2014年12月28日日曜日

ルカの福音書11章33節~36節 「何を見るか」

 今年最後の聖日礼拝となりました。一年間、礼拝の歩みが守られた恵みを心から感謝いたします。
 年の瀬が迫ると多くの人が、時が経つのは速い、あっという間の一年だったと感想を漏らします。光陰矢のごとし。月日に関守なし。烏兎怱怱。歳月人を待たず。特にキリスト者である私たちは、十一月の終わりからアドベントを過ごし、先聖日にクリスマス礼拝、週の半ばにクリスマスを迎えたところ。目を回し、気が付いたら最後の聖日という印象。あっという間に今年の終わりが来ました。
 しかし、正反対の思いもあります。一年の間に多くのことを経験した。嬉しいことも、辛いこともあった。あっという間だなってとんでもない。あれも今年のこと、これも今年のことと、驚く気持ちもある。
 何故、あっという間という感想と、あれもあった、これもあったという感想と、両方持つのか。それは私がしっかりと一年を振り返っていないからだと思われます。自分はどのように生きてきたのか、振り返っていない。そのため、いつの間にか時間が経ってしまったという思いと、そういえばあんなこと、こんなことがあったという思い、両方が出てくるのです。
そして、それは決して良いことではありません。スケジュールをこなし、一年を終えることのないようにと願います。自分はどのように一年間生きてきたのか考える。起こった出来事の意味を考える。悔い改めるべきことは悔い改める、感謝することは感謝する時間を持ちたいと思います。

 一年の終わり、どのような思いで一年を振り返り、どのような思いで新たな一年を迎えたら良いのかを考えたく、今日は主イエスの言葉を聞きたいと思います。

 ルカ11章33節
「だれも、あかりをつけてから、それを穴倉や、枡の下に置く者はいません。燭台の上に置きます。はいって来る人々に、その光が見えるためです。」

 あかりをつけたら、穴倉や枡の下に置く者はいない。燭台の上に置く。入って来る人々に、光が見えるために。至極真っ当な言葉です。現代風に言えば、蛍光灯を部屋の隅や、机の下に備え付ける者はいない。部屋の中央、最も効果的な場所に設置する、となるでしょうか。もっとも、今より約二千年前の光と言えば、今の私たちが持つ光のイメージよりも、より貴重なもの。真っ暗闇の中、油に浸った灯心に灯る火のあかり。今より、光が光らしく、光がより貴く、意味が深い時代。あかりは燭台の上へというのは、当然も当然のことだったでしょう。
 このごく普通の当然の言葉が、聖書においてはお馴染の言葉。マタイの福音書にも、マルコの福音書にも出てくる。ルカにおいては、すでに八章で同じ言葉が出ています。イエス様がよく使われた言葉だったのでしょうか。
 どうも主イエスは「あかり」とか「ひかり」のイメージを用いるのが好きだったように思います。自分自身を指して「世の光」と言い、キリストを信じる私たちのことも「世の光」と言われました。

 それはそれとして、何故このようなごく普通の、当然のことを、イエス様が語られたのか。それは少し前の十六節、二十九節を受けてのことだと思われます。
 ルカ11章16節
「また、イエスをためそうとして、彼に天からのしるしを求める者もいた。」

 ルカ11章29節
「さて、群衆の数がふえて来ると、イエスは話し始められた。『この時代は悪い時代です。しるしを求めているが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。』」

 ここまでイエス様が約束の救い主であるしるしは、存分に示されていました。しかし、既に示されたしるしを見ようともしないで、「天からのしるし」を求めた者たちがいた。しるしは十分。そうだとすれば、見る者たちに問題があった。見ても見ない、聞いても聞かないという者たちを前に、イエス様が嘆かれた場面。
 つまり、見る者に責任があるという文脈の中で、今日のイエス様の言葉があると読めます。

 ルカ11章33節
「だれも、あかりをつけてから、それを穴倉や、枡の下に置く者はいません。燭台の上に置きます。はいって来る人々に、その光が見えるためです。」

 あかり、光として来られたキリスト。その活動、その言葉は隠されていたわけではありません。人々に見えるように明示されていた。それにもかかわらず、イエスをキリストと認めない者たちに対して、その責任はあなたにあるのだと切りつける言葉が続きます。

 ルカ11章34節
「からだのあかりは、あなたの目です。目が健全なら、あなたの全身も明るいが、しかし、目が悪いと、からだも暗くなります。」

 あかりは既に十分灯されている。それを見るのか、見ないのかは、私たちの責任。目が健全であれば全身も明るく、目が悪いとからだも暗いと言われます。ここで言われるからだとは、私たちの生き方、行動、人生のことでしょう。
私たちの人生が明るいものとなるのか、暗いものとなるのか。その鍵は私たちが何を見るのかだと教えられるのです。果たして私たちは何を見て生きてきたのか。

 見るべきものを見ない、見たくないとして生きる。その結果、人生の歩みが躓き、道を踏み外し、誘惑の穴に落ち込む。大怪我をする。目を開けないから、恐れ、不安がつきまとい、力まなくてもよいところで力を使い果たす。五里霧中の中で人生を生き、この地上の後がどうなるかも分からないまま生きてきた。
 それが、神の光を見た時から変わったのです。キリストの光を浴びた時に、自分を確かめることが出来た。自分はこの道を進むのだと人生の目的を見定めることが出来た。大先輩パウロが言っていた「私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。」(Ⅰコリント9章26節)という生き方が、私の生き方となった。
 見るべきものを見る時に私たちの人生は明るく、目を閉ざす時に私たちの人生は暗くなる。キリストに対してもっとしるしを見せよと言う者たちは、目をあけるべきだった。人生の暗さに嘆く者たちは、キリストに焦点を合わせるべきでした。

 ところで一旦見えたからといっても気をつけなければならない。再度、目を曇らせてしまう者もいる。せっかく頂いた内なる光を暗くすることのないようにと注意が飛びます。
 ルカ11章35節
「だから、あなたのうちの光が、暗やみにならないように、気をつけなさい。」

 今日、年の終わりの聖日。私たちは急いでいる足を一度止めて、一体自分は何を見てきたのか、よくよく考えたいと思います。私の心の目を、どこに焦点を合わせていたのか。自分の心はどこを向いていたのか。
お金か、名誉か、地位か、快楽か、趣味か。あるいは怒りや憎しみ、恐れや不安に押し潰されたことはなかったか。私たちの心は何に支配されていたでしょうか。私たちのうちの光が、暗やみとなる生き方ではなかったのか。

 今年の初め、元旦礼拝にてなされた山崎先生の説教を覚えているでしょうか。詩篇十六篇より、「いつも私の前に主を」という題での説教でした。まとめとして語られたことが、「聖書を通し、神様との関係の中で物事を考える」ということ。これはまさに、神の光に目を向けて生きること。
 あの元旦礼拝で決心したことに、どれ程真剣に取り組んできたのか。今朝、もう一度考えたいと思います。

 ところで、キリストに焦点を当てて生きることは、私たちの全身を明るくすると教えられ、また暗やみとならないように気をつけるよう注意を受けた上で、もう一度三十三節の言葉を見ますと、もう一つの意味が見えてきます。
 ルカ11章33節
「だれも、あかりをつけてから、それを穴倉や、枡の下に置く者はいません。燭台の上に置きます。はいって来る人々に、その光が見えるためです。」

 神様が私たちをあかりとして用いるとしたら、それは他の人々のため。あかりを自分のためだけのものとするのではなく、まわりの人々のためとする。自分だけ見えているので良しとするのではなく、人々にも、隣人のためにも。あかりである私たちは隠れるのではなく、人々を照らすために生きるようにとも教えられます。
 今日の最後の言葉は、まさにそのことを教える言葉として読めます。

 ルカ11章36節
「もし、あなたの全身が明るくて何の暗い部分もないなら、その全身はちょうどあかりが輝いて、あなたを照らすときのように明るく輝きます。」

 人のうちに灯った光が、その内側から輝き出す。何とも面白い表現。内に灯った光が輝き出して周りを照らすとは、私たちでいえば提灯のイメージでしょうか。クリスチャン提灯説とは面白く聞こえます。キリストを信じた者はどうなるのか、提灯となるとの答え。それも格好つけた表現が許されれば、キリストの十字架の紋入り提灯。足元を照らすだけでなく、隣人を導く提灯。
思い出されるのは、山上の説教で語られたキリストの言葉です。
 マタイ5章14節~16節
「あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」

 ところで、「キリストに頂いた光を煌々と照らして生きた人」と言うと、誰を思い出すでしょうか。あの人、この人と多くの人を思い出せる人は幸いです。聖書の中に、この点できわめつけの人がいます。キリストを指し示す働きをしたバプテスマのヨハネ。提灯どころか燃え盛る松明のように、イエス様に評されていました。
 ヨハネ5章33、35節
「あなたがたは、ヨハネのところに人をやりましたが、彼は真理について証言しました。・・・彼は燃えて輝くともしびであり、あなたがたはしばらくの間、その光の中で楽しむことを願ったのです。」

 さすがはバプテスマのヨハネ。イエス様をして、「燃えて輝くともしび」と評される栄誉はヨハネならではのもの。とはいえ、私たちもヨハネに続く者でありたいのです。あかりは燭台の上に。人々に見えるために。世の光として召された私たちは、ひたすらにキリストに焦点を合わせて、生きていきたいのです。

 以上、ルカの福音書よりイエス様の言葉を確認しました。教えられたことをまとめて、終わりにいたします。
 教えられ一つ目のことは、全身が明るいか、暗いか。私たちの歩み、私たちの人生が明るいか、暗いかは、何を見ているのかによっていること。この一年の終わり、自分の歩みを振り返る時、自分は何を見て生きてきたのか。心の目はどこに焦点を合わせていたのか。自分の心を支配していたのは、どのような思いなのか。もう一度確認したいと思います。是非とも、しっかりと時間をとり、一年の歩みを振り返ることをお勧めいたします。キリストから目を離していたことを悔い改め、キリストに焦点を当て生きた際に抱いた恵みに感謝する時を持ちますように。それも、一人で取り組むのではなく、教会の仲間とともに、あるいは家族で取り組むのが良いと思います。

 教えられた二つ目のことは、私たちが光を見る時に、私たちの内なる光も輝くということ。 先週、私たちは世の光として来られたキリストの誕生を祝いました。キリストの到来は何のためだったのか。それは私たちを世の光とするため。私たちを輝かすためでした。
私たちは、世の光として生きることに取り組むのです。それは自己鍛錬して道徳的な生き方を目指すのではなく、ひたすらにキリストを見続ける生き方に取り組むということです。キリストを見続ける、キリストと共に生きる、全てのことをキリストとの関係で受けとめる。その時、私たちは光輝くのです。
 暗い世界にあって、私たちは光輝く存在として生きる。キリストの提灯として生きる。それも独りで小さく光るのではなく、あちらにも、こちらにもあかりが灯されている。北に南に、東に西に、キリストの十字架を浮かびあがらせながら、生きる決意を持ち、新たな年を迎えたいと思います。

2014年12月21日日曜日

クリスマス礼拝 ヨハネの福音書1章14節~18節 「生誕~ことばは人となって~」

 皆様クリスマスおめでとうございます。これまでの待降節、私たちはキリストの到来を待ち望む者の生き方について考えてきましたが、いよいよクリスマス礼拝となりました。今日は、神が人の肉体をとった、このことに焦点をあてて、キリスト降誕と私たちの人生の関係を考えてみたいと思います。
先ず、これまで読み進めてきたヨハネの福音書から、聖書の基本的なふたつの教えを確認します。ひとつは、この世界と私たち人間は偶然の産物ではない。父なる神様と子なる神、イエス・キリストの愛から創造されたということです。ふたつめは、人間が神様に背いたことにより、人間の社会も心も罪と言うやみにおおわれてしまったことです。
現代の日本では、自ら命を絶つ人が年間三万人を越え続けています。物質的には最も満たされている国のひとつでありながら、多くの人が生きる意味や目的を見失っていると思われます。
また、善と分かっていることを実行できず、かえって願わない悪を行ってしまう心のもろさ。相手のために100%の善行をすることができず、どこかで自分の利益を考えてしまう心の不純さ。これをしたら相手は苦しむと分かっているのに、あえて悪を選び実行する心の邪悪さ。私たちひとりひとりの心は今もやみにおおわれ、親子、夫婦、兄弟、隣人同士、国対国に至るまで、様々な争い、対立はやむことがありません。
今からお読みしたいのは、今から二千年前、イエス・キリストが生まれた時代、ローマの社会について、使徒パウロが書いたことばです。今の時代の世界と比べてみてどう思われるでしょうか。

ローマ1:28~32「また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。
彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。彼らは、そのようなことを行なえば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行なっているだけでなく、それを行なう者に心から同意しているのです。」

 二千年前に比べ文明が進歩したことは、誰もが認めるでしょう。車、飛行機、高層ビル、医療、教育、福祉、インターネットなど、人間の生活は格段に進歩。はるかに便利、安全になった気がします。しかし、果たして私たち人間の心は進歩しているでしょうか。物質的に豊かな社会で、心満たされている人はどれほどいるのか。安全なシステムはあっても、心から安心して暮らしている人はどれほどいるのか。むしろ、二千年前の人間社会の道徳的混乱は今さらに深刻になってはいないかと考えさせることばです。
 そして、「彼らが神を知ろうとしたがらないので」とあるように、私たち人間がこの世界を創造した神様と正しい関係にないことが、混乱と悲惨の原因と、聖書は語ります。
 様々な文明の進歩によっても取り除かれることはなかった、人の心と社会をおおうやみ。むしろ、さらに深くなってきたやみ。救い主はこの様なやみのなかに来たと聖書は告げています。

 1:14a「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」

 ことばとは神のひとり子、イエス・キリストのこと。神のひとり子が私たちの間に住まわれたと言うのです。この「住まわれた」と言うことばは「天幕、テントを張って住む」と言う意味で、旧約聖書の時代は神様がそこにおられる場所、会見の天幕を指していました。
 この世界を創造した神様が人間の肉体をとる。この奇跡をどう説明したら良いか、非常に迷うところです。
何年か前、アメリカバスケットボール選手に、マイケル・ジョーダンというスーパースターがいました。ジョーダン選手がある時、小さな子どもとバスケットをするため幼稚園にやってくる様子をテレビで放映されていたのです。
ジョーダン選手対10人の子どもで試合をしていたのですが、勿論、たとえ相手が10人でも小さな子供相手にジョーダン選手が普段通りにプレーしたら、バスケットになりません。そこで、ジョーダン選手は立って走ることができないよう、しゃがんでカニのように歩く。ジャンプも禁止。ドリブル一つで子どもたちの間を進んでシュートまで持ってゆくことになります。
つまり、ジョーダン選手は持てる能力を自ら制限すると言う、非常に不自由な状態でバスケットをしなければならなかったわけです。しかし、そんな不自由を忍耐しながらも、ジョーダン選手は子どもたちとのバスケットを心から楽しんでいる様に見えました。
人となった神のひとり子。イエス・キリストも同じです。石をパンに変えることのできるお方が飢えや貧しさを味わい、一瞬で悪口を言う人間の口を塞ぎ、暴力をふるう人の手を止めることのできるお方が、その力を行使せず、苦難を受けられたのです。一体、何のためだったのでしょうか。

へブル4:15「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」

私たちが人間として味わう肉体の苦しみ、心の苦しみ。それらを心から理解し、同情の思いを持つため、イエス・キリストは自ら人間となり、身をもって様々な試みを受けられたと言うのです。
また、もう終了まじかと思いますが、今年の大河ドラマ「黒田官兵衛」で、官兵衛が織田信長の味方となることを約束、決して裏切らないその証拠に、我が子を織田方の家来秀吉の家に送り、住まわせるという場面があったのをご覧になった方はあるでしょうか。戦国時代にはよく行われていたこととは言え、まだ小さな男の子が死を覚悟して、我が家を離れ、他の家に移り住むと言う姿には、心打たれた記憶があります。
神のひとり子は、何故非常に不自由な人間の体をとられたのか。何故わざわざ自分を歓迎せず、むしろ苦しめる人々のいるユダヤの国に移り住むことを決意し、実行されたのか。それは、本当に一人の人間として生きるため、本当に私たち人間の仲間、人間の味方となるため。つまり、神様の本気の愛を示すためだったのです。
そして、救い主の到来を歓迎しない人々がいたのは事実ですが、他方これを受け入れた人々もいました。この福音書の著者ヨハネを始め、それらの人々が感じたことが、以下に記されます。

1:14b「私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」

「私たちはこの方の栄光を見た」とあります。肉体をとられたイエス・キリストの中に、神のひとり子の栄光、素晴らしさをこの二つの眼で見た。その栄光とは恵みとまことに満ちた生き方でよく分かると教えられます。
恵みとは、弱き者、苦しむ者、悩む者に対する慈しみ、優しさです。聖書を見ると、荒々しい漁師も、人々から嫌われていた収税人も、当時としては非常に珍しいことですが、女性たちも、イエス・キリストの弟子には様々な人々がいました。さらに、イエス・キリストがそこにいると子どもたちも近づいてきましたし、学者、宗教家もやって来ました。イエス・キリストと言うお方は、年齢、性別、職業、肩書などをこえて、あらゆる人にとって近づきやすい人、気の置けない人、親しみを感じる人であったようです。
また、まことというのは、天の父に対しても人に対しても、真実を尽くすと言う、イエス・キリストの行動、生き方を意味します。裏切りの弟子ユダのことを最後まで愛し続け、ユダヤ人指導者からどんなに罵られても罵りかえさず、十字架の死と言う苦難を最後まで受けとめられたお姿。イエス・キリストの行動のどこを切っても、そこには真実の愛が詰まっていたということです。
もし、イエス・キリストが地上の王として来られたら、私はその権力を恐れて従うことはあったかもしれませんが、心から従うことはなかったと思います。もし、イエス・キリストが大金持ちとして来られたら、私はそのお金に心惹かれて仲間の一人になったかもしれませんが、本当に親しい仲間にはなれなかったと思います。もし、イエス・キリストが次々に奇跡を行ってみせる宗教的カリスマとして来られたら、私はその力を恐れ平伏したかもしれませんが、近づきやすいとは到底感じなかったと思います。
神の子がごく普通の人間として生まれたこと、権力でも、富でも、権威でもなく、ただ恵みとまことに満ちた生き方を通して、私たちの心を神様に向けてくださったこと。このことを心に刻んでおきたいと思います。
次に登場するのは、イエス・キリストの前に現れ、イエス・キリストを人々に紹介したバプテスマのヨハネの証言です。

1:15「ヨハネはこの方について証言し、叫んで言った。「『私のあとから来る方は、私にまさる方である。私より先におられたからである。』と私が言ったのは、この方のことです。」

ヨハネは最後の預言者。罪の悔い改めを説くその説教は、ユダヤの国全体に大きな影響を与え、当時最も尊敬された人物です。そのヨハネが「私のあとから来る方は、私にまさる方。私より先におられた、つまり永遠の神であるから」と叫んだのです。このヨハネのことばによってイエス・キリストを信じる人々もいました。
さらに、証言は続きます。

1:16、17「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」

イエス・キリストと、直に触れ合った弟子たちの思いが響いてくることばです。キリストとともに生活した彼らは、恵みの上にさらに恵みを受けたと言うのです。喜びの時には喜びを倍にしてくれる恵み、病の時には慰めの恵み、悩む時には励ましの恵み、気落ちした時には力の恵み。折に触れ、様々な形の恵みをイエス・キリストから受け取ってきた弟子たちの歩みを思い浮かべたいところです。
また、律法とは、旧約聖書の戒めや儀式のことです。旧約聖書の時代、神様は戒めや儀式を通してご自身の恵みについて人々に教えてきました。しかし、キリスト誕生とともに、私たちはイエス・キリストにより、神様の恵みとまことを直に受け取ることができるようになったのです。
そして、単なる宗教の教師ではない、賢人でも権力者でもない。いっしょにいるだけで、私たちを造り変え、本来の人間が生きるに価する命を与えてくださるお方。この人を見、この人と接していたら、誰もが神様を知った喜びに満たされるようなお方のことを、最後にヨハネはこう紹介しています。

1:18「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」

最後に、今日の箇所から私たちが考え、実践すべきことを二つ確認しておきたいと思います。ひとつは、この世界を創造した神様からのプレゼントしてイエス・キリストを受け取ると言うことです。
皆様は、大切な人のためにクリスマスプレゼントを贈ったことはあるでしょうか。その人のために何が良いかを考え、苦労して見つけ、心を込めて贈ったプレゼントを、相手が拒絶したとしたら、これ程悲しいことはありません。
太陽に水、それに大地。多種多様な植物に動物。私たちの生命を支える自然環境は神様からの贈り物です。大切な家族、友、隣人。社会において果たすべき様々な仕事やそれをなすための健康な体や能力。これもまた神様からの贈り物。しかし、神様が最も苦労し、心を込めた贈り物、それは人となられたイエス・キリストご自身です。
ですから、最も神様をがっかりさせ、悲しませる私たちの行いとは、イエス・キリストを拒むことと言えるでしょう。キリストを受け取らないことは、「私には神様の愛が必要ありません。自分の力でこの人生をやってゆきます。やってゆけます」と言う高慢な態度を意味します。高慢こそ神様が最も嫌われる罪、最大の罪でした。
そして、神様の愛が必要ないと思い、イエス・キリストを断った人は、神様の愛の全くない世界、地獄で永遠に生きることになりますし、神様の愛が必要と思い、キリストを受け取った人は、神様の愛が満ちる世界、天国で永遠に生きることになると、聖書は教えています。
イエス・キリストに対する態度が、私たちの永遠の運命を決める。このことを覚え、イエス・キリストに対しどのような態度をとるべきか考えたいと思います。
ふたつめは、イエス・キリストを心に受け取ることを決めた方々には、実際に日々イエス・キリストと共に歩む人生、イエス・キリストと交わることを第一とする人生を送っていただきたいと思います。
「朱に交われば赤くなる」ということばがあります。私たちはよく交わる人あるいはものから大きな影響を受ける存在だと言うことです。
私たちは物質やお金を第一としてこれと交わるなら、物質やお金の奴隷に、快楽を第一としてこれと関わるなら、快楽の奴隷に、会社を第一としてこれと関わるなら、組織の中の小さな歯車のように、自分を感じることでしょう。いずれも、自分の存在価値を感じることのできない、非常に惨めな状態です。
しかし、イエス・キリストと交わることを第一とする時、私たちは、この世界を創造した神様にとって非常に尊い存在であることを感じながら、日々歩むことができるのです。物質やお金の奴隷ではなく、快楽の奴隷でもなく、意味もなく働き続ける機械でもない。神のひとり子がこの世に生まれてくださるほどに愛され、尊ばれている人間として生かされていることを喜びながら、この礼拝に集う私たちみながこれからの日々歩むことができたらと思います。今日の聖句を読みましょう。

 1:14「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」

2014年12月14日日曜日

ヨハネの福音書1章6節~13節 「アドベント(3)~すべての人を照らす光~」

 皆様は日本人初のクリスマスがいつ行われたのか、ご存知でしょうか。これが意外にも古く、戦国の世であったことに驚かされます。1566年12月25日、敵対する三好家と松永家のキリシタン武士が、町の広間に集まり、礼拝をささげ、お互いに持ち寄った料理で招きあい、交わりをなしました。その様子は、まるで同じ国王の家臣であるかのように、大いなる愛情の礼儀を尽くす楽しいものであったと記録に残されています。
平和の君であるキリスト到来の意味を覚え、ひと時武器を捨て、愛の交わりをなす。今では想像も及ばない戦いに明け暮れる非常に厳しい時代、クリスマスの意味を心に留め、それを実践した先輩クリスチャン達の見事な証しではないかと思います。
今、私たちはアドベント、待降節の礼拝をささげて過ごしていますが、私たちもまた彼らと同じく、キリストの到来が自分自身の生き方にどのような意味があるのかを考え、それを実践する者でありたいと思います。
先回はヨハネの福音書冒頭より、イエス・キリスト、救い主を待ち望む者の生き方について考えましたが、先ず確認しておきたいのは、この世界は、神様の愛によって創造されたということです。

1:2、3「この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」

この方とはイエス・キリストのこと。イエス・キリストは世界が創造された「初めに神とともにおられた」とありますが、これは、永遠の昔から、イエス・キリストが父なる神様と愛の交わりをもっておられたことを意味します。
そして、父なる神様との愛の交わりの中にあったイエス・キリストが、すべてのものを造られたと言うのです。たまたまでも、偶然でもない。この世界と私たち人間は、イエス・キリストと父なる神様の愛によって創造されたもの。神様の眼から見て、この世界も私たち人間も非常に尊いもの、価値ある存在だと言うのです。
特に、神様によって創造された命の中でも、人間の命は特別製。私たち人間は、神様と親しく交わることのできる命を与えられました。しかし、神様に背いた人間は、この命を失ってしまう。その結果、人間の心を罪と言うやみが覆うようになったと、聖書は教えています。
先回は、心をおおうやみとして、三つのことを考えてきました。頭では正しいと分かっている善を実行できず、かえって願わない悪を行ってしまう心のもろさ。動機まで含めて100%の善行ができない、どこかで自分の利益を考え、求めてしまう心の不純さ。あえて悪を選び、悪を喜ぶ心の邪悪さ。そして、この心のやみは深く、私たちはどんなに努力しても、これを心からきれいに追い払ってしまうことのできない存在ではないかと言うことも考えたのです。
しかし、光であるイエス・キリストは、この心のやみに来てくださるお方であると、聖書は語ります。イエス・キリストこそ真の光として、私たちが対抗できない心のやみに打ち勝つことのできる救い主と教えられるのです。
しかし、神様は用意周到なお方。いきなり、真の光をこの世界に送ったなら、やみの中に住む人間には眩しすぎて、よく見ることができないのではと配慮し、先ずヨハネと言う人を遣わしました。

1:6~8「神から遣わされたヨハネという人が現われた。この人はあかしのために来た。光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである。彼は光ではなかった。ただ光についてあかしするために来たのである。」

ヨハネはイエス・キリストと年齢の近い親戚のひとり。誰よりも先に、イエス様がキリスト救い主であることを理解し、罪の悔い改めを説いて、人々の心をキリスト到来に向けて準備させた人物です。
最後の預言者とも呼ばれるヨハネの人格と行動は人々に大きな影響を与えました。ヨハネのもとにはユダヤ全国から人々が押し寄せ、罪の悔い改めの洗礼を受ける人も多数。イエス様も、「女から生まれた者の中で、ヨハネよりも偉大な者はいない」と語り、ヨハネに対する心からの尊敬を隠そうとはなさらなかったのです。
この様なヨハネが、「私の後から来る方は、私よりもはるかに偉大な方。神から遣わされた救い主」と紹介したからこそ、人々の眼はイエス様に向けられたと考えられます。まさに、ヨハネは光なるイエス・キリストについて証しする役割に徹した人物でした。
イエス・キリストの前に、ヨハネを置いてくださったのは、人間に対する神様のご配慮だったのです。
しかし、もし心の眼が正常に機能していたなら、イエス・キリストが到来する前であっても、私たち人間に光の存在は見えたはずとも聖書は語ります。

1:9,10「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。」

「この方、イエス・キリストはもとから世におられ、世はこの方によって造られた」とある通り、イエス・キリストの存在とその愛は創造された作品によって示されてきたのです。美しく豊かな大自然。水、光、様々な元素。それらが巧みに設計され、生命を守るシステムとして機能している大自然と言う環境。多種多様な生命の存在。驚くべき人体の構造。人間の知恵によっては何一つ作りだすことのできないこれらのものは、無言のうちに、私たちに対するイエス・キリストの愛を示してきたのです。
それなのに、世はこの方を知らなかったとは残念なこと。この現実を、毎日毎日お母さんが作ってくれるご飯を通して、お母さんの愛を受け取ることができなくなった子どもに譬えることができるかもしれません。神様は太陽を上らせ、雨を降らせ、大地に食物を実らせ、日々私たちを養ってくれているのに、人間ときたら神様の愛どころか、その存在すら認めてこなかったのです。
それでは、せめて神様が選ばれた民、ユダヤの人々はイエス・キリストを受け入れたのかと言うと、何と彼らは拒絶したのです。

1:11「この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。」

ご自分の国とはユダヤ、ご自分の民とはユダヤ人のこと。彼らは神の民として選ばれ、みことばを与えられ、神様のこと、神様の遣わす救い主のことについて、特別丁寧親切に教えてもらったはずの人々でした。それが、こともあろうに肝心要の光として来られたイエス・キリストを拒み、苦しめたのです。
何故でしょうか。イエス・キリストに心のやみがあることを指摘され、反発したからと考えられます。その典型的な姿を、パリサイ人と収税人の祈りという、イエス・キリストのお話が描いていますので、見てみたいと思います。

ルカ18:9~14「自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。
「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』
あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」

祈るために宮に上った人のうちひとりはパリサイ人。人を強請らず、不正をせず、姦淫をなさず、むしろ人並み以上に断食に励み、ささげものをする品行方正な紳士でした。しかし、よくその祈りのことばを聞いていると、この人の心のやみが見えてきます。
第一に、行いは正しく、道徳的でしたが、その心の奥底にある思い、願い、欲望における罪に気がついていないように見えます。パリサイ人は確かに人を強請ることはなかったでしょう。しかし、人のものを欲しがったことはなかったのか。確かに不正な行いをしたことはなかったでしょう。しかし、一度も不正な行いに心が動いたことはなかったのか。確かに姦淫を実行したことはなかったでしょうが、心の中で情欲をもって異性を見たことはなかったのか。
ヴァレリーと言う人が言っています。「もし、これまで自分が心の情欲のまま、姦淫を実行していたら、町中が妊婦であふれていたことだろう。」パリサイ人の眼は外面的な行ないにとどまり、心の奥底のやみを見てはいなかったのです。
第二に、パリサイ人は隣にいる収税人を意識して、「ことにこの取税人のようではないことを、感謝します」と言い放ちました。人を見下し、馬鹿にしていたのです。その様に感じられる自分の生活に満足していたのです。しかし、光なるイエス・キリストは、隣人を見下すこと、馬鹿にすることは、心の中の殺人と断じました。
この世においては、パリサイ人の如く心の中で人を見下したからと言って、さばかれることはありません。しかし、収税人のように姦淫の罪を犯したら、何らかの社会的な罰を受けるか、非常に厳しい目を向けられることになります。
しかし、聖なる神様の眼から見るなら、心の殺人も、実際の姦淫も、等しくさばきに価する罪であることに変わりはありません。つまり、この人は世間の目は意識しても、聖なる神様の眼を意識することはなかった人だったのです。
第三に、パリサイ人は、自分の行いを神様の前で自慢していました。「私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。」ただ神様に対してなすべき断食を、自慢の種とする。ただ神様に心を向けてささげるべきものを、見せびらかす。それがこの人の生き方でした。
心の中に湧き起こる卑しい思いや願望。隣人を見下すこと、自慢、高慢。しかも、これら心の罪を自覚せず、自分の道徳的な生き方に満足していたパリサイ人。この人は、自分の心のやみに気がつくことはなかったか、或いは気がついても、それほど深いものではないと感じていたのでしょう。
それに対して、収税人は目を天に向けようともせず、ただ胸をたたいて神様のあわれみを求めるのみ。自分の行いのひどさ、また、心の中のひどさ、やみにも気がつき、これを悲しみ、心から神様の助けを必要と感じている人の姿です。
ここに二種類の人がいることが分かるでしょうか。ひとりは、心のやみを自覚せず、自分の努力や行いに信頼する人、パリサイ人。もうひとりは、心のやみの深さを認め、悲しみ、自分に頼らず、ただ神様に信頼する人、収税人です。皆様は、自分がどちらの人に似ていると思われるでしょうか。
光の役割はやみを照らすこと、やみの深さを明らかにすることです。同じ太陽の光に照らされて、煉瓦は固くなり、氷は柔らかくなります。煉瓦と氷とでは光に対する反応が異なるのです。光なるイエス・キリストに照らされて、心を固くし、イエス・キリストを拒む者とならぬように。むしろ、心柔らかくして、イエス・キリストを信頼する者になりたいと思います。
さらに、です。キリスト到来の意味は、私たちが心のやみを自覚することにとどまりません。キリスト到来により、誰もが神の子どもとなることが可能となったのです。

1:12,13「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」

普通、私たちは自分が誰の子どもとして生まれるのか、選択することはできません。しかし、イエス・キリストがこの世に来たことにより、誰もが神の子どもとして生まれるかどうかを考え、選択することができるようになったと、聖書は教えています。
そして、神様の子どもとなることは、神様を天の父として生きること。私たちが失った人間本来の命、神様と親しく交わることのできる命を回復することです。イエス・キリストを受け入れ、信じる人は、人間として生きるべき命、最も幸いな命を取り戻すことができる。この様な特権、恵みを皆様は自覚しているでしょうか。
しかも、心のやみを自覚することも、イエス・キリストを知る知識も、信仰も、神の子どもとなると言う願いも、すべて神様が備えてくださった恵みによると言われると、返す言葉が見つかりません。正に至れり尽せり。神様のご配慮に感謝したいと思います。
最後に、イエス・キリスト到来の恵みを私たちの生活に生かすため、二つのことを確認します。
ひとつは、私たち皆が、神様の子どもであることを自覚し、意識しつつ、行動する者でありたいということです。人間の考え方や行動に最も大きな影響を与える者の一つは、アイデンティティーと言われます。自分を何者と考えるかと言うことです。
私の場合でしたら、日本人、四日市キリスト教会の牧師、山崎家の子どもの父親、妻聖子の夫など、様々なアイデンティティーがあります。どれも大切なものばかり。これらを意識する時も、殆ど意識しない時もありますが、私の考え方や行動はこれらのアイデンティティーに大きく影響されています。
今日、ヨハネの福音書が私たちに勧めているのは、イエス・キリストを信じる者は、神様の子どもというアイデンティティーを最も大切にして生きるということです。自分はこの世に生きていようがいまいが、どちらでもよいと言う様な者ではない。この世界を創造した神様に愛され、認められた神様の子どもである。常にこの点に心を向けて、考え、行動する者でありたいと思います。
ふたつ目は、神様の愛を、日々しっかりと受け止める生き方を実践したいと言うことです。人生には晴れの日もありますが、雨の日も嵐の日もあります。家族の病が回復した。仕事で成功した。経済的に満たされた。神様の愛を感じられる日もありますが、そうでない日も多いと思います。
大切なのは、神様の愛を感じられる出来事があった日も、そうでない日も、みことばを通して、神様の愛をしっかり受け取る時間をとることではないでしょうか。その時、心の眼開かれて、それを受け取るに価しない私たちが、神様からいかに多くの良いものを受け取っているかが見えてくるのです。
食べる物、着る物、住む家。健康。大切な家族、信仰の友、神様と交わることのできる人間本来の命。あって当然と考えていたものすべてが、実は神様から子どもである私たちへの贈り物であったことに気がつき、感謝する時間を持つ。私たち皆が、この様な歩みを日々進めてゆけたらと思います。

2014年12月7日日曜日

ヨハネの福音書1章1章~8節 「アドベント(2)~やみの中に輝く光~」

 2014年が始まりまして早くも一ヶ月が終わろうとしています。あっという間の一ヶ月。皆様はどのようにこの一ヶ月を過ごしたでしょうか。
 礼拝説教は山崎先生との分担で、年初めの五回の説教で、信仰の基本的な事柄を確認しているところです。一年のうち一回は、礼拝説教で信仰の基本的な事柄を確認したいと考えたのですが、それならば、年の初め、気持ちを新たにした時が良いと考えてのことです。一回目が礼拝の中から主に賛美。二回目が礼拝の中から主に献金。三回目が伝道。四回目が交わり。五回目は賜物を用いることが扱われます。今日は第四聖日。交わりに焦点を当てて考えていきたいと思います。

 ところで皆さまは教会での交わりが好きでしょうか。お互いのことを知り合い、教会の仲間とともに過ごすことがとても好きという方。特に用事があるわけではないけれども、教会で仲間との時間を大切にしたいという方。いらっしゃると思います。教会の仲間と良い関係を持ち、その交わりが本当に楽しい、嬉しいと感じられるとしたら、それは本当に大きな恵みです。
しかし、教会での交わりが苦手という方もいらっしゃると思います。一人でいる方が居心地が良い。他の人にどのように思われるのかとても気になる。これまでクリスチャンの交わりの中で傷ついたことがある。あるいは、他の人を傷つけてしまい、また同じことをしてしまうのではないかと恐れている。
 信仰生活、教会生活が長くなると、交わりの喜びと、交わりの難しさ、その両方味わうのが一般的だと思います。交わりが楽しいと感じる時もあれば、交わりが怖い、教会での交わりを避けたくなる時もあります。

 私もこれまでの信仰生活の中で、教会の方にひどく傷つけられたと感じたことがあります。そのような時は、その人の顔を見て、悪い感情が出てくるのが嫌で、あまり教会にいたくないと感じました。あるいは、自分の発言や行動で、教会の方をひどく傷つけてしまったこと。自分のあまりの未熟さに、他の人と関わらない方が良いのではないかと考えたこともあります。皆さまはそのような経験があるでしょうか。
 交わりを避けたい。交わりを望まないという時。神様を信じるだけで十分ではないか。聖書を読み、祈る時間を充実させれば良いではないか。教会の人と顔を会わせるのは礼拝の時だけで良いではないか、という思いが沸き出てきます。
このような思い。交わりを避けたい、交わりを望まないというのは、極少数のクリスチャンしか味わうことがないのかと言えば、そうではありません。聖書が記された時代にも、交わりを避ける人がいました。交わりを避ける人たちには、それぞれ事情があったと思いますが、それでも聖書は明確に交わりの重要性を訴えていました。

 ヘブル10章25節
「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」

 集まることをやめないように。キリスト者の交わりをやめないように。信仰生活を一人で送らないように。共に生きることに取り組むように。今日は、キリストを信じる者が交わりを持つことの重要性を再確認したいと思います。

 なぜキリストを信じる者にとって、交わりが重要なのか。聖書から色々と理由を挙げることが出来ます。
 私たちの神様は三位一体の神様。ご自身の中で完全なる愛の交わりがある方。そのような表現は聖書にないのですが、敢えて言えば私たちの神様は交わりの神様です。その神様が私たちをつくられた時、このように言われていました。
 創世記1章26節
「そして神は、『われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。』と仰せられた。」

 交わりの神様が、ご自身に似せて私たちをつくられました。それはつまり、私たちも交わりの中で最も自分らしく生きることが出来る存在と言えます。エバがつくられる前。アダム一人の時に、神様は「人が一人でいるのはよくない」と言われていました。私たち人間は、もともと交わる存在。交わりは、私たちの本質と関係がある。創造の御業と深く結びついているのです。

 ところが人間が罪を犯し、堕落した結果、神様との関係は断絶し、人間同士の関係も壊れました。罪の恐ろしさは、交わりが壊れる点にあります。交わる存在としてつくられた私たちが、交わることが出来ない者となった。つくられた目的から外れたのです。
イエス・キリストは私たちを罪から救う方。この罪からの救いを交わりという点で見るならば、関係の修復、和解という意味です。パウロが次のように言っています。
 エペソ2章14節~15節a
「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。」

 キリストの救いの御業は、交わることが出来なくなっていた者が、あるべき交わりが出来る者へと変えられる、と言うことも出来ます。交わりは、救いの御業と深く結びついています。

 また救われた者の歩みを考えた時にも、交わりの重要性を挙げることが出来ます。救われた者は一人で生きるのではない。教会として、救われた者の集まりで生きていくことが教えられていますが、その教会は次のように表現されていました。
 Ⅰコリント12章27節
「あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。」

 教会はキリストの体。キリストを信じる者たちは、各器官とするならば、交わらないということを考えられていない。交わりの中でキリスト者として生きていくことが前提となっている言葉です。交わりは、教会の本質と深く結びついています。

 交わりがなぜ重要なのか。創造論からも、救済論からも、教会論からも考えることが出来ます。それはつまり、神様は、私たちが交わる者として生きるよう、強く願っておられるということ。神様の目標は、私たちキリストを信じる者たちが聖書的な交わりを持つことです。この神様の思いを受けとめて、私たちも互いに愛することに取り組みたいと思います。

 それでは、聖書が教える私たちのあるべき交わりの姿とは、どのようなものでしょうか。実に多くの具体的な教えが聖書に記されています。今日はいくつか確認していきたいと思います。
 Ⅰテサロニケ5章11節
「ですから、あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。」

 聖書的な交わりとは何か。ここでは「互いに励まし合う」ことが教えられています。互いに励まし合う。
これまで教会に来る時に、教会の仲間を励まそうと思って、来たことはあるでしょうか。礼拝の時、近くに座っているあの方を励ましたい。ともに奉仕をしているあの方を励ましたい。最近辛い思いをされたあの方を励ましたい。
どのようにしたら励ますことが出来るのか。よく考え、準備して教会に来るということに取り組みたい。心も体も疲れ、信仰面でも衰えている時。教会の仲間と過ごせば、元気になれる。そのような教会として、歩みたいのです。
 昨晩この説教を作りながら、私もこの御言葉に従いたいと思い、取り組むことにしました。どの方を励ますのが良いのか。少し悩みましたが、礼拝の司会の長老を。どのように励ませば良いのか。司会の奉仕をして下さることへの感謝を手紙にして書きました。取り組んでみて分かったのは、励ましたいと思い取り組むことは、私自身にとって喜びであるということ。励まされることだけでなく、励まそうとすることも喜びでした。是非、私たち皆で、「互いに励まし合う」という交わりを味わいたいのです。

 あるいは次のような箇所もあります。
 ローマ12章10節
「兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。」

 昨年度の年間聖句。ここで勧められる聖書的な交わりは、「互いに尊敬する」ことです。「あながた尊敬する人は誰ですか?」と問われたら、誰を思い浮かべるでしょうか。通常、尊敬するというのは、意識せずにすること。自分が考える尊敬出来る条件に合う人を、尊敬します。
しかし、キリストを信じる者の交わりにおいては、尊敬は意識的であり、決意的です。年齢も性別も国籍も関係ない。社会的立場も学歴も関係ない。教会でどのような奉仕をしているのか、クリスチャンになり何年なのかも関係ない。何が出来るからでもなく、何かをしたからでもなく、神様が愛している存在だから尊いとして、心から敬う。そのように、相手の人格を尊ぶ関係を築くことが出来たら、どれほど良いか。
 私自身、この御言葉にも従いたいと思い、教会の皆さまを尊敬する決意をもって今日来ました。もし私が偉ぶっている姿を見かけた時は、注意して頂きますようお願いいたします。

 また次のような箇所もあります。
 ローマ15章14節
「私の兄弟たちよ。あなたがた自身が善意にあふれ、すべての知恵に満たされ、また互いに訓戒し合うことができることを、この私は確信しています。」

 聖書的な交わりの一つのあり方。それは互いに訓戒すること。先に確認したように、私たちは互いに尊敬することが求められている。しかし、ともかく尊敬すればそれで良いというのではない。間違いがあれば正すこと。互いに訓戒することも聖書的な交わりなのです。
皆さまは、教会の仲間が悪に走ろうとする時、気付くでしょうか。気付いたとして、戒めることが出来るでしょうか。あるいは、その戒めを素直に聞くことが出来るでしょうか。
 昨年十一月にアメリカ研修に行った教会でのこと。男性の小グループで、互いに訓戒することの良い例を聞きました。ある男性が出張に行った際、ホテルでパソコンをつなぎ、卑猥なサイトを見たいと思ったそうです。それを教会の仲間に伝え、誘惑に負けないように祈ってほしいと伝え、皆で祈ったという話。
 このような交わりを持てることは本当に羨ましいと思いますが、同時にとても難しいことも分かります。自分が悪いことをしている。あるいは、罪を犯しそうだと思った本人が、それを教会の仲間に言うことが出来る。これは凄い信頼関係。しかし、それを築きたいのです。

 聖書的な交わりの具体例は、これ以外にも多数あります。互いに仕えること。互いに受け入れること。互いに赦し合うこと。互いに挨拶を交わすこと。互いに重荷を負い合うこと。互いに従うこと・・・。ある本によれば、互いに~~しないという教えは、新約聖書の中だけで五十八箇所あるそうです。これからも、聖書に示された交わりのあり方を見つけ、皆で取り組むことが出来たら良いと思います。

 このように交わりの具体例は多くあるのですが、是非とも四日市キリスト教会で取り組みたいと思う交わりがあり、最後に確認したいと思います。
 コロサイ3章16節
「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。」

 ここで勧められている第一のことは、「キリストのことばを、自分のうちに豊かに住まわせること」。聖書を通して、イエス様の人格に触れること。聖書を通して神様と交わること。聖書をよく読み、深く味わい、実践することが勧められています。
その上で勧められる第二のことが、「知恵を尽くして互いに教え」「互いに戒める」こと。キリストの言葉、聖書の言葉、私たちの神様がどれ程素晴らしいお方なのか、分かち合うことが勧められるのです。
更に第三の勧めとして、「感謝に溢れて心から神に向かって歌う」こと。

御言葉を味わい、神様との交わりを楽しむ。そして教会の仲間と御言葉を分かち合う、神様を分かち合う。そして仲間とともに神様を賛美する。この順番は非常に大事です。神様と交わることが赦された者として、まず神様との交わりを楽しむこと。その上で、教会の仲間と交わること。言葉を換えると、自分の力で教会の仲間と交わるのではないということです。神様と交わることが許された者として、同じ仲間とともに神様を喜ぶ。これぞ教会。これぞキリスト者の交わりという姿。
このような交わりを、是非とも皆さまと味わいたいのです。是非、今日の礼拝の後から、頂いた御言葉を深く味わい、教会の仲間と分かち合う歩みに取り組んでまいりましょう。

 今日の聖句を皆で一緒に読みたいと思います。
 ヨハネの手紙第一1章3節
「私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。」