私たちが礼拝で歌っている讃美歌。クリスマスソングを除くと、その多くは一般的に知られていませんが、「いつくしみ深き」「主われを愛す」などは例外と言ってよいかもしれません。この二曲に加えて、聖歌、新聖歌にある「驚くばかりの」、一般的には「アメージンググレイス」と呼ばれる讃美歌も広く知られているように思われます。
しかし、残念なのは、元奴隷船の船長で数奇な運命をたどり、最後にはイギリスで牧師になったジョン・ニュートンが作った原曲から、現在の日本語讃美歌は大切なことばが抜け落ちてしまっていることです。
原曲は六番までありますが、一番をご紹介しましょう。「驚くべき神の恵み。何と胸をときめかせる言葉か。私のような悪人をさえ救いたもうとは。私はかって失われていましたが、今や神に見出され、かって目が見えなかったのですが、今や見ることができます。」
ニュートンは盲目の人ではありませんでした。ですから、彼が「かって目が見えなかったのですが、今や見ることができます。」と告白した時、その目とは体のではなく、心の目を指します。そして、心の眼開かれたニュートンが見、その人生を奴隷船の船長から牧師へと大きく変えることになったのは驚くべき神の恵みだったのです。
ヨハネの福音書第九章の主人公、生まれつきの盲人も驚くべき神様の恵みを心の眼で見たひとりでした。
ユダヤの都エルサレム。その神殿近くの道で物乞いをしていた盲人。それを見た弟子たちが「彼が生まれつき盲目なのはこの人の罪か、両親の罪か」と心なき質問をする。それに対し、その人の心のうちをすべてご覧になり胸を痛めていたイエス様は、「そのどちらでもない。神のわざがこの人にあらわれるためです。」と答える。
そして、眼に泥を塗られた盲人がイエス様のことばに従い、シロアムの池に行き目を洗うと見えるようになった、と言うのが先回までの経緯でした。
しかし、このイエス様による癒しの奇跡。目出度し目出度しでは終わりませんでした。この日が安息日であったことから大きな問題となり、盲人はパリサイ人と言われる宗教指導者たちの尋問の席に連れてゆかれることになったのです。
9:13~16「彼らは、前に盲目であったその人を、パリサイ人たちのところに連れて行った。ところで、イエスが泥を作って彼の目をあけられたのは、安息日であった。
こういうわけでもう一度、パリサイ人も彼に、どのようにして見えるようになったかを尋ねた。彼は言った。『あの方が私の目に泥を塗ってくださって、私が洗いました。私はいま見えるのです。』すると、パリサイ人の中のある人々が、『その人は神から出たのではない。安息日を守らないからだ。』と言った。しかし、ほかの者は言った。『罪人である者に、どうしてこのようなしるしを行なうことができよう。』そして、彼らの間に、分裂が起こった。」
明らかに良いわざが苦しむ人のためになされたのに、それがどうして「安息日を守らない」と非難されるのか。彼ら宗教指導者は、神様が安息日を定めた目的を間違って理解していたのです。
もともと週に一度の安息日は、私たち人間の体と魂が神様による安息を受け取り、完全に健やかになる日、つまり天国の到来を示すものでした。ですから、安息日に人の目を癒すことは何の問題もないばかりか、むしろ目的に適ったことだったのです。
それを、宗教指導者のパリサイ人は「安息日には一切仕事をしてはならない」とのことばを極端にとり、些細な行いを仕事と定め、人の体を癒すなどの医療行為も以ての外とこれを厳しく禁じていました。
そこで、イエス様本人の行方が分からないと知ると、元盲人を呼んで「どのように見えるようになったのか」と尋ねたのです。
その結果、この癒しが事実であることは否定仕様がないと分かりましたので、イエス本人を否定すべく「安息日を守らない者は、神から出たのではない」と断言する者が現れました。他方、これ程の奇跡を行った者を罪人と言うのは余にも強引とする人々もいて、彼らは分裂状態。そこで、もう一度盲人に問います。
9:17「そこで彼らはもう一度、盲人に言った。『あの人が目をあけてくれたことで、あの人を何だと思っているのか。』彼は言った。『あの方は預言者です。』」
「あの方は預言者です。」眼を癒された人のことばは自信に溢れている様に見えます。預言者とは神様から遣わされた人。400年前のマラキ以来、ユダヤの国に預言者は出現しませんでした。ですから、聖書を詳しくは知らないこの男にとって、預言者というのは最高の評価。救い主に等しい重みを持っていたと思われます。
けれども、指導者たちは納得できません。いや納得したくなかったのでしょう。盲人に聞いてだめならその両親に聞けとばかり、両親を尋問すべく呼び出します。
9:18,19「しかしユダヤ人たちは、目が見えるようになったこの人について、彼が盲目であったが見えるようになったということを信ぜず、ついにその両親を呼び出して、
尋ねて言った。『この人はあなたがたの息子で、生まれつき盲目だったとあなたがたが言っている人ですか。それでは、どうしていま見えるのですか。』」
何としてもイエス様の奇跡を認めたくない彼らは「お前の息子は本当に生まれつき盲目であったのか」と自分たちの立場、権威を用い圧力をかけました。すると、それが効いたのか、両親は肝心な点を息子に丸投げ、証人としての責任から逃げたのです。
9:20~23「そこで両親は答えた。『私たちは、これが私たちの息子で、生まれつき盲目だったことを知っています。しかし、どのようにしていま見えるのかは知りません。また、だれがあれの目をあけたのか知りません。あれに聞いてください。あれはもうおとなです。自分のことは自分で話すでしょう。』
彼の両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れたからであった。すでにユダヤ人たちは、イエスをキリストであると告白する者があれば、その者を会堂から追放すると決めていたからである。そのために彼の両親は、『あれはもうおとなです。あれに聞いてください。』と言ったのである。」
会堂から追放される。これは当時のユダヤ社会では村八分、孤立してしまうことを意味します。そうだとすれば、彼らの恐れには同情の余地もあるでしょう。しかし、「あれはもうおとなです。あれに聞いてください。」と、我が子を他人のように突放す物言いは、これを知った盲人の心を悩ませたと思われます。
しかし、そんな冷たい仕打ちを受けながらも、この男の心は挫けませんでした。むしろ、イエス様を神から遣わされた者と信じる心は益々強められたのです。
9:24~27「そこで彼らは、盲目であった人をもう一度呼び出して言った。『神に栄光を帰しなさい。私たちはあの人が罪人であることを知っているのだ。』彼は答えた。『あの方が罪人かどうか、私は知りません。ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。』そこで彼らは言った。『あの人はおまえに何をしたのか。どのようにしてその目をあけたのか。』彼は答えた。『もうお話ししたのですが、あなたがたは聞いてくれませんでした。なぜもう一度聞こうとするのです。あなたがたも、あの方の弟子になりたいのですか。』」
両親からも有利な証言を得られなかった彼らは、それでもイエス様を追い詰めることに執念を燃やし、もう一度盲人を呼び出しました。再尋問です。
「神に栄光を帰しなさい」とは、神の名にかけて本当のことを言え、嘘を言うなという意味ですが、ここでは明らかに嘘の証言を強要する脅かしでした。
私たち対私、大勢対ひとり。方やパリサイ人は社会的地位の高い宗教の専門家、それに対して男は社会の底辺に生きる元盲人で物貰い。普通だったら勝負は目に見えていますのに、この人は強い、挫けない。
特に最後のことば「あなたがたも、あの方の弟子になりたいのですか」は、痛烈な反撃。相手の顔面へのカウンターパンチと見えます。と同時に、この人が既に心からイエス・キリストの弟子となっていたことのあかしでした。
見下していた相手から思わぬパンチを浴びた格好のパリサイ人は怒り、ののしります。
9:28,29「彼らは彼をののしって言った。『おまえもあの者の弟子だ。しかし私たちはモーセの弟子だ。私たちは、神がモーセにお話しになったことは知っている。しかし、あの者については、どこから来たのか知らないのだ。』」
モーセは旧約聖書に登場する人物で、出エジプトの指導者として有名ですが、それと同時に神様から直接語りかけられ、十戒を受け取ったイスラエルの民の代表としても知られ、尊敬されていたのです。
モーセ自身イエス・キリストの出現を望んでいましたが、そうとは知らない彼らは、自分たちを正統的なモーセの弟子と自認し、他方イエス様については「どこから来たのか知らない」、ある訳では「どこの馬の骨だか知らない」として、全否定していたのです。というより、度重なるイエス様の奇跡が神様からの救い主のしるしであることを何としても認めたくないために、その存在を亡き者にしようと決めていたのでした。
それに気づいた元盲人は、イエス様への信頼の念が募ったのでしょうか。ますます力強く語ります。これを語れば、自分は危険な目にあう、会堂から追放される、それを覚悟の上でのことでした。
9:30~34「彼は答えて言った。『これは、驚きました。あなたがたは、あの方がどこから来られたのか、ご存じないと言う。しかし、あの方は私の目をおあけになったのです。神は、罪人の言うことはお聞きになりません。しかし、だれでも神を敬い、そのみこころを行なうなら、神はその人の言うことを聞いてくださると、私たちは知っています。盲目に生まれついた者の目をあけた者があるなどとは、昔から聞いたこともありません。もしあの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできないはずです。』
彼らは答えて言った。『おまえは全く罪の中に生まれていながら、私たちを教えるのか。』そして、彼を外に追い出した。」
この勢い、この力、理路整然とした主張。学問を修めていても、生ける神様の働きに眼が開かない指導者たちはこの男の確信に満ちたことばに内心圧倒されたでしょう。「神は、罪人の言うことはお聞きになりません。しかし、だれでも神を敬い、そのみこころを行なうなら、神はその人の言うことを聞いてくださると、私たちは知っています。…もしあの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできないはずです。」
ついに、ぐうの音も出なくなった指導者たちは、会堂から追放という処罰によって、この人の存在を消そうとしました。恐ろしいことでした。
本来知識は信仰に有益です。しかし、その知識も罪人には高慢の種となる。本来地位はそれを持って人に仕えるため社会に必要なもの。しかし、その地位も罪人が使うと人を苦しめる武器ともなる。私たち彼らを反面教師として知識ある者は知識を、責任ある地位にある者はその地位を正しく用いるべしと戒められます。
さて、今日の箇所を読み終えて、心にとめたいことが二つあります。ひとつは、パリサイ人の姿に、神から離れて生きる人間の罪が浮き彫りにされていることです。
彼らは盲目の人の価値をその生まれや能力、自分たちに比べはるかに聖書を知らないこと、またその社会的立場の低さによって判断していました。その人の価値を認めていませんから、その人の語ることばも尊ばず、否定しました。その人の価値を軽く見ていますから、圧力をかけて自分たちの願いどおりのことを言わせようとしました。
そして、その人が自分たちの考えに反対すると、自分たちを絶対化して相手をののしり、会堂追放という手段でさばき、相手の存在を否定し去ったのです。
こう言いますと、彼らが本当に酷い人と思えますが、省みれば私たちも同じ罪を犯してはいないでしょうか。相手に酷いことをしているという自覚なく、むしろ自分は正しいと思いつつ相手を感情的に責める、さばくということはないでしょうか。
私たち人間は、神様から心離れていると相手の存在を尊ぶことができない。神様への畏れが心にないと、相手を思い通りコントロールしようとする。神様と正しい関係にないと相手をさばき、その存在を否定する。
私たち、自分の言動がパリサイ人のようだと神様に、あるいは周りの人に示されたら、神様のもとに立ち返り、悔い改める者でありたいと思います。
二つ目は、盲人の生き方の変化です。イエス様に出会う前、生まれつきの病ゆえこの人は世間を恐れ、自分を無価値な存在と感じて生きて来たと考えられます。
それが、どうでしょう。イエス・キリストが「この人の病はこの人の罪でも、両親の罪のためでもない。神のわざがあらわれるためです」と言われた時、彼は自分が神様にとって途轍もなく大切な存在であることに気づき始めました。
安息日に盲人の目を開けるという癒しを行えば、確実に死に近づくことを承知の上で、自分の様な者に手を触れ、ことばをかけ、命がけの業をなしてくださったイエス・キリストを通して、彼は体の眼のみならず、神様の愛に心の眼開かれたのです。
その後の状況を見ると、もしこの人が自分の身の安全を第一にするなら、「目を開けた人のこと等知らぬ存ぜぬ。その人と自分とは一切関わりはありません」と言い逃れることもできたでしょう。それをこの人は自ら弟子と名乗り、命をかけて自分の心の眼を開き神様の愛を示してくださったイエス・キリストとともに、イエス・キリストを主として生きることを選んだのです。
ガラテヤ2:20「私はキリストともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」
皆様の心にキリストは生きているでしょうか。皆様の心の目はキリストの十字架を通して現された神様の愛に開かれているでしょうか。世の何物よりも、自分よりもキリストを第一とするキリストの弟子として生きることを日々選んでいるでしょうか。