勿論、実際の私はと言うと、怒りに関して失敗の連続。とても皆様の前でお話しできるような立場にないと強く感じていて、それがストレスの原因でした。しかし、今回怒りについて調べているうちに、ちょっと救われた気持ちになったんです。というのは、聖書の中にも、怒りで失敗した人、怒りに苦しむ人が沢山登場してくるからなんです。
奥さんの怒りに戸惑い、間違った選択をしてしまう夫。兄に酷いことをしたのに謝らず、兄の怒りを恐れて逃げる弟。子どもたちの悪行に怒りを感じながらも、叱ることができない父親。すべきことをしなかった父親に対する怒りを抑えられず、反乱を起こす息子。その怒りにどう対応してよいかわからず、息子を遠ざけるばかりの父親。自分を苦しめる者への復讐の思いに捕われ、苦しむ人。仲間に自分がしたかったことの先を越され、ねたみから怒りを発して、イエス・キリストに戒められた弟子たち。
私たちも同じようなことしていませんか。昔から、人間は同じようなことを繰り返してきた。怒りとのつき合い方に悩んできた。昔から、人間にとって、怒りは厄介な隣人だったんだなと感じます。
ところで、怒りは身近な人に向きやすいという性質があることを、皆さんはご存知でしょうか。ある夜、私の母親から電話が来ました。娘、つまり私の妹に対して非常に腹を立てていました。孫の運動会ということで出かけたらしいのですが、夜子どもを買物に連れ出すやら、台所の片づけ方がなっていないやら、あんな子に育てた覚えはないと、大変な剣幕だったんです。
私の母は気になることがあると黙っていられない性質なので、妹を注意し、恐らく妹がそれに言い返し、喧嘩になったんだと思います。私が、「そんなに気になって、どうしても黙って見ていられないなら、もう妹の家に行かなければ良い」と言うと、今度は私が怒られる始末でした。
それから暫くして、もう一度電話が来ました。今度は隣の家のお嫁さんの相談にのったらしく、「台所のことでも、子育てでも、今の若い人には若い人のやり方があるんだから、隣のおばさんもその辺の所を分かってあげないと」と言うんですね。
隣の家のお嫁さんのことだと、そういうやり方もあると受け入れられるのに、自分の子どものこととなると怒りを感じる、受け入れられない。しかし、私の母親は例外ではないという気がします。
私が楽しみにしている新聞の一齣に「人生案内」と言うものがあります。新聞によって呼び方が違うと思いますが、読者の日常生活の悩みに、弁護士とか作家、カウンセラーが回答するという欄です。それを読んでいて、気がつくのは、いかに人々が身近な人への怒りを感じているか。そこから様々な問題が起こってくるかと言うことです。
子どもを激しく叱ってしまい、自分がこんなにも怒りやすい人間であることに、子どもをもって初めて気がついたと、ショックを感じているお母さん。やり残しの多い妻の掃除の後を見ると、いつもイライラする夫。お隣さんと話をする時にはいつも笑顔で応対するのに、自分には笑顔を向けたことのない夫に怒る妻。
もし、これが他の人の場合だったら、「子どもってそんなもの」とか、「掃除の苦手な奥さんもいるのでは」とか、「男って外面が良いから」。そんな風に考えられるのに、自分の親、子、妻、夫となると客観的に見ることができないで、つい腹を立ててしまう。そんな経験、皆さんにもないでしょうか。
ある日の人生案内に、こんな相談がありました。「50代男性。妻と娘の三人暮らしです。遠方に住む80代の父親の相談です。私は一人息子で、父は教員を定年退職し、一人暮らしです。正月に実家に帰らなかったり、父の日に電話をしなかったりすると、怒りの電話がきます。私だけでなく、妻や娘にも容赦がありません。元旦に初もうでに行った娘は電話で叱られ、妻はしつけがなっていないと延々とお説教されました。実家へは娘の受験以来、帰省していません。こちらに何度か父を呼んでいます。妻も娘も私も心より父の幸せを願っているのに伝わりません。誕生日などのプレゼントは欠かしたことがありません。最近は早く死んでくれれば良いのにとすら思うことがあります。自己嫌悪で辛いです。親に対してどんな気持ちでいればよいのかわからず、夜も眠れません。」
回答者は、「帰省や電話に拘るのも、あなた方が自分のことを忘れていないか、形で測るしかないからかもしれません。怒ったり、説教したりするのも、一人で正月を過ごす寂しさの裏返しともとれます」と答えていました。よく分かります。しかし、父親への怒りの感情に捕われてしまっている相談者には、そこが見えないのだろうなあと感じ、そうした状況も理解できる気がします。
怒りは身近な人、つまり私たちにとって大切な人に向きやすいこと、一旦怒りの感情に捕まると、私たちは客観的に、相手や自分のことを見ることが非常に難しくなること。このことを先ず心に留めておきたいと思います。
また、怒りは、私たちの人生に大きな影響をもたらします。怒りの感情をそのまま爆発させれば、親しい人を遠ざけます。関係断絶などと言うことにもなりかねません。反対に、怒りの感情を心にため込んでいると、繰り返しそのことを思い返し、心奪われて、仕事や学びに集中できないばかりか、頭痛、不眠、高血圧、鬱病などになり易いとも言われます。
しかし、怒りがもたらすのは悪いものばかりではないと思います。家族を害するものへの怒りは、愛する家族を守るために必要なものです。また、社会の不正やひどい状況に対する怒りは、しばしばその問題を解決し、社会を良くする原動力ともなります。
つまり、私たちが怒りをどう管理するか、どうコントロールするのかが非常に大切だということです。ここで、怒りそのものは罪ではなく、それを上手く治めることが大切と教える聖書のことばを紹介したいと思います。
箴言16:32「怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は町を攻め取る者にまさる。」
怒りを遅くする。自分の心を治める。怒りのコントロールについてお話しする前に、皆さんにお願いしたいのは、自分の怒り方について考えることです。皆さんは怒りを感じた時、どのように反応しているでしょうか。自分がどのように反応してきたか、気がついているでしょうか。
怒鳴る。沈黙する。イライラを感じてしまう人を避ける。睨みつける。皮肉を言って反撃する。あるいは、自分が悪いのではないと感じながらも、とにかく謝って、嫌な雰囲気を避けようとする人もいるかもしれません。
今回、心理学の本を読んでみて、一般的に怒りに対する対応に三つのタイプがあることが分かりました。私たちの反応の仕方は親に似ていると言われますから、自分の親のことを思い浮かべても良いかもしれません。
ひとつ目は攻撃タイプです。顔が赤くなったり、怒鳴ったり。怒りの感情が表情や言動に現れるタイプで、「私は正しい、あなたは間違っている」という考えが基本にありますから、人を攻撃したり、責めたり、説教したりします。こうした特徴から、他罰的とも言われます。
このタイプの人は、自分のことを相手が理解し、認めてくれないのはおかしいという思いが強いため、大きな声を出したり、逆に黙り込んだりすることで、相手の方が間違っていると分からせようとします。しかし、相手はそれを恐れて身を退いてしまいますから、攻撃タイプの人の思いはなかなか理解されないことになります。
二つ目は受身タイプです。良い人と思われたい、あるいは自分が傷つきたくないという動機から、怒りを感じてもそれを内側に押し込め、「私は気にしていない、怒りなど感じていない」と言う態度を取るのが特徴です。
このタイプの多くの人が、相手を怒らせるようなことをした自分、あるいは怒りを表すことのできなかった自分を責めるので、自罰型とも言われます。この状態がひどくなると、仲間から離れる、学校に行かない、会社に行かないという引きこもりになります。
三つ目は、バランス型。「人生こういうこともあるさ」と、人の怒りも自分の怒りも現実として受けとめ、次にどうしたらよいかを考える人です。自分や人を責め続ける怒りの感情から離れて、謝るべきことは謝り、伝えるべき自分の思いはしっかり伝えようとつとめるので、無罰型とも言われます。
どうでしょうか、皆さん。自分がどのタイプに属すると思いますか。どのタイプの特徴が、自分には顕著だと考えるでしょうか。あるいは、相手よって、事柄によって、攻撃タイプになったり、受身タイプになったり、バランスタイプになったりする。そういう方もいるかもしれません。
バランス型が最も理想的と思われますが、なかなか理想通りにはいかないのが現実です。しかし、聖書の視点からすると、神様は、非常に厄介な隣人をコントロールする能力をもともと私たちの体に与えてくださっていることが分かります。
皆さんは、脳の中に大脳新皮質と大脳辺系古皮質という場所があるのをご存知でしょうか。前者は理性をつかさどり、後者が感情をつかさどっていることは、良く知られています。しかし、神様から離れて生きるようになった人間は、理性と感情のバランスが悪いと言いましょうか。理性が感情を上手くコントロールできなくなっているんです。
聖書のある個所では、この様な人間の状態を「わきまえのない者」とか「獣のよう」と呼んでいます。私も感情的になった自分を振り返ると、この表現は当たっていると思います。私たちは普段思っているほど理性的な存在ではないようです。むしろ、怒りの感情が私たちをこの様などうしようもない状態に追いやることがあるのを、皆さんは認めるでしょうか。
それで、聖書が勧めている方法、神を信じる人が実践してきた方法は何かと言うと、私たちを愛しておられる神様の前に出て、怒りの感情を整理することです。神様に心を開き、自分の感じている怒りについて正直に話す。神様のことばを聞いて、怒りの原因や相手の行動についての判断、相手に対する態度が正しいかどうか考える。その様な神様との交わりの中で、自分が受け入れるべき現実、自分が謝るべきこと、自分が相手に伝えるべきことを整理する。これを聖書の人々は実践してきましたし、これは、今の私たちにもできることなのです。
そして、その様な交わりの中、神様は私たちに受け入れるべき現実を受け入れ、謝るべきことを謝り、伝えるべき思いを伝える勇気を与えてくださいます。
エペソ4:25「ですから、あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい。私たちはからだの一部分として互いにそれぞれのものだからです。」
「私たちはからだの一部分」と言う表現は、相手との関係を心から大切なものと考えていると言う意味です。聖書は、私たちが相手との関係を本当に親しく、良いものにしたいなら、偽りを捨て、真実を語れ、と勧めています。具体的に言えば、相手を責めず、自分が心の奥で感じている思いをきちんと表し、伝えることです。
私たちの中には、自分の怒りを伝える時、またも相手を感情的に責めてしまわないかと言う恐れがあります。本当の思いを伝えたら、なんて心の狭い人間なんだと思われはしないかと言うおそれもあります。しかし、そんな私たちを、神様は心を開いて、本当の自分を知ってもらうと言う愛の実践へと背中を押してくださるのです。
その際、お勧めしたいのが「I(私)の法則」です。これは、私の友人から聞いた話なので、一般的にそう言えるのかどうかはわかりませんが、アメリカの飛行機会社のフライトアテンダントは、通路に荷物があると、「そこに荷物を置いてはいけない」と言うことが多いそうです。それに対して、日本の飛行機会社のフライトアテンダントは、「お客様、申し訳ありませんが、その荷物をこちらの棚に上げて頂いてもよろしいでしょうか」と言うことが多いそうです。
皆さんは、どちらのことばに従いやすいでしょうか。してはいけないことをしていたとあからさまに言われるアメリカ型よりも、フライトアテンダントが自分の願いを伝える言葉の方が、従いやすくはないでしょうか。私たちは相手の思い、願いを理解する時、行動を起こしやすい者なのですね。
最初に例に挙げた、人生案内の相談者の父親も、もし電話で「どうして正月に実家に帰らなかったのか」と息子を責めるのではなく、「今度の正月はあえなくてとても寂しかった。来年は、ぜひ帰ってきてほしい」と、その思いを伝えていたら、ここまで家族の関係がこじれることはなかったように思えます。
クリスチャンの詩人星野富広さんは、中学校の体育教師をしていましたが,跳び箱を教えている際の事故で、首から下が全く動かなくなりました。それからと言うもの、星野さんは何かにつけて、「コンチクショー、コンチクショー」と口にし、すべてのことに怒りをぶつけていたそうです。
雨が降ったら「コンチクショー」、天気が良ければよいで、外に出られない自分をみじめに感じて「コンチクショー」。友達がお見舞いに来ると、元気に活躍している友達を妬ましく思って「コンチクショー」、友達が来なくなると「見捨てられたのかと感じて「コンチクショー」。毎日怒りの虜になっていたのです。
そんなある日、いつもの通り「コンチキショ―」を連発していると、いつも世話をしてくれる看護婦さんが、目に涙をためて星野さんに言ったのだそうです。「お願いだから、そのコンチキショ―をやめてください。見ているととても悲しくなります」。
これで、星野さんはハッとしました。自分の口から出る怒りが周りの人を悲しませていると言うことを看護婦さんの真剣な表情から知ったのです。その言葉に込められた愛情が伝わってきたので、星野さんは自分の怒りがどんなに破壊的なものであるかを悟り、生き方を改めることができたのです。それどころか、自分の怒りのもとにある悲しみや悔しさを神様に対する言葉として詩にすることで、多くの人の心に宿る怒りを和らげることに役立っているのです。
もし、看護婦さんが「星野さん、あなたいつもコンチクショーって言っているわね。そんなひどい言葉聞きたくないわ」と言っていたらどうだったでしょう。看護婦さんが星野さんを一言も責めず、愛をもって自分の感じていた悲しさを伝えたからこそ、星野さんの生き方が改まったのではないかと思われます。
もう一つ、お勧めしたいのは、神様との関係の中で出来事の意味を考えることです。私たちの人生に起こる出来事は、それが喜びであれ、苦しみであれ、私たちの魂のために神様が愛をもって与えたものと聖書は教えています。
ローマ8:28「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」
私たちの心に怒りを起こす、人々の冷たい仕打ち、愛するのが難しい人々の存在。それは、私たちにとって苦しみです。しかし、それは忍耐やへりくだって仕えることを学ぶために、神様が備えてくださった学校なのです。この様に神様の愛という視点で出来事の意味を考え、受けとめる時、私たちは怒りとの戦いに立ち向かってゆくことができるのです。
最後に、私たちができること、できないことを整理したいと思います。怒りの感情を抑えることは私たちにはできません。しかし、怒りをどう表すか、伝えるかは、私たちがコントロールできることです。ただし,それは私たちひとりでは不可能、しかし、神様と一緒なら可能。これが、聖書のメッセージです。
怒りの感情に対して実に弱い私たち。怒りに駆られ人を攻撃し、かと思えばプライドに拘って心から謝ることも、自分の思いをも伝えることの苦手な私たち。そんな私たちのことを良く知り、受け入れ、一言も非難せずに愛してくださる神様。この神様との安心できる関係の中で、また、神様を信じる人々との安心できる関係の中で、怒りと言う隣人と付き合ってゆくことをお勧めしたいと思います。