2014年10月26日日曜日

ウェルカム礼拝 箴言16章32節 「怒り~うまく付き合って幸せな人生~」

 先週一週間、私はかなりのストレスを感じていました。自分にとって一番苦手な分野の話をしなければならないというストレスです。以前中学の同窓会に出席した時のことです。友人のひとりが「俊ちゃん。お前、牧師やっているんだって。だったら、神を信じて、いつも心穏やかで、俺みたいに腹を立てたり、迷ったりすることなんかないだろうな。うらやましいね」と声をかけてきました。
 勿論、実際の私はと言うと、怒りに関して失敗の連続。とても皆様の前でお話しできるような立場にないと強く感じていて、それがストレスの原因でした。しかし、今回怒りについて調べているうちに、ちょっと救われた気持ちになったんです。というのは、聖書の中にも、怒りで失敗した人、怒りに苦しむ人が沢山登場してくるからなんです。
奥さんの怒りに戸惑い、間違った選択をしてしまう夫。兄に酷いことをしたのに謝らず、兄の怒りを恐れて逃げる弟。子どもたちの悪行に怒りを感じながらも、叱ることができない父親。すべきことをしなかった父親に対する怒りを抑えられず、反乱を起こす息子。その怒りにどう対応してよいかわからず、息子を遠ざけるばかりの父親。自分を苦しめる者への復讐の思いに捕われ、苦しむ人。仲間に自分がしたかったことの先を越され、ねたみから怒りを発して、イエス・キリストに戒められた弟子たち。
 私たちも同じようなことしていませんか。昔から、人間は同じようなことを繰り返してきた。怒りとのつき合い方に悩んできた。昔から、人間にとって、怒りは厄介な隣人だったんだなと感じます。
 ところで、怒りは身近な人に向きやすいという性質があることを、皆さんはご存知でしょうか。ある夜、私の母親から電話が来ました。娘、つまり私の妹に対して非常に腹を立てていました。孫の運動会ということで出かけたらしいのですが、夜子どもを買物に連れ出すやら、台所の片づけ方がなっていないやら、あんな子に育てた覚えはないと、大変な剣幕だったんです。
私の母は気になることがあると黙っていられない性質なので、妹を注意し、恐らく妹がそれに言い返し、喧嘩になったんだと思います。私が、「そんなに気になって、どうしても黙って見ていられないなら、もう妹の家に行かなければ良い」と言うと、今度は私が怒られる始末でした。
それから暫くして、もう一度電話が来ました。今度は隣の家のお嫁さんの相談にのったらしく、「台所のことでも、子育てでも、今の若い人には若い人のやり方があるんだから、隣のおばさんもその辺の所を分かってあげないと」と言うんですね。
隣の家のお嫁さんのことだと、そういうやり方もあると受け入れられるのに、自分の子どものこととなると怒りを感じる、受け入れられない。しかし、私の母親は例外ではないという気がします。
私が楽しみにしている新聞の一齣に「人生案内」と言うものがあります。新聞によって呼び方が違うと思いますが、読者の日常生活の悩みに、弁護士とか作家、カウンセラーが回答するという欄です。それを読んでいて、気がつくのは、いかに人々が身近な人への怒りを感じているか。そこから様々な問題が起こってくるかと言うことです。
子どもを激しく叱ってしまい、自分がこんなにも怒りやすい人間であることに、子どもをもって初めて気がついたと、ショックを感じているお母さん。やり残しの多い妻の掃除の後を見ると、いつもイライラする夫。お隣さんと話をする時にはいつも笑顔で応対するのに、自分には笑顔を向けたことのない夫に怒る妻。
もし、これが他の人の場合だったら、「子どもってそんなもの」とか、「掃除の苦手な奥さんもいるのでは」とか、「男って外面が良いから」。そんな風に考えられるのに、自分の親、子、妻、夫となると客観的に見ることができないで、つい腹を立ててしまう。そんな経験、皆さんにもないでしょうか。
ある日の人生案内に、こんな相談がありました。「50代男性。妻と娘の三人暮らしです。遠方に住む80代の父親の相談です。私は一人息子で、父は教員を定年退職し、一人暮らしです。正月に実家に帰らなかったり、父の日に電話をしなかったりすると、怒りの電話がきます。私だけでなく、妻や娘にも容赦がありません。元旦に初もうでに行った娘は電話で叱られ、妻はしつけがなっていないと延々とお説教されました。実家へは娘の受験以来、帰省していません。こちらに何度か父を呼んでいます。妻も娘も私も心より父の幸せを願っているのに伝わりません。誕生日などのプレゼントは欠かしたことがありません。最近は早く死んでくれれば良いのにとすら思うことがあります。自己嫌悪で辛いです。親に対してどんな気持ちでいればよいのかわからず、夜も眠れません。」
回答者は、「帰省や電話に拘るのも、あなた方が自分のことを忘れていないか、形で測るしかないからかもしれません。怒ったり、説教したりするのも、一人で正月を過ごす寂しさの裏返しともとれます」と答えていました。よく分かります。しかし、父親への怒りの感情に捕われてしまっている相談者には、そこが見えないのだろうなあと感じ、そうした状況も理解できる気がします。
怒りは身近な人、つまり私たちにとって大切な人に向きやすいこと、一旦怒りの感情に捕まると、私たちは客観的に、相手や自分のことを見ることが非常に難しくなること。このことを先ず心に留めておきたいと思います。
また、怒りは、私たちの人生に大きな影響をもたらします。怒りの感情をそのまま爆発させれば、親しい人を遠ざけます。関係断絶などと言うことにもなりかねません。反対に、怒りの感情を心にため込んでいると、繰り返しそのことを思い返し、心奪われて、仕事や学びに集中できないばかりか、頭痛、不眠、高血圧、鬱病などになり易いとも言われます。
しかし、怒りがもたらすのは悪いものばかりではないと思います。家族を害するものへの怒りは、愛する家族を守るために必要なものです。また、社会の不正やひどい状況に対する怒りは、しばしばその問題を解決し、社会を良くする原動力ともなります。
つまり、私たちが怒りをどう管理するか、どうコントロールするのかが非常に大切だということです。ここで、怒りそのものは罪ではなく、それを上手く治めることが大切と教える聖書のことばを紹介したいと思います。

箴言16:32「怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は町を攻め取る者にまさる。」

怒りを遅くする。自分の心を治める。怒りのコントロールについてお話しする前に、皆さんにお願いしたいのは、自分の怒り方について考えることです。皆さんは怒りを感じた時、どのように反応しているでしょうか。自分がどのように反応してきたか、気がついているでしょうか。
 怒鳴る。沈黙する。イライラを感じてしまう人を避ける。睨みつける。皮肉を言って反撃する。あるいは、自分が悪いのではないと感じながらも、とにかく謝って、嫌な雰囲気を避けようとする人もいるかもしれません。
今回、心理学の本を読んでみて、一般的に怒りに対する対応に三つのタイプがあることが分かりました。私たちの反応の仕方は親に似ていると言われますから、自分の親のことを思い浮かべても良いかもしれません。
ひとつ目は攻撃タイプです。顔が赤くなったり、怒鳴ったり。怒りの感情が表情や言動に現れるタイプで、「私は正しい、あなたは間違っている」という考えが基本にありますから、人を攻撃したり、責めたり、説教したりします。こうした特徴から、他罰的とも言われます。
このタイプの人は、自分のことを相手が理解し、認めてくれないのはおかしいという思いが強いため、大きな声を出したり、逆に黙り込んだりすることで、相手の方が間違っていると分からせようとします。しかし、相手はそれを恐れて身を退いてしまいますから、攻撃タイプの人の思いはなかなか理解されないことになります。
二つ目は受身タイプです。良い人と思われたい、あるいは自分が傷つきたくないという動機から、怒りを感じてもそれを内側に押し込め、「私は気にしていない、怒りなど感じていない」と言う態度を取るのが特徴です。
このタイプの多くの人が、相手を怒らせるようなことをした自分、あるいは怒りを表すことのできなかった自分を責めるので、自罰型とも言われます。この状態がひどくなると、仲間から離れる、学校に行かない、会社に行かないという引きこもりになります。
三つ目は、バランス型。「人生こういうこともあるさ」と、人の怒りも自分の怒りも現実として受けとめ、次にどうしたらよいかを考える人です。自分や人を責め続ける怒りの感情から離れて、謝るべきことは謝り、伝えるべき自分の思いはしっかり伝えようとつとめるので、無罰型とも言われます。
どうでしょうか、皆さん。自分がどのタイプに属すると思いますか。どのタイプの特徴が、自分には顕著だと考えるでしょうか。あるいは、相手よって、事柄によって、攻撃タイプになったり、受身タイプになったり、バランスタイプになったりする。そういう方もいるかもしれません。
バランス型が最も理想的と思われますが、なかなか理想通りにはいかないのが現実です。しかし、聖書の視点からすると、神様は、非常に厄介な隣人をコントロールする能力をもともと私たちの体に与えてくださっていることが分かります。
皆さんは、脳の中に大脳新皮質と大脳辺系古皮質という場所があるのをご存知でしょうか。前者は理性をつかさどり、後者が感情をつかさどっていることは、良く知られています。しかし、神様から離れて生きるようになった人間は、理性と感情のバランスが悪いと言いましょうか。理性が感情を上手くコントロールできなくなっているんです。
聖書のある個所では、この様な人間の状態を「わきまえのない者」とか「獣のよう」と呼んでいます。私も感情的になった自分を振り返ると、この表現は当たっていると思います。私たちは普段思っているほど理性的な存在ではないようです。むしろ、怒りの感情が私たちをこの様などうしようもない状態に追いやることがあるのを、皆さんは認めるでしょうか。
それで、聖書が勧めている方法、神を信じる人が実践してきた方法は何かと言うと、私たちを愛しておられる神様の前に出て、怒りの感情を整理することです。神様に心を開き、自分の感じている怒りについて正直に話す。神様のことばを聞いて、怒りの原因や相手の行動についての判断、相手に対する態度が正しいかどうか考える。その様な神様との交わりの中で、自分が受け入れるべき現実、自分が謝るべきこと、自分が相手に伝えるべきことを整理する。これを聖書の人々は実践してきましたし、これは、今の私たちにもできることなのです。
そして、その様な交わりの中、神様は私たちに受け入れるべき現実を受け入れ、謝るべきことを謝り、伝えるべき思いを伝える勇気を与えてくださいます。

エペソ4:25「ですから、あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい。私たちはからだの一部分として互いにそれぞれのものだからです。」

「私たちはからだの一部分」と言う表現は、相手との関係を心から大切なものと考えていると言う意味です。聖書は、私たちが相手との関係を本当に親しく、良いものにしたいなら、偽りを捨て、真実を語れ、と勧めています。具体的に言えば、相手を責めず、自分が心の奥で感じている思いをきちんと表し、伝えることです。
私たちの中には、自分の怒りを伝える時、またも相手を感情的に責めてしまわないかと言う恐れがあります。本当の思いを伝えたら、なんて心の狭い人間なんだと思われはしないかと言うおそれもあります。しかし、そんな私たちを、神様は心を開いて、本当の自分を知ってもらうと言う愛の実践へと背中を押してくださるのです。
その際、お勧めしたいのが「I(私)の法則」です。これは、私の友人から聞いた話なので、一般的にそう言えるのかどうかはわかりませんが、アメリカの飛行機会社のフライトアテンダントは、通路に荷物があると、「そこに荷物を置いてはいけない」と言うことが多いそうです。それに対して、日本の飛行機会社のフライトアテンダントは、「お客様、申し訳ありませんが、その荷物をこちらの棚に上げて頂いてもよろしいでしょうか」と言うことが多いそうです。
皆さんは、どちらのことばに従いやすいでしょうか。してはいけないことをしていたとあからさまに言われるアメリカ型よりも、フライトアテンダントが自分の願いを伝える言葉の方が、従いやすくはないでしょうか。私たちは相手の思い、願いを理解する時、行動を起こしやすい者なのですね。
最初に例に挙げた、人生案内の相談者の父親も、もし電話で「どうして正月に実家に帰らなかったのか」と息子を責めるのではなく、「今度の正月はあえなくてとても寂しかった。来年は、ぜひ帰ってきてほしい」と、その思いを伝えていたら、ここまで家族の関係がこじれることはなかったように思えます。
クリスチャンの詩人星野富広さんは、中学校の体育教師をしていましたが,跳び箱を教えている際の事故で、首から下が全く動かなくなりました。それからと言うもの、星野さんは何かにつけて、「コンチクショー、コンチクショー」と口にし、すべてのことに怒りをぶつけていたそうです。
雨が降ったら「コンチクショー」、天気が良ければよいで、外に出られない自分をみじめに感じて「コンチクショー」。友達がお見舞いに来ると、元気に活躍している友達を妬ましく思って「コンチクショー」、友達が来なくなると「見捨てられたのかと感じて「コンチクショー」。毎日怒りの虜になっていたのです。
そんなある日、いつもの通り「コンチキショ―」を連発していると、いつも世話をしてくれる看護婦さんが、目に涙をためて星野さんに言ったのだそうです。「お願いだから、そのコンチキショ―をやめてください。見ているととても悲しくなります」。
これで、星野さんはハッとしました。自分の口から出る怒りが周りの人を悲しませていると言うことを看護婦さんの真剣な表情から知ったのです。その言葉に込められた愛情が伝わってきたので、星野さんは自分の怒りがどんなに破壊的なものであるかを悟り、生き方を改めることができたのです。それどころか、自分の怒りのもとにある悲しみや悔しさを神様に対する言葉として詩にすることで、多くの人の心に宿る怒りを和らげることに役立っているのです。
もし、看護婦さんが「星野さん、あなたいつもコンチクショーって言っているわね。そんなひどい言葉聞きたくないわ」と言っていたらどうだったでしょう。看護婦さんが星野さんを一言も責めず、愛をもって自分の感じていた悲しさを伝えたからこそ、星野さんの生き方が改まったのではないかと思われます。
もう一つ、お勧めしたいのは、神様との関係の中で出来事の意味を考えることです。私たちの人生に起こる出来事は、それが喜びであれ、苦しみであれ、私たちの魂のために神様が愛をもって与えたものと聖書は教えています。

ローマ8:28「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」

私たちの心に怒りを起こす、人々の冷たい仕打ち、愛するのが難しい人々の存在。それは、私たちにとって苦しみです。しかし、それは忍耐やへりくだって仕えることを学ぶために、神様が備えてくださった学校なのです。この様に神様の愛という視点で出来事の意味を考え、受けとめる時、私たちは怒りとの戦いに立ち向かってゆくことができるのです。
最後に、私たちができること、できないことを整理したいと思います。怒りの感情を抑えることは私たちにはできません。しかし、怒りをどう表すか、伝えるかは、私たちがコントロールできることです。ただし,それは私たちひとりでは不可能、しかし、神様と一緒なら可能。これが、聖書のメッセージです。
怒りの感情に対して実に弱い私たち。怒りに駆られ人を攻撃し、かと思えばプライドに拘って心から謝ることも、自分の思いをも伝えることの苦手な私たち。そんな私たちのことを良く知り、受け入れ、一言も非難せずに愛してくださる神様。この神様との安心できる関係の中で、また、神様を信じる人々との安心できる関係の中で、怒りと言う隣人と付き合ってゆくことをお勧めしたいと思います。  

2014年10月19日日曜日

詩150篇1節~7節 「一書説教、詩篇 ~主をほめたたえる~」

 六十六巻からなる聖書。その一巻全体を取り上げて一回で説教をする、一書説教。今日は十九回目となりまして、大きな山を登ることになります。旧約聖書、第十九の巻、「詩篇」。全百五十篇からなる聖書中最大の書。聖書の中央に位置する高嶺。おそらくは創世記から黙示録を目指す一書説教の旅の中で最大の難所となります。
 その分厚さはもとより、歌われた詩の内容は千差万別。一つの書に一つのテーマではなく、百五十の詩、それぞれにテーマがある。人の歩むべき道を示す人生訓の歌。希望に満ち溢れた励ましの歌。苦難の中にあって神様を仰ぎ見る信仰の歌。議論を重ね、真理を宣言する歌。怒りと憎しみに心を燃やす呪詛の歌。やがて来る救い主を指し示すメシア預言の歌。あるいは、技巧を凝らしに凝らした歌もあれば、無技巧、無造作にして感動の結晶のような歌もある。一つの詩に注目して味わうのにも、それなりの時間を要するのに、百五十の詩を一度に扱い説教するとは、あまりに無謀と言えます。それでも、皆様とともにここまで一書説教の歩みを進められたこと。そして今日は、皆様とともに詩篇にあたれることは大きな喜びであり、興奮を禁じえないところです。
 大先輩、小畑進先生の言葉。「詩篇の魅力とは、彫心鏤骨の詩心をたどること。『真』の世界、『善』の世界とともに、詩情の『美』の世界を詠むこと」。詩篇を人生のテキスト、信仰の書として読むことは良い。詩篇を通して神様がどのようなお方か、私たちがどのような存在かを知り、今の自分がどのように生きるべきなのか考える。それは良い。しかし、それだけでは詩篇の魅力を十分に味わったとは言えない。詩篇を「詩」として読む。大変な苦労のもとに紡ぎだされた言葉の美しさを味わうことこそ、詩篇の魅力を味わうことへつながるというのです。
 私のように「詩」に疎い者からすると、詩篇を読んで、その魅力を十分に味わうことなど出来るのかと臆する気持ちもあります。とはいえ、今の私が分かるところまでで良いとして読み進めたい。人生の歩みを進め、信仰生活を重ねるにつれ、より詩篇の美しさを味わえるようになるのであれば、楽しみでもあります。
 この一書説教が、少しでも皆様が詩篇を読む助けとなるようにと願います。毎回のことですが、一書説教の際には、扱われた書を読むことをお勧めいたします。一書説教が進むにつれて、教会の皆で聖書を読み進めていくという恵みにあずかりたいと思います。

 「詩篇」は全百五十篇という大詩篇群ですが、五つの巻に分けられています。私たちの手にする聖書にも区分が載っていますが、第一巻が一篇から四十一篇。第二巻が四十二篇から七十二篇。第三巻が七十三篇から八十九篇。第四巻が九十篇から百六篇。第五巻が百七篇から百五十篇。五巻に分けるのですから、百五十を五で割るのかと思いきや、そうではなく数字がばらばら。第三巻、第四巻には、十七の詩しか含まれず、第五巻には四十四の詩が入っています。
 なぜ五つの巻に分けられたのか、正確な理由は不明ですが、モーセ五書にちなんだという説があり、詩篇を第二の五書と呼ぶこともあります。それはそれとして、今日はこの区分に従って、それぞれの特徴を挙げること。また、説教の準備をするにあたり、私が特に印象に残った詩を、各巻から一つ挙げることをもって、詩篇の一書説教といたします。

 まずは第一の巻、一篇から四十一篇です。冒頭にくる一篇と二篇は、第一巻の中でも特別。一篇の冒頭、「幸いなことよ」で始まり、二篇の最後が「幸いなことよ」で閉じられる。「幸い」で括られたこの二つの詩は、詩篇全体の序と考えられています。一篇で教えられる「幸い」は「主のおしえを喜びとし、昼も夜も口ずさむこと」であり、二篇で教えられる「幸い」は、「主に身を避けること」でした。これより続く詩を、喜びとし、いつでも口ずさむこと。それも、主なる神様に信頼を置きながらの信仰生活となるようにと勧められるのです。

 詩篇の序にあたる冒頭の二篇を除きますと、第一巻には顕著な特徴があり、その殆どがダビデの名前を冠しているということです(十篇、三十三篇は例外)。「ダビデによる」というだけのものから、「指揮者のために。弦楽器に合わせて。ダビデの賛歌」と、歌われる際の楽器の指定とともに記されるものもあれば、具体的に詩が作られた背景を教えてくれるタイトルもある。
 元来、詩は普遍性を有するもの。作者が誰であろうとも、そこに歌われた内容に心を合わせて味わうことが出来るものと言えますが、それでも作者のことを知ることで、より味わい深く詩を読むことが出来る。羊飼い、英雄、竪琴奏者、芸術家、詩人、預言者、王など、多数の肩書を持つダビデ。あるいは偉大な信仰者にして、とんでもない罪人と言って良いでしょうか。第一巻を読む際には、ダビデのことを思い出しながら読みたいのです。
 おそくら一巻の中で最も有名なのは「主は私の羊飼い」で始まる二十三篇でしょう。ダビデ自身、羊を守るために獅子や熊と戦った羊飼いでした。命をかけて羊を守る羊飼いであったダビデが、自分と神様との関係に思いを馳せた時に「主は私の羊飼い」と告白した詩。

 今回、説教の準備をしつつ、私が最も印象に残ったのは三篇でした。息子アブシャロムが反乱をおこし、命からがらエルサレムを離れたダビデが作った歌。
 詩篇3篇1節~2節
「主よ。なんと私の敵がふえてきたことでしょう。私に立ち向かう者が多くいます。多くの者が私のたましいのことを言っています。『彼に神の救いはない。』と。」

 第二サムエル記を覚えていますでしょうか。アブシャロムが反乱を起こした遠因は、ダビデが人妻バテ・シェバを奪ったことにありました。罪の刈り取りが、息子の反乱というかたちで実現していたダビデ。敵対する「彼に神の救いはない」という声も、その通りではないかと思える状況。ここでダビデは次のように歌っています。
 詩篇3篇5節~6節
「私は身を横たえて、眠る。私はまた目をさます。主がささえてくださるから。私を取り囲んでいる幾万の民をも私は恐れない。」

 寝ることが出来た、起きることが出来た。主が支えて下さるからだ、と。この危険の最中にあって、夜寝て、朝起ることが出来た、これも神様が支えて下さったからだ、という信仰。反乱が治まったわけではない。危険は変わらない。それでも神様が私の命を支えて下さっているから、敵対する者を恐れることはないと言い放つ姿が印象的です。
 
 続けて第二巻。四十二篇から七十二篇です。第二巻にもダビデの作品が多数含まれますが、コラの子たちの歌が八篇、アサフの賛歌、ソロモンの賛歌が一篇ずつ入り、色合いが広がります。コラと言えば、民数記に悪名として記録された人物。祭司職に対するねたみを持ち反逆したため、神罰により死にました。残念ながら、悪名として記憶された家系。しかし、その子孫がダビデの時代になると、門衛や神殿での奉仕に就くようになり、ヘマンにいたっては音楽家として名前を馳せています。不名誉な先祖の記録があっても、その子孫に回復と活躍があるのは嬉しいところです。(第三巻にも四篇あり、コラの子たちの作品は詩篇の中に十二篇入っていることになります。)
 第二巻で特に有名なのは、最初に来る四十二篇でしょう。「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。」で始まる歌は、終わりまで神様との交わりを求める歌となっていて、第二巻全体の色合いとも重なります。

 今回、一番私の印象に残ったのは四十六篇でした。
 詩篇46篇1節~3節
「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。それゆえ、われらは恐れない。たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。たとい、その水が立ち騒ぎ、あわだっても、その水かさが増して山々が揺れ動いても。」

 起こりくる様々な困難を前にして、それでも神様を信頼する時に平安がある、という信仰をどのように表現するのか。地は変わり、山々が海の真中に移る、山々が揺れ動く、王国は揺らぐ、地は溶ける。あるいは弓をへし折る、槍は絶ち切る、戦車は焼かれると、実に激しい表現を用いながら、それでも我らは恐れないと言います。起こりくる困難を、大きく、激しく表現すればするほど、神様とともにいることがいかに安心であるか、浮き彫りにする歌。後半十節には、慌てふためく者に対する神様からの語りかけもあります。
 詩篇46篇10節
「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。わたしは国々の間であがめられ、地の上であがめられる。」

 苦難、困難を前にして慌てふためく時、この歌を歌いたい。慌てふためくのをやめて、遠くにいるのではない、そこにある助けである神様を信頼することを選び取りたいのです。

 続けて第三巻。七十三篇から八十九篇。続く第四巻とともに、僅か十七篇の小さな巻です。一巻、二巻と、ダビデの詩が多く入っていましたが、三巻の中心はアサフの賛歌。ダビデの詩が一篇なのに対して、アサフによる歌が十一篇。半分以上がアサフの歌となります。アサフと言えば、先に名前を挙げたヘマンと同様、音楽で礼拝に仕える者。秀でた音楽家でした。
 三巻の特色は、苦境の中で神様に訴える歌が多いこと。なぜ悪者が栄えるのか。なぜ苦しみが取り去られないのか。神様、いつまで怒られているのですか。との訴えが、繰り返し出て来ます。喜びよりも嘆き。感謝よりも訴え。全体的に重い雰囲気と言って良いでしょうか。
 第三巻で特に有名と思われるのは八十四篇。第三巻に入り、ここまではアサフの賛歌。繰り返される訴えの言葉に、重苦しさが漂う中、この八十四篇はコラの子たちの賛歌となって、突如、明るい、優美な歌となります。「万軍の主。あなたのお住まいはなんと、慕わしいことでしょう。私のたましいは、主の大庭を恋い慕って絶え入るばかりです。」と、神様に対する愛、礼拝を恋い慕う思いが熱烈に歌われます。この明るさ、優美さを維持しつつ、後半には「まことに、あなたの大庭にいる一日は、千日にまさります。」との名句が織り出される。第三巻の中にあるため、余計にこの明るさ、優美さが目立つ名詩篇でした。

 今回、私が一番印象に残ったのは第三巻の最初の歌、七十三篇です。ダビデの時代、名前を知られた名音楽家。アサフの詩が十一篇続く、その最初の歌が、何とも生々しいのです。
 苦悩を訴えたアサフ。その理由は、悪人が栄えているからというもの。
 詩篇73篇3節~4節、12節
「それは、私が誇り高ぶる者をねたみ、悪者の栄えるのを見たからである。彼らの死には、苦痛がなく、彼らのからだは、あぶらぎっているからだ。・・・見よ。悪者とは、このようなものだ。彼らはいつまでも安らかで、富を増している。」

 これに対して、自分は悪から遠ざかろうと努めたのに、それはむなしいことだったと言います。
 詩篇73篇13節
「確かに私は、むなしく心をきよめ、手を洗って、きよくしたのだ。」

 信仰を持ったために、堅苦しい人生となってしまった。心を清め、手を清めたことも、実にむなしいこと。短い人生、好き放題生きれば良かったのではないかとの懊悩の姿が生々しいのです。これが当代きっての賛美奉仕者から出た言葉というのが、印象的です。着飾った言葉、見せかけの言葉ではない。心に湧き出てくる思いを神様にぶつける姿に、これで良いのだと励まされます。なお、アサフはこの歌の中で、この悩みに対する答えを見出しますが、それは実際に読んで頂ければと思います。

 続く第四巻。九十篇から百六篇となります。三巻までは、それぞれの詩に表題がついているものが殆どでしたが、四巻は表題がついているものは僅かです。より一般的、普遍的に詩を味わうことになります。
三巻が神様に激しく訴える歌が多かったのに対して、四巻は明るい調子の歌が多くなります。主は王であるとの告白が何度も出て来て、その王である神様を褒めたたえる歌が多数。王である神様を褒めたたえる詩篇群にあって、モーセは「私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦と災いです。」と言い、ダビデは「人の日は、草のよう。野の花のように咲く。風がそこを過ぎると、それは、もはやない。その場所すら、それを、知らない。」として、人間の儚さを歌っています。儚い人間、しかし、神様の主権は揺るぐことなく、永遠に続くという明るさです。
詩篇を読み進める私たちの心も、三巻にて沈みがちでしたが、この四巻に来て浮上するのです。(とはいえ、九十四篇などは『復讐の神、主よ。復讐の神よ。光を放ってください。』と始まる詩篇で、明るいだけというわけでもありません。)
 第四巻で特に有名なのは百三篇。一回口にして見ますと、名句の連続であることが分かります。「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」「天が地上をはるかに高いように、御恵みは、主を恐れる者の上に大きい。」「東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。」などなど。今年になって、私たちの行う聖餐式において、最後に感謝の言葉を皆で告白しますが、あの言葉も詩篇百三篇からでした。

 今回、私が一番印象に残ったのは、百篇。これもまた有名な詩篇。礼拝の招詞によく選ばれる箇所でもあります。詩篇100篇1節~3節
「全地よ。主に向かって喜びの声をあげよ。喜びをもって主に仕えよ。喜び歌いつつ御前に来たれ。知れ。主こそ神。主が、私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である。」

 全五節の短い歌ですが、簡潔にして明瞭。喜びが凝縮された歌となっていて、読む者の心も高まります。第四巻に漂う喜び、明るさが、ここに集結した印象。詩篇はどれも黙読ではなく音読するのが良いですが、この百篇などは大声で読み上げたいところです。

 続くのは最後、第五巻。百七篇から百五十篇、最大の巻です。内容は多岐に渡り、様々なテーマが見てとれます。第五巻の中盤に、都上りの歌と題する詩が十五篇。エルサレムにある神殿での礼拝を目指して旅をする時に歌ったと思われる巡礼歌群があります。第五巻の終わりには、ハレルヤで始まりハレルヤで終わる、大賛美のハレルヤ歌群がありました。都上りの歌、巡礼歌群と、大賛美のハレルヤ歌群を二つの柱として、様々な歌が盛り込まれた第五巻。
 有名な歌は一つに絞れないところ。都上りの歌も、ハレルヤ詩篇も有名。神の言葉だけをテーマに、いろは歌となっている超絶技巧の詩、百十九篇。聖書中、最も短い章にあたる豆粒詩篇、字句は少なく、内容は壮大な百十七篇。「その恵みはとこしえまで」とひたすら繰り返す交唱歌の百三十六篇。バビロン捕囚の際、あまりの出来事に心を狂わせ、呪いの言葉を吐き出す百三十七篇。挙げれば切りがないところです。

 第五巻の中で私が印象に残ったのは、第五巻の最後にして、詩篇の最後にあたる百五十篇。詩篇の一書説教の終わりに、この百五十篇を確認したと思います。
 詩篇150篇1節~6節
「ハレルヤ。神の聖所で、神をほめたたえよ。御力の大空で、神をほめたたえよ。その大能のみわざのゆえに、神をほめたたえよ。そのすぐれた偉大さのゆえに、神をほめたたえよ。角笛を吹き鳴らして、神をほめたたえよ。十弦の琴と立琴をかなでて、神をほめたたえよ。タンバリンと踊りをもって、神をほめたたえよ。緒琴と笛とで、神をほめたたえよ。音の高いシンバルで、神をほめたたえよ。鳴り響くシンバルで、神をほめたたえよ。息のあるものはみな、主をほめたたえよ。ハレルヤ。」

 詩篇を読み通しますと、信仰者と言っても、様々な人がいること。様々な状態があることがよく分かります。感動があり、喜びがある時もあれば、苦しみ、悩みに喘ぐこともある。キリストを信じたら、神様を信じたら、全てが順調というわけではない。悩み苦しみながらの信仰生活で良いのだと教えられます。苦しみ、悲しみの時には、その思いを吐露して良い。何故このようなことが起こるのかと疑問に思えば、神様に訴えれば良い。詩篇の中には、敵対する者の不幸を願う歌までありました。
 自分の信仰生活を振り返りますと、浮き沈みの信仰生活。喜びや感動を味わうこともあれば、苦しみ、悩み、疲弊し、挫折することもある。弱き自分の姿を詩篇の中に見出し、安心することもあります。弱くても良い、詩篇とともに信仰生活を送りたいと思いますが、目指すところはどこかと言えば、この百五十篇です。
 様々な思想、教訓、議論、感情が繰り広げられた詩の山。しかし、その最後は、これ以上ない程簡潔に、主をほめたたえるだけの歌となるのです。解説不要の詩。指揮者となった詩人が、次々に賛美の指示を出しながら、最後には「息のあるものはみな、主をほめたたえよ。」として、自分自身も賛美に繰り出す。喜怒哀楽を踏み越えて、最後には絶対的単純さをもって主をほめたたえる。これが詩篇のクライマックスであり、私たちの信仰生活の目指すところでした。
 以上、聖書の中央に位置する高嶺、「詩篇」でした。後はともかく、詩篇を読んで頂ければと思います。今回の説教では、巻ごとに印象の残った章をお伝えしました。皆様でしたら、どの詩が印象の残るのか。是非とも、教えて頂きたいと思います。

 詩を生み出した信仰の大先輩の心を味わい、詩篇が身近になりますように。詩人たちの歌声に、耳を傾け、心を注がれる神様に、私たちも出会うことが出来るように。人生の旅路、信仰の旅路を送るにつれ、ますます詩篇が味わい深いものとなり、あの最後の大賛美を我がものとして歌うこととなりますように祈ります。

2014年10月12日日曜日

ローマ人への手紙12章9節~21節 「世から選び出された者」

 皆様は、キリスト教結婚式の際、新郎新婦が立てる誓約のことばを覚えているでしょうか。「健やかな時も、病める時も、富める時も、貧しき時も、相手を慰め、励まし、助け、支え、固く節操を守るように」と言う、あのことばです。夫婦が分かち合うのは喜びだけではない。病に倒れ、不安を覚える時、経済的な困窮を覚える時等、様々な苦しみ、悲しみを共に担ってゆくなかで、いよいよ愛がまし加わり、絆が確かなものとなってゆくことを教えています。
結婚して30年。私たち夫婦もこの様な恵みを味わうことができ、心から感謝していますが、友情についても同じことが言えるかもしれません。
先週の箇所、イエス・キリストは、「人がその友のためにいのちを捨てると言う、これよりも大きな愛は誰も持っていません。」と言われました。また、「わたしはもはやあなたがたをしもべとは呼びません。わたしはあなたがたを友と呼びます。」と、私たちを友情の中に、引き寄せてくださいました。
この世界の造り主、王の王であるイエス様が、一介の被造物に過ぎず、しかも心汚れた罪人である私たちに目を留め、大切な友と思い、ご自身との親密な交わりに招いてくださったのです。「自分の様な者を大切な友と思い、つき合ってくれる人がいるだろうか」と、一人寂しさを噛みしめたことのある者には、本当に嬉しい招きの御声です。
そして、今日の箇所。イエス様は、「わたしの苦しみを共に担ってはもらえないか。」と、私たちを招いています。苦しみや悲しみを共有するのは大変なこと。しかし、そこに愛があり、友情があるなら、決して重荷とはならない。むしろ、同じ苦しみを担いあった者同士、深い喜びを分かち合うことができる。その様な経験が、皆様にもあろうかと思います。
ですから、今日のイエス様の招き。それは私たちを心から大切な友と思っておられるからこそなされた共に苦しみ、共に喜ぶことへの招きであることを心に留め、読み進めてゆけたらと思います。

15:18,19「もし世があなたがたを憎むなら、世はあなたがたよりもわたしを先に憎んだことを知っておきなさい。もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです。」

イエス様が十字架に死に、天に去って行かれた後のこと、弟子たちは世から必ずしも歓迎されない。むしろ、この世はイエス様に従う者の生き方や、語る福音に反対し、敵意や憎しみを覚える者さえ現れると言われます。この場合、世と言うのは、イエス様を救い主と信じない人々、神を天の父として信頼しない人々を指します。
イエス様は弟子たちを世に残してゆくに際し、「この世がその様な反応を示しても、意外に思うことはない。むしろ、人々がその様な反応を示すなら、その時には、あなたがたより先に、わたしが世に憎まれたことを知っておきなさい。」と勧めています。
故郷の人々の無関心や冷たい態度、都の宗教指導者の非難や敵意。今までは、それらすべてをイエス様が引き受け、弟子たちは守られてきました。しかし、これからはそうはいかない。彼らが直接、世の人々の非難や攻撃にさらされることになる、と言うのです。
その様な時、弟子たちが、まずイエス様ご自身が同じ苦しみを味わったのを思い出すことには、どのような意味があるのでしょうか。
既に天に召された梅山長老さんは、何度か大きな手術を経験されたました方ですが、手術の前によく口にしておられたことばがあります。「イエス様の十字架を思うと、私がこれから経験するだろう痛みも、イエス様ご自身良く分かっていてくださると感じ、安心ですよ。」
私たちを世に遣わされるイエス様が、私たちが信仰者であるがゆえに味わう苦しみや悲しみを、前もって経験され、よく理解しておられるということ。それは、どれ程の慰め、また励ましでしょうか。
愛する家族からのキリスト教拒絶、反対、非難。葬儀などの際、親戚の人々から向けられる冷たい視線。それら、私たちが経験する苦しみは、イエス様ご自身も経験したもの。だから、よく理解し、心からの同情を注いでくださるもの。この様なイエス様の存在を思い起こすことで、私たちの苦しみや心細さは、どれほど和らげられることでしょうか。
後にキリスト教伝道者となったパウロが、まだキリスト教反対で、キリスト教徒を迫害していた時のことです。復活の主イエスがパウロに現れ、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」と語る場面があります。
「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」実際に迫害を受けていたのは地上にいるキリスト教徒であり、イエス様は既に天におられます。しかし、そのイエス様はご自分を信じる者たちの苦しみを我がこととして感じ、受けとめておられたのです。イエス様の眼は常に私たちに向き、その心はいつも私たちとともにある。イエス様は私たちと一心一体。信仰のゆえに苦しむ時、私たちもこの様なイエス様の存在を思い起こす者でありたいと思います。
そして、もう一つ。イエス様は弟子たちに、「あなたがたは世の者ではなく、世から選び出された者。だからこそ、世はあなたがたを憎むことを心に刻んでおきなさい。」ということでした。
神に信頼して生きるか、神なしで生きるか。神中心で生きるのか、それとも自分中心で生きるのか。この世の生き方や価値観と、この世から選び出され、神の民とされた私たちの生き方や価値観は、大きく違っています。普段外側だけを見ていては分からなくても、何か事あると、世の人々はこの違いに気がつき、時に訝しく思い、反対し、非難することになります。
不正なことに加担しない。卑しい話題に興じる仲間に入らない。神様を礼拝したいからと、一番儲かる日曜日には自分の店を開かない。その様な生き方において煙たがられるとしたら、私たちは何も恥じる必要はありません。むしろ、この世から選び出され、神の民とされた証拠と覚えて、感謝すべきでしょう。
但し、イエス様への信仰以外の点で、非難される者であってはならないと言うことも覚えておきたいのです。怠惰や非協力的な態度、それに法律違反。これらの点で責められることなきようにと、聖書は注意しています。

Ⅰペテロ2:20「罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。けれども、善を行なっていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。」

さらに、ご自分が天に昇った後、弟子たちが落胆しないよう、思い遣り、語られたイエス様のことばが続きます。

15:20~25「しもべはその主人にまさるものではない、とわたしがあなたがたに言ったことばを覚えておきなさい。もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害します。もし彼らがわたしのことばを守ったなら、あなたがたのことばをも守ります。しかし彼らは、わたしの名のゆえに、あなたがたに対してそれらのことをみな行ないます。それは彼らがわたしを遣わした方を知らないからです。
もしわたしが来て彼らに話さなかったら、彼らに罪はなかったでしょう。しかし今では、その罪について弁解の余地はありません。わたしを憎んでいる者は、わたしの父をも憎んでいるのです。もしわたしが、ほかのだれも行なったことのないわざを、彼らの間で行なわなかったのなら、彼らには罪がなかったでしょう。しかし今、彼らはわたしをも、わたしの父をも見て、そのうえで憎んだのです。これは、『彼らは理由なしにわたしを憎んだ。』と彼らの律法に書かれていることばが成就するためです。」

これは、主に、キリスト教会に対するユダヤ人の迫害を念頭に置いたことばと考えられます。弟子たちにとって、同胞ユダヤ人からの迫害は躓きとなる可能性がありました。「どうして、同じ天地の造り主の神を信じる者が、自分たちを迫害するのか。もしかすると、自分たちの信仰に問題があるのではないか。」弟子たちがこの様な不安に陥らぬよう、イエス様は先回りしてこれを語られたのです。
旧約の昔、ユダヤ人は神の民として選ばれ、聖書を与えられました。そこには、神が世に遣わす救い主について預言がありました。そして、救い主のイエス様は彼らの国に来て、聖書の真の意味を説き明かし、神様にしかなしえない様々な奇跡をなし、彼らに全身全霊仕えたのです。
しかし、これ程の恵みを受けながら、イエス様を拒み、神様を天の父として信頼することがなかったユダヤ人。神様ではなく自分を信頼し、憎しみのゆえにイエス様を十字架につけたユダヤ人が、イエス様のしもべ、弟子たちを迫害するのは当然のことと教えられます。
イエス様は、「『彼らは理由なしにわたしを憎んだ。』と彼らの律法、旧約聖書に書かれていることばが成就するためです。」とも言われました。「理由なしに」とは、正当な理由なくという意味です。
神様に信頼して生きる時、最も幸いな者として創造された人間。その人間が神様に背いた結果は、何の正当な理由もなく神様と神様の遣わした救い主を拒み、憎むと言う悲惨さでした。イエス様の眼から見るなら、すべて造られた者の中で、ただひとり神様を知り、愛することのできた人間が、神を憎む者となってしまったと言うひどい状態に世は堕ちていたのです。
その悲惨さ、そのひどさに気がつくこともなく、自分たちの正しさを誇って生きる人々のことを、イエス様がどれ程悲しみ、あわれみの心で見ておられることか。このあわれみの心が弟子たちを世に遣わす源となります。

15:26,27「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。あなたがたもあかしするのです。初めからわたしといっしょにいたからです。」

やがて天に昇るイエス様が、弟子たちのため天の父のもとから遣わす真理の御霊については、これまでも繰り返し約束されてきました。ここでは、弟子たちが世の人々に対し、イエス・キリストを証しするため真理の御霊が与えられると教えられています。
真理の御霊、聖霊は、イエス・キリストを信じるすべての者に与えられる神様。私たちの心に住み、救い主の愛を示してくださいます。ですから、「あなたがたは、初めからわたしといっしょにいた」と言われた通り、私たちはイエス様によって生まれる前から愛されていたこと、イエス様がいつもともにいてくださることを聖霊から教えられ、実感するのです。聖霊によって、十字架に命をささげたイエス様の愛が心に注ぎ込まれ、その愛に動かれて、私たちはイエス様を証しするため、この世に遣わされるのです。
それでは、時にキリスト者とキリスト教信仰を煙たがり、反対し、批判し、攻撃する世において、私たちはどのようにして私たちの信じる救い主を証しすればよいのでしょうか。
ひとつは、イエス様のように人を愛する生き方を通してです。

Ⅰペテロ2:22~24「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」

生まれながらの私たちは、自分の言動が軽視されたり、反対、批判、攻撃されたりすると、どう反応するでしょうか。自分のプライドを守ろうと、ことばや態度で相手を責めたり、反撃したりしがちではないでしょうか。しかし、責められ、攻撃されて、「あなたの言うことは尤もです。」と心から福音を受け入れる人はまずいません。
ならば、その様な時、どう行動すべきか。あの十字架の場面、宗教指導者も、民衆も、ローマの兵士も、すべての人が自分を罵り、苦しめる側に立つ中、イエス様は一言も罵りかえさず、反撃することもありませんでした。むしろ、彼らの仕打ちへのさばきは天の父に任せ、ご自分は彼らの救いのために祈り、黙々と十字架の苦しみを担われたのです。
この様な生き方を見て、同じく十字架につけられていた強盗のひとりが改心し、ローマ人の百人隊長は「この人はまことに神の子であった。」と告白します。徹底的に天の父なる神様に信頼するイエス様の生き方、愛の実践が、二人の罪人の魂を神様に結び付けたのです。
けれども、その様な事はイエス様だから実践できたのであって、自分には到底不可能と言われるでしょうか。しかし、聖書は、イエス様が十字架で死なれたのは、私たちが罪を離れ、義に生きるため。それが私たちの魂の癒し、魂の回復であることを教えています。
皆様は、イエス・キリストによる魂の癒しを受け取っているでしょうか。自分が行ってきたすべての罪について、最早神様からさばかれることもなく、神の子として受け入れて頂いていると言う安心。自分のことに関しては神様が完全に守ってくださると言う平安。これが魂の癒しです。
しかし、それだけではありません。言われたら言い返したい、やられたらやり返したい。その様な態度に死ぬこと、黙々と愛を以て人に仕えること。その様な生き方を実践する思いと力を、イエス様から受け取ることができる。これも、魂の癒し、回復なのです。
イエス様による魂の癒しを自覚し、味わいながら、この世において、イエス・キリストを証しする者でありたいとと思います。最後に、今日の聖句をともに読みたいと思います。

Ⅰペテロ3:13「もし、あなたがたが善に熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。いや、たとい義のために苦しむことがあるにしても、それは幸いなことです。彼らの脅かしを恐れたり、それによって心を動揺させたりしてはいけません。むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。」

義のために苦しむことがあれば、イエス様の苦しみを担う友となれたことを喜ぶように。キリスト教に反対したり、攻撃したりする人がいてもがっかりしてはいけない。どんな時も神様に信頼し、イエス様を崇める生き方を見るうちに、人々が私たちのうちにある希望について尋ねてくる時がくるのだから、その時を待ち、備えればよい。そう教えられるところです。
イエス・キリストとの友情、また、イエス・キリストが私たちに託された思いを確認し、新しい週の歩みへと進んでゆきたいと思います。

2014年10月5日日曜日

ヨハネの福音書15章9節~17節 「わたしの愛にとどまりなさい」

 時は、紀元30年頃の春、イエス・キリストが十字架につけられる前夜。場所はユダヤの都エルサレムの、とある一軒の家。所謂最後の晩餐の席で、もうじきご自分が目の前から去ってゆくと知り、不安に陥っていた弟子たちを思い遣り、イエス様が語られた惜別説教を、私たち読み進めています。
先週は、「わたしがまことのぶどうの木。豊かな実を結ぶために、わたしにとどまりなさい。」と語られたイエス様の勧めを見てきました。ぶどうはユダヤの国の特産品であり、国のシンボルとして人々に親しまれていた果物。旧約聖書では、神様が農夫、神の民イスラエルがぶどうの木に譬えられています。
ですから、「わたしはまことのぶどうの木。あなたがたはその枝」と言うイエス様のことばには、神様に信頼して生きるという人間本来の生き方をせず、実を結ぶことのなかったイスラエルに代わり、ご自分とご自分を信じる者たちが真の神の民となって、この世界の人々に神様を信頼する生き方のすばらしさを示すのだと言う並々ならぬ思い、使命感が込められていたのです。
今日はその続き。枝である私たちが、ぶどうの木であるイエス様にとどまると言うテーマがさらに展開するところとなっています。

15:9~10「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」

「父がわたしを愛されたように」とありますが、福音書を読みますと、父なる神様は常にイエス様に愛を注ぎ、イエス様はその中にとどまり、ささえられながら、救い主としての歩みを続けてきたことが分かります。四つの福音書の中でも、特にヨハネは、天の父とイエス様の愛の交わりに何度も触れ、これを強調していました。
中でも、今日取り上げたいのは、ヨハネの福音書の冒頭に登場する「父のふところにおられるひとり子の神」(1:18)と言う表現です。親が子どもを懐に抱いて慈しみ、子どもが親に抱かれて、心から安心しているように、父なる神様とイエス様の間には親しい愛の交わりがあった。この様な交わりの中にあったからこそ、イエス様は父の神のみこころを第一とし、十字架の苦しみをも忍ぶことができたのです。
ひとり子の神であるイエス様がまず天の父の愛を受け取り、それを私たちに余すところなく注がれた。だから、私たちも愛の中にとどまれと命じられます。イエス様の愛の中にとどまるとは、まず私たちがイエス様の愛を受け取ると言うことと教えられます。
さらに、イエス様は私たちの愛が行いへと進み、具体的な実を結ぶよう、「わたしの愛にとどまるとはわたしの戒めを守ること」と指摘しました。とかく、私たちの愛はことばだけであったり、思いや感情のレベルにとどまりがち、実を結ぶまで繰り返し実践する力に乏しいものです。その様な私たちの弱さを思い遣り、イエス様が語られたことばが、これでした。
それでは、イエス様の戒めとは何か。12節と17節のことばです。
15:12「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」
15:17「あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。」

聖書の中には、様々な神さまの戒めがありますが、そのすべてを集約したのが「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合う」と言うこの戒め、と言ってよいかと思います。相手のために祈ること、励ますこと、戒めること、教えること、助けること、共に食事すること、金銭を与えること、仕えることなど。私たちの日常生活の一挙手一頭足が、愛の現れ、実りであることを、イエス様は期待しておられる。このイエス様の期待を、皆様は日々感じながら生活しておられるでしょうか。
愛は愛する者の喜ぶことを実践しようとします。それが愛の性質です。もし、妻を愛すると口にする夫が、妻の喜ぶことをしようとしないなら、その愛には疑問符がつきます。夫を愛すると語る妻が、夫の喜ぶことには関心がないとしたら、それは愛と言えるでしょうか。
私たちは、イエス様が注いでくださる大きな愛に応えて、イエス様の喜ばれること、戒めを実践したいと思います。勿論、完全にでも、常にでもありませんが、力の限りイエス様の戒めに心を向け、考え、実践したいと言う思いが成長してゆく。これが、イエス・キリストを信じる者の心に起きる変化です。私たちがイエス様の愛にとどまっていることの証拠なのです。皆様は、この変化を経験しているでしょうか。
以上、天の父からイエス様へ、イエス様から弟子たち、私たちへ。神様の愛の継承、受け渡しでした。しかし、私たちが受け取るのは愛だけではありません。イエス様が味わった喜びもまた受け取ることができるのです。

15:11「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。」

故郷の人には尊敬されず、都の宗教指導者には非難、攻撃されたイエス様。「人の子には枕する所もない」と言われたイエス様。病人を癒し、世間から除け者にされた人の友となりながら、この世の報いを何一つ受け取ることのなかったイエス様。このイエス様が、ご自分の歩みを振り返って、「わたしには喜びがある」と言われました。イエス様にとって最上の喜びとは、この世の栄誉ではなく、父なる神様の戒めに従うこと。それにまさる喜びはなかったということでしょう。
神様に創造された最初、人間は正しいこと、つまり神様のみ心を実行することを通して、喜びを覚えることができました。しかし、神様から心離れて生きるようになると、この喜びを失ってしまったのです。私たちにとって正しいことは往々にして嫌々行うもの、心から行えるものではなくなりました。また、自分の行いを人が評価してくれるのかどうか、それを心配し、恐れるところのものともなりました。しかし、イエス様の愛は私たちをその様なストレスや恐れから解放してくださる、と聖書は教えているのです。

Ⅰヨハネ4:18「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。」

愛の実践には労苦が伴います。犠牲の伴わない愛などないとも言えます。私たちの中の古い罪の性質は、労苦を伴う愛の実践などまっぴら御免、人を愛するために犠牲を払うなど、割に合わない生き方ではないかと囁きます。
しかし、不思議なことに、イエス様の愛を受け取るなら、私たちは労苦の伴う愛の実践を心からなす者へと造り変えられてゆきます。犠牲を伴う愛の実践をなしえた時、深い喜びを覚える者へと造り変えられてゆくのです。たとえどんなに小さく、不完全であっても、私たちが力を尽くして為した愛の行いを喜んで認め、受け入れてくださるイエス様の笑顔を仰ぐことができるのです。
娘が小学生低学年の頃だったでしょうか。誕生日か何かに、聖書カバーをプレゼントしてくれました。布きれは安物、縫い目の糸は右にそれ、左にそれ、お世辞にも上手とは言えない。経済的価値はゼロ、不完全極まりない聖書カバーでした。しかし、私にとっては無性に嬉しかった。その聖書カバーには娘の愛が込められていたからです。イエス様も、天の父も、私たちの愛の行いを父親の私と同じ眼で、いやもっともっと喜びに満ちた眼でご覧になっているのではないかと思います。
私たちの内に、神様の戒めを慕い求め、それを行うとする思いと力とを与えてくださるばかりか、それを実践する時、最上の喜びをもたらしてくれるイエス様の愛。そして、この尊い愛が、イエス様の計り知れないへりくだりと、十字架の苦難から生み出されることを、忘れていけないと思います。

15:13~15「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。」

イエス様の時代。主人がしもべに何かを相談すると言うことはまずありませんでした。大切な相談は家族や友人、信頼できる同僚にするというのが普通でした。しもべは、ただ主人の命じるままを行うだけ。しもべは、自分の働きにどんな意味があるのかを知らず、たとえ自分が納得していようがいまいが、そんなことには関係なく命じられたことをしなければならない。その様な立場に置かれていたのです。
また、当時は貴族は貴族は同士、平民は平民同士と言う様に、社会的に同じ立場、身分にある者同士が友になると言うのが常識でした。稀に貴族としもべの間に友情が成立すると言うこともあったようですが、それは貴族がしもべに尊敬すべき能力を見出した場合に限られていたようです。
その様な状況、社会常識を考えますと、イエス様が弟子たちを友と呼ばれたことが、いかに常識はずれの驚くべきことであったかが分かります。イエス様は、天地万物の造り主、そのすべてを支配する王の王、主の主です。その様なイエス様が、貴族としもべどころではない、天と地ほど立場がかけ離れた私たち、能力においても月とすっぽん以上に遠くかけ離れた私たちを友と呼んでくださると言うのです。
それも、ご自分が心から信頼する友であることを、本気で伝えるために、こう付け加えています。

15:15「わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。」

この説教の後に新聖歌 番を歌います。これは、「わが友主イエスはわれを見出し、引き寄せたまいぬ、愛の糸もて」と、イエス様が私たちの友となってくださった恵みを歌う讃美歌です。
私の友、主イエス様は、私を見出し、愛の糸で引き寄せてくださった。この糸と言うことば、元の歌詞では、英語のCORDと言うことばだそうです。これは普通の糸よりもずっと太い糸、複数の糸がより合わされた糸で、絆とも訳すことができるそうです。そのように切ろうとしても切れないしっかりとした愛の糸で引き寄せられたと歌う讃美歌からは、イエス様に真の友として見いだされた喜び、イエス様を真の友として得た喜びが伝わってきます。
被造物と言う立場からしても、また罪人と言う状況からも、イエス様から友と呼ばれる資格など全くない私たち。むしろ、十字架の上でさばかれて当然の私たち。それなのに、イエス様は心から信頼する友として目を留めてくださり、引き寄せてくださる。皆様には、自分がこの様な自由で、親しくて、親密なイエス様との関係の中に招かれていると言う実感はあるでしょうか。
けれども、イエス様はこの様な交わりの中に私たちを招き、養ってくださるだけではなく、私たちをこの世界に遣わすとも言われます。イエス様は、私たちがこの世界に出てゆき、そこで実を結ぶために、私たちを交わりの中に選ばれたのです。

15:16「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」

「あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るため」とは、どういうことでしょうか。このことばを、私たちがこの世で人々の魂の救いに励むこと、伝道のわざと考えることもできます。しかし、聖書全体を見る時、これは伝道をも含め愛の行いという実と考える方が良いと思われます。
イエス様との交わりのうちに憩い、力を得た私たちがこの世界に出てゆき、実践する愛の行いは、決して忘れ去られることなく、最も価値あるものとして永遠に残ると言うのです。

マタイ25:31~40「人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、羊を自分の右に、山羊を左に置きます。そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。 あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』

空腹な者に食べる物を与え、渇く者に水を飲ませる。旅人に宿を貸し、裸の者に着る物を与える。病気の者を見舞い、牢に囚われた者を訪問する。世間の人が眼にも留めないような、小さな愛の行いをご自分へのささげものとして受け取ってくださるイエス様。それを行った人でさえ忘れているようなささやかな愛のわざを大切な宝物のように心に刻み、豊かに豊かに報いてくださる王の王であるイエス様。
私たちは今日、このイエス様のもとから、世界に遣わされるのです。私たちが遣わされるのは職場か、学校か、病院か、隣人の家庭か。いずれにしても、そこをイエス様から遣わされた場所として意識し、愛の行いという実を結ぶべく励む者でありたいと思います。