先週は、「わたしがまことのぶどうの木。豊かな実を結ぶために、わたしにとどまりなさい。」と語られたイエス様の勧めを見てきました。ぶどうはユダヤの国の特産品であり、国のシンボルとして人々に親しまれていた果物。旧約聖書では、神様が農夫、神の民イスラエルがぶどうの木に譬えられています。
ですから、「わたしはまことのぶどうの木。あなたがたはその枝」と言うイエス様のことばには、神様に信頼して生きるという人間本来の生き方をせず、実を結ぶことのなかったイスラエルに代わり、ご自分とご自分を信じる者たちが真の神の民となって、この世界の人々に神様を信頼する生き方のすばらしさを示すのだと言う並々ならぬ思い、使命感が込められていたのです。
今日はその続き。枝である私たちが、ぶどうの木であるイエス様にとどまると言うテーマがさらに展開するところとなっています。
15:9~10「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」
「父がわたしを愛されたように」とありますが、福音書を読みますと、父なる神様は常にイエス様に愛を注ぎ、イエス様はその中にとどまり、ささえられながら、救い主としての歩みを続けてきたことが分かります。四つの福音書の中でも、特にヨハネは、天の父とイエス様の愛の交わりに何度も触れ、これを強調していました。
中でも、今日取り上げたいのは、ヨハネの福音書の冒頭に登場する「父のふところにおられるひとり子の神」(1:18)と言う表現です。親が子どもを懐に抱いて慈しみ、子どもが親に抱かれて、心から安心しているように、父なる神様とイエス様の間には親しい愛の交わりがあった。この様な交わりの中にあったからこそ、イエス様は父の神のみこころを第一とし、十字架の苦しみをも忍ぶことができたのです。
ひとり子の神であるイエス様がまず天の父の愛を受け取り、それを私たちに余すところなく注がれた。だから、私たちも愛の中にとどまれと命じられます。イエス様の愛の中にとどまるとは、まず私たちがイエス様の愛を受け取ると言うことと教えられます。
さらに、イエス様は私たちの愛が行いへと進み、具体的な実を結ぶよう、「わたしの愛にとどまるとはわたしの戒めを守ること」と指摘しました。とかく、私たちの愛はことばだけであったり、思いや感情のレベルにとどまりがち、実を結ぶまで繰り返し実践する力に乏しいものです。その様な私たちの弱さを思い遣り、イエス様が語られたことばが、これでした。
それでは、イエス様の戒めとは何か。12節と17節のことばです。
15:12「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」
15:17「あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。」
聖書の中には、様々な神さまの戒めがありますが、そのすべてを集約したのが「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合う」と言うこの戒め、と言ってよいかと思います。相手のために祈ること、励ますこと、戒めること、教えること、助けること、共に食事すること、金銭を与えること、仕えることなど。私たちの日常生活の一挙手一頭足が、愛の現れ、実りであることを、イエス様は期待しておられる。このイエス様の期待を、皆様は日々感じながら生活しておられるでしょうか。
愛は愛する者の喜ぶことを実践しようとします。それが愛の性質です。もし、妻を愛すると口にする夫が、妻の喜ぶことをしようとしないなら、その愛には疑問符がつきます。夫を愛すると語る妻が、夫の喜ぶことには関心がないとしたら、それは愛と言えるでしょうか。
私たちは、イエス様が注いでくださる大きな愛に応えて、イエス様の喜ばれること、戒めを実践したいと思います。勿論、完全にでも、常にでもありませんが、力の限りイエス様の戒めに心を向け、考え、実践したいと言う思いが成長してゆく。これが、イエス・キリストを信じる者の心に起きる変化です。私たちがイエス様の愛にとどまっていることの証拠なのです。皆様は、この変化を経験しているでしょうか。
以上、天の父からイエス様へ、イエス様から弟子たち、私たちへ。神様の愛の継承、受け渡しでした。しかし、私たちが受け取るのは愛だけではありません。イエス様が味わった喜びもまた受け取ることができるのです。
15:11「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。」
故郷の人には尊敬されず、都の宗教指導者には非難、攻撃されたイエス様。「人の子には枕する所もない」と言われたイエス様。病人を癒し、世間から除け者にされた人の友となりながら、この世の報いを何一つ受け取ることのなかったイエス様。このイエス様が、ご自分の歩みを振り返って、「わたしには喜びがある」と言われました。イエス様にとって最上の喜びとは、この世の栄誉ではなく、父なる神様の戒めに従うこと。それにまさる喜びはなかったということでしょう。
神様に創造された最初、人間は正しいこと、つまり神様のみ心を実行することを通して、喜びを覚えることができました。しかし、神様から心離れて生きるようになると、この喜びを失ってしまったのです。私たちにとって正しいことは往々にして嫌々行うもの、心から行えるものではなくなりました。また、自分の行いを人が評価してくれるのかどうか、それを心配し、恐れるところのものともなりました。しかし、イエス様の愛は私たちをその様なストレスや恐れから解放してくださる、と聖書は教えているのです。
Ⅰヨハネ4:18「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。」
愛の実践には労苦が伴います。犠牲の伴わない愛などないとも言えます。私たちの中の古い罪の性質は、労苦を伴う愛の実践などまっぴら御免、人を愛するために犠牲を払うなど、割に合わない生き方ではないかと囁きます。
しかし、不思議なことに、イエス様の愛を受け取るなら、私たちは労苦の伴う愛の実践を心からなす者へと造り変えられてゆきます。犠牲を伴う愛の実践をなしえた時、深い喜びを覚える者へと造り変えられてゆくのです。たとえどんなに小さく、不完全であっても、私たちが力を尽くして為した愛の行いを喜んで認め、受け入れてくださるイエス様の笑顔を仰ぐことができるのです。
娘が小学生低学年の頃だったでしょうか。誕生日か何かに、聖書カバーをプレゼントしてくれました。布きれは安物、縫い目の糸は右にそれ、左にそれ、お世辞にも上手とは言えない。経済的価値はゼロ、不完全極まりない聖書カバーでした。しかし、私にとっては無性に嬉しかった。その聖書カバーには娘の愛が込められていたからです。イエス様も、天の父も、私たちの愛の行いを父親の私と同じ眼で、いやもっともっと喜びに満ちた眼でご覧になっているのではないかと思います。
私たちの内に、神様の戒めを慕い求め、それを行うとする思いと力とを与えてくださるばかりか、それを実践する時、最上の喜びをもたらしてくれるイエス様の愛。そして、この尊い愛が、イエス様の計り知れないへりくだりと、十字架の苦難から生み出されることを、忘れていけないと思います。
15:13~15「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。」
イエス様の時代。主人がしもべに何かを相談すると言うことはまずありませんでした。大切な相談は家族や友人、信頼できる同僚にするというのが普通でした。しもべは、ただ主人の命じるままを行うだけ。しもべは、自分の働きにどんな意味があるのかを知らず、たとえ自分が納得していようがいまいが、そんなことには関係なく命じられたことをしなければならない。その様な立場に置かれていたのです。
また、当時は貴族は貴族は同士、平民は平民同士と言う様に、社会的に同じ立場、身分にある者同士が友になると言うのが常識でした。稀に貴族としもべの間に友情が成立すると言うこともあったようですが、それは貴族がしもべに尊敬すべき能力を見出した場合に限られていたようです。
その様な状況、社会常識を考えますと、イエス様が弟子たちを友と呼ばれたことが、いかに常識はずれの驚くべきことであったかが分かります。イエス様は、天地万物の造り主、そのすべてを支配する王の王、主の主です。その様なイエス様が、貴族としもべどころではない、天と地ほど立場がかけ離れた私たち、能力においても月とすっぽん以上に遠くかけ離れた私たちを友と呼んでくださると言うのです。
それも、ご自分が心から信頼する友であることを、本気で伝えるために、こう付け加えています。
15:15「わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。」
この説教の後に新聖歌 番を歌います。これは、「わが友主イエスはわれを見出し、引き寄せたまいぬ、愛の糸もて」と、イエス様が私たちの友となってくださった恵みを歌う讃美歌です。
私の友、主イエス様は、私を見出し、愛の糸で引き寄せてくださった。この糸と言うことば、元の歌詞では、英語のCORDと言うことばだそうです。これは普通の糸よりもずっと太い糸、複数の糸がより合わされた糸で、絆とも訳すことができるそうです。そのように切ろうとしても切れないしっかりとした愛の糸で引き寄せられたと歌う讃美歌からは、イエス様に真の友として見いだされた喜び、イエス様を真の友として得た喜びが伝わってきます。
被造物と言う立場からしても、また罪人と言う状況からも、イエス様から友と呼ばれる資格など全くない私たち。むしろ、十字架の上でさばかれて当然の私たち。それなのに、イエス様は心から信頼する友として目を留めてくださり、引き寄せてくださる。皆様には、自分がこの様な自由で、親しくて、親密なイエス様との関係の中に招かれていると言う実感はあるでしょうか。
けれども、イエス様はこの様な交わりの中に私たちを招き、養ってくださるだけではなく、私たちをこの世界に遣わすとも言われます。イエス様は、私たちがこの世界に出てゆき、そこで実を結ぶために、私たちを交わりの中に選ばれたのです。
15:16「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」
「あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るため」とは、どういうことでしょうか。このことばを、私たちがこの世で人々の魂の救いに励むこと、伝道のわざと考えることもできます。しかし、聖書全体を見る時、これは伝道をも含め愛の行いという実と考える方が良いと思われます。
イエス様との交わりのうちに憩い、力を得た私たちがこの世界に出てゆき、実践する愛の行いは、決して忘れ去られることなく、最も価値あるものとして永遠に残ると言うのです。
マタイ25:31~40「人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、羊を自分の右に、山羊を左に置きます。そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。 あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』
空腹な者に食べる物を与え、渇く者に水を飲ませる。旅人に宿を貸し、裸の者に着る物を与える。病気の者を見舞い、牢に囚われた者を訪問する。世間の人が眼にも留めないような、小さな愛の行いをご自分へのささげものとして受け取ってくださるイエス様。それを行った人でさえ忘れているようなささやかな愛のわざを大切な宝物のように心に刻み、豊かに豊かに報いてくださる王の王であるイエス様。
私たちは今日、このイエス様のもとから、世界に遣わされるのです。私たちが遣わされるのは職場か、学校か、病院か、隣人の家庭か。いずれにしても、そこをイエス様から遣わされた場所として意識し、愛の行いという実を結ぶべく励む者でありたいと思います。