2013年11月3日日曜日

ヨハネの福音書9章1-12節 「神の愛に基づく人生観」

皆様はこの絵に何が描かれていると思われるでしょうか。ある人には壺、ある人には向かい合っている人間の顔と見えます。これはルビンの壺と言い、同じものを見ても、私たちがどこに目を向けるかで全く違うものに見えることを教える絵として有名です。
イエス・キリストとひとりの盲人の出会いを描く今日の聖書の箇所も、私たちに同じ真理を教えているように思えます。生まれつきの盲目という苦しみが、神様の愛に心の眼開かれない者には罪の罰、不幸不運の極みと見える。それに対して、神様の愛に心の眼開かれた者には宝物と見える。その様なことを覚えつつ、今日のお話しを読み進めてゆきたいと思います。

9:1「またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。」

生まれながらに盲目という悲惨さに胸が痛みます。加えるに、この人は物乞いをしていたと8節に言われていますから、人の憐れみによりすがらねば生きてはゆけない辛さも感じていたでしょう。
さらに、このお話が進展してゆくと、この人の両親も登場するのですが、どうもこの人は親の保護を受けられず、見放されていたと見えます。帰る家のない一人暮らし。その侘しさもひとしおではなかったかと思われます。
「イエスは彼を見られた」とありますが、イエス様の優しい眼差しは、この盲目の人の心の内を見られ、心から同情していたことを表していました。しかし、弟子たちは違っていたようです。彼らはこの人を見ると、心無き一言を発しました。

9:2「弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。『先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。』」

弟子たちは無意識であったかもしれませんが、この問いはどれほど盲人の心に冷たく響いたことでしょう。「この人が生まれつき眼が見えないのは、誰の罪のせいですか。本人のですか、それとも両親のですか」。
病、苦難は罪の報い。因果応報。古今東西どこにでも、いつでも見られた考え方です。その頃のユダヤでも広く行き渡った見方でした。
しかし、そのためにこの世の不幸に悩む人々は、ただ病気や貧しさに苦しむだけでなく、「その不幸の元となった罪は何か」と探る世間の冷たい目に、身の置き所のない苦しみを味わわねばならなかったのです。
さらに、人間誰しも完全ではないわけですから、「罪は無いか」と問われれば、良心に痛みを感じることの一つや二つは思い当たるというもの。自分で自分を責めて、一層苦しみが増すという日もあったはずです。
それに対して、イエス様は人を苦しめる因果応報の考え方を真っ向から否定、一刀両断。驚くべきことばを語られたのです。

9:35「イエスは答えられた。『この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行なわなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。
わたしが世にいる間、わたしは世の光です。』」

 このイエス様のことば。それはこの人をどれ程重苦しい思いから解放したことでしょうか。今まで誰からも聞いたことのなかったことば。自分を責め、両親を責め、世間の冷たさに苦しんできた自分の心に光が差し込んだ様な気持ちになることばでした。
 「神のわざがこの人に現れるため」。こんな自分の人生に何の意味があるかと寂しい思いをしてきたのに、この世界を造られた神様のわざが現れるために自分は生かされている。そう言われて、初めて自分のような存在にも大切な意味があることをこの人は考えるようになったでしょう。
さらに、です。「わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行なわなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」とのことばは、夜つまり十字架の死を覚悟したイエス様の心から溢れでる愛を思わせます。
盲目の人の苦しみを見て心動かされたイエス様は、昼の間つまり世にいる間、世の光として全身全霊でこの様な人々を愛し、仕えなければという思いを掻き立てられたのでしょう。この溢れ出る愛は行動へと移されました。

9:67「イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。『行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。』そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。」

つばきで泥を作り、それを盲人の目に塗る。そして、近くにあるシロアムの池で洗えと言う。一見奇妙とも思える行為と命令は、この人が心からイエス様をキリスト、神から遣わされた救い主として信頼しているかどうか。そのテストと考えられてきました。
それに対して、黙って、何も聞かず、即座に従った盲目の人。この信仰の人に眼が開かれるという祝福がもたらされたのです。
何故つばきで作った泥を塗ったのか。何故シロアムの池で眼を洗うのか。一言の理由も言わなかったイエス様。何も聞かずに従った盲人。これが本当の信仰、信頼です。
もし、私が皆さんの家に行き、「何も聞かずに百万円貸してください」と言ったら、皆様はどうするでしょう。即座に断るか、ちゃんと理由を言ってくれなければ貸せないと断るか。どちらかでしょう。その判断は正しいと思います。
しかし、これが私の妻だとしたらどうなのか。間違いなくとは言えませんが、恐らく黙って百万円出してくれるのではないかなあと思います、いや期待します。何も言わずにその人のことばに従う、リスクがあるとしても受け入れる。これが信頼関係だと思います。
「世界で最もすばらしいものは、目で見たり、手で触れたりすることはできません。それは心で感じなければならないのです。」眼見えず、耳聞こえず、口きけずという三重苦でありながら、福祉事業家として活躍した女性ヘレン・ケラーのことばです。
この時既に宗教指導者から命を狙われていたイエス様。そのイエス様が癒しの奇跡を行えば、ますます身の危険は迫る。しかし、そのことを承知の上で自分のような者を心にかけ、生まれたこの方閉じたままの眼を開いてくださろうとしている。
自分に触れたイエス様の手に命がけの愛を心で感じたこの人は、だからこそ精一杯の信頼と行動でその愛に応えた。そんな場面です。
そして、イエス様に癒された男の表情は一変しました。今まで自分を見下していた人々にも臆することなく、イエス・キリストのわざについて証ししたのです。

9:812「近所の人たちや、前に彼がこじきをしていたのを見ていた人たちが言った。「これはすわって物ごいをしていた人ではないか。」ほかの人は、「これはその人だ。」と言い、またほかの人は、「そうではない。ただその人に似ているだけだ。」と言った。当人は、「私がその人です。」と言った。
そこで、彼らは言った。「それでは、あなたの目はどのようにしてあいたのですか。」
彼は答えた。「イエスという方が、泥を作って、私の目に塗り、『シロアムの池に行って洗いなさい。』と私に言われました。それで、行って洗うと、見えるようになりました。」また彼らは彼に言った。「その人はどこにいるのですか。」彼は「私は知りません。」と言った。」

 眼開かれ、人々が別人かと思うほど生き生きとした表情を浮かべるその顔。本来の人間としての活力を取り戻したことを示すその言動。眼ばかりか心もイエス・キリストによって癒された人の姿がここにはありました。
 さて、今日の箇所を読み終えて、先ず私たちが確認したいのはイエス様が言われた「神のわざが現れる」ことの意味です。
 それは、盲目の人の姿から分かるように、私たちがイエス・キリストを救い主として信頼して生きること、イエス・キリストを通して表された神様の愛を心に受け入れて人生を歩むことです。
 今日登場した生まれながらの盲人は、神様から離れて生きる私たちの姿の象徴と考えることもできます。神様から離れ、神様に背いて生きる人間は、神様の愛と自分の価値について盲目の状態にある、人生で最も大切な二つの真理に対し心の眼が閉じたままであり、これが私たちの最大の問題、罪だと、聖書は教えています。

 イザヤ434「わたしの眼にあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」

 これは、聖書全体を集約したような、神様から私たち一人一人に対するメッセージでした。果てしなく大きな宇宙を創造した神様が、小さなチリのような星地球に住む私たちを心から大切に思い、かけがえのない存在として愛しておられる。
 全能の神様から見れば取るに足りないと思われる私たちの存在が、神様にとってはたとえようもなく尊く、とてつもない価値を持っている。どんな病を負っていても、貧しくとも、世間から冷たい眼で見られても、家族が見放しても、神様の愛は私たちを決して見放したりしない。
 その証拠に、二千年前救い主イエス・キリストが神様から遣わされ、私たちの罪のために十字架に死ぬという犠牲を払われました。このイエス・キリストを信じる時、私たちの心の眼が開かれ、神様の愛と自分の価値を知ることができるのです。
 これが、あの盲人と同じく、キリストを信じる者に現れる神様のわざでした。
 そして、キリストを信じ心の眼開かれた私たちが心に抱くのは、新しい人生観、神様の愛に基づく人生観です。今日の聖句を少し長いですが、ご一緒に読みたいと思います。

 ローマ525「またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導きいれられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。そればかりではなく、艱難さえも喜んでいます。それは、艱難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」

 ルネッサンスの天才ミケランジェロの代表作のひとつ「ダビデ像」は、もともと大きな石の塊に過ぎませんでした。しかし、山から切り出されたただの石の塊の中に、ミケランジェロはあの美しく力強いダビデ像を見ていました。長い年月をかけて石を削り、彫り、刻んで完成したのです。
 もし、石が人間だとしたら、削り、刻まれる痛みを感じていたはずです。
 残念ながら、神様を離れて生きる人間は順調な環境の中では、神様を求めることも、本当の自分を知ることもできないと、聖書は教えています。
ですから、神様はこの様なことがどうして人生に起こるのかと感じるような苦難を私たちに与え、そのなかで神様を信頼して忍耐することを学ばせるのです。忍耐を通して練られた品性、つまりイエス様のような心と生き方をなす者、どのような時も栄光の体での復活と神様によって新しくされた世界で永遠に生きる希望を抱いて歩む者へと私たちを造りかえてくださるのです。
人生の苦難は、ミケランジェロがダビデ像を完成するためにふるった鑿のようなもの。神様は私たちを心から愛するがゆえに、私たちが神様にあって最高に満ち足りて生きる者とするために苦難をお与えるになる。聖書が教えるこの様な人生観を持つことができたら何と幸いなことかと思います。
「自分のいのちが一番大切だと思っていたころ、生きるのが苦しかった。自分のいのちより大切なものがあると知った日、生きているのがうれしかった。」重い障害を負って生きる星野富広さんのことばです。
皆様にとって一番大切なものは何でしょうか。何を一番大切にしているかによって、私たちの生き方は全く変わってくるように思います。
もし、この世における自分のいのちが一番大切なら、苦難は不幸、不運でしかありません。特か損かで言えば損も損、大損の人生です。しかし、もし、神様と神様の愛を一番大切なものとするなら、苦難も宝物、大きな益となるのです。
苦しみの中にあって、それが神様の自分に対する愛から与えられたものであることを覚え、神様をほめ、神様の愛を喜ぶ。人生の艱難、苦しみさえも喜ぶとはその様な人生でした。
私たちみなが神様の愛に基づく人生観を身につけてゆくことができるように、そのために神様のことばに信頼し、神様の愛が一人一人の心に豊かに、絶えず注がれるよう祈り、願いたいと思います。