2014年1月26日日曜日

コロサイ人への手紙3章16節 「交わりの祝福」

2014年が始まりまして早くも一ヶ月が終わろうとしています。あっという間の一ヶ月。皆様はどのようにこの一ヶ月を過ごしたでしょうか。
 礼拝説教は山崎先生との分担で、年初めの五回の説教で、信仰の基本的な事柄を確認しているところです。一年のうち一回は、礼拝説教で信仰の基本的な事柄を確認したいと考えたのですが、それならば、年の初め、気持ちを新たにした時が良いと考えてのことです。一回目が礼拝の中から主に賛美。二回目が礼拝の中から主に献金。三回目が伝道。四回目が交わり。五回目は賜物を用いることが扱われます。今日は第四聖日。交わりに焦点を当てて考えていきたいと思います。

 ところで皆さまは教会での交わりが好きでしょうか。お互いのことを知り合い、教会の仲間とともに過ごすことがとても好きという方。特に用事があるわけではないけれども、教会で仲間との時間を大切にしたいという方。いらっしゃると思います。教会の仲間と良い関係を持ち、その交わりが本当に楽しい、嬉しいと感じられるとしたら、それは本当に大きな恵みです。
しかし、教会での交わりが苦手という方もいらっしゃると思います。一人でいる方が居心地が良い。他の人にどのように思われるのかとても気になる。これまでクリスチャンの交わりの中で傷ついたことがある。あるいは、他の人を傷つけてしまい、また同じことをしてしまうのではないかと恐れている。
 信仰生活、教会生活が長くなると、交わりの喜びと、交わりの難しさ、その両方味わうのが一般的だと思います。交わりが楽しいと感じる時もあれば、交わりが怖い、教会での交わりを避けたくなる時もあります。

 私もこれまでの信仰生活の中で、教会の方にひどく傷つけられたと感じたことがあります。そのような時は、その人の顔を見て、悪い感情が出てくるのが嫌で、あまり教会にいたくないと感じました。あるいは、自分の発言や行動で、教会の方をひどく傷つけてしまったこと。自分のあまりの未熟さに、他の人と関わらない方が良いのではないかと考えたこともあります。皆さまはそのような経験があるでしょうか。
 交わりを避けたい。交わりを望まないという時。神様を信じるだけで十分ではないか。聖書を読み、祈る時間を充実させれば良いではないか。教会の人と顔を会わせるのは礼拝の時だけで良いではないか、という思いが沸き出てきます。
このような思い。交わりを避けたい、交わりを望まないというのは、極少数のクリスチャンしか味わうことがないのかと言えば、そうではありません。聖書が記された時代にも、交わりを避ける人がいました。交わりを避ける人たちには、それぞれ事情があったと思いますが、それでも聖書は明確に交わりの重要性を訴えていました。

 ヘブル10章25節
「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」

 集まることをやめないように。キリスト者の交わりをやめないように。信仰生活を一人で送らないように。共に生きることに取り組むように。今日は、キリストを信じる者が交わりを持つことの重要性を再確認したいと思います。

 なぜキリストを信じる者にとって、交わりが重要なのか。聖書から色々と理由を挙げることが出来ます。
 私たちの神様は三位一体の神様。ご自身の中で完全なる愛の交わりがある方。そのような表現は聖書にないのですが、敢えて言えば私たちの神様は交わりの神様です。その神様が私たちをつくられた時、このように言われていました。
 創世記1章26節
「そして神は、『われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。』と仰せられた。」

 交わりの神様が、ご自身に似せて私たちをつくられました。それはつまり、私たちも交わりの中で最も自分らしく生きることが出来る存在と言えます。エバがつくられる前。アダム一人の時に、神様は「人が一人でいるのはよくない」と言われていました。私たち人間は、もともと交わる存在。交わりは、私たちの本質と関係がある。創造の御業と深く結びついているのです。

 ところが人間が罪を犯し、堕落した結果、神様との関係は断絶し、人間同士の関係も壊れました。罪の恐ろしさは、交わりが壊れる点にあります。交わる存在としてつくられた私たちが、交わることが出来ない者となった。つくられた目的から外れたのです。
イエス・キリストは私たちを罪から救う方。この罪からの救いを交わりという点で見るならば、関係の修復、和解という意味です。パウロが次のように言っています。
 エペソ2章14節~15節a
「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。」

 キリストの救いの御業は、交わることが出来なくなっていた者が、あるべき交わりが出来る者へと変えられる、と言うことも出来ます。交わりは、救いの御業と深く結びついています。

 また救われた者の歩みを考えた時にも、交わりの重要性を挙げることが出来ます。救われた者は一人で生きるのではない。教会として、救われた者の集まりで生きていくことが教えられていますが、その教会は次のように表現されていました。
 Ⅰコリント12章27節
「あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。」

 教会はキリストの体。キリストを信じる者たちは、各器官とするならば、交わらないということを考えられていない。交わりの中でキリスト者として生きていくことが前提となっている言葉です。交わりは、教会の本質と深く結びついています。

 交わりがなぜ重要なのか。創造論からも、救済論からも、教会論からも考えることが出来ます。それはつまり、神様は、私たちが交わる者として生きるよう、強く願っておられるということ。神様の目標は、私たちキリストを信じる者たちが聖書的な交わりを持つことです。この神様の思いを受けとめて、私たちも互いに愛することに取り組みたいと思います。

 それでは、聖書が教える私たちのあるべき交わりの姿とは、どのようなものでしょうか。実に多くの具体的な教えが聖書に記されています。今日はいくつか確認していきたいと思います。
 Ⅰテサロニケ5章11節
「ですから、あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。」

 聖書的な交わりとは何か。ここでは「互いに励まし合う」ことが教えられています。互いに励まし合う。
これまで教会に来る時に、教会の仲間を励まそうと思って、来たことはあるでしょうか。礼拝の時、近くに座っているあの方を励ましたい。ともに奉仕をしているあの方を励ましたい。最近辛い思いをされたあの方を励ましたい。
どのようにしたら励ますことが出来るのか。よく考え、準備して教会に来るということに取り組みたい。心も体も疲れ、信仰面でも衰えている時。教会の仲間と過ごせば、元気になれる。そのような教会として、歩みたいのです。
 昨晩この説教を作りながら、私もこの御言葉に従いたいと思い、取り組むことにしました。どの方を励ますのが良いのか。少し悩みましたが、礼拝の司会の長老を。どのように励ませば良いのか。司会の奉仕をして下さることへの感謝を手紙にして書きました。取り組んでみて分かったのは、励ましたいと思い取り組むことは、私自身にとって喜びであるということ。励まされることだけでなく、励まそうとすることも喜びでした。是非、私たち皆で、「互いに励まし合う」という交わりを味わいたいのです。

 あるいは次のような箇所もあります。
 ローマ12章10節
「兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。」

 昨年度の年間聖句。ここで勧められる聖書的な交わりは、「互いに尊敬する」ことです。「あながた尊敬する人は誰ですか?」と問われたら、誰を思い浮かべるでしょうか。通常、尊敬するというのは、意識せずにすること。自分が考える尊敬出来る条件に合う人を、尊敬します。
しかし、キリストを信じる者の交わりにおいては、尊敬は意識的であり、決意的です。年齢も性別も国籍も関係ない。社会的立場も学歴も関係ない。教会でどのような奉仕をしているのか、クリスチャンになり何年なのかも関係ない。何が出来るからでもなく、何かをしたからでもなく、神様が愛している存在だから尊いとして、心から敬う。そのように、相手の人格を尊ぶ関係を築くことが出来たら、どれほど良いか。
 私自身、この御言葉にも従いたいと思い、教会の皆さまを尊敬する決意をもって今日来ました。もし私が偉ぶっている姿を見かけた時は、注意して頂きますようお願いいたします。

 また次のような箇所もあります。
 ローマ15章14節
「私の兄弟たちよ。あなたがた自身が善意にあふれ、すべての知恵に満たされ、また互いに訓戒し合うことができることを、この私は確信しています。」

 聖書的な交わりの一つのあり方。それは互いに訓戒すること。先に確認したように、私たちは互いに尊敬することが求められている。しかし、ともかく尊敬すればそれで良いというのではない。間違いがあれば正すこと。互いに訓戒することも聖書的な交わりなのです。
皆さまは、教会の仲間が悪に走ろうとする時、気付くでしょうか。気付いたとして、戒めることが出来るでしょうか。あるいは、その戒めを素直に聞くことが出来るでしょうか。
 昨年十一月にアメリカ研修に行った教会でのこと。男性の小グループで、互いに訓戒することの良い例を聞きました。ある男性が出張に行った際、ホテルでパソコンをつなぎ、卑猥なサイトを見たいと思ったそうです。それを教会の仲間に伝え、誘惑に負けないように祈ってほしいと伝え、皆で祈ったという話。
 このような交わりを持てることは本当に羨ましいと思いますが、同時にとても難しいことも分かります。自分が悪いことをしている。あるいは、罪を犯しそうだと思った本人が、それを教会の仲間に言うことが出来る。これは凄い信頼関係。しかし、それを築きたいのです。

 聖書的な交わりの具体例は、これ以外にも多数あります。互いに仕えること。互いに受け入れること。互いに赦し合うこと。互いに挨拶を交わすこと。互いに重荷を負い合うこと。互いに従うこと・・・。ある本によれば、互いに~~しないという教えは、新約聖書の中だけで五十八箇所あるそうです。これからも、聖書に示された交わりのあり方を見つけ、皆で取り組むことが出来たら良いと思います。

 このように交わりの具体例は多くあるのですが、是非とも四日市キリスト教会で取り組みたいと思う交わりがあり、最後に確認したいと思います。
 コロサイ3章16節
「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。」

 ここで勧められている第一のことは、「キリストのことばを、自分のうちに豊かに住まわせること」。聖書を通して、イエス様の人格に触れること。聖書を通して神様と交わること。聖書をよく読み、深く味わい、実践することが勧められています。
その上で勧められる第二のことが、「知恵を尽くして互いに教え」「互いに戒める」こと。キリストの言葉、聖書の言葉、私たちの神様がどれ程素晴らしいお方なのか、分かち合うことが勧められるのです。
更に第三の勧めとして、「感謝に溢れて心から神に向かって歌う」こと。

御言葉を味わい、神様との交わりを楽しむ。そして教会の仲間と御言葉を分かち合う、神様を分かち合う。そして仲間とともに神様を賛美する。この順番は非常に大事です。神様と交わることが赦された者として、まず神様との交わりを楽しむこと。その上で、教会の仲間と交わること。言葉を換えると、自分の力で教会の仲間と交わるのではないということです。神様と交わることが許された者として、同じ仲間とともに神様を喜ぶ。これぞ教会。これぞキリスト者の交わりという姿。
このような交わりを、是非とも皆さまと味わいたいのです。是非、今日の礼拝の後から、頂いた御言葉を深く味わい、教会の仲間と分かち合う歩みに取り組んでまいりましょう。

 今日の聖句を皆で一緒に読みたいと思います。
 ヨハネの手紙第一1章3節
「私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。」

2014年1月19日日曜日

コロサイ人への手紙3章17節、4章2-6節 「伝道について」

今日は2014年早くも第三回目の礼拝。新しい年の初め、新たな思いを抱いてスタートするこの時期、礼拝での説教を通して信仰の基本的な事柄を確認し、私たち皆が充実した信仰生活を送れたらと願っています。
ところで私たちの教会のビジョンは何でしょうか。「神と人とを愛する教会」です。それではサブビジョンは何でしょうか。「熱く祈り、広く伝え、豊かにささげる」でした。熱く神様に祈り、広く福音を伝え、豊かに賜物をささげることによって、神と隣人への愛を表してゆきたい。そう願ってのビジョンです。
今日扱う伝道はこの内の二つ目、広く伝えることに関連していました。今までの二回の説教は、賛美と献金を扱ってきました。神様を賛美することが非常に楽しくなる。神様を賛美することが生き方となる。人目を気にして強いられてではなく、ただ神様に心を向けて、喜んでかつ豊かにささげ物をなす者となる。
賛美と献金においてこうした成長を願う私たちが、今日考えたいのは伝道における成長です。一般的に伝道と言うと牧師や宣教師の役割、信徒はそのお手伝いと考える風潮が日本のキリスト教会に色濃く残っていると言われます。
しかし、聖書を見ますと、これは伝道を非常に狭く考えているものと思われます。聖書の教える伝道は多種多様、教会に集う者皆が伝道を意識して日々歩むことが求められているのです。
ですから、聖書を読めば読むほど、伝道の主役は教会の兄弟姉妹。牧師の仕事は最後の仕上げに過ぎないと私は教えられる気がします。
さて、イエス・キリストを信じた者は、様々な呼び方をされています。罪あるままの状態で神様に義と認められた者、神の子、霊的に生まれ変わった人、新しい人などなどです。
しかし、今日皆様にご紹介したいのは、私たちはイエス・キリストの代理または使節として、キリストからこの世に派遣された者であるということです。
今年、有名なケネディ元大統領、銃弾に倒れたあの悲劇の大統領の娘さんが、オバマ大統領により在日米国大使に任命され話題になりました。アメリカの日本重視の姿勢の表れだとも言われます。
それは兎も角として、在日日本大使は日本で生活するアメリカからの使節、オバマ大統領の代理と言えるでしょう。ですからケネディ大使の行動はアメリカの代表として為すことであり、ケネディ大使が公式に語ることはオバマ大統領の語ることとみなされます。
それと同じように、イエス・キリストを信じた私たちは復活した後天に上られたキリストの代理として、この地上に派遣され生かされている者と、聖書は語っているのです。

コロサイ3:17「あなたがたのすることは、ことばとよると行いによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。」

これはとても大切なことが語られている箇所でした。私たちが「主イエスの名によって為す」とはどういうことなのでしょう。
古今東西、名はその人の業績、権威、名誉などを表す重要なものと考えられてきました。私たちは祈る時、イエス・キリストのお名前で祈りますが、祈りだけでなくことばによると行いによるとを問わず、すべてを主イエスの名によってしてよいし、すべきであると勧められているのです。
もともと、私たちはイエス・キリストの名によって語ることも、行動することもできない存在ではないでしょうか。と言うより、罪深く、力なき私たちがキリスト名によって何かを語り、為す資格などないと言えるでしょう。
日本語には「名を貸す」という言い方がありますが、ある人が別の人に自分の名を貸すということは余程の信頼関係がそこにあることを示すものでした。
例えですけれども、もし皆様が自分の全財産を引き出すことのできるクレジットカードを貸すとしたら、誰でしょう。愛する家族か、心から信頼する親友ではないでしょうか。
イエス・キリストはこの世界を創造した全能の神。私たちの罪のため十字架に死なれた救い主。そのようなイエス様が、まるで本当の家族、親しい友として「わたしの名をあなたに貸すから、わたしの名で語り、行動しなさい」と仰ってくださる。何という恵み、本当に勿体無いような恵みと感じます。
期待は愛の表現の一つです。「あなたがたのすることは、ことばによると行いによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし…」と勧めたパウロ。彼は、この世界を造り、すべてを支配する王なるお方が、罪人の一人に過ぎない自分のような者の生き方に本気で期待していることを感じてたいたことと思われます。
聖書は、私たちクリスチャンを「この世に属する者ではない」と教えています。この世ではなく、イエス・キリストに属する者、キリストの代理、キリストの使節としてこの世に遣わされた者、生かされている者であることを自覚したいと思うのです。
皆様はこのイエス・キリストからの変わることのない、絶大な期待を背中に感じながら、生きているでしょうか。イエス・キリストから遣わされた者として家庭で、地域で、職場で考え、行動しているでしょうか。
この様な立場にあることを踏まえた上で、次に伝道とは何かをお話したいと思います。一言で言えば、人々にイエス・キリストを証しすることです。
それでは、どのようにイエス・キリストを証しすることができるのでしょうか。
先ず、ことばを通して証しすることができます。ひとつは福音を聖書を用いて説明する、伝えると言う方法で、これにはある程度の学び、訓練が必要です。
二つ目は、自分自身の生活で与えられた神様の恵みの経験を通して、証しすることです。イエス・キリストを信じると、徐々に聖書的なものの見方が身についてゆきます。それまで、当たり前と考えていたことを神様の尊い恵みと思う。人生に起こる様々な出来事の背後に神様の導きを見る。その様な心の目が開かれるということです。
それを人々に語る。或いは書いたものを読んでもらう。それがことばを通しての証で、誰にでもできることでした。
次に、私たちの生き方、行動を通しての証があります。私たちのうちに生きて働くイエス・キリストからこの世に遣わされた者として、家庭を営み、学び、仕事をし、お金を使い、隣人との関係を築いてゆく。
これはことばで伝えることよりも、もっと影響力を持つ証かもしれません。ことばで伝えることは、人々の生活から離れたところからでもできるでしょう。
しかし、もし本当に人々にキリストを内に宿す者として影響力を与えたいのなら、彼らのそばに近づき、ともに時間を過ごさねばなりません。当然、自分の欠点や短所をさらすことにもなるでしょう。けれどもそうしてこそ私たちの信仰が生きたものであり、信仰が人生になくてはならないものであることを感じてもらうことができるのです。
そして、私たちの周りにいるまだイエス・キリストを知らない人々に影響を与えるために肝要なのは、伝道を意識して生きることと思われます。特別伝道集会の時、説教で伝道について聞いた時、日曜日だけというのではなく、イエス・キリストこそが全ての人の生きる希望であると証しすることを日々意識して歩みたいと思うのです。
そのために具体的に取り組めることは何か。聖書に聞いてみたいと思います。
第一に、自分が伝道できるように祈ってもらうことでした。

4:2~4「目を覚まして、感謝をもって、たゆみなく祈りなさい。同時に、私たちのためにも、神がみことばのために門を開いてくださって、私たちがキリストの奥義を語れるように、祈ってください。この奥義のために、私は牢に入れられています。また、私がこの奥義を、当然語るべき語り方で、はっきり語れるように、祈ってください。」

この手紙を書いたパウロは使徒として、伝道者として有名な人。ユダヤの国で生まれたキリストの福音を世界中に広めた伝道の達人です。
そのパウロが牢獄に幽閉される苦難の中にあって、祈って欲しいと願ったのは釈放ではなく、キリストの奥義、福音を語れるように祈ってください、語るべき語り方で、はっきりと語れるように、祈ってくださいとの願いであったとは流石です。
と同時に教えられるのは、伝道は個人プレーではなく、チームプレイということでしょう。当時迫害されていたキリスト教、福音を語るためには勇気が必要でした。自由も必要でしたし、語り方や人々に理解してもらえるようはっきりと語る知恵もひつようでした。これは今も変わらないことです。
私たちは伝道したい人がいる時、一人だけで取り組もうとしていないでしょうか。一人で祈り、一人で悩んでいないでしょうか。その人に伝道できるよう、兄弟姉妹に祈ってもらいたいと言う。上手くいかなかったら励ましあう。労苦を分かち合う。そんな仲間とともに伝道に励めるという恵み。是非このことをお勧めしたいのです。
第二に、賢明に振る舞い、機会を十分に用いることです。

4:5「外部の人々に対して賢明に振る舞い、機会を十分に生かして用いなさい。」

神様を知らない人は、私たちクリスチャンが困難や失望にどう対応するのか知りたがっています。特に人間関係にどう対応しているのか関心を抱いているのです。
私たちは相手にがっかりさせられても、柔和な態度で接しているでしょうか。それとも相手を責めているでしょうか。思うように物事が進まない時、無愛想で、イライラしているでしょうか。それとも、親切に、忍耐深く接しているでしょうか。
せっかく福音を語っても、私たちの対応や態度が、相手の心に冷や水をかけるというようなことがないよう、賢明に振舞う者になれたらと思います。
また、聖書は「機会を十分に生かして用いなさい」と教えています。機会、チャンスは与えられるものであると同時に、見出すものでもあるでしょう。そのために、「イエス・キリストによって変えられた人生について、証しする機会を与えてください」という神様への祈りをもって一日をスタートしたいと思うのです。
イエス・キリストが神なき人々をどう見られたでしょうか。軽蔑したり、見下したりは決してなさらなかった。むしろ神の愛を受けるに値しない人は一人もいないことを忘れず、人々の霊的な必要に実に敏感だったのです。
私たちもイエス・キリストの目線に近づけば近づくほど、十分に生かすべき機会が自分の周りに驚くべきほど存在することに気がつくことでしょう。
第三に、親切に接すること、相手にあった対応を考え、実行することを心がけたいのです。

4:6「あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味のきいたものであるようにしなさい。そうすれば、ひとりひとりに対する答え方が分かります。」

私たちは自分が確信する福音を相手に説教がましく押しつけてしまうことがあります。それは熱心から生まれたことですが、よくよく注意する必要があります。理屈で迫ることや押し付けがましさは、それをしている人は往々にして自覚できていないことが多いのです。
むしろ、いつも親切で、塩味のきいたことば、つまり相手にとって感じのよい話し方を心がけたいと思います。人々を惹きつけ、説得するもの。それは的確なことばとそれ以上に温かく、親切な態度であることを覚えたいのです。
また、一人一人異なった性格や境遇の人に合った答え方は、一朝一夕で身につくものではないでしょう。心から関心をもち、愛し、ともに時間を過ごして、相手の性格や人生の歩みを知って尊ぶこと。そうした人間関係の線上に、相手の身にあった答え方が見つかるのではないかと思われます。
最後に、伝道とは、それを通して神を知らない人々を私たちが愛し、仕えること、私たちがこの世に生かされている大切な目的のひとつであることを確認したいのです。
先程紹介した使徒パウロのことばです。

Ⅰコリント9:19「私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、全ての人の奴隷となりました。」

人間社会には昔も今も形を変えて地位の上下が存在し、人を縛ります。しかし、神様を信じる者にとって、全ての人間は神様に造られた尊い存在として対等であり、誰かが誰かに縛られることなく自由と教えられます。
しかし、キリストの福音を伝え、その人がキリストを信じるためなら、その人の奴隷、しもべ、仕える者となることも厭わないとパウロは言うのです。
皆様の人生において、伝道はこれほど意味のあることでしょうか。これほど価値あることであり、大きな願いでしょうか。
そして、このような生き方を可能にするには、イエス・キリストとの親しい交わりが必要なのです。私たちの魂がキリストの愛を味わい、キリスト愛に動かされ、キリストの愛に縛られるほど、私たちの人間関係は自由となり、心から進んで伝道のため仕える者となれるのです。
この一年、私たちみなが伝道を意識して日々生きること、キリストの愛に動かされて伝道の心を高め、神を知らない人々に仕えてゆくこと。これらの点において成長できればと思います。

2014年1月12日日曜日

箴言3章5-10節 「礼拝~献金の意味~」

今日は2014年二回目の礼拝。この一月と二月の第一週は、新たな思いを抱いてスタートするこの時期、礼拝での説教を通して、信仰生活の基本的な事柄をみなで確認したいと思っています。
ところで私たちの教会のビジョンは何でしょうか。「神と人とを愛する教会」です。それではサブビジョンは何でしょうか。「熱く祈り、広く伝え、豊かにささげる」でした。熱く神様に祈り、広く福音を伝え、豊かに賜物をささげることによって、神と隣人への愛を表してゆきたい。そう願ってのビジョンです。
今日扱う献金はこの三つ目、豊かにささげることに関連していました。私たちが神様から与えられた様々な賜物の中で最も管理の難しいのが、つまり使い方が難しいのがお金と時間と言われます。
一般的にも、「お金の使い方を見れば、その人がわかる」とか「人生とは詰まるところ、時間の使い方、過ごし方」と言われますし、聖書にも同じような意味のことばを見出すことができます。
今日献金について学ぶことにより、今年一年、私たちが与えられた財産を豊かに喜んで神様にささげる歩みができたらと願っています。
さて、先回も確認したことですが、礼拝とは教会に特別親しくご臨在される神様と私たち人間が交わる時であり場でした。礼拝のプログラムも神様からの語りかけと私たちの応答のプログラムがほぼ交互に組まれています。そして、献金は祈りや賛美とともに、みことば通して示された神様の恵みに私たちが応えるプログラムとなっています。
事実、聖書において献金、ささげ物の意味は、それをもって主なる神様をあがめることと教えられていました。

箴言3:9、10「あなたの財産とすべての収穫の初物で、主をあがめよ。そうすれば、あなたの倉は豊かに満たされ、あなたの酒ぶねは新しいぶどう酒であふれる。」

「あなたの財産とすべての収穫の初物で、主をあがめよ。」私たちの財産と収穫をささげることで、主なる神様をあがめることができるというのです。
献金と似て非なるものに神社仏閣への寄付があります。この場合誰それがいくら寄付をしたとその名が公表されます。本人も自分の名が張り出されなければ不満を抱くことでしょう。寄付は世間を意識し、自分の名をあがめてもらうための宗教的行いでした。
それに対して、献金はただ神様に心向けて為す行い。ことばであがめるだけでは足りず、収入収穫をささげて崇めたくなるほどすばらしい神様を思い、神様に対して心からなす応答なのです。
自分の名を認めてもらい、あがめてもらうための寄付。それに対して、自分の名などどうでもよい。ただささげ物を通して主なる神様のすばらしさを表すことを願う献金。似ているように見えて、まったく違う二つの行いの意味がご理解いただけたでしょうか。
さらに、「すべての収穫の初物で」と命じられていることに心を留めたいのです。初物、すなわち私たちが使った後の残り物ではなく、手付かずの初物をささげることで、神様を第一とする信仰の姿勢を表すことが求められていました。
第二に、献金は私たちが心から神様に信頼しているかどうかの試金石と言う意味があります。
今お読みした箴言の箇所の冒頭5節には、「心を尽くして主により頼め」とありました。そして、心を尽くして主により頼むとはどういうことかが、その後具体的に二つ語られています。
ひとつは、私たちの行くところどこにおいても主を認めること。つまり、生活のあらゆる場面で主の御心に従うことです。ふたつめが、与えられた財産と収穫の初物で主をあがめることでした。
神様に背いた人間ができなくなったことのひとつは、この世界とそこにあるすべてのものは神様が創造したもの、神様こそが真の所有者であり、私たちは与えられた物の管理者にすぎないと認めることです。
旧約聖書の時代、エジプトを脱出し荒野の旅をへて約束の地に入る直前、神様はこの様にイスラエルの民に警告を発しました。

申命記8:17,18「あなたは心のうちで、「この私の力、私の手の力が、この富を築き上げたのだ。」と言わないように気をつけなさい。あなたの神、主を心に据えなさい。主があなたに富を築き上げる力を与えられるのは、あなたの先祖たちに誓った契約を今日のとおりに果たされるためである。」

「私の力、私の手の力が、この富を築き上げたのだ。」という己の能力に対する過信、築き上げた富は我が物という所有者意識に気をつけよ。主なる神様こそがあなたたちに富と富を築き上げる力を与えられたお方。この神、主を心に据え、全幅の信頼を寄せなさいとの勧めです。
ささげ物、献金は、この生ける神様を信頼して生きているのか、それとも努力して得た富を頼りに生きているのか、私たちの心を探る試金石であることを覚えたいのです。
第三に、ささげ物をすることは、神様に対する感謝を表すという意味がありました。

申命記16:16,17「あなたのうちの男子はみな、年に三度、種を入れないパンの祭り、七週の祭り、仮庵の祭りのときに、あなたの神、主の選ぶ場所で、御前に出なければならない。主の前には、何も持たずに出てはならない。あなたの神、主が賜った祝福に応じて、それぞれ自分のささげ物を持って出なければならない。」

旧約聖書の昔、年に三度の祭りの時期、主なる神様が定めた場所で礼拝を行なうことがイスラエルの民に命じられた場面です。その際、主の前には何も持たずに出てはならない、むしろ主の祝福に応じてそれぞれ感謝のささげ物を持ってきなさいと勧められていました。
そして、新約聖書の時代になりますと、このささげ物、献金が週毎の礼拝において定着した様子が伺えるのです。

Ⅰコリント16:1~3「さて、聖徒たちのための献金については、ガラテヤの諸教会に命じたように、あなたがたにもこう命じます。私がそちらに行ってから献金を集めるようなことがないように、あなたがたはおのおの、いつも週の初めの日に、収入に応じて、手もとにそれをたくわえておきなさい。私がそちらに行ったとき、あなたがたの承認を得た人々に手紙を持たせて派遣し、あなたがたの献金をエルサレムに届けさせましょう。」

この時、飢饉に襲われたエルサレムの教会が大変苦しんでいました。そのため、エルサレム教会の兄弟姉妹のために各地の教会が献金をささげ、それを使徒たちが集めエルサレムに届けたという出来事が背景となっています。
「いつも週の初めの日に、収入に応じて手もとにそれをたくわえておきなさい。」旧約聖書の時代から続く十分の一献金とともに、新約の教会では週の初めの日つまり日曜日の礼拝において、献金をささげることが勧められ、それが習慣として定着していったと考えられます。
何故、献金をささげることを習慣とすることが勧められたのか。何故、伝統的に考えられてきたように、新約の時代にも十分の一と言う基準が前提とされていたのか。皆様はどうお考えになるでしょうか。
私はこう考えます。もし、いつでも自分の都合の良い時に、可能なだけささげればよいと言われたら、果たして自分は神様をあがめるため、感謝を表すため献金しただろうか。本気で神様を信頼しているのか、それとも己の能力や富を信頼しているのか、心を探る時を持っていただろうかと。
神様をあがめること、感謝を表すこと、神様に信頼することにおいて極めて不熱心、放っておけば何もしなくなるだろう己の弱さを思う時、献金を習慣とすること、聖書を一貫するひとつの基準があることは、大きな助けと感じています。
また、これも聖書が教えていることですが、ささげ物をする際、神様が見ておられるのは私たちの心だということです。

Ⅱコリント9:7「ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。」

神様にささげものをする人や自分を見る時、私たちは何をもって成長と考えるでしょうか。献金できなかった人が献金できるようになること、十分の一献金ができなかった人ができるようになること、十分の一をこえて献金できること。これも成長と言えるかもしれません。
定期的にささげられなかった人が定期的にささげられるようになる。人の目を気にしていた人が、ただ神様に心を向けてささげられるようになること。これも成長でしょう。
しかし、神様が最も重んじていること、そして私たちにとって最も難しいことはいつも喜んでささげること、ささげることを喜びとする者となることではないでしょうか。この点において私たちは成長したく思います。ただささげ物を用意するだけでなく、喜んでささげる心を備えて神様の前に出たいのです。
そのためには、神様の恵みを数えること、特に私たちのどうしようもない罪を赦し、神の子とするために、イエス・キリストが受けてくださった十字架の苦難を思い起こすこと、そのイエス・キリストが復活して、今私たちのうちに生きておられることを覚えることが肝要と思われます。
最後に、献金、ささげものを通して与えられる祝福を確認しておきたいと思います。
ひとつめは、物質主義的な生き方からの解放です。仕事の価値は収入の大小によって決められる。その人の価値を財産の多少によって判断する。物を豊かに持っていることが幸せと感じる。テレビやチラシは日々生活に不要なものを買わせようと、人々の物欲を煽り立てる。
本当に私たちは凄まじい物質主義の時代に生きています。本来、お金や物を使う主人であるべき人間が、物やお金の奴隷となっているという有様です。
この様な世にあって神様にささげる習慣、人に分け与えることを通して神様にささげ物をするという習慣は、私たちの人生を物質主義の凄まじい流れから守ってくれる防波堤になるかと思います。
ふたつめは、ささげることは、私たちの心を神様に近づけるという祝福をもたらします。イエス・キリストの山上の説教の中にこの様な教えがあります。

マタイ6:21「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」

私たちの人生の優先順位はお金の使い方に現れます。家を買えばそこに私たちの心が向かいます。洋服や趣味、その他何でもお金を使うところに心が向くのです。
果たして、私たちは自分の心を何に向けたいと考えているでしょうか。「あなたの宝のあるところに、あなたの心もある」。イエス・キリストは、私たちが心を向けたいと思っている対象にお金をささげ、使う必要があると教えているのです。
神様を人生における第一のお方としたいなら、この世において何よりも大切なのは神様との関係と考えるのなら、私たちこのイエス様の教えに本気で従う必要があると思います。
第三に、ささげることを通して受け取る祝福は、神様が本当に生きておられ、私たちを守っていてくださるのを体験することです。今日の聖句です。

マラキ3:10,12「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。――万軍の主は仰せられる。――わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。…すべての国民は、あなたがたをしあわせ者と言うようになる。あなたがたが喜びの地となるからだ。」と万軍の主は仰せられる。」

聖書中ただ一箇所、神様がご自分のことを試してみよと勧めているところ。収穫の十分の一を喜んでささげる人々に対する祝福が物の豊かさによって表現されています。
神様を心から信頼して生きる者が乏しくなることはない、生活に必要なものは満たされる。それらの祝福を通して、私たちは本当に生きて働いておられる神様に心の目開かれるのです。頭の中の知識ではなく、心から神様がともにおられるお方であることを確信できるのです。
私たち長老教会の先輩に当たるクリスチャンにピューリタンというグループがあります。幾多の迫害を受けながら神信仰に生きた彼らは、この世の富においても恵まれていたそうです。
この世の仕事を神様の栄光を表す場と考えた彼らは仕事に勤勉に励みました。その様に働く彼らは職場で信用を得、大切な仕事を任せられるようになります。しかし、生活が極めてシンプル、質素であったため必要なもの以外買うことなく、結果自然と富に恵まれる者となったと言われます。そして、その富の使い方も困窮している人々に惜しみなく施したという点で、人々に尊ばれたのです。
この一年、私たちもこれら神様の祝福を味わいつつ、喜んで神様にささげる者として成長してゆきたいと思います。