以前病院通いをしていた頃、私はある薬を飲むのに一抹の不安があり、理屈を捏ねていたところ、その医者に「あなたはキリスト教の牧師でしょ。信じるのが仕事のはずなのに、どうして医者の勧めるものが信じられなくて、病気が治ると思うわけ」と言われたことがあります。一本取られたなと言う感じでした。
確かに、医者の言うことを信じて実行しないなら、何のために医者に行くのか。やぶ医者と言うのもいますから注意しないといけませんが、一般的には、医者に不信の念を抱いていたら、健康の回復は望めないと思われます。
私たちの人生において、信頼するという思い、態度は非常に重要ではないでしょうか。飛行機が信頼できず海外旅行ができないぐらいなら良いのですが、人を信頼できなければ仕事もできなければ、友人もできない。結婚はなおさら難しい。行き着く先は究極の孤独ということになります。
逆に、ある人物を盲目的に信じて裏切られる。だまされる。その様な出来事もこの世では後を絶ちません。信頼できなければ孤独、信頼すべきでない者を信頼すればひどい目にあう。実に生きにくい世の中ではないかと感じます。
聖書によれば、この世界を創造した神様に背いて以来、人間は大切なさまざまな能力を失いました。お互いに愛し合う能力、道徳的に正しいことを行う能力、自然を正しく管理する能力などです。中でも根本的なのは、神様に信頼する能力を失ったことで、私たちを愛してくださる、全能の神様を信頼せず、極めて信頼できない自分を信頼するようになったことです。
今日の皆様と読み進めるヨハネの福音書12章後半。ここは、イエス様がおよそ三年間にわたり、力を尽くしてユダヤ人のために宣教活動を終えた場面。果たして、その活動の結果はどうであったかが明らかにされます。
12:36b,37「イエスは、これらのことをお話しになると、立ち去って、彼らから身を隠された。イエスが彼らの目の前でこのように多くのしるしを行なわれたのに、彼らはイエスを信じなかった。」
意外な気がします。「イエスが彼らユダヤ人の目の前でこのように多くのしるし、奇跡を行われたので、彼らはイエスを信じた」とあるかと思いきや、「多くのしるしを行われたのに、彼らはイエスを信じなかった」と続くのです。
今まで読み進めてきたヨハネの福音書には、六つの奇跡がありました。結婚披露宴で一瞬にして水をぶどう酒に変えた奇跡、ベテスダの池で36年もの間苦しんでいた病人の癒し、二匹の魚と五つのパンで五千人の群衆を満腹させた奇跡、夜湖の上を歩いて弟子たちに近づいた奇跡、生まれつきの盲人の目を開けた奇跡。最後は愛する弟子ラザロを墓の中から蘇らせる奇跡。イエス様はまだこの他にも多くの奇跡を行われたと言われています。
神様でなければなしえない奇跡を目の当たりにしながら、ユダヤの人々の目は節穴だった。イエス様の尊い奇跡が豚に真珠だったのかと思うと、読んでいる私たちも残念無念です。しかし、こうした人間の不信仰は昔からのこと。昔も、神様のことば、神様のわざに対して、人間は心の扉を閉ざしてきたと、ヨハネは旧約聖書の有名な預言者イザヤのことばを引き、説明しているのです。
12:38「それは、『主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか。また主の御腕はだれに現わされましたか。』と言った預言者イザヤのことばが成就するためであった。」
主なる神様が語りイザヤが受け取った知らせ、私たちの知らせを誰も信じなかった。主なる神様の御腕つまりイザヤにより紹介されたみわざを理解する者は誰もいなかった。昔、活躍したイザヤも人々の不信仰に悩まされたということです。
12:39~41「彼らが信じることができなかったのは、イザヤがまた次のように言ったからである。『主は彼らの目を盲目にされた。また、彼らの心をかたくなにされた。それは、彼らが目で見、心で理解し、回心し、そしてわたしが彼らをいやす、ということがないためである。』イザヤがこう言ったのは、イザヤがイエスの栄光を見たからで、イエスをさして言ったのである。」
イザヤは活動を始める時、神殿で主なる神様の栄光を見るという経験をしました。その時イザヤが見た主なる神様の栄光は、人間の姿を取る前のキリストの栄光であると説明されています。そして、昔イザヤが経験した神様のさばきが、イエス様に対するユダヤの人々の不信仰な態度においても実現したと、ヨハネは言うのです。
そのさばきとは何でしょうか。人間が自分の目で見、心で理解する、つまり自分の力で回心することがないために、神様が人間の目を盲目にし、人間の心をかたくなにすると言うさばきでした。
もちろん、人間の目を盲目にする、心をかたくなにすると言っても、神様のことばを理解したいと思っている人が理解できないように邪魔をするとか、神様を信じたいと思っている人の心を反対方向に捻じ曲げてしまうと言うことではありません。
神様のことばなど理解する必要がない、受け入れたくないと思っている人をそのままにしておく。神様は信じられない、信じたくないと思っている人がその思いのまま生きられるよう放っておくと言うことなのです。こうして見ると、昔主に対し人々が示した態度と、イエス様に対して人々が示した態度は全く同じ。人間は昔も今も、神様に放っておかれたら、神様を信頼できない不信仰という状態のまま、どこまでも生きるしかないと言う悲惨な現実が明らかになったのです。
事実、イエス様の奇跡を見れば見るほど、教えを聞けば聞くほど、ユダヤの人々の反発は強くなり、殺意にまで高まってゆきました。それは、人々の中にある不信仰な性質が明らかになったということです。例えるなら、粘土の塊は太陽の熱を受けると、どんどん固くなってゆきます。太陽によって、熱を受けると固まるという粘土の性質が明らかになるのと同じと言えるでしょうか。
しかし、そんな宗教指導者の中にも、イエスを信じる者がいたと言うのは嬉しいことでした。
12:42,43「しかし、それにもかかわらず、指導者たちの中にもイエスを信じる者がたくさんいた。ただ、パリサイ人たちをはばかって、告白はしなかった。会堂から追放されないためであった。彼らは、神からの栄誉よりも、人の栄誉を愛したからである。」
ヨハネの福音書には、人目を憚り、夜中にイエス様を訪ね、教えを乞うたニコデモと言う宗教指導者が登場しますが、ニコデモのような人が多かったのでしょうか。残念ながら、彼らは仲間はずれにされるのを恐れ、信仰を告白しなかったとあります。
折角心に抱いたイエス・キリストへの信仰も、土の中から顔を出したばかりの小さな芽のよう。ユダヤ社会での高い地位が災いしたのか、それを守ろうとする彼らの信仰は、神からの栄誉よりも、人の栄誉つまり世間の名誉や評判を大切にする弱弱しいものだったと言うのは残念なことです。いつも人間ばかり見ていて、神様を忘れている。これも違う形の不信仰と言えるかもしれません。
こうして、全身全霊を尽くしたユダヤ人のための宣教活動も、終わってみれば、キリストに反発と殺意を抱く不信仰な人々と、神よりも人を恐れる弱弱しい信仰者ばかり。さぞや、イエス様はがっかりされたかと思いきや、ここからが本番とばかり、一際大声をあげて、「わたしを信ぜよ」「わたしのことばを受け入れて、永遠の命を得よ」と人々を招くのでした。
不信仰な人間が神様に信頼するために、弱弱しい信仰者が心から神様を信頼するために、イエス様はいよいよご自分が十字架に死に、人類の罪の贖いを果たすべき時が来たことを心に覚えられたのです。ヨハネの福音書において、イエス様がユダヤ人のため語る説教はこれが最後。最後まで一気にお読みします。
12:44~50「また、イエスは大声で言われた。「わたしを信じる者は、わたしではなく、わたしを遣わした方を信じるのです。また、わたしを見る者は、わたしを遣わした方を見るのです。わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれもやみの中にとどまることのないためです。だれかが、わたしの言うことを聞いてそれを守らなくても、わたしはその人をさばきません。わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たからです。わたしを拒み、わたしの言うことを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことばが、終わりの日にその人をさばくのです。わたしは、自分から話したのではありません。わたしを遣わした父ご自身が、わたしが何を言い、何を話すべきかをお命じになりました。わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています。それゆえ、わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのままに話しているのです。」
イエス様最後の説教のポイントは三つです。わたしを信じる者は、だれも闇の中、つまり罪の中にとどまることがない。わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たけれど、わたしを拒み続けるなら、終わりの日にわたしのことばがその人をさばくことになる。神様に背いた人間に永遠の命をもたらすこと、つまり神様を心から信頼できるようにすることが、わたしに対する父なる神の命令。
今まで、イエス様が教えてこられたことのまとめとも言える説教です。しかし、活動の結果明らかになった人間のひどい不信仰と言う罪、神様を信頼する能力を全く失った人間の悲惨な状態を受けとめたイエス様が、これを語ってくださったことには重大な意味があるのではないかと思います。
イエス様は、徹底的に不信仰な人間のために、十字架に死ぬことを覚悟しておられました。イエス・キリストの十字架の死においてあらわされた神様の愛だけが私たちの心にある不信仰の罪を取り除き、私たちを心から神様を信頼する者へと造りかえることができるからです。人間のどんなひどい不信仰も、どんなに弱弱しい信仰も、十字架の愛を心に受ける時、それに抵抗することはできないからです。
この後、弟子たちと最後の晩餐を過ごし、別れの説教を語ったイエス様は、不信仰極まりない私たちのことを心に留めながら、十字架の死へと進んで行かれます。
こうして、読み終えたヨハネの福音書12章の後半。私たち確認したいことが二つあります。
ひとつは、イエス・キリストの十字架において現された神様の愛を知り、神様に信頼することができるのは、恵み以外の何ものでもないと言うことです。
今日の箇所で見てきたとおり、ユダヤ人は昔も、イエス様の時代も不信仰。どれほどイエス・キリストの奇跡を目の当たりにしても、自分の目で見、心で理解して、つまり自分の力で神様を信頼することはできませんでした。これは、ユダヤ人だけでなく、私たちみなが同じ悲惨な状態にあることを、ヨハネの福音書は教えているのです。皆様は自分が神様を信頼する能力を失っていること、むしろ神様の代わりに信頼すべきでないものを信頼してしまう罪の状態にあることを自覚しているでしょうか。
その様な私たちが、キリストの十字架を通して神様を信頼することができると言うのは、神様が信仰を私たちに与えてくださったからでした。キリストの十字架を仰いで、神様の愛を知り、神様を信頼できる。これが本当に私たちにとってかけがえのない大きな恵みであることを自覚し、感謝したいのです。
二つ目は、神様からの栄誉よりも、人の栄誉を愛したユダヤの宗教指導者の姿は、私たちの姿でもあることを覚えたいのです。神様からの栄誉と人の栄誉、どちらを愛し、大切にするか。大切にすべきは神様からの評価と考えつつも、いつしか人の評価評判を気にし、大切にしてしまう弱さを持ってはいないでしょうか。
信仰の父と呼ばれるアブラハムの信仰について書かれた、ローマ人への手紙4章20節を今日の聖句として、読んでみたいと思います。
ローマ4:20「彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。」
アブラハムの信仰は最初強いものではありませんでした。彼は神様の約束を疑い、神様の約束に信頼せず、何度も人を恐れて、失敗を重ねています。しかし、神様はその度に、神様と神様の約束に信頼する生き方にアブラハムを連れ戻しました。アブラハムもそれにこたえ、神様の約束のことばに基づいて、現実を見、考え、判断し、行動するようになったのです。神様に与えられた信仰を働かせ、現実に適用することを繰り返すうちに、信仰が強められ、神様に心から信頼して歩むことができるようになった。これがアブラハムの歩みであり、私たちみなが目指すべき歩みではないかと思います。どんなにひどい不信仰も、いかなる失敗も、私たちに対する神様の愛を引き離すことはできない。神様との間にあるこの永遠に安全な関係を覚えながら、与えられた信仰を強めることに取り組んでゆきたいと思います。