2014年12月21日日曜日

クリスマス礼拝 ヨハネの福音書1章14節~18節 「生誕~ことばは人となって~」

 皆様クリスマスおめでとうございます。これまでの待降節、私たちはキリストの到来を待ち望む者の生き方について考えてきましたが、いよいよクリスマス礼拝となりました。今日は、神が人の肉体をとった、このことに焦点をあてて、キリスト降誕と私たちの人生の関係を考えてみたいと思います。
先ず、これまで読み進めてきたヨハネの福音書から、聖書の基本的なふたつの教えを確認します。ひとつは、この世界と私たち人間は偶然の産物ではない。父なる神様と子なる神、イエス・キリストの愛から創造されたということです。ふたつめは、人間が神様に背いたことにより、人間の社会も心も罪と言うやみにおおわれてしまったことです。
現代の日本では、自ら命を絶つ人が年間三万人を越え続けています。物質的には最も満たされている国のひとつでありながら、多くの人が生きる意味や目的を見失っていると思われます。
また、善と分かっていることを実行できず、かえって願わない悪を行ってしまう心のもろさ。相手のために100%の善行をすることができず、どこかで自分の利益を考えてしまう心の不純さ。これをしたら相手は苦しむと分かっているのに、あえて悪を選び実行する心の邪悪さ。私たちひとりひとりの心は今もやみにおおわれ、親子、夫婦、兄弟、隣人同士、国対国に至るまで、様々な争い、対立はやむことがありません。
今からお読みしたいのは、今から二千年前、イエス・キリストが生まれた時代、ローマの社会について、使徒パウロが書いたことばです。今の時代の世界と比べてみてどう思われるでしょうか。

ローマ1:28~32「また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。
彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。彼らは、そのようなことを行なえば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行なっているだけでなく、それを行なう者に心から同意しているのです。」

 二千年前に比べ文明が進歩したことは、誰もが認めるでしょう。車、飛行機、高層ビル、医療、教育、福祉、インターネットなど、人間の生活は格段に進歩。はるかに便利、安全になった気がします。しかし、果たして私たち人間の心は進歩しているでしょうか。物質的に豊かな社会で、心満たされている人はどれほどいるのか。安全なシステムはあっても、心から安心して暮らしている人はどれほどいるのか。むしろ、二千年前の人間社会の道徳的混乱は今さらに深刻になってはいないかと考えさせることばです。
 そして、「彼らが神を知ろうとしたがらないので」とあるように、私たち人間がこの世界を創造した神様と正しい関係にないことが、混乱と悲惨の原因と、聖書は語ります。
 様々な文明の進歩によっても取り除かれることはなかった、人の心と社会をおおうやみ。むしろ、さらに深くなってきたやみ。救い主はこの様なやみのなかに来たと聖書は告げています。

 1:14a「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」

 ことばとは神のひとり子、イエス・キリストのこと。神のひとり子が私たちの間に住まわれたと言うのです。この「住まわれた」と言うことばは「天幕、テントを張って住む」と言う意味で、旧約聖書の時代は神様がそこにおられる場所、会見の天幕を指していました。
 この世界を創造した神様が人間の肉体をとる。この奇跡をどう説明したら良いか、非常に迷うところです。
何年か前、アメリカバスケットボール選手に、マイケル・ジョーダンというスーパースターがいました。ジョーダン選手がある時、小さな子どもとバスケットをするため幼稚園にやってくる様子をテレビで放映されていたのです。
ジョーダン選手対10人の子どもで試合をしていたのですが、勿論、たとえ相手が10人でも小さな子供相手にジョーダン選手が普段通りにプレーしたら、バスケットになりません。そこで、ジョーダン選手は立って走ることができないよう、しゃがんでカニのように歩く。ジャンプも禁止。ドリブル一つで子どもたちの間を進んでシュートまで持ってゆくことになります。
つまり、ジョーダン選手は持てる能力を自ら制限すると言う、非常に不自由な状態でバスケットをしなければならなかったわけです。しかし、そんな不自由を忍耐しながらも、ジョーダン選手は子どもたちとのバスケットを心から楽しんでいる様に見えました。
人となった神のひとり子。イエス・キリストも同じです。石をパンに変えることのできるお方が飢えや貧しさを味わい、一瞬で悪口を言う人間の口を塞ぎ、暴力をふるう人の手を止めることのできるお方が、その力を行使せず、苦難を受けられたのです。一体、何のためだったのでしょうか。

へブル4:15「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」

私たちが人間として味わう肉体の苦しみ、心の苦しみ。それらを心から理解し、同情の思いを持つため、イエス・キリストは自ら人間となり、身をもって様々な試みを受けられたと言うのです。
また、もう終了まじかと思いますが、今年の大河ドラマ「黒田官兵衛」で、官兵衛が織田信長の味方となることを約束、決して裏切らないその証拠に、我が子を織田方の家来秀吉の家に送り、住まわせるという場面があったのをご覧になった方はあるでしょうか。戦国時代にはよく行われていたこととは言え、まだ小さな男の子が死を覚悟して、我が家を離れ、他の家に移り住むと言う姿には、心打たれた記憶があります。
神のひとり子は、何故非常に不自由な人間の体をとられたのか。何故わざわざ自分を歓迎せず、むしろ苦しめる人々のいるユダヤの国に移り住むことを決意し、実行されたのか。それは、本当に一人の人間として生きるため、本当に私たち人間の仲間、人間の味方となるため。つまり、神様の本気の愛を示すためだったのです。
そして、救い主の到来を歓迎しない人々がいたのは事実ですが、他方これを受け入れた人々もいました。この福音書の著者ヨハネを始め、それらの人々が感じたことが、以下に記されます。

1:14b「私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」

「私たちはこの方の栄光を見た」とあります。肉体をとられたイエス・キリストの中に、神のひとり子の栄光、素晴らしさをこの二つの眼で見た。その栄光とは恵みとまことに満ちた生き方でよく分かると教えられます。
恵みとは、弱き者、苦しむ者、悩む者に対する慈しみ、優しさです。聖書を見ると、荒々しい漁師も、人々から嫌われていた収税人も、当時としては非常に珍しいことですが、女性たちも、イエス・キリストの弟子には様々な人々がいました。さらに、イエス・キリストがそこにいると子どもたちも近づいてきましたし、学者、宗教家もやって来ました。イエス・キリストと言うお方は、年齢、性別、職業、肩書などをこえて、あらゆる人にとって近づきやすい人、気の置けない人、親しみを感じる人であったようです。
また、まことというのは、天の父に対しても人に対しても、真実を尽くすと言う、イエス・キリストの行動、生き方を意味します。裏切りの弟子ユダのことを最後まで愛し続け、ユダヤ人指導者からどんなに罵られても罵りかえさず、十字架の死と言う苦難を最後まで受けとめられたお姿。イエス・キリストの行動のどこを切っても、そこには真実の愛が詰まっていたということです。
もし、イエス・キリストが地上の王として来られたら、私はその権力を恐れて従うことはあったかもしれませんが、心から従うことはなかったと思います。もし、イエス・キリストが大金持ちとして来られたら、私はそのお金に心惹かれて仲間の一人になったかもしれませんが、本当に親しい仲間にはなれなかったと思います。もし、イエス・キリストが次々に奇跡を行ってみせる宗教的カリスマとして来られたら、私はその力を恐れ平伏したかもしれませんが、近づきやすいとは到底感じなかったと思います。
神の子がごく普通の人間として生まれたこと、権力でも、富でも、権威でもなく、ただ恵みとまことに満ちた生き方を通して、私たちの心を神様に向けてくださったこと。このことを心に刻んでおきたいと思います。
次に登場するのは、イエス・キリストの前に現れ、イエス・キリストを人々に紹介したバプテスマのヨハネの証言です。

1:15「ヨハネはこの方について証言し、叫んで言った。「『私のあとから来る方は、私にまさる方である。私より先におられたからである。』と私が言ったのは、この方のことです。」

ヨハネは最後の預言者。罪の悔い改めを説くその説教は、ユダヤの国全体に大きな影響を与え、当時最も尊敬された人物です。そのヨハネが「私のあとから来る方は、私にまさる方。私より先におられた、つまり永遠の神であるから」と叫んだのです。このヨハネのことばによってイエス・キリストを信じる人々もいました。
さらに、証言は続きます。

1:16、17「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」

イエス・キリストと、直に触れ合った弟子たちの思いが響いてくることばです。キリストとともに生活した彼らは、恵みの上にさらに恵みを受けたと言うのです。喜びの時には喜びを倍にしてくれる恵み、病の時には慰めの恵み、悩む時には励ましの恵み、気落ちした時には力の恵み。折に触れ、様々な形の恵みをイエス・キリストから受け取ってきた弟子たちの歩みを思い浮かべたいところです。
また、律法とは、旧約聖書の戒めや儀式のことです。旧約聖書の時代、神様は戒めや儀式を通してご自身の恵みについて人々に教えてきました。しかし、キリスト誕生とともに、私たちはイエス・キリストにより、神様の恵みとまことを直に受け取ることができるようになったのです。
そして、単なる宗教の教師ではない、賢人でも権力者でもない。いっしょにいるだけで、私たちを造り変え、本来の人間が生きるに価する命を与えてくださるお方。この人を見、この人と接していたら、誰もが神様を知った喜びに満たされるようなお方のことを、最後にヨハネはこう紹介しています。

1:18「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」

最後に、今日の箇所から私たちが考え、実践すべきことを二つ確認しておきたいと思います。ひとつは、この世界を創造した神様からのプレゼントしてイエス・キリストを受け取ると言うことです。
皆様は、大切な人のためにクリスマスプレゼントを贈ったことはあるでしょうか。その人のために何が良いかを考え、苦労して見つけ、心を込めて贈ったプレゼントを、相手が拒絶したとしたら、これ程悲しいことはありません。
太陽に水、それに大地。多種多様な植物に動物。私たちの生命を支える自然環境は神様からの贈り物です。大切な家族、友、隣人。社会において果たすべき様々な仕事やそれをなすための健康な体や能力。これもまた神様からの贈り物。しかし、神様が最も苦労し、心を込めた贈り物、それは人となられたイエス・キリストご自身です。
ですから、最も神様をがっかりさせ、悲しませる私たちの行いとは、イエス・キリストを拒むことと言えるでしょう。キリストを受け取らないことは、「私には神様の愛が必要ありません。自分の力でこの人生をやってゆきます。やってゆけます」と言う高慢な態度を意味します。高慢こそ神様が最も嫌われる罪、最大の罪でした。
そして、神様の愛が必要ないと思い、イエス・キリストを断った人は、神様の愛の全くない世界、地獄で永遠に生きることになりますし、神様の愛が必要と思い、キリストを受け取った人は、神様の愛が満ちる世界、天国で永遠に生きることになると、聖書は教えています。
イエス・キリストに対する態度が、私たちの永遠の運命を決める。このことを覚え、イエス・キリストに対しどのような態度をとるべきか考えたいと思います。
ふたつめは、イエス・キリストを心に受け取ることを決めた方々には、実際に日々イエス・キリストと共に歩む人生、イエス・キリストと交わることを第一とする人生を送っていただきたいと思います。
「朱に交われば赤くなる」ということばがあります。私たちはよく交わる人あるいはものから大きな影響を受ける存在だと言うことです。
私たちは物質やお金を第一としてこれと交わるなら、物質やお金の奴隷に、快楽を第一としてこれと関わるなら、快楽の奴隷に、会社を第一としてこれと関わるなら、組織の中の小さな歯車のように、自分を感じることでしょう。いずれも、自分の存在価値を感じることのできない、非常に惨めな状態です。
しかし、イエス・キリストと交わることを第一とする時、私たちは、この世界を創造した神様にとって非常に尊い存在であることを感じながら、日々歩むことができるのです。物質やお金の奴隷ではなく、快楽の奴隷でもなく、意味もなく働き続ける機械でもない。神のひとり子がこの世に生まれてくださるほどに愛され、尊ばれている人間として生かされていることを喜びながら、この礼拝に集う私たちみながこれからの日々歩むことができたらと思います。今日の聖句を読みましょう。

 1:14「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」