六十六巻からなる聖書。その一巻全体を取り上げて一回で説教をする、一書説教。今日は十九回目となりまして、大きな山を登ることになります。旧約聖書、第十九の巻、「詩篇」。全百五十篇からなる聖書中最大の書。聖書の中央に位置する高嶺。おそらくは創世記から黙示録を目指す一書説教の旅の中で最大の難所となります。
その分厚さはもとより、歌われた詩の内容は千差万別。一つの書に一つのテーマではなく、百五十の詩、それぞれにテーマがある。人の歩むべき道を示す人生訓の歌。希望に満ち溢れた励ましの歌。苦難の中にあって神様を仰ぎ見る信仰の歌。議論を重ね、真理を宣言する歌。怒りと憎しみに心を燃やす呪詛の歌。やがて来る救い主を指し示すメシア預言の歌。あるいは、技巧を凝らしに凝らした歌もあれば、無技巧、無造作にして感動の結晶のような歌もある。一つの詩に注目して味わうのにも、それなりの時間を要するのに、百五十の詩を一度に扱い説教するとは、あまりに無謀と言えます。それでも、皆様とともにここまで一書説教の歩みを進められたこと。そして今日は、皆様とともに詩篇にあたれることは大きな喜びであり、興奮を禁じえないところです。
大先輩、小畑進先生の言葉。「詩篇の魅力とは、彫心鏤骨の詩心をたどること。『真』の世界、『善』の世界とともに、詩情の『美』の世界を詠むこと」。詩篇を人生のテキスト、信仰の書として読むことは良い。詩篇を通して神様がどのようなお方か、私たちがどのような存在かを知り、今の自分がどのように生きるべきなのか考える。それは良い。しかし、それだけでは詩篇の魅力を十分に味わったとは言えない。詩篇を「詩」として読む。大変な苦労のもとに紡ぎだされた言葉の美しさを味わうことこそ、詩篇の魅力を味わうことへつながるというのです。
私のように「詩」に疎い者からすると、詩篇を読んで、その魅力を十分に味わうことなど出来るのかと臆する気持ちもあります。とはいえ、今の私が分かるところまでで良いとして読み進めたい。人生の歩みを進め、信仰生活を重ねるにつれ、より詩篇の美しさを味わえるようになるのであれば、楽しみでもあります。
この一書説教が、少しでも皆様が詩篇を読む助けとなるようにと願います。毎回のことですが、一書説教の際には、扱われた書を読むことをお勧めいたします。一書説教が進むにつれて、教会の皆で聖書を読み進めていくという恵みにあずかりたいと思います。
「詩篇」は全百五十篇という大詩篇群ですが、五つの巻に分けられています。私たちの手にする聖書にも区分が載っていますが、第一巻が一篇から四十一篇。第二巻が四十二篇から七十二篇。第三巻が七十三篇から八十九篇。第四巻が九十篇から百六篇。第五巻が百七篇から百五十篇。五巻に分けるのですから、百五十を五で割るのかと思いきや、そうではなく数字がばらばら。第三巻、第四巻には、十七の詩しか含まれず、第五巻には四十四の詩が入っています。
なぜ五つの巻に分けられたのか、正確な理由は不明ですが、モーセ五書にちなんだという説があり、詩篇を第二の五書と呼ぶこともあります。それはそれとして、今日はこの区分に従って、それぞれの特徴を挙げること。また、説教の準備をするにあたり、私が特に印象に残った詩を、各巻から一つ挙げることをもって、詩篇の一書説教といたします。
まずは第一の巻、一篇から四十一篇です。冒頭にくる一篇と二篇は、第一巻の中でも特別。一篇の冒頭、「幸いなことよ」で始まり、二篇の最後が「幸いなことよ」で閉じられる。「幸い」で括られたこの二つの詩は、詩篇全体の序と考えられています。一篇で教えられる「幸い」は「主のおしえを喜びとし、昼も夜も口ずさむこと」であり、二篇で教えられる「幸い」は、「主に身を避けること」でした。これより続く詩を、喜びとし、いつでも口ずさむこと。それも、主なる神様に信頼を置きながらの信仰生活となるようにと勧められるのです。
詩篇の序にあたる冒頭の二篇を除きますと、第一巻には顕著な特徴があり、その殆どがダビデの名前を冠しているということです(十篇、三十三篇は例外)。「ダビデによる」というだけのものから、「指揮者のために。弦楽器に合わせて。ダビデの賛歌」と、歌われる際の楽器の指定とともに記されるものもあれば、具体的に詩が作られた背景を教えてくれるタイトルもある。
元来、詩は普遍性を有するもの。作者が誰であろうとも、そこに歌われた内容に心を合わせて味わうことが出来るものと言えますが、それでも作者のことを知ることで、より味わい深く詩を読むことが出来る。羊飼い、英雄、竪琴奏者、芸術家、詩人、預言者、王など、多数の肩書を持つダビデ。あるいは偉大な信仰者にして、とんでもない罪人と言って良いでしょうか。第一巻を読む際には、ダビデのことを思い出しながら読みたいのです。
おそくら一巻の中で最も有名なのは「主は私の羊飼い」で始まる二十三篇でしょう。ダビデ自身、羊を守るために獅子や熊と戦った羊飼いでした。命をかけて羊を守る羊飼いであったダビデが、自分と神様との関係に思いを馳せた時に「主は私の羊飼い」と告白した詩。
今回、説教の準備をしつつ、私が最も印象に残ったのは三篇でした。息子アブシャロムが反乱をおこし、命からがらエルサレムを離れたダビデが作った歌。
詩篇3篇1節~2節
「主よ。なんと私の敵がふえてきたことでしょう。私に立ち向かう者が多くいます。多くの者が私のたましいのことを言っています。『彼に神の救いはない。』と。」
第二サムエル記を覚えていますでしょうか。アブシャロムが反乱を起こした遠因は、ダビデが人妻バテ・シェバを奪ったことにありました。罪の刈り取りが、息子の反乱というかたちで実現していたダビデ。敵対する「彼に神の救いはない」という声も、その通りではないかと思える状況。ここでダビデは次のように歌っています。
詩篇3篇5節~6節
「私は身を横たえて、眠る。私はまた目をさます。主がささえてくださるから。私を取り囲んでいる幾万の民をも私は恐れない。」
寝ることが出来た、起きることが出来た。主が支えて下さるからだ、と。この危険の最中にあって、夜寝て、朝起ることが出来た、これも神様が支えて下さったからだ、という信仰。反乱が治まったわけではない。危険は変わらない。それでも神様が私の命を支えて下さっているから、敵対する者を恐れることはないと言い放つ姿が印象的です。
続けて第二巻。四十二篇から七十二篇です。第二巻にもダビデの作品が多数含まれますが、コラの子たちの歌が八篇、アサフの賛歌、ソロモンの賛歌が一篇ずつ入り、色合いが広がります。コラと言えば、民数記に悪名として記録された人物。祭司職に対するねたみを持ち反逆したため、神罰により死にました。残念ながら、悪名として記憶された家系。しかし、その子孫がダビデの時代になると、門衛や神殿での奉仕に就くようになり、ヘマンにいたっては音楽家として名前を馳せています。不名誉な先祖の記録があっても、その子孫に回復と活躍があるのは嬉しいところです。(第三巻にも四篇あり、コラの子たちの作品は詩篇の中に十二篇入っていることになります。)
第二巻で特に有名なのは、最初に来る四十二篇でしょう。「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。」で始まる歌は、終わりまで神様との交わりを求める歌となっていて、第二巻全体の色合いとも重なります。
今回、一番私の印象に残ったのは四十六篇でした。
詩篇46篇1節~3節
「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。それゆえ、われらは恐れない。たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。たとい、その水が立ち騒ぎ、あわだっても、その水かさが増して山々が揺れ動いても。」
起こりくる様々な困難を前にして、それでも神様を信頼する時に平安がある、という信仰をどのように表現するのか。地は変わり、山々が海の真中に移る、山々が揺れ動く、王国は揺らぐ、地は溶ける。あるいは弓をへし折る、槍は絶ち切る、戦車は焼かれると、実に激しい表現を用いながら、それでも我らは恐れないと言います。起こりくる困難を、大きく、激しく表現すればするほど、神様とともにいることがいかに安心であるか、浮き彫りにする歌。後半十節には、慌てふためく者に対する神様からの語りかけもあります。
詩篇46篇10節
「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。わたしは国々の間であがめられ、地の上であがめられる。」
苦難、困難を前にして慌てふためく時、この歌を歌いたい。慌てふためくのをやめて、遠くにいるのではない、そこにある助けである神様を信頼することを選び取りたいのです。
続けて第三巻。七十三篇から八十九篇。続く第四巻とともに、僅か十七篇の小さな巻です。一巻、二巻と、ダビデの詩が多く入っていましたが、三巻の中心はアサフの賛歌。ダビデの詩が一篇なのに対して、アサフによる歌が十一篇。半分以上がアサフの歌となります。アサフと言えば、先に名前を挙げたヘマンと同様、音楽で礼拝に仕える者。秀でた音楽家でした。
三巻の特色は、苦境の中で神様に訴える歌が多いこと。なぜ悪者が栄えるのか。なぜ苦しみが取り去られないのか。神様、いつまで怒られているのですか。との訴えが、繰り返し出て来ます。喜びよりも嘆き。感謝よりも訴え。全体的に重い雰囲気と言って良いでしょうか。
第三巻で特に有名と思われるのは八十四篇。第三巻に入り、ここまではアサフの賛歌。繰り返される訴えの言葉に、重苦しさが漂う中、この八十四篇はコラの子たちの賛歌となって、突如、明るい、優美な歌となります。「万軍の主。あなたのお住まいはなんと、慕わしいことでしょう。私のたましいは、主の大庭を恋い慕って絶え入るばかりです。」と、神様に対する愛、礼拝を恋い慕う思いが熱烈に歌われます。この明るさ、優美さを維持しつつ、後半には「まことに、あなたの大庭にいる一日は、千日にまさります。」との名句が織り出される。第三巻の中にあるため、余計にこの明るさ、優美さが目立つ名詩篇でした。
今回、私が一番印象に残ったのは第三巻の最初の歌、七十三篇です。ダビデの時代、名前を知られた名音楽家。アサフの詩が十一篇続く、その最初の歌が、何とも生々しいのです。
苦悩を訴えたアサフ。その理由は、悪人が栄えているからというもの。
詩篇73篇3節~4節、12節
「それは、私が誇り高ぶる者をねたみ、悪者の栄えるのを見たからである。彼らの死には、苦痛がなく、彼らのからだは、あぶらぎっているからだ。・・・見よ。悪者とは、このようなものだ。彼らはいつまでも安らかで、富を増している。」
これに対して、自分は悪から遠ざかろうと努めたのに、それはむなしいことだったと言います。
詩篇73篇13節
「確かに私は、むなしく心をきよめ、手を洗って、きよくしたのだ。」
信仰を持ったために、堅苦しい人生となってしまった。心を清め、手を清めたことも、実にむなしいこと。短い人生、好き放題生きれば良かったのではないかとの懊悩の姿が生々しいのです。これが当代きっての賛美奉仕者から出た言葉というのが、印象的です。着飾った言葉、見せかけの言葉ではない。心に湧き出てくる思いを神様にぶつける姿に、これで良いのだと励まされます。なお、アサフはこの歌の中で、この悩みに対する答えを見出しますが、それは実際に読んで頂ければと思います。
続く第四巻。九十篇から百六篇となります。三巻までは、それぞれの詩に表題がついているものが殆どでしたが、四巻は表題がついているものは僅かです。より一般的、普遍的に詩を味わうことになります。
三巻が神様に激しく訴える歌が多かったのに対して、四巻は明るい調子の歌が多くなります。主は王であるとの告白が何度も出て来て、その王である神様を褒めたたえる歌が多数。王である神様を褒めたたえる詩篇群にあって、モーセは「私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦と災いです。」と言い、ダビデは「人の日は、草のよう。野の花のように咲く。風がそこを過ぎると、それは、もはやない。その場所すら、それを、知らない。」として、人間の儚さを歌っています。儚い人間、しかし、神様の主権は揺るぐことなく、永遠に続くという明るさです。
詩篇を読み進める私たちの心も、三巻にて沈みがちでしたが、この四巻に来て浮上するのです。(とはいえ、九十四篇などは『復讐の神、主よ。復讐の神よ。光を放ってください。』と始まる詩篇で、明るいだけというわけでもありません。)
第四巻で特に有名なのは百三篇。一回口にして見ますと、名句の連続であることが分かります。「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」「天が地上をはるかに高いように、御恵みは、主を恐れる者の上に大きい。」「東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。」などなど。今年になって、私たちの行う聖餐式において、最後に感謝の言葉を皆で告白しますが、あの言葉も詩篇百三篇からでした。
今回、私が一番印象に残ったのは、百篇。これもまた有名な詩篇。礼拝の招詞によく選ばれる箇所でもあります。詩篇100篇1節~3節
「全地よ。主に向かって喜びの声をあげよ。喜びをもって主に仕えよ。喜び歌いつつ御前に来たれ。知れ。主こそ神。主が、私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である。」
全五節の短い歌ですが、簡潔にして明瞭。喜びが凝縮された歌となっていて、読む者の心も高まります。第四巻に漂う喜び、明るさが、ここに集結した印象。詩篇はどれも黙読ではなく音読するのが良いですが、この百篇などは大声で読み上げたいところです。
続くのは最後、第五巻。百七篇から百五十篇、最大の巻です。内容は多岐に渡り、様々なテーマが見てとれます。第五巻の中盤に、都上りの歌と題する詩が十五篇。エルサレムにある神殿での礼拝を目指して旅をする時に歌ったと思われる巡礼歌群があります。第五巻の終わりには、ハレルヤで始まりハレルヤで終わる、大賛美のハレルヤ歌群がありました。都上りの歌、巡礼歌群と、大賛美のハレルヤ歌群を二つの柱として、様々な歌が盛り込まれた第五巻。
有名な歌は一つに絞れないところ。都上りの歌も、ハレルヤ詩篇も有名。神の言葉だけをテーマに、いろは歌となっている超絶技巧の詩、百十九篇。聖書中、最も短い章にあたる豆粒詩篇、字句は少なく、内容は壮大な百十七篇。「その恵みはとこしえまで」とひたすら繰り返す交唱歌の百三十六篇。バビロン捕囚の際、あまりの出来事に心を狂わせ、呪いの言葉を吐き出す百三十七篇。挙げれば切りがないところです。
第五巻の中で私が印象に残ったのは、第五巻の最後にして、詩篇の最後にあたる百五十篇。詩篇の一書説教の終わりに、この百五十篇を確認したと思います。
詩篇150篇1節~6節
「ハレルヤ。神の聖所で、神をほめたたえよ。御力の大空で、神をほめたたえよ。その大能のみわざのゆえに、神をほめたたえよ。そのすぐれた偉大さのゆえに、神をほめたたえよ。角笛を吹き鳴らして、神をほめたたえよ。十弦の琴と立琴をかなでて、神をほめたたえよ。タンバリンと踊りをもって、神をほめたたえよ。緒琴と笛とで、神をほめたたえよ。音の高いシンバルで、神をほめたたえよ。鳴り響くシンバルで、神をほめたたえよ。息のあるものはみな、主をほめたたえよ。ハレルヤ。」
詩篇を読み通しますと、信仰者と言っても、様々な人がいること。様々な状態があることがよく分かります。感動があり、喜びがある時もあれば、苦しみ、悩みに喘ぐこともある。キリストを信じたら、神様を信じたら、全てが順調というわけではない。悩み苦しみながらの信仰生活で良いのだと教えられます。苦しみ、悲しみの時には、その思いを吐露して良い。何故このようなことが起こるのかと疑問に思えば、神様に訴えれば良い。詩篇の中には、敵対する者の不幸を願う歌までありました。
自分の信仰生活を振り返りますと、浮き沈みの信仰生活。喜びや感動を味わうこともあれば、苦しみ、悩み、疲弊し、挫折することもある。弱き自分の姿を詩篇の中に見出し、安心することもあります。弱くても良い、詩篇とともに信仰生活を送りたいと思いますが、目指すところはどこかと言えば、この百五十篇です。
様々な思想、教訓、議論、感情が繰り広げられた詩の山。しかし、その最後は、これ以上ない程簡潔に、主をほめたたえるだけの歌となるのです。解説不要の詩。指揮者となった詩人が、次々に賛美の指示を出しながら、最後には「息のあるものはみな、主をほめたたえよ。」として、自分自身も賛美に繰り出す。喜怒哀楽を踏み越えて、最後には絶対的単純さをもって主をほめたたえる。これが詩篇のクライマックスであり、私たちの信仰生活の目指すところでした。
以上、聖書の中央に位置する高嶺、「詩篇」でした。後はともかく、詩篇を読んで頂ければと思います。今回の説教では、巻ごとに印象の残った章をお伝えしました。皆様でしたら、どの詩が印象の残るのか。是非とも、教えて頂きたいと思います。
詩を生み出した信仰の大先輩の心を味わい、詩篇が身近になりますように。詩人たちの歌声に、耳を傾け、心を注がれる神様に、私たちも出会うことが出来るように。人生の旅路、信仰の旅路を送るにつれ、ますます詩篇が味わい深いものとなり、あの最後の大賛美を我がものとして歌うこととなりますように祈ります。