「私は~~です。」と言うとしたら、何と表現するでしょうか。自分をどのような存在だと思うでしょうか。
私は会社員です。私は学生です。など、社会的立場を思い浮かべるでしょうか。私は身体が大きいです。私は英語が得意です。など、他の人と比べて特徴的なことが、思い浮かぶでしょうか。私は運動が好きです。私は音楽鑑賞が趣味です。など、自分の好きなことが思い浮かぶでしょうか。私は大きな仕事に取り組みたいです。私は家族が大事です。など、自分の目指す生き方が思い浮かぶでしょうか。
答えは一つではなく、複数のことが思い浮かぶと思います。「私は会社員で、英語が得意、運動が好きで、大きな仕事に取り組みたい・・・。」などなど、一つの答えではなく複合的に出てくると思います。
「私は~~です。」と言う時、色々な表現が出てくると思うのですが、その中から、最も中心的なこと。最も自分らしい答えを一つ挙げるとしたら、それは何でしょうか。自分のアイデンティティの中心にあるのは、何でしょうか。
自分を何者とするのか考えることは重要なこと。私たちの人生に大きな影響を与えます。もう一度聞きます。皆様は、自分を何者と考えて生きているでしょうか。
私は誰なのか。自分は何者なのかを考える時、私たちクリスチャンは、聖書の中から答えを見つけるのが最上です。自分は何者なのか、自分で決めるのではなく、神様が何と言っているのか。自分がどのような存在なのか、聖書を通して見出す。神様との関係で見出すことが出来ればと願うところです。
私の説教の際、断続的に一書説教に取り組んでいます。今日は十三回目。旧約聖書、第十三の巻、第一歴代誌を扱うことになります。第一歴代誌を読む時にも、神様はどのようなお方で、その方の前で自分はどのような存在なのか、意識しながら読むことが出来るように。毎回のことですが、一書説教の際には、扱われた書を読むことをお勧めいたします。一書説教が進むにつれて、教会の皆で聖書を読み進めていくという恵みにあずかりたいと願っています。
さて、前回扱いました第二列王記の最後を覚えているでしょうか。イスラエル王国が南北に分裂した後、北イスラエルはアッシリアに敗北、南ユダはバビロンに敗北する記録でした。
アッシリアに負けた北イスラエルは、民族としてのアイデンティティを失い消滅します。残念無念。片や南ユダの住民は、バビロンに奴隷として連れて行かれるも、アイデンティティは失われることなく、やがて約束の地カナンに戻ることになる。バビロン捕囚から帰還します。(第二列王記に記されていたのは、バビロンに連れて行かれたところまでで、バビロン捕囚からの帰還については、歴代誌の後、エズラ記に記されることになります。)
神の民として歩んできたイスラエル王国。その王国が二つに分かれ、一つの王国は失われてしまった。残った南ユダの民にしても、しばらくの間、バビロンで奴隷として生きてきた後、今一度、約束の地カナンに戻ってきた。ここでもう一度、国を建て上げなければならないという状況。これはつまり、自分たちが何者なのか考える状況なのですが、この時に記されたのが、歴代誌です。
想像出来ますでしょうか。大きな悲劇を味わい、国を再建しないといけない時。言葉によって、国の再建を目指す時。改めて自分たちは何者なのか、強く意識する時。自分が文章を記す者だとしたら、どのような内容を記すでしょうか。
国の再建のために記された書。自分たちが何者なのか再確認する書。一体何が記されるのかと思い、聖書を開きますと、驚くべき内容となっています。
第一歴代誌1章1節~4節
「アダム、セツ、エノシュ、ケナン、マハラルエル、エレデ、エノク、メトシェラ、レメク、ノア、セム、ハム、それにヤペテ。」
国を再建する。自分たちが何者なのか意識する。そのための文章が、アダムから始まる名前の羅列でした。聖書の中には時々、名前の羅列、系図が記されますが、歴代誌の冒頭に記された系図は聖書中最長。何と九章までが系図。第一歴代誌の約三分の一がこの系図に割かれることになるのです。一体、これは何でしょうか。なぜ国の再建のため、自分たちが何者なのか考える際に、この人名の羅列なのか。皆様は、何を意味すると考えるでしょうか。
アダムから始まる系図。人類の歴史、人類の祖先の系図。しかし、アダムの次はカインではなく、セツとなっていて、この系図が神様を信じ、神様を礼拝する者たちの歴史の確認であることが汲み取れます。
つまり、歴代誌の著者の意図は、神様を礼拝する者の歴史の延長に自分たちがいることを思いおこさせること。自分たちが、世界の始めから続いている、神様を礼拝する者の系譜に連なる者であることを意識させることにあると思います。国を再建する上で、最も重要なこと。それは、世界の始まりからこれまでの間、礼拝する民を守られてきた神様の思いを知ること。自分たちが何者なのか。神様を礼拝する者なのだという主張です。
世界の始めから、神様は礼拝する者を守られてきた。その礼拝の民に、自分も加えられている。この歴代誌の視点は、バビロンから帰ってきた南ユダの人々にも必要でしたが、私たちにも必要な視点です。
偶像に満ち溢れた国。世界の創り主を礼拝する者が、非常に少ない日本。信仰の歴史と言っても、三代目、四代目のクリスチャンは稀。神様を礼拝するということが、特殊なことのように感じられます。しかし、果たして本当に、神様を礼拝する者として生きることは、特殊なことなのか。そうではないのです。歴史を貫いて、神様を礼拝する者がおこされてきた。日本の一地方にある教会の礼拝。その礼拝は神様が守り、導かれている大切な礼拝の一つであり、今日もその礼拝に導かれたことに私たちは大いに胸を張りたい。大いに喜びたいと思うのです。第一歴代誌の前半。名前の羅列の記事を、単調なものとして読むのではなく、歴史の重みを感じ、スケールの大きさに圧倒されながら、読むことが出来たらと思います。そして、歴代誌の視点を身に付けることが出来るようにと願います。
九章まで系図が記された後、第一歴代誌の記録は、主にダビデ王の時代の記録。既に読みました、サムエル記の内容と重なります。
サムエル記は主に出来事に焦点が当てられていました。戦いの場面が多く、困難の中にありながら、神様に従う(失敗も多くありましたが)ダビデの姿が中心でした。歴代誌の記録は、サムエル記と比べて、戦いの場面は少なく、出来事の記録も多くない。代わりに、その時代活躍した様々な人の記録が多くあります。戦士、勇士の記録。政治家の記録。契約の箱に仕える者たち、門衛や聖歌隊の記録など。十章以降にも、多くの人名が出てきます。
あちらこちらに、活躍した人の記録が出てくるので、あえて一つを選ぶのは難しいのですが、例えば次のような記録があります。
第一歴代誌12章8節~14節
「また、ガド人から離れて、荒野の要害をさしてダビデのもとに来た人々は、勇士であって戦いのために従軍している人であり、大盾と槍の備えのある者であった。彼らの顔は獅子の顔で、早く走ることは、山のかもしかのようであった。そのかしらはエゼル。第二はオバデヤ。第三はエリアブ。第四はミシュマナ。第五はエレミヤ。第六はアタイ。第七はエリエル。第八はヨハナン。第九はエルザバデ。第十はエレミヤ。第十一はマクバナイ。これらはガド族から出た軍のかしらたちで、その最も小さい者もひとりが百人に匹敵し、最も大いなる者は千人に匹敵した。」
アダムから始まる系図を、九章までまとめ挙げた著者が、今度は一つの時代に焦点を当てて、あの人もいた、この人もいたと記録していくのです。ダビデのような傑出した人物にのみ、神様の視点は注がれているのかと言えば、そうではない。一人一人に、神様の目は注がれているのです。長い歴史の中にいる自分という視点が大事であると同時に、一つの時代にいる一人一人に神様の視点が注がれているという視点も大事でした。
それにしても、ここに記された人たちの紹介文は、面白いもの。その強さを表すのに、顔は獅子、足はかもしか。最も弱い者でも百人力。最も強い者は一騎当千であったと。どれ程凄かったのか。一体、どのような人たちだったのか。天国で会ってみたいと思うのです。
歴代誌に記された出来事は多くはないのですが、重要なこととして、二つの事件が記されています。一つは契約の箱に関するウザ事件。もう一つは、ダビデが人口を数えた結果、裁きが下るという事件です。
まずはウザ事件について確認します。ダビデより少し前の時代。神様のご臨在をあらわす契約の箱が、ペリシテ人に奪われるという事件がありました。その後、契約の箱はイスラエルのもとに戻ってくるのですが、特に大事にされていなかった。ダビデは、自分が全イスラエルの王になった時、この契約の箱を都エルサレムに運び込もうとします。その時に起こった事件。
第一歴代誌13章7節~10節
「そこで彼らはアビナダブの家から神の箱を新しい車に載せた。ウザとアフヨがその車を御していた。ダビデと全イスラエルは、歌を歌い、立琴、十弦の琴、タンバリン、シンバル、ラッパを鳴らして、神の前で力の限り喜び踊った。こうして彼らがキドンの打ち場まで来たとき、ウザは手を伸ばして、箱を押えた。牛がそれをひっくり返しそうになったからである。すると、主の怒りがウザに向かって燃え上がり、彼を打った。彼が手を箱に伸べたからである。彼はその場で神の前に死んだ。」
契約の箱を運び上るとき、牛がひっくり返しそうになった時、その御者のウザが箱に触れると、死んだという事件。ウザ事件です。一体何が起こったのか。何が問題だったのか。
そもそも、契約の箱はレビ人が担いで運ぶと定められていました。聖別された者にのみ与えられた役割だったのです。それを、牛に運ばせていた。そのためにおこった裁きの場面。このことに気付いたダビデは、次のように言い、再度、契約の箱をエルサレムに運ぶ作業に取り掛かります。
第一歴代誌15章2節~3節
「そのとき、ダビデは言った。『レビ人でなければ、神の箱をかついではならない。主は、主の箱をかつがせ、とこしえまでも、ご自身に仕えさせるために、彼らを選ばれたからである。』ダビデは全イスラエルをエルサレムに呼び出して、主の箱を定めておいた場所へ運び上らせようとした。」
この結果、契約の箱はエルサレムに運ばれることになりました。これが、歴代誌の著者が、敢えて選んだ、ダビデの時代のエピソードの一つです。
もう一つ重要な出来事として記されているのが、ダビデが人口を数えた結果、裁きが下るという事件です。
第一歴代誌21章1節、7節
「ここに、サタンがイスラエルに逆らって立ち、ダビデを誘い込んで、イスラエルの人口を数えさせた。・・・この命令で、王は神のみこころをそこなった。神はイスラエルを打たれた。」
サタンの誘惑にあってダビデが人口調査をしたという記事。少し不思議に感じるところです。サタンの誘惑にあって、人妻を犯し、その夫を殺したというのならば分かります。ところが、ここに記されたのは、サタンの誘惑で人口調査をした。聖書の中には、その名も民数記という書で、神様の命令によって人口調査がされる記録がありました。サムエル記からすると、この時の人口調査は、飢饉の後の人口調査のため、国の状態の確認や税制度の立て直しなど、人口調査をする正当な理由があったと思われます。ところが、人口調査をしたことが、神様のみこころをそこなったと言う。何が問題だったのでしょうか。
おそらく動機が問われたのだと思います。己の力を誇示するためのものか。税に頼る思い、富に頼る思いの表れか。多くの恵みを頂き、高い地位につくダビデだからこそ、特に厳しく糾弾されたのか。
このダビデの人口調査の結果、預言者を通して裁きが下されることを宣告されるのですが、その内容はダビデが選ぶようにと言われます。三年間の飢饉、三ヶ月の剣、三日間の疫病。どれも恐ろしいものですがダビデは、三日間の疫病を選択。その結果、七万人もの人が疫病で倒れます。この自体にダビデは深く悔い改め、同時に神様に訴えました。
第一歴代誌21章17節~18節
「ダビデは神に言った。『民を数えよと命じたのは私ではありませんか。罪を犯したのは、はなはだしい悪を行なったのは、この私です。この羊の群れがいったい何をしたというのでしょう。わが神、主よ。どうか、あなたの御手を、私と私の一家に下してください。あなたの民は、疫病に渡さないでください。』すると、主の使いはガドに、ダビデに言うようにと言った。『ダビデは上って行って、エブス人オルナンの打ち場に、主のために祭壇を築かなければならない。』」
裁きの途中でのダビデの訴えに、祭壇を作り、いけにえをささげるようにとの命令。ダビデは、オルナンという人から土地を買い、祭壇を作り、いけにえがささげられ、それにより裁きが終わるという出来事。
ところで、この祭壇の場所は、後にソロモンが神殿を建てる場所となります。ダビデの悔い改めの場所が、後の神礼拝の場所となる。悔い改めの上に、礼拝があることを教える出来事と見ることも出来るでしょうか。何にしろ、これが歴代誌の著者が敢えて記した出来事の二つ目です。
なぜ歴代誌の著者は、ウザ事件と、ダビデの人口調査の事件、敢えてこの二つを重要なこととして記したのでしょうか。もうお分かりだと思います。この二つとも、礼拝に関係のある事柄でした。ウザ事件の後に、契約の箱はエルサレムに運びこまれる。ダビデの人口調査事件の後に、オルナンの打ち場の祭壇が築かれ、そこが神殿の場所となる。
ダビデの次の世代、ソロモンの時代には神殿での礼拝が行われるようになります。それは、息を飲むほどの荘厳な礼拝。しかし、そのような整った礼拝となるまでには、様々な事件を経ていたこと。先人たちの様々な苦労。あるいは失敗と悔い改めがあって、礼拝が整っていったことが教えられるのです。あるべき礼拝、より整えられた礼拝へ導かれていく歴史を確認することが、当時の南ユダの人々に大切なことだったのでしょう。そして、それは私たちも同様です。今、私たちにも素晴らしい礼拝堂が与えられ、様々な奉仕者によって、整えられた礼拝が出来ている。今、このような礼拝が出来るために、これまで、どれだけ多くの祈りと奉仕、ささげものがあったのか。そのことに目が開かれ、感謝をしながら、礼拝をする者でありたいと思います。
以上、第一歴代誌を概観しました。教えられたことをまとめて、終わりにしたいと思います。確認しましたように、歴代誌は歴史を振り返ることを通して、礼拝者を整える目的がありました。それが国を再建する上で最重要なことと考えたのです。
世界の始めの時から、神様は礼拝する者をおこされ、守られてきたこと。神様は、その一人一人に注目していること。人間の歩みは紆余曲折ありながらも、神様はより整えられた礼拝へと導かれること。歴代誌を読み、この歴史の延長に自分たちがいること。この神様に導かれて自分たちがいることを、覚えたいと思います。
私は誰なのかと言えば、神様を礼拝する者。礼拝者として生きることを皆で目指したいと思います。そして礼拝者であるというのは、日曜日の一時間、教会にいることだけを意味するのではありません。礼拝者として生きるというのは、生活の全てで、神様のために生きることなのだと教えるパウロの言葉を読み、終わりにしたいと思います。
今日の聖句です。ローマ人への手紙12章1節
「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」