ところで私たちの教会のビジョンは何でしょうか。「神と人とを愛する教会」です。それではサブビジョンは何でしょうか。「熱く祈り、広く伝え、豊かにささげる」でした。熱く神様に祈り、広く福音を伝え、豊かに賜物をささげることによって、神と隣人への愛を表してゆきたい。そう願ってのビジョンです。
今日扱う伝道はこの内の二つ目、広く伝えることに関連していました。今までの二回の説教は、賛美と献金を扱ってきました。神様を賛美することが非常に楽しくなる。神様を賛美することが生き方となる。人目を気にして強いられてではなく、ただ神様に心を向けて、喜んでかつ豊かにささげ物をなす者となる。
賛美と献金においてこうした成長を願う私たちが、今日考えたいのは伝道における成長です。一般的に伝道と言うと牧師や宣教師の役割、信徒はそのお手伝いと考える風潮が日本のキリスト教会に色濃く残っていると言われます。
しかし、聖書を見ますと、これは伝道を非常に狭く考えているものと思われます。聖書の教える伝道は多種多様、教会に集う者皆が伝道を意識して日々歩むことが求められているのです。
ですから、聖書を読めば読むほど、伝道の主役は教会の兄弟姉妹。牧師の仕事は最後の仕上げに過ぎないと私は教えられる気がします。
さて、イエス・キリストを信じた者は、様々な呼び方をされています。罪あるままの状態で神様に義と認められた者、神の子、霊的に生まれ変わった人、新しい人などなどです。
しかし、今日皆様にご紹介したいのは、私たちはイエス・キリストの代理または使節として、キリストからこの世に派遣された者であるということです。
今年、有名なケネディ元大統領、銃弾に倒れたあの悲劇の大統領の娘さんが、オバマ大統領により在日米国大使に任命され話題になりました。アメリカの日本重視の姿勢の表れだとも言われます。
それは兎も角として、在日日本大使は日本で生活するアメリカからの使節、オバマ大統領の代理と言えるでしょう。ですからケネディ大使の行動はアメリカの代表として為すことであり、ケネディ大使が公式に語ることはオバマ大統領の語ることとみなされます。
それと同じように、イエス・キリストを信じた私たちは復活した後天に上られたキリストの代理として、この地上に派遣され生かされている者と、聖書は語っているのです。
コロサイ3:17「あなたがたのすることは、ことばとよると行いによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。」
これはとても大切なことが語られている箇所でした。私たちが「主イエスの名によって為す」とはどういうことなのでしょう。
古今東西、名はその人の業績、権威、名誉などを表す重要なものと考えられてきました。私たちは祈る時、イエス・キリストのお名前で祈りますが、祈りだけでなくことばによると行いによるとを問わず、すべてを主イエスの名によってしてよいし、すべきであると勧められているのです。
もともと、私たちはイエス・キリストの名によって語ることも、行動することもできない存在ではないでしょうか。と言うより、罪深く、力なき私たちがキリスト名によって何かを語り、為す資格などないと言えるでしょう。
日本語には「名を貸す」という言い方がありますが、ある人が別の人に自分の名を貸すということは余程の信頼関係がそこにあることを示すものでした。
例えですけれども、もし皆様が自分の全財産を引き出すことのできるクレジットカードを貸すとしたら、誰でしょう。愛する家族か、心から信頼する親友ではないでしょうか。
イエス・キリストはこの世界を創造した全能の神。私たちの罪のため十字架に死なれた救い主。そのようなイエス様が、まるで本当の家族、親しい友として「わたしの名をあなたに貸すから、わたしの名で語り、行動しなさい」と仰ってくださる。何という恵み、本当に勿体無いような恵みと感じます。
期待は愛の表現の一つです。「あなたがたのすることは、ことばによると行いによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし…」と勧めたパウロ。彼は、この世界を造り、すべてを支配する王なるお方が、罪人の一人に過ぎない自分のような者の生き方に本気で期待していることを感じてたいたことと思われます。
聖書は、私たちクリスチャンを「この世に属する者ではない」と教えています。この世ではなく、イエス・キリストに属する者、キリストの代理、キリストの使節としてこの世に遣わされた者、生かされている者であることを自覚したいと思うのです。
皆様はこのイエス・キリストからの変わることのない、絶大な期待を背中に感じながら、生きているでしょうか。イエス・キリストから遣わされた者として家庭で、地域で、職場で考え、行動しているでしょうか。
この様な立場にあることを踏まえた上で、次に伝道とは何かをお話したいと思います。一言で言えば、人々にイエス・キリストを証しすることです。
それでは、どのようにイエス・キリストを証しすることができるのでしょうか。
先ず、ことばを通して証しすることができます。ひとつは福音を聖書を用いて説明する、伝えると言う方法で、これにはある程度の学び、訓練が必要です。
二つ目は、自分自身の生活で与えられた神様の恵みの経験を通して、証しすることです。イエス・キリストを信じると、徐々に聖書的なものの見方が身についてゆきます。それまで、当たり前と考えていたことを神様の尊い恵みと思う。人生に起こる様々な出来事の背後に神様の導きを見る。その様な心の目が開かれるということです。
それを人々に語る。或いは書いたものを読んでもらう。それがことばを通しての証で、誰にでもできることでした。
次に、私たちの生き方、行動を通しての証があります。私たちのうちに生きて働くイエス・キリストからこの世に遣わされた者として、家庭を営み、学び、仕事をし、お金を使い、隣人との関係を築いてゆく。
これはことばで伝えることよりも、もっと影響力を持つ証かもしれません。ことばで伝えることは、人々の生活から離れたところからでもできるでしょう。
しかし、もし本当に人々にキリストを内に宿す者として影響力を与えたいのなら、彼らのそばに近づき、ともに時間を過ごさねばなりません。当然、自分の欠点や短所をさらすことにもなるでしょう。けれどもそうしてこそ私たちの信仰が生きたものであり、信仰が人生になくてはならないものであることを感じてもらうことができるのです。
そして、私たちの周りにいるまだイエス・キリストを知らない人々に影響を与えるために肝要なのは、伝道を意識して生きることと思われます。特別伝道集会の時、説教で伝道について聞いた時、日曜日だけというのではなく、イエス・キリストこそが全ての人の生きる希望であると証しすることを日々意識して歩みたいと思うのです。
そのために具体的に取り組めることは何か。聖書に聞いてみたいと思います。
第一に、自分が伝道できるように祈ってもらうことでした。
4:2~4「目を覚まして、感謝をもって、たゆみなく祈りなさい。同時に、私たちのためにも、神がみことばのために門を開いてくださって、私たちがキリストの奥義を語れるように、祈ってください。この奥義のために、私は牢に入れられています。また、私がこの奥義を、当然語るべき語り方で、はっきり語れるように、祈ってください。」
この手紙を書いたパウロは使徒として、伝道者として有名な人。ユダヤの国で生まれたキリストの福音を世界中に広めた伝道の達人です。
そのパウロが牢獄に幽閉される苦難の中にあって、祈って欲しいと願ったのは釈放ではなく、キリストの奥義、福音を語れるように祈ってください、語るべき語り方で、はっきりと語れるように、祈ってくださいとの願いであったとは流石です。
と同時に教えられるのは、伝道は個人プレーではなく、チームプレイということでしょう。当時迫害されていたキリスト教、福音を語るためには勇気が必要でした。自由も必要でしたし、語り方や人々に理解してもらえるようはっきりと語る知恵もひつようでした。これは今も変わらないことです。
私たちは伝道したい人がいる時、一人だけで取り組もうとしていないでしょうか。一人で祈り、一人で悩んでいないでしょうか。その人に伝道できるよう、兄弟姉妹に祈ってもらいたいと言う。上手くいかなかったら励ましあう。労苦を分かち合う。そんな仲間とともに伝道に励めるという恵み。是非このことをお勧めしたいのです。
第二に、賢明に振る舞い、機会を十分に用いることです。
4:5「外部の人々に対して賢明に振る舞い、機会を十分に生かして用いなさい。」
神様を知らない人は、私たちクリスチャンが困難や失望にどう対応するのか知りたがっています。特に人間関係にどう対応しているのか関心を抱いているのです。
私たちは相手にがっかりさせられても、柔和な態度で接しているでしょうか。それとも相手を責めているでしょうか。思うように物事が進まない時、無愛想で、イライラしているでしょうか。それとも、親切に、忍耐深く接しているでしょうか。
せっかく福音を語っても、私たちの対応や態度が、相手の心に冷や水をかけるというようなことがないよう、賢明に振舞う者になれたらと思います。
また、聖書は「機会を十分に生かして用いなさい」と教えています。機会、チャンスは与えられるものであると同時に、見出すものでもあるでしょう。そのために、「イエス・キリストによって変えられた人生について、証しする機会を与えてください」という神様への祈りをもって一日をスタートしたいと思うのです。
イエス・キリストが神なき人々をどう見られたでしょうか。軽蔑したり、見下したりは決してなさらなかった。むしろ神の愛を受けるに値しない人は一人もいないことを忘れず、人々の霊的な必要に実に敏感だったのです。
私たちもイエス・キリストの目線に近づけば近づくほど、十分に生かすべき機会が自分の周りに驚くべきほど存在することに気がつくことでしょう。
第三に、親切に接すること、相手にあった対応を考え、実行することを心がけたいのです。
4:6「あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味のきいたものであるようにしなさい。そうすれば、ひとりひとりに対する答え方が分かります。」
私たちは自分が確信する福音を相手に説教がましく押しつけてしまうことがあります。それは熱心から生まれたことですが、よくよく注意する必要があります。理屈で迫ることや押し付けがましさは、それをしている人は往々にして自覚できていないことが多いのです。
むしろ、いつも親切で、塩味のきいたことば、つまり相手にとって感じのよい話し方を心がけたいと思います。人々を惹きつけ、説得するもの。それは的確なことばとそれ以上に温かく、親切な態度であることを覚えたいのです。
また、一人一人異なった性格や境遇の人に合った答え方は、一朝一夕で身につくものではないでしょう。心から関心をもち、愛し、ともに時間を過ごして、相手の性格や人生の歩みを知って尊ぶこと。そうした人間関係の線上に、相手の身にあった答え方が見つかるのではないかと思われます。
最後に、伝道とは、それを通して神を知らない人々を私たちが愛し、仕えること、私たちがこの世に生かされている大切な目的のひとつであることを確認したいのです。
先程紹介した使徒パウロのことばです。
Ⅰコリント9:19「私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、全ての人の奴隷となりました。」
人間社会には昔も今も形を変えて地位の上下が存在し、人を縛ります。しかし、神様を信じる者にとって、全ての人間は神様に造られた尊い存在として対等であり、誰かが誰かに縛られることなく自由と教えられます。
しかし、キリストの福音を伝え、その人がキリストを信じるためなら、その人の奴隷、しもべ、仕える者となることも厭わないとパウロは言うのです。
皆様の人生において、伝道はこれほど意味のあることでしょうか。これほど価値あることであり、大きな願いでしょうか。
そして、このような生き方を可能にするには、イエス・キリストとの親しい交わりが必要なのです。私たちの魂がキリストの愛を味わい、キリスト愛に動かされ、キリストの愛に縛られるほど、私たちの人間関係は自由となり、心から進んで伝道のため仕える者となれるのです。
この一年、私たちみなが伝道を意識して日々生きること、キリストの愛に動かされて伝道の心を高め、神を知らない人々に仕えてゆくこと。これらの点において成長できればと思います。