2014年10月12日日曜日

ローマ人への手紙12章9節~21節 「世から選び出された者」

 皆様は、キリスト教結婚式の際、新郎新婦が立てる誓約のことばを覚えているでしょうか。「健やかな時も、病める時も、富める時も、貧しき時も、相手を慰め、励まし、助け、支え、固く節操を守るように」と言う、あのことばです。夫婦が分かち合うのは喜びだけではない。病に倒れ、不安を覚える時、経済的な困窮を覚える時等、様々な苦しみ、悲しみを共に担ってゆくなかで、いよいよ愛がまし加わり、絆が確かなものとなってゆくことを教えています。
結婚して30年。私たち夫婦もこの様な恵みを味わうことができ、心から感謝していますが、友情についても同じことが言えるかもしれません。
先週の箇所、イエス・キリストは、「人がその友のためにいのちを捨てると言う、これよりも大きな愛は誰も持っていません。」と言われました。また、「わたしはもはやあなたがたをしもべとは呼びません。わたしはあなたがたを友と呼びます。」と、私たちを友情の中に、引き寄せてくださいました。
この世界の造り主、王の王であるイエス様が、一介の被造物に過ぎず、しかも心汚れた罪人である私たちに目を留め、大切な友と思い、ご自身との親密な交わりに招いてくださったのです。「自分の様な者を大切な友と思い、つき合ってくれる人がいるだろうか」と、一人寂しさを噛みしめたことのある者には、本当に嬉しい招きの御声です。
そして、今日の箇所。イエス様は、「わたしの苦しみを共に担ってはもらえないか。」と、私たちを招いています。苦しみや悲しみを共有するのは大変なこと。しかし、そこに愛があり、友情があるなら、決して重荷とはならない。むしろ、同じ苦しみを担いあった者同士、深い喜びを分かち合うことができる。その様な経験が、皆様にもあろうかと思います。
ですから、今日のイエス様の招き。それは私たちを心から大切な友と思っておられるからこそなされた共に苦しみ、共に喜ぶことへの招きであることを心に留め、読み進めてゆけたらと思います。

15:18,19「もし世があなたがたを憎むなら、世はあなたがたよりもわたしを先に憎んだことを知っておきなさい。もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです。」

イエス様が十字架に死に、天に去って行かれた後のこと、弟子たちは世から必ずしも歓迎されない。むしろ、この世はイエス様に従う者の生き方や、語る福音に反対し、敵意や憎しみを覚える者さえ現れると言われます。この場合、世と言うのは、イエス様を救い主と信じない人々、神を天の父として信頼しない人々を指します。
イエス様は弟子たちを世に残してゆくに際し、「この世がその様な反応を示しても、意外に思うことはない。むしろ、人々がその様な反応を示すなら、その時には、あなたがたより先に、わたしが世に憎まれたことを知っておきなさい。」と勧めています。
故郷の人々の無関心や冷たい態度、都の宗教指導者の非難や敵意。今までは、それらすべてをイエス様が引き受け、弟子たちは守られてきました。しかし、これからはそうはいかない。彼らが直接、世の人々の非難や攻撃にさらされることになる、と言うのです。
その様な時、弟子たちが、まずイエス様ご自身が同じ苦しみを味わったのを思い出すことには、どのような意味があるのでしょうか。
既に天に召された梅山長老さんは、何度か大きな手術を経験されたました方ですが、手術の前によく口にしておられたことばがあります。「イエス様の十字架を思うと、私がこれから経験するだろう痛みも、イエス様ご自身良く分かっていてくださると感じ、安心ですよ。」
私たちを世に遣わされるイエス様が、私たちが信仰者であるがゆえに味わう苦しみや悲しみを、前もって経験され、よく理解しておられるということ。それは、どれ程の慰め、また励ましでしょうか。
愛する家族からのキリスト教拒絶、反対、非難。葬儀などの際、親戚の人々から向けられる冷たい視線。それら、私たちが経験する苦しみは、イエス様ご自身も経験したもの。だから、よく理解し、心からの同情を注いでくださるもの。この様なイエス様の存在を思い起こすことで、私たちの苦しみや心細さは、どれほど和らげられることでしょうか。
後にキリスト教伝道者となったパウロが、まだキリスト教反対で、キリスト教徒を迫害していた時のことです。復活の主イエスがパウロに現れ、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」と語る場面があります。
「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」実際に迫害を受けていたのは地上にいるキリスト教徒であり、イエス様は既に天におられます。しかし、そのイエス様はご自分を信じる者たちの苦しみを我がこととして感じ、受けとめておられたのです。イエス様の眼は常に私たちに向き、その心はいつも私たちとともにある。イエス様は私たちと一心一体。信仰のゆえに苦しむ時、私たちもこの様なイエス様の存在を思い起こす者でありたいと思います。
そして、もう一つ。イエス様は弟子たちに、「あなたがたは世の者ではなく、世から選び出された者。だからこそ、世はあなたがたを憎むことを心に刻んでおきなさい。」ということでした。
神に信頼して生きるか、神なしで生きるか。神中心で生きるのか、それとも自分中心で生きるのか。この世の生き方や価値観と、この世から選び出され、神の民とされた私たちの生き方や価値観は、大きく違っています。普段外側だけを見ていては分からなくても、何か事あると、世の人々はこの違いに気がつき、時に訝しく思い、反対し、非難することになります。
不正なことに加担しない。卑しい話題に興じる仲間に入らない。神様を礼拝したいからと、一番儲かる日曜日には自分の店を開かない。その様な生き方において煙たがられるとしたら、私たちは何も恥じる必要はありません。むしろ、この世から選び出され、神の民とされた証拠と覚えて、感謝すべきでしょう。
但し、イエス様への信仰以外の点で、非難される者であってはならないと言うことも覚えておきたいのです。怠惰や非協力的な態度、それに法律違反。これらの点で責められることなきようにと、聖書は注意しています。

Ⅰペテロ2:20「罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。けれども、善を行なっていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。」

さらに、ご自分が天に昇った後、弟子たちが落胆しないよう、思い遣り、語られたイエス様のことばが続きます。

15:20~25「しもべはその主人にまさるものではない、とわたしがあなたがたに言ったことばを覚えておきなさい。もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害します。もし彼らがわたしのことばを守ったなら、あなたがたのことばをも守ります。しかし彼らは、わたしの名のゆえに、あなたがたに対してそれらのことをみな行ないます。それは彼らがわたしを遣わした方を知らないからです。
もしわたしが来て彼らに話さなかったら、彼らに罪はなかったでしょう。しかし今では、その罪について弁解の余地はありません。わたしを憎んでいる者は、わたしの父をも憎んでいるのです。もしわたしが、ほかのだれも行なったことのないわざを、彼らの間で行なわなかったのなら、彼らには罪がなかったでしょう。しかし今、彼らはわたしをも、わたしの父をも見て、そのうえで憎んだのです。これは、『彼らは理由なしにわたしを憎んだ。』と彼らの律法に書かれていることばが成就するためです。」

これは、主に、キリスト教会に対するユダヤ人の迫害を念頭に置いたことばと考えられます。弟子たちにとって、同胞ユダヤ人からの迫害は躓きとなる可能性がありました。「どうして、同じ天地の造り主の神を信じる者が、自分たちを迫害するのか。もしかすると、自分たちの信仰に問題があるのではないか。」弟子たちがこの様な不安に陥らぬよう、イエス様は先回りしてこれを語られたのです。
旧約の昔、ユダヤ人は神の民として選ばれ、聖書を与えられました。そこには、神が世に遣わす救い主について預言がありました。そして、救い主のイエス様は彼らの国に来て、聖書の真の意味を説き明かし、神様にしかなしえない様々な奇跡をなし、彼らに全身全霊仕えたのです。
しかし、これ程の恵みを受けながら、イエス様を拒み、神様を天の父として信頼することがなかったユダヤ人。神様ではなく自分を信頼し、憎しみのゆえにイエス様を十字架につけたユダヤ人が、イエス様のしもべ、弟子たちを迫害するのは当然のことと教えられます。
イエス様は、「『彼らは理由なしにわたしを憎んだ。』と彼らの律法、旧約聖書に書かれていることばが成就するためです。」とも言われました。「理由なしに」とは、正当な理由なくという意味です。
神様に信頼して生きる時、最も幸いな者として創造された人間。その人間が神様に背いた結果は、何の正当な理由もなく神様と神様の遣わした救い主を拒み、憎むと言う悲惨さでした。イエス様の眼から見るなら、すべて造られた者の中で、ただひとり神様を知り、愛することのできた人間が、神を憎む者となってしまったと言うひどい状態に世は堕ちていたのです。
その悲惨さ、そのひどさに気がつくこともなく、自分たちの正しさを誇って生きる人々のことを、イエス様がどれ程悲しみ、あわれみの心で見ておられることか。このあわれみの心が弟子たちを世に遣わす源となります。

15:26,27「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。あなたがたもあかしするのです。初めからわたしといっしょにいたからです。」

やがて天に昇るイエス様が、弟子たちのため天の父のもとから遣わす真理の御霊については、これまでも繰り返し約束されてきました。ここでは、弟子たちが世の人々に対し、イエス・キリストを証しするため真理の御霊が与えられると教えられています。
真理の御霊、聖霊は、イエス・キリストを信じるすべての者に与えられる神様。私たちの心に住み、救い主の愛を示してくださいます。ですから、「あなたがたは、初めからわたしといっしょにいた」と言われた通り、私たちはイエス様によって生まれる前から愛されていたこと、イエス様がいつもともにいてくださることを聖霊から教えられ、実感するのです。聖霊によって、十字架に命をささげたイエス様の愛が心に注ぎ込まれ、その愛に動かれて、私たちはイエス様を証しするため、この世に遣わされるのです。
それでは、時にキリスト者とキリスト教信仰を煙たがり、反対し、批判し、攻撃する世において、私たちはどのようにして私たちの信じる救い主を証しすればよいのでしょうか。
ひとつは、イエス様のように人を愛する生き方を通してです。

Ⅰペテロ2:22~24「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」

生まれながらの私たちは、自分の言動が軽視されたり、反対、批判、攻撃されたりすると、どう反応するでしょうか。自分のプライドを守ろうと、ことばや態度で相手を責めたり、反撃したりしがちではないでしょうか。しかし、責められ、攻撃されて、「あなたの言うことは尤もです。」と心から福音を受け入れる人はまずいません。
ならば、その様な時、どう行動すべきか。あの十字架の場面、宗教指導者も、民衆も、ローマの兵士も、すべての人が自分を罵り、苦しめる側に立つ中、イエス様は一言も罵りかえさず、反撃することもありませんでした。むしろ、彼らの仕打ちへのさばきは天の父に任せ、ご自分は彼らの救いのために祈り、黙々と十字架の苦しみを担われたのです。
この様な生き方を見て、同じく十字架につけられていた強盗のひとりが改心し、ローマ人の百人隊長は「この人はまことに神の子であった。」と告白します。徹底的に天の父なる神様に信頼するイエス様の生き方、愛の実践が、二人の罪人の魂を神様に結び付けたのです。
けれども、その様な事はイエス様だから実践できたのであって、自分には到底不可能と言われるでしょうか。しかし、聖書は、イエス様が十字架で死なれたのは、私たちが罪を離れ、義に生きるため。それが私たちの魂の癒し、魂の回復であることを教えています。
皆様は、イエス・キリストによる魂の癒しを受け取っているでしょうか。自分が行ってきたすべての罪について、最早神様からさばかれることもなく、神の子として受け入れて頂いていると言う安心。自分のことに関しては神様が完全に守ってくださると言う平安。これが魂の癒しです。
しかし、それだけではありません。言われたら言い返したい、やられたらやり返したい。その様な態度に死ぬこと、黙々と愛を以て人に仕えること。その様な生き方を実践する思いと力を、イエス様から受け取ることができる。これも、魂の癒し、回復なのです。
イエス様による魂の癒しを自覚し、味わいながら、この世において、イエス・キリストを証しする者でありたいとと思います。最後に、今日の聖句をともに読みたいと思います。

Ⅰペテロ3:13「もし、あなたがたが善に熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。いや、たとい義のために苦しむことがあるにしても、それは幸いなことです。彼らの脅かしを恐れたり、それによって心を動揺させたりしてはいけません。むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。」

義のために苦しむことがあれば、イエス様の苦しみを担う友となれたことを喜ぶように。キリスト教に反対したり、攻撃したりする人がいてもがっかりしてはいけない。どんな時も神様に信頼し、イエス様を崇める生き方を見るうちに、人々が私たちのうちにある希望について尋ねてくる時がくるのだから、その時を待ち、備えればよい。そう教えられるところです。
イエス・キリストとの友情、また、イエス・キリストが私たちに託された思いを確認し、新しい週の歩みへと進んでゆきたいと思います。