ところで私たちの教会のビジョンは何でしょうか。「神と人とを愛する教会」です。それではサブビジョンは何でしょうか。「熱く祈り、広く伝え、豊かにささげる」でした。熱く神様に祈り、広く福音を伝え、豊かに賜物をささげることによって、神と隣人への愛を表してゆきたい。そう願ってのビジョンです。
今日扱う献金はこの三つ目、豊かにささげることに関連していました。私たちが神様から与えられた様々な賜物の中で最も管理の難しいのが、つまり使い方が難しいのがお金と時間と言われます。
一般的にも、「お金の使い方を見れば、その人がわかる」とか「人生とは詰まるところ、時間の使い方、過ごし方」と言われますし、聖書にも同じような意味のことばを見出すことができます。
今日献金について学ぶことにより、今年一年、私たちが与えられた財産を豊かに喜んで神様にささげる歩みができたらと願っています。
さて、先回も確認したことですが、礼拝とは教会に特別親しくご臨在される神様と私たち人間が交わる時であり場でした。礼拝のプログラムも神様からの語りかけと私たちの応答のプログラムがほぼ交互に組まれています。そして、献金は祈りや賛美とともに、みことば通して示された神様の恵みに私たちが応えるプログラムとなっています。
事実、聖書において献金、ささげ物の意味は、それをもって主なる神様をあがめることと教えられていました。
箴言3:9、10「あなたの財産とすべての収穫の初物で、主をあがめよ。そうすれば、あなたの倉は豊かに満たされ、あなたの酒ぶねは新しいぶどう酒であふれる。」
「あなたの財産とすべての収穫の初物で、主をあがめよ。」私たちの財産と収穫をささげることで、主なる神様をあがめることができるというのです。
献金と似て非なるものに神社仏閣への寄付があります。この場合誰それがいくら寄付をしたとその名が公表されます。本人も自分の名が張り出されなければ不満を抱くことでしょう。寄付は世間を意識し、自分の名をあがめてもらうための宗教的行いでした。
それに対して、献金はただ神様に心向けて為す行い。ことばであがめるだけでは足りず、収入収穫をささげて崇めたくなるほどすばらしい神様を思い、神様に対して心からなす応答なのです。
自分の名を認めてもらい、あがめてもらうための寄付。それに対して、自分の名などどうでもよい。ただささげ物を通して主なる神様のすばらしさを表すことを願う献金。似ているように見えて、まったく違う二つの行いの意味がご理解いただけたでしょうか。
さらに、「すべての収穫の初物で」と命じられていることに心を留めたいのです。初物、すなわち私たちが使った後の残り物ではなく、手付かずの初物をささげることで、神様を第一とする信仰の姿勢を表すことが求められていました。
第二に、献金は私たちが心から神様に信頼しているかどうかの試金石と言う意味があります。
今お読みした箴言の箇所の冒頭5節には、「心を尽くして主により頼め」とありました。そして、心を尽くして主により頼むとはどういうことかが、その後具体的に二つ語られています。
ひとつは、私たちの行くところどこにおいても主を認めること。つまり、生活のあらゆる場面で主の御心に従うことです。ふたつめが、与えられた財産と収穫の初物で主をあがめることでした。
神様に背いた人間ができなくなったことのひとつは、この世界とそこにあるすべてのものは神様が創造したもの、神様こそが真の所有者であり、私たちは与えられた物の管理者にすぎないと認めることです。
旧約聖書の時代、エジプトを脱出し荒野の旅をへて約束の地に入る直前、神様はこの様にイスラエルの民に警告を発しました。
申命記8:17,18「あなたは心のうちで、「この私の力、私の手の力が、この富を築き上げたのだ。」と言わないように気をつけなさい。あなたの神、主を心に据えなさい。主があなたに富を築き上げる力を与えられるのは、あなたの先祖たちに誓った契約を今日のとおりに果たされるためである。」
「私の力、私の手の力が、この富を築き上げたのだ。」という己の能力に対する過信、築き上げた富は我が物という所有者意識に気をつけよ。主なる神様こそがあなたたちに富と富を築き上げる力を与えられたお方。この神、主を心に据え、全幅の信頼を寄せなさいとの勧めです。
ささげ物、献金は、この生ける神様を信頼して生きているのか、それとも努力して得た富を頼りに生きているのか、私たちの心を探る試金石であることを覚えたいのです。
第三に、ささげ物をすることは、神様に対する感謝を表すという意味がありました。
申命記16:16,17「あなたのうちの男子はみな、年に三度、種を入れないパンの祭り、七週の祭り、仮庵の祭りのときに、あなたの神、主の選ぶ場所で、御前に出なければならない。主の前には、何も持たずに出てはならない。あなたの神、主が賜った祝福に応じて、それぞれ自分のささげ物を持って出なければならない。」
旧約聖書の昔、年に三度の祭りの時期、主なる神様が定めた場所で礼拝を行なうことがイスラエルの民に命じられた場面です。その際、主の前には何も持たずに出てはならない、むしろ主の祝福に応じてそれぞれ感謝のささげ物を持ってきなさいと勧められていました。
そして、新約聖書の時代になりますと、このささげ物、献金が週毎の礼拝において定着した様子が伺えるのです。
Ⅰコリント16:1~3「さて、聖徒たちのための献金については、ガラテヤの諸教会に命じたように、あなたがたにもこう命じます。私がそちらに行ってから献金を集めるようなことがないように、あなたがたはおのおの、いつも週の初めの日に、収入に応じて、手もとにそれをたくわえておきなさい。私がそちらに行ったとき、あなたがたの承認を得た人々に手紙を持たせて派遣し、あなたがたの献金をエルサレムに届けさせましょう。」
この時、飢饉に襲われたエルサレムの教会が大変苦しんでいました。そのため、エルサレム教会の兄弟姉妹のために各地の教会が献金をささげ、それを使徒たちが集めエルサレムに届けたという出来事が背景となっています。
「いつも週の初めの日に、収入に応じて手もとにそれをたくわえておきなさい。」旧約聖書の時代から続く十分の一献金とともに、新約の教会では週の初めの日つまり日曜日の礼拝において、献金をささげることが勧められ、それが習慣として定着していったと考えられます。
何故、献金をささげることを習慣とすることが勧められたのか。何故、伝統的に考えられてきたように、新約の時代にも十分の一と言う基準が前提とされていたのか。皆様はどうお考えになるでしょうか。
私はこう考えます。もし、いつでも自分の都合の良い時に、可能なだけささげればよいと言われたら、果たして自分は神様をあがめるため、感謝を表すため献金しただろうか。本気で神様を信頼しているのか、それとも己の能力や富を信頼しているのか、心を探る時を持っていただろうかと。
神様をあがめること、感謝を表すこと、神様に信頼することにおいて極めて不熱心、放っておけば何もしなくなるだろう己の弱さを思う時、献金を習慣とすること、聖書を一貫するひとつの基準があることは、大きな助けと感じています。
また、これも聖書が教えていることですが、ささげ物をする際、神様が見ておられるのは私たちの心だということです。
Ⅱコリント9:7「ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。」
神様にささげものをする人や自分を見る時、私たちは何をもって成長と考えるでしょうか。献金できなかった人が献金できるようになること、十分の一献金ができなかった人ができるようになること、十分の一をこえて献金できること。これも成長と言えるかもしれません。
定期的にささげられなかった人が定期的にささげられるようになる。人の目を気にしていた人が、ただ神様に心を向けてささげられるようになること。これも成長でしょう。
しかし、神様が最も重んじていること、そして私たちにとって最も難しいことはいつも喜んでささげること、ささげることを喜びとする者となることではないでしょうか。この点において私たちは成長したく思います。ただささげ物を用意するだけでなく、喜んでささげる心を備えて神様の前に出たいのです。
そのためには、神様の恵みを数えること、特に私たちのどうしようもない罪を赦し、神の子とするために、イエス・キリストが受けてくださった十字架の苦難を思い起こすこと、そのイエス・キリストが復活して、今私たちのうちに生きておられることを覚えることが肝要と思われます。
最後に、献金、ささげものを通して与えられる祝福を確認しておきたいと思います。
ひとつめは、物質主義的な生き方からの解放です。仕事の価値は収入の大小によって決められる。その人の価値を財産の多少によって判断する。物を豊かに持っていることが幸せと感じる。テレビやチラシは日々生活に不要なものを買わせようと、人々の物欲を煽り立てる。
本当に私たちは凄まじい物質主義の時代に生きています。本来、お金や物を使う主人であるべき人間が、物やお金の奴隷となっているという有様です。
この様な世にあって神様にささげる習慣、人に分け与えることを通して神様にささげ物をするという習慣は、私たちの人生を物質主義の凄まじい流れから守ってくれる防波堤になるかと思います。
ふたつめは、ささげることは、私たちの心を神様に近づけるという祝福をもたらします。イエス・キリストの山上の説教の中にこの様な教えがあります。
マタイ6:21「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」
私たちの人生の優先順位はお金の使い方に現れます。家を買えばそこに私たちの心が向かいます。洋服や趣味、その他何でもお金を使うところに心が向くのです。
果たして、私たちは自分の心を何に向けたいと考えているでしょうか。「あなたの宝のあるところに、あなたの心もある」。イエス・キリストは、私たちが心を向けたいと思っている対象にお金をささげ、使う必要があると教えているのです。
神様を人生における第一のお方としたいなら、この世において何よりも大切なのは神様との関係と考えるのなら、私たちこのイエス様の教えに本気で従う必要があると思います。
第三に、ささげることを通して受け取る祝福は、神様が本当に生きておられ、私たちを守っていてくださるのを体験することです。今日の聖句です。
マラキ3:10,12「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。――万軍の主は仰せられる。――わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。…すべての国民は、あなたがたをしあわせ者と言うようになる。あなたがたが喜びの地となるからだ。」と万軍の主は仰せられる。」
聖書中ただ一箇所、神様がご自分のことを試してみよと勧めているところ。収穫の十分の一を喜んでささげる人々に対する祝福が物の豊かさによって表現されています。
神様を心から信頼して生きる者が乏しくなることはない、生活に必要なものは満たされる。それらの祝福を通して、私たちは本当に生きて働いておられる神様に心の目開かれるのです。頭の中の知識ではなく、心から神様がともにおられるお方であることを確信できるのです。
私たち長老教会の先輩に当たるクリスチャンにピューリタンというグループがあります。幾多の迫害を受けながら神信仰に生きた彼らは、この世の富においても恵まれていたそうです。
この世の仕事を神様の栄光を表す場と考えた彼らは仕事に勤勉に励みました。その様に働く彼らは職場で信用を得、大切な仕事を任せられるようになります。しかし、生活が極めてシンプル、質素であったため必要なもの以外買うことなく、結果自然と富に恵まれる者となったと言われます。そして、その富の使い方も困窮している人々に惜しみなく施したという点で、人々に尊ばれたのです。
この一年、私たちもこれら神様の祝福を味わいつつ、喜んで神様にささげる者として成長してゆきたいと思います。