ヨハネの福音書第九章は、イエス・キリストと生まれつき盲目の男との物語です。今日が第三回目で最後となります
今までの流れを振り返りますと、第一部はイエス様と男との出会い。道端に座る男を見た弟子たちが、「先生、彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」と問う。当時ユダヤの社会で一般的であった「苦難の原因はその人か両親の罪」という考え方、所謂因果応報の考えから出た質問でした。
それに対し、「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです」と説いたイエス様は、唾で泥を固め盲人の目に塗ると、「シロアムの池に行き洗いなさい」と命じます。そのことばに従い、男が池の水で目を洗うと目が開き、見えるようになった。これが事の発端です。
第二部は、盲人の目が癒されたのが安息日であることを知り、再三安息日に禁じられている癒しのわざを為すイエス様を咎めるパリサイ人ら宗教指導者が、盲人と彼の両親を裁判の席に呼び、尋問を行うという場面でした。
しかし、多勢に無勢、権力者と貧しい庶民。弱い立場にあるはずの元盲人は卑劣な脅かしにも屈せず、イエス様を「預言者」「神から出た人」と呼び、ついに「あなた方も、あの方の弟子になりたいのですか」と攻勢をしかけます。
勢いに押され窮した指導者たちは、「お前は全く罪の中に生まれながら、私たちエリートを教えるのか」と罵倒した末、会堂からの追放処分、村八分にしたのです。
イエス様に目を開けて貰い、長年の苦難から解放され万々歳かと思いきや、今度は、権力者から苦しめられた末に、またもや社会の片隅に追いやられる。しかし、そんな男のことを我が事のように心配し、じっと見守っていたのがイエス様です。
イエス様が男と再会し、彼を信仰に導く第三部今日の箇所は、第九章の最初にイエス様が言われた「この人に神のわざが現れるため」とはどういうことなのか。それが明らかになる印象的な締めくくりとなっています。
ところで、今日の箇所を読み進める前に、聖書が教える苦難の意味について整理しておきたいと思います.
第一に、人間の受ける苦しみは人間の罪に対する神様の刑罰という意味を持っている場合があります。弟子たちはこの点に目をつけた訳ですが、彼らは苦難の意味を罪に対する罰という一点に限って理解するという誤りを犯していました。
第二に、人間の受ける苦しみは、その人を訓練し神様のきよさに預からせるという意味を持つ場合があります。「神様はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。」(ヘブル12:7)という聖書のことばはこれを教えています。
しかし、聖書はこれらを越えた苦しみがあることを教えています。それは、その人が神様のものとなるため、神様との人格的な交わりに入れられるため、あるいは神様との交わりがより深められるために与えられる苦難があるということです。
ヨハネの福音書第九章の主人公、盲目の男の受けた苦難は、この三番目の場合に当たるのではないかと考えられます。
それでは、ご自分が心からのあわれみをもって癒した男が会堂追放の処分を受けたとの知らせを耳にしたイエス様が彼に再会するところからです。
9:35~38「イエスは、彼らが彼を追放したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。『あなたは人の子を信じますか。』その人は答えた。『主よ。その方はどなたでしょうか。私がその方を信じることができますように。』イエスは彼に言われた。『あなたはその方を見たのです。あなたと話しているのがそれです。彼は言った。『主よ。私は信じます。』そして彼はイエスを拝した。」
イエス様と男の再会は偶然ではありませんでした。イエス様の側が彼を見つけ出したのです。この可哀想な元盲人がユダヤの会堂から追い出されると、すぐにイエス様は彼を見つけ慰めのことばをかけておられる。この人にとってこの処分がどれほどひどい苦しみであったか良く知っておられたからこそ、すぐに優しいことばをかけて励まそうとされたのです。
しかし、これは命がけの行いでした。既にイエス様を殺そうと狙うパリサイ人は男の後をつけていたらしく、その場に居合わせましたから、まさに危険を承知の上の再会だったのです。
そして、この男のためにイエス様はご自分のすべてを現されました。「あなたは人の子を信じますか」。「人の子」は旧約聖書ダニエル書に預言された救い主を指します。
ダニエル7:13,14「私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲に乗ってこられ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。この方に、主権と栄光と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えるようになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることはない。」
神の国の王であるお方、人の子、救い主を信じますかと尋ねるイエス様。それに対して「主よ。その方はどなたでしょうか。私がその方を信じることができますように」と応答する男。さらに「あなたはその方を見たのです。わたしがそれです」と答える救い主のイエス様。
聖書中、これほど積極的にご自分を現すイエス様は稀でした。そして、男の心は既に命がけで自分の目を開き、自分を見つけ出してくれたイエス・キリストの愛に動かされていましたから、「主よ。私は信じます。」と答え、イエス様を神様として礼拝したのです。
ここに肉体の目ばかりか、心の目開かれイエス・キリストを信じ、神様と人格的な交わりの関係に入れられた男の姿があります。「神のわざがこの人に現れるため」というイエス様のことばは、生まれつきの盲目と権力者の不当な仕打ちという苦難を通して、この人がキリストの愛を知り、神様との正しい関係、神様との親しい交わりに導かれることにおいて実現したのです。まさに、ハレルヤと言いたくなる場面です。
しかし、次の一言は、喜び二人の姿を冷たい目で眺めていたパリサイ人を意識してのものだったと思われます。
9:39 「そこで、イエスは言われた。『わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。』」
目の見えないこと盲目は、聖書において人間が罪の中にあること、少し抽象的な表現になりますが、霊的に死んだ状態を指します。
そして、ここで言う「さばき」とは、イエス・キリストに対してとる態度によって、その人の心のあり方が明らかにされることを意味します。
太陽の熱は冷たい氷を溶かしもすれば、他方やわらかい粘土を固くもします。同じ太陽がその熱を受けるものによって、正反対の効果を及ぼすのです。
つまり、自分が救いようのない罪人であることを認め、イエス・キリストを信じ頼る他ないと思う人は、心の目開かれ神様との親しい関係に入ることができる。しかし、自分が罪人であることを認めず、キリストの助けを必要と思わない人は、心の目開かれず、神様との親しい交わりに入れないままであることを教えることばでした。
案の定、このことばは宗教的指導者として自他共に認めるパリサイ人のプライドを傷つけたようです。彼らは「私たちをも盲目、つまり罪人だというのか」と反論しました。
9:40,41「パリサイ人の中でイエスとともにいた人々が、このことを聞いて、イエスに言った。『私たちも盲目なのですか。』イエスは彼らに言われた。『もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。』」
パリサイ人に向けたイエス様のことばは痛烈この上ありません。「私たちは目が見える」、つまり「私たちは神様を良く知っている。神様の律法を十分守っている」と心高ぶるあなたがたこそ、実は神様から遠く離れた状態、罪の中にとどまっていると、イエス様は言い切ったからです。
神様のことを良く知っていると考えていた彼らは、神様の律法を踏み行っている、守っているから大丈夫と思い、実は心の奥底の動機や思い、願望を見抜く聖なる神様の目を知りませんでした。神様の目から見たら自分こそ心の殺人、心の姦淫を犯す救いようのない罪人と思っていませんから、神様の罪人に対する愛など知る由もなかったのです。
しかし、この厳しいことばも、イエス・キリストの愛から出たものでした。何故なら、この様なことばを語れば語るほど、確実に死が近づくことを知りながら、ご自分を敵視するパリサイ人が神様の前に出て自分の罪に気がつくようにと願い、語られたものだからです。
さて、今日の箇所を読み終えて、私たちが確認したいのは、生まれつき盲目であった人に現れた神様のみわざです。彼は生まれつきの盲という苦難、目を開けられてからの苦難を通して、イエス・キリストを信じ、神様との親しい交わりに導かれてゆきました。
最初は「イエスという方、人」、次に「預言者」、そして「神から出た方」、ついに「主よ」と告白する。この男が苦しみの中でいかにイエス・キリストに近づき、心引かれ、神様として礼拝し、交わるに至ったか。この姿を私たち自分の歩みと重ねあわせたいと思います。
私たち人間はこの世界を造られた神様と親しく交わり、神様を喜び、神様をほめたたえて生きるために造られたと、聖書は教えています。そう考えれば、この人は人間として最高の喜びを覚える人生、最も幸いな人生へと導かれたのです。
神様のわざがあらわれることと私たちが人間として最高の人生を歩むことはコインの表裏。そう確認したいところです。
二つ目に確認したいのは、パリサイ人の罪という問題です。世界の創造の最初、人間は神様を知ることのできる存在として創造されました。神を知る知識は本来良いものであったのです。
神様を知れば知るほど、自分の知るところはほんの一部に過ぎないと人間はへりくだり、ますます神を知り、ほめたたえたくなる。これが本来の神を知ることでした。
しかし、人間が神様を離れ背いてから、知識は人を高ぶらせるものとなったのです。神様について人よりも知っているということで満足する。知らない人を見下す。また、心の奥に住む罪、どうしようもない罪を悟らず、自分の行いに満足し、信頼する。自分の知識を絶対化し、知らないと思う者をさばく。
これは他人事ではありません。ある人から聞いた話です。「私の息子はクリスチャンという者になってから人が変わった。私はキリスト教は良いものだと思っているが、息子がことあるごとに、先祖伝来の神道や仏教の悪口を言うのに腹が立つ。それを聞くたびに、クリスチャンっていうのは、そんなに何でも知っている偉い者なのかと言いたくなる」と。
皆様、お分かりでしょうか。このお父さんはキリスト教に躓いているのではありません。神様を知っている自分を絶対化し、他の宗教を批判する息子の高慢な態度に躓いているのです。神様は絶対的存在でも、神様を信じている自分が絶対的なわけではない。正しい教えを知っている自分がいつも正しいわけではない。
そのことを良くわきまえて、自らへりくだり、人を尊敬する態度で伝道する者となりたいと思わされます。
イエス様はパリサイ人に「私たちは目が見える」と言うあなたがたの罪は残る、と警告されました。
たとえて言うなら、自分を病人と思わない病人は、医者の差し出す薬を拒否することで、ますます病が悪化するでしょう。それと同じく、私たちも自分の罪に気がつかず、イエス・キリストにおいて示された神様の愛を拒み、受け入れないことで、ますます自分を絶対化し、信頼し、人をさばく高慢の罪は悪化するのです。
パリサイ人の生き方を反面教師にする。それは、私たちの中にもパリサイ人が住んでいることを思う時、誰にも必要なことと思われます。
最後に、神様との交わりの中にある時、神様とのただ医師関係の中にある時、私たちはすべての出来事に神様のわざを見ることができるという恵みを確認したいと思います。者になりたいと思います。
パリサイ人は、イエス・キリストの奇跡にも、教えにも、神のわざを見ることはできませんでした。しかし、あの盲人の男はイエス・キリストを救い主と信じた時、自分が盲目に生まれついたことも、目を開かれてから受けた苦しみにも、本当に尊い意味があることを思ったでしょう。イエス・キリストの癒しも、再会も、自分のようなものを愛し、大切に思う神様のご配慮とおぼえたことでしょう。
私たちも、人生に起こり来るすべての出来事に神様のわざを見る者となりたく思います。私たちを愛してやまない神様の導きという視点から、喜びや苦しみ、病や困難、様々な人との出会いの意味を考える者となれたらと思います。
ローマ8:28「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」