そこで、イエスは言われた。『わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。』」

目の見えないこと盲目は、聖書において人間が罪の中にあること、少し抽象的な表現になりますが、霊的に死んだ状態を指します。
そして、ここで言う「さばき」とは、イエス・キリストに対してとる態度によって、その人の心のあり方が明らかにされることを意味します。
太陽の熱は冷たい氷を溶かしもすれば、他方やわらかい粘土を固くもします。同じ太陽がその熱を受けるものによって、正反対の効果を及ぼすのです。
つまり、自分が救いようのない罪人であることを認め、イエス・キリストを信じ頼る他ないと思う人は、心の目開かれ神様との親しい関係に入ることができる。しかし、自分が罪人であることを認めず、キリストの助けを必要と思わない人は、心の目開かれず、神様との親しい交わりに入れないままであることを教えることばでした。
案の定、このことばは宗教的指導者として自他共に認めるパリサイ人のプライドを傷つけたようです。彼らは「私たちをも盲目、つまり罪人だというのか」と反論しました。

9:40,41「パリサイ人の中でイエスとともにいた人々が、このことを聞いて、イエスに言った。『私たちも盲目なのですか。』イエスは彼らに言われた。『もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。』」

パリサイ人に向けたイエス様のことばは痛烈この上ありません。「私たちは目が見える」、つまり「私たちは神様を良く知っている。神様の律法を十分守っている」と心高ぶるあなたがたこそ、実は神様から遠く離れた状態、罪の中にとどまっていると、イエス様は言い切ったからです。
神様のことを良く知っていると考えていた彼らは、神様の律法を踏み行っている、守っているから大丈夫と思い、実は心の奥底の動機や思い、願望を見抜く聖なる神様の目を知りませんでした。神様の目から見たら自分こそ心の殺人、心の姦淫を犯す救いようのない罪人と思っていませんから、神様の罪人に対する愛など知る由もなかったのです。
しかし、この厳しいことばも、イエス・キリストの愛から出たものでした。何故なら、この様なことばを語れば語るほど、確実に死が近づくことを知りながら、ご自分を敵視するパリサイ人が神様の前に出て自分の罪に気がつくようにと願い、語られたものだからです。
さて、今日の箇所を読み終えて、私たちが確認したいのは、生まれつき盲目であった人に現れた神様のみわざです。彼は生まれつきの盲という苦難、目を開けられてからの苦難を通して、イエス・キリストを信じ、神様との親しい交わりに導かれてゆきました。
最初は「イエスという方、人」、次に「預言者」、そして「神から出た方」、ついに「主よ」と告白する。この男が苦しみの中でいかにイエス・キリストに近づき、心引かれ、神様として礼拝し、交わるに至ったか。この姿を私たち自分の歩みと重ねあわせたいと思います。
私たち人間はこの世界を造られた神様と親しく交わり、神様を喜び、神様をほめたたえて生きるために造られたと、聖書は教えています。そう考えれば、この人は人間として最高の喜びを覚える人生、最も幸いな人生へと導かれたのです。
神様のわざがあらわれることと私たちが人間として最高の人生を歩むことはコインの表裏。そう確認したいところです。
二つ目に確認したいのは、パリサイ人の罪という問題です。世界の創造の最初、人間は神様を知ることのできる存在として創造されました。神を知る知識は本来良いものであったのです。
神様を知れば知るほど、自分の知るところはほんの一部に過ぎないと人間はへりくだり、ますます神を知り、ほめたたえたくなる。これが本来の神を知ることでした。
しかし、人間が神様を離れ背いてから、知識は人を高ぶらせるものとなったのです。神様について人よりも知っているということで満足する。知らない人を見下す。また、心の奥に住む罪、どうしようもない罪を悟らず、自分の行いに満足し、信頼する。自分の知識を絶対化し、知らないと思う者をさばく。
これは他人事ではありません。ある人から聞いた話です。「私の息子はクリスチャンという者になってから人が変わった。私はキリスト教は良いものだと思っているが、息子がことあるごとに、先祖伝来の神道や仏教の悪口を言うのに腹が立つ。それを聞くたびに、クリスチャンっていうのは、そんなに何でも知っている偉い者なのかと言いたくなる」と。
皆様、お分かりでしょうか。このお父さんはキリスト教に躓いているのではありません。神様を知っている自分を絶対化し、他の宗教を批判する息子の高慢な態度に躓いているのです。神様は絶対的存在でも、神様を信じている自分が絶対的なわけではない。正しい教えを知っている自分がいつも正しいわけではない。
そのことを良くわきまえて、自らへりくだり、人を尊敬する態度で伝道する者となりたいと思わされます。
イエス様はパリサイ人に「私たちは目が見える」と言うあなたがたの罪は残る、と警告されました。
たとえて言うなら、自分を病人と思わない病人は、医者の差し出す薬を拒否することで、ますます病が悪化するでしょう。それと同じく、私たちも自分の罪に気がつかず、イエス・キリストにおいて示された神様の愛を拒み、受け入れないことで、ますます自分を絶対化し、信頼し、人をさばく高慢の罪は悪化するのです。
パリサイ人の生き方を反面教師にする。それは、私たちの中にもパリサイ人が住んでいることを思う時、誰にも必要なことと思われます。
最後に、神様との交わりの中にある時、神様とのただ医師関係の中にある時、私たちはすべての出来事に神様のわざを見ることができるという恵みを確認したいと思います。者になりたいと思います。
パリサイ人は、イエス・キリストの奇跡にも、教えにも、神のわざを見ることはできませんでした。しかし、あの盲人の男はイエス・キリストを救い主と信じた時、自分が盲目に生まれついたことも、目を開かれてから受けた苦しみにも、本当に尊い意味があることを思ったでしょう。イエス・キリストの癒しも、再会も、自分のようなものを愛し、大切に思う神様のご配慮とおぼえたことでしょう。
私たちも、人生に起こり来るすべての出来事に神様のわざを見る者となりたく思います。私たちを愛してやまない神様の導きという視点から、喜びや苦しみ、病や困難、様々な人との出会いの意味を考える者となれたらと思います。
 
ローマ828「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」

2013年11月10日日曜日

ヨハネの福音書9章13~34節 「心の目開かれた人生」

私たちが礼拝で歌っている讃美歌。クリスマスソングを除くと、その多くは一般的に知られていませんが、「いつくしみ深き」「主われを愛す」などは例外と言ってよいかもしれません。この二曲に加えて、聖歌、新聖歌にある「驚くばかりの」、一般的には「アメージンググレイス」と呼ばれる讃美歌も広く知られているように思われます。
しかし、残念なのは、元奴隷船の船長で数奇な運命をたどり、最後にはイギリスで牧師になったジョン・ニュートンが作った原曲から、現在の日本語讃美歌は大切なことばが抜け落ちてしまっていることです。
原曲は六番までありますが、一番をご紹介しましょう。「驚くべき神の恵み。何と胸をときめかせる言葉か。私のような悪人をさえ救いたもうとは。私はかって失われていましたが、今や神に見出され、かって目が見えなかったのですが、今や見ることができます。」
ニュートンは盲目の人ではありませんでした。ですから、彼が「かって目が見えなかったのですが、今や見ることができます。」と告白した時、その目とは体のではなく、心の目を指します。そして、心の眼開かれたニュートンが見、その人生を奴隷船の船長から牧師へと大きく変えることになったのは驚くべき神の恵みだったのです。
ヨハネの福音書第九章の主人公、生まれつきの盲人も驚くべき神様の恵みを心の眼で見たひとりでした。
ユダヤの都エルサレム。その神殿近くの道で物乞いをしていた盲人。それを見た弟子たちが「彼が生まれつき盲目なのはこの人の罪か、両親の罪か」と心なき質問をする。それに対し、その人の心のうちをすべてご覧になり胸を痛めていたイエス様は、「そのどちらでもない。神のわざがこの人にあらわれるためです。」と答える。
そして、眼に泥を塗られた盲人がイエス様のことばに従い、シロアムの池に行き目を洗うと見えるようになった、と言うのが先回までの経緯でした。
しかし、このイエス様による癒しの奇跡。目出度し目出度しでは終わりませんでした。この日が安息日であったことから大きな問題となり、盲人はパリサイ人と言われる宗教指導者たちの尋問の席に連れてゆかれることになったのです。

9:1316「彼らは、前に盲目であったその人を、パリサイ人たちのところに連れて行った。ところで、イエスが泥を作って彼の目をあけられたのは、安息日であった。
こういうわけでもう一度、パリサイ人も彼に、どのようにして見えるようになったかを尋ねた。彼は言った。『あの方が私の目に泥を塗ってくださって、私が洗いました。私はいま見えるのです。』すると、パリサイ人の中のある人々が、『その人は神から出たのではない。安息日を守らないからだ。』と言った。しかし、ほかの者は言った。『罪人である者に、どうしてこのようなしるしを行なうことができよう。』そして、彼らの間に、分裂が起こった。」

 明らかに良いわざが苦しむ人のためになされたのに、それがどうして「安息日を守らない」と非難されるのか。彼ら宗教指導者は、神様が安息日を定めた目的を間違って理解していたのです。
 もともと週に一度の安息日は、私たち人間の体と魂が神様による安息を受け取り、完全に健やかになる日、つまり天国の到来を示すものでした。ですから、安息日に人の目を癒すことは何の問題もないばかりか、むしろ目的に適ったことだったのです。
 それを、宗教指導者のパリサイ人は「安息日には一切仕事をしてはならない」とのことばを極端にとり、些細な行いを仕事と定め、人の体を癒すなどの医療行為も以ての外とこれを厳しく禁じていました。
 そこで、イエス様本人の行方が分からないと知ると、元盲人を呼んで「どのように見えるようになったのか」と尋ねたのです。
その結果、この癒しが事実であることは否定仕様がないと分かりましたので、イエス本人を否定すべく「安息日を守らない者は、神から出たのではない」と断言する者が現れました。他方、これ程の奇跡を行った者を罪人と言うのは余にも強引とする人々もいて、彼らは分裂状態。そこで、もう一度盲人に問います。

9:17「そこで彼らはもう一度、盲人に言った。『あの人が目をあけてくれたことで、あの人を何だと思っているのか。』彼は言った。『あの方は預言者です。』」

「あの方は預言者です。」眼を癒された人のことばは自信に溢れている様に見えます。預言者とは神様から遣わされた人。400年前のマラキ以来、ユダヤの国に預言者は出現しませんでした。ですから、聖書を詳しくは知らないこの男にとって、預言者というのは最高の評価。救い主に等しい重みを持っていたと思われます。
けれども、指導者たちは納得できません。いや納得したくなかったのでしょう。盲人に聞いてだめならその両親に聞けとばかり、両親を尋問すべく呼び出します。

9:18,19「しかしユダヤ人たちは、目が見えるようになったこの人について、彼が盲目であったが見えるようになったということを信ぜず、ついにその両親を呼び出して、
尋ねて言った。『この人はあなたがたの息子で、生まれつき盲目だったとあなたがたが言っている人ですか。それでは、どうしていま見えるのですか。』」

 何としてもイエス様の奇跡を認めたくない彼らは「お前の息子は本当に生まれつき盲目であったのか」と自分たちの立場、権威を用い圧力をかけました。すると、それが効いたのか、両親は肝心な点を息子に丸投げ、証人としての責任から逃げたのです。

 9:2023「そこで両親は答えた。『私たちは、これが私たちの息子で、生まれつき盲目だったことを知っています。しかし、どのようにしていま見えるのかは知りません。また、だれがあれの目をあけたのか知りません。あれに聞いてください。あれはもうおとなです。自分のことは自分で話すでしょう。』
彼の両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れたからであった。すでにユダヤ人たちは、イエスをキリストであると告白する者があれば、その者を会堂から追放すると決めていたからである。そのために彼の両親は、『あれはもうおとなです。あれに聞いてください。』と言ったのである。」

会堂から追放される。これは当時のユダヤ社会では村八分、孤立してしまうことを意味します。そうだとすれば、彼らの恐れには同情の余地もあるでしょう。しかし、「あれはもうおとなです。あれに聞いてください。」と、我が子を他人のように突放す物言いは、これを知った盲人の心を悩ませたと思われます。
しかし、そんな冷たい仕打ちを受けながらも、この男の心は挫けませんでした。むしろ、イエス様を神から遣わされた者と信じる心は益々強められたのです。

9:2427「そこで彼らは、盲目であった人をもう一度呼び出して言った。『神に栄光を帰しなさい。私たちはあの人が罪人であることを知っているのだ。』彼は答えた。『あの方が罪人かどうか、私は知りません。ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。』そこで彼らは言った。『あの人はおまえに何をしたのか。どのようにしてその目をあけたのか。』彼は答えた。『もうお話ししたのですが、あなたがたは聞いてくれませんでした。なぜもう一度聞こうとするのです。あなたがたも、あの方の弟子になりたいのですか。』」

両親からも有利な証言を得られなかった彼らは、それでもイエス様を追い詰めることに執念を燃やし、もう一度盲人を呼び出しました。再尋問です。
「神に栄光を帰しなさい」とは、神の名にかけて本当のことを言え、嘘を言うなという意味ですが、ここでは明らかに嘘の証言を強要する脅かしでした。
私たち対私、大勢対ひとり。方やパリサイ人は社会的地位の高い宗教の専門家、それに対して男は社会の底辺に生きる元盲人で物貰い。普通だったら勝負は目に見えていますのに、この人は強い、挫けない。
特に最後のことば「あなたがたも、あの方の弟子になりたいのですか」は、痛烈な反撃。相手の顔面へのカウンターパンチと見えます。と同時に、この人が既に心からイエス・キリストの弟子となっていたことのあかしでした。
見下していた相手から思わぬパンチを浴びた格好のパリサイ人は怒り、ののしります。
9:28,29「彼らは彼をののしって言った。『おまえもあの者の弟子だ。しかし私たちはモーセの弟子だ。私たちは、神がモーセにお話しになったことは知っている。しかし、あの者については、どこから来たのか知らないのだ。』」

モーセは旧約聖書に登場する人物で、出エジプトの指導者として有名ですが、それと同時に神様から直接語りかけられ、十戒を受け取ったイスラエルの民の代表としても知られ、尊敬されていたのです。
モーセ自身イエス・キリストの出現を望んでいましたが、そうとは知らない彼らは、自分たちを正統的なモーセの弟子と自認し、他方イエス様については「どこから来たのか知らない」、ある訳では「どこの馬の骨だか知らない」として、全否定していたのです。というより、度重なるイエス様の奇跡が神様からの救い主のしるしであることを何としても認めたくないために、その存在を亡き者にしようと決めていたのでした。
それに気づいた元盲人は、イエス様への信頼の念が募ったのでしょうか。ますます力強く語ります。これを語れば、自分は危険な目にあう、会堂から追放される、それを覚悟の上でのことでした。

9:3034「彼は答えて言った。『これは、驚きました。あなたがたは、あの方がどこから来られたのか、ご存じないと言う。しかし、あの方は私の目をおあけになったのです。神は、罪人の言うことはお聞きになりません。しかし、だれでも神を敬い、そのみこころを行なうなら、神はその人の言うことを聞いてくださると、私たちは知っています。盲目に生まれついた者の目をあけた者があるなどとは、昔から聞いたこともありません。もしあの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできないはずです。』
彼らは答えて言った。『おまえは全く罪の中に生まれていながら、私たちを教えるのか。』そして、彼を外に追い出した。」

この勢い、この力、理路整然とした主張。学問を修めていても、生ける神様の働きに眼が開かない指導者たちはこの男の確信に満ちたことばに内心圧倒されたでしょう。「神は、罪人の言うことはお聞きになりません。しかし、だれでも神を敬い、そのみこころを行なうなら、神はその人の言うことを聞いてくださると、私たちは知っています。…もしあの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできないはずです。」
ついに、ぐうの音も出なくなった指導者たちは、会堂から追放という処罰によって、この人の存在を消そうとしました。恐ろしいことでした。
本来知識は信仰に有益です。しかし、その知識も罪人には高慢の種となる。本来地位はそれを持って人に仕えるため社会に必要なもの。しかし、その地位も罪人が使うと人を苦しめる武器ともなる。私たち彼らを反面教師として知識ある者は知識を、責任ある地位にある者はその地位を正しく用いるべしと戒められます。
 さて、今日の箇所を読み終えて、心にとめたいことが二つあります。ひとつは、パリサイ人の姿に、神から離れて生きる人間の罪が浮き彫りにされていることです。
 彼らは盲目の人の価値をその生まれや能力、自分たちに比べはるかに聖書を知らないこと、またその社会的立場の低さによって判断していました。その人の価値を認めていませんから、その人の語ることばも尊ばず、否定しました。その人の価値を軽く見ていますから、圧力をかけて自分たちの願いどおりのことを言わせようとしました。
 そして、その人が自分たちの考えに反対すると、自分たちを絶対化して相手をののしり、会堂追放という手段でさばき、相手の存在を否定し去ったのです。
 こう言いますと、彼らが本当に酷い人と思えますが、省みれば私たちも同じ罪を犯してはいないでしょうか。相手に酷いことをしているという自覚なく、むしろ自分は正しいと思いつつ相手を感情的に責める、さばくということはないでしょうか。
 私たち人間は、神様から心離れていると相手の存在を尊ぶことができない。神様への畏れが心にないと、相手を思い通りコントロールしようとする。神様と正しい関係にないと相手をさばき、その存在を否定する。
 私たち、自分の言動がパリサイ人のようだと神様に、あるいは周りの人に示されたら、神様のもとに立ち返り、悔い改める者でありたいと思います。
 二つ目は、盲人の生き方の変化です。イエス様に出会う前、生まれつきの病ゆえこの人は世間を恐れ、自分を無価値な存在と感じて生きて来たと考えられます。
 それが、どうでしょう。イエス・キリストが「この人の病はこの人の罪でも、両親の罪のためでもない。神のわざがあらわれるためです」と言われた時、彼は自分が神様にとって途轍もなく大切な存在であることに気づき始めました。
 安息日に盲人の目を開けるという癒しを行えば、確実に死に近づくことを承知の上で、自分の様な者に手を触れ、ことばをかけ、命がけの業をなしてくださったイエス・キリストを通して、彼は体の眼のみならず、神様の愛に心の眼開かれたのです。
 その後の状況を見ると、もしこの人が自分の身の安全を第一にするなら、「目を開けた人のこと等知らぬ存ぜぬ。その人と自分とは一切関わりはありません」と言い逃れることもできたでしょう。それをこの人は自ら弟子と名乗り、命をかけて自分の心の眼を開き神様の愛を示してくださったイエス・キリストとともに、イエス・キリストを主として生きることを選んだのです。

 ガラテヤ220「私はキリストともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」


 皆様の心にキリストは生きているでしょうか。皆様の心の目はキリストの十字架を通して現された神様の愛に開かれているでしょうか。世の何物よりも、自分よりもキリストを第一とするキリストの弟子として生きることを日々選んでいるでしょうか。

2013年11月3日日曜日

ヨハネの福音書9章1-12節 「神の愛に基づく人生観」

皆様はこの絵に何が描かれていると思われるでしょうか。ある人には壺、ある人には向かい合っている人間の顔と見えます。これはルビンの壺と言い、同じものを見ても、私たちがどこに目を向けるかで全く違うものに見えることを教える絵として有名です。
イエス・キリストとひとりの盲人の出会いを描く今日の聖書の箇所も、私たちに同じ真理を教えているように思えます。生まれつきの盲目という苦しみが、神様の愛に心の眼開かれない者には罪の罰、不幸不運の極みと見える。それに対して、神様の愛に心の眼開かれた者には宝物と見える。その様なことを覚えつつ、今日のお話しを読み進めてゆきたいと思います。

9:1「またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。」

生まれながらに盲目という悲惨さに胸が痛みます。加えるに、この人は物乞いをしていたと8節に言われていますから、人の憐れみによりすがらねば生きてはゆけない辛さも感じていたでしょう。
さらに、このお話が進展してゆくと、この人の両親も登場するのですが、どうもこの人は親の保護を受けられず、見放されていたと見えます。帰る家のない一人暮らし。その侘しさもひとしおではなかったかと思われます。
「イエスは彼を見られた」とありますが、イエス様の優しい眼差しは、この盲目の人の心の内を見られ、心から同情していたことを表していました。しかし、弟子たちは違っていたようです。彼らはこの人を見ると、心無き一言を発しました。

9:2「弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。『先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。』」

弟子たちは無意識であったかもしれませんが、この問いはどれほど盲人の心に冷たく響いたことでしょう。「この人が生まれつき眼が見えないのは、誰の罪のせいですか。本人のですか、それとも両親のですか」。
病、苦難は罪の報い。因果応報。古今東西どこにでも、いつでも見られた考え方です。その頃のユダヤでも広く行き渡った見方でした。
しかし、そのためにこの世の不幸に悩む人々は、ただ病気や貧しさに苦しむだけでなく、「その不幸の元となった罪は何か」と探る世間の冷たい目に、身の置き所のない苦しみを味わわねばならなかったのです。
さらに、人間誰しも完全ではないわけですから、「罪は無いか」と問われれば、良心に痛みを感じることの一つや二つは思い当たるというもの。自分で自分を責めて、一層苦しみが増すという日もあったはずです。
それに対して、イエス様は人を苦しめる因果応報の考え方を真っ向から否定、一刀両断。驚くべきことばを語られたのです。

9:35「イエスは答えられた。『この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行なわなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。
わたしが世にいる間、わたしは世の光です。』」

 このイエス様のことば。それはこの人をどれ程重苦しい思いから解放したことでしょうか。今まで誰からも聞いたことのなかったことば。自分を責め、両親を責め、世間の冷たさに苦しんできた自分の心に光が差し込んだ様な気持ちになることばでした。
 「神のわざがこの人に現れるため」。こんな自分の人生に何の意味があるかと寂しい思いをしてきたのに、この世界を造られた神様のわざが現れるために自分は生かされている。そう言われて、初めて自分のような存在にも大切な意味があることをこの人は考えるようになったでしょう。
さらに、です。「わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行なわなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」とのことばは、夜つまり十字架の死を覚悟したイエス様の心から溢れでる愛を思わせます。
盲目の人の苦しみを見て心動かされたイエス様は、昼の間つまり世にいる間、世の光として全身全霊でこの様な人々を愛し、仕えなければという思いを掻き立てられたのでしょう。この溢れ出る愛は行動へと移されました。

9:67「イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。『行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。』そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。」

つばきで泥を作り、それを盲人の目に塗る。そして、近くにあるシロアムの池で洗えと言う。一見奇妙とも思える行為と命令は、この人が心からイエス様をキリスト、神から遣わされた救い主として信頼しているかどうか。そのテストと考えられてきました。
それに対して、黙って、何も聞かず、即座に従った盲目の人。この信仰の人に眼が開かれるという祝福がもたらされたのです。
何故つばきで作った泥を塗ったのか。何故シロアムの池で眼を洗うのか。一言の理由も言わなかったイエス様。何も聞かずに従った盲人。これが本当の信仰、信頼です。
もし、私が皆さんの家に行き、「何も聞かずに百万円貸してください」と言ったら、皆様はどうするでしょう。即座に断るか、ちゃんと理由を言ってくれなければ貸せないと断るか。どちらかでしょう。その判断は正しいと思います。
しかし、これが私の妻だとしたらどうなのか。間違いなくとは言えませんが、恐らく黙って百万円出してくれるのではないかなあと思います、いや期待します。何も言わずにその人のことばに従う、リスクがあるとしても受け入れる。これが信頼関係だと思います。
「世界で最もすばらしいものは、目で見たり、手で触れたりすることはできません。それは心で感じなければならないのです。」眼見えず、耳聞こえず、口きけずという三重苦でありながら、福祉事業家として活躍した女性ヘレン・ケラーのことばです。
この時既に宗教指導者から命を狙われていたイエス様。そのイエス様が癒しの奇跡を行えば、ますます身の危険は迫る。しかし、そのことを承知の上で自分のような者を心にかけ、生まれたこの方閉じたままの眼を開いてくださろうとしている。
自分に触れたイエス様の手に命がけの愛を心で感じたこの人は、だからこそ精一杯の信頼と行動でその愛に応えた。そんな場面です。
そして、イエス様に癒された男の表情は一変しました。今まで自分を見下していた人々にも臆することなく、イエス・キリストのわざについて証ししたのです。

9:812「近所の人たちや、前に彼がこじきをしていたのを見ていた人たちが言った。「これはすわって物ごいをしていた人ではないか。」ほかの人は、「これはその人だ。」と言い、またほかの人は、「そうではない。ただその人に似ているだけだ。」と言った。当人は、「私がその人です。」と言った。
そこで、彼らは言った。「それでは、あなたの目はどのようにしてあいたのですか。」
彼は答えた。「イエスという方が、泥を作って、私の目に塗り、『シロアムの池に行って洗いなさい。』と私に言われました。それで、行って洗うと、見えるようになりました。」また彼らは彼に言った。「その人はどこにいるのですか。」彼は「私は知りません。」と言った。」

 眼開かれ、人々が別人かと思うほど生き生きとした表情を浮かべるその顔。本来の人間としての活力を取り戻したことを示すその言動。眼ばかりか心もイエス・キリストによって癒された人の姿がここにはありました。
 さて、今日の箇所を読み終えて、先ず私たちが確認したいのはイエス様が言われた「神のわざが現れる」ことの意味です。
 それは、盲目の人の姿から分かるように、私たちがイエス・キリストを救い主として信頼して生きること、イエス・キリストを通して表された神様の愛を心に受け入れて人生を歩むことです。
 今日登場した生まれながらの盲人は、神様から離れて生きる私たちの姿の象徴と考えることもできます。神様から離れ、神様に背いて生きる人間は、神様の愛と自分の価値について盲目の状態にある、人生で最も大切な二つの真理に対し心の眼が閉じたままであり、これが私たちの最大の問題、罪だと、聖書は教えています。

 イザヤ434「わたしの眼にあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」

 これは、聖書全体を集約したような、神様から私たち一人一人に対するメッセージでした。果てしなく大きな宇宙を創造した神様が、小さなチリのような星地球に住む私たちを心から大切に思い、かけがえのない存在として愛しておられる。
 全能の神様から見れば取るに足りないと思われる私たちの存在が、神様にとってはたとえようもなく尊く、とてつもない価値を持っている。どんな病を負っていても、貧しくとも、世間から冷たい眼で見られても、家族が見放しても、神様の愛は私たちを決して見放したりしない。
 その証拠に、二千年前救い主イエス・キリストが神様から遣わされ、私たちの罪のために十字架に死ぬという犠牲を払われました。このイエス・キリストを信じる時、私たちの心の眼が開かれ、神様の愛と自分の価値を知ることができるのです。
 これが、あの盲人と同じく、キリストを信じる者に現れる神様のわざでした。
 そして、キリストを信じ心の眼開かれた私たちが心に抱くのは、新しい人生観、神様の愛に基づく人生観です。今日の聖句を少し長いですが、ご一緒に読みたいと思います。

 ローマ525「またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導きいれられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。そればかりではなく、艱難さえも喜んでいます。それは、艱難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」

 ルネッサンスの天才ミケランジェロの代表作のひとつ「ダビデ像」は、もともと大きな石の塊に過ぎませんでした。しかし、山から切り出されたただの石の塊の中に、ミケランジェロはあの美しく力強いダビデ像を見ていました。長い年月をかけて石を削り、彫り、刻んで完成したのです。
 もし、石が人間だとしたら、削り、刻まれる痛みを感じていたはずです。
 残念ながら、神様を離れて生きる人間は順調な環境の中では、神様を求めることも、本当の自分を知ることもできないと、聖書は教えています。
ですから、神様はこの様なことがどうして人生に起こるのかと感じるような苦難を私たちに与え、そのなかで神様を信頼して忍耐することを学ばせるのです。忍耐を通して練られた品性、つまりイエス様のような心と生き方をなす者、どのような時も栄光の体での復活と神様によって新しくされた世界で永遠に生きる希望を抱いて歩む者へと私たちを造りかえてくださるのです。
人生の苦難は、ミケランジェロがダビデ像を完成するためにふるった鑿のようなもの。神様は私たちを心から愛するがゆえに、私たちが神様にあって最高に満ち足りて生きる者とするために苦難をお与えるになる。聖書が教えるこの様な人生観を持つことができたら何と幸いなことかと思います。
「自分のいのちが一番大切だと思っていたころ、生きるのが苦しかった。自分のいのちより大切なものがあると知った日、生きているのがうれしかった。」重い障害を負って生きる星野富広さんのことばです。
皆様にとって一番大切なものは何でしょうか。何を一番大切にしているかによって、私たちの生き方は全く変わってくるように思います。
もし、この世における自分のいのちが一番大切なら、苦難は不幸、不運でしかありません。特か損かで言えば損も損、大損の人生です。しかし、もし、神様と神様の愛を一番大切なものとするなら、苦難も宝物、大きな益となるのです。
苦しみの中にあって、それが神様の自分に対する愛から与えられたものであることを覚え、神様をほめ、神様の愛を喜ぶ。人生の艱難、苦しみさえも喜ぶとはその様な人生でした。
私たちみなが神様の愛に基づく人生観を身につけてゆくことができるように、そのために神様のことばに信頼し、神様の愛が一人一人の心に豊かに、絶えず注がれるよう祈り、願いたいと思います。