皆様は日本人初のクリスマスがいつ行われたのか、ご存知でしょうか。これが意外にも古く、戦国の世であったことに驚かされます。1566年12月25日、敵対する三好家と松永家のキリシタン武士が、町の広間に集まり、礼拝をささげ、お互いに持ち寄った料理で招きあい、交わりをなしました。その様子は、まるで同じ国王の家臣であるかのように、大いなる愛情の礼儀を尽くす楽しいものであったと記録に残されています。
平和の君であるキリスト到来の意味を覚え、ひと時武器を捨て、愛の交わりをなす。今では想像も及ばない戦いに明け暮れる非常に厳しい時代、クリスマスの意味を心に留め、それを実践した先輩クリスチャン達の見事な証しではないかと思います。
今、私たちはアドベント、待降節の礼拝をささげて過ごしていますが、私たちもまた彼らと同じく、キリストの到来が自分自身の生き方にどのような意味があるのかを考え、それを実践する者でありたいと思います。
先回はヨハネの福音書冒頭より、イエス・キリスト、救い主を待ち望む者の生き方について考えましたが、先ず確認しておきたいのは、この世界は、神様の愛によって創造されたということです。
1:2、3「この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」
この方とはイエス・キリストのこと。イエス・キリストは世界が創造された「初めに神とともにおられた」とありますが、これは、永遠の昔から、イエス・キリストが父なる神様と愛の交わりをもっておられたことを意味します。
そして、父なる神様との愛の交わりの中にあったイエス・キリストが、すべてのものを造られたと言うのです。たまたまでも、偶然でもない。この世界と私たち人間は、イエス・キリストと父なる神様の愛によって創造されたもの。神様の眼から見て、この世界も私たち人間も非常に尊いもの、価値ある存在だと言うのです。
特に、神様によって創造された命の中でも、人間の命は特別製。私たち人間は、神様と親しく交わることのできる命を与えられました。しかし、神様に背いた人間は、この命を失ってしまう。その結果、人間の心を罪と言うやみが覆うようになったと、聖書は教えています。
先回は、心をおおうやみとして、三つのことを考えてきました。頭では正しいと分かっている善を実行できず、かえって願わない悪を行ってしまう心のもろさ。動機まで含めて100%の善行ができない、どこかで自分の利益を考え、求めてしまう心の不純さ。あえて悪を選び、悪を喜ぶ心の邪悪さ。そして、この心のやみは深く、私たちはどんなに努力しても、これを心からきれいに追い払ってしまうことのできない存在ではないかと言うことも考えたのです。
しかし、光であるイエス・キリストは、この心のやみに来てくださるお方であると、聖書は語ります。イエス・キリストこそ真の光として、私たちが対抗できない心のやみに打ち勝つことのできる救い主と教えられるのです。
しかし、神様は用意周到なお方。いきなり、真の光をこの世界に送ったなら、やみの中に住む人間には眩しすぎて、よく見ることができないのではと配慮し、先ずヨハネと言う人を遣わしました。
1:6~8「神から遣わされたヨハネという人が現われた。この人はあかしのために来た。光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである。彼は光ではなかった。ただ光についてあかしするために来たのである。」
ヨハネはイエス・キリストと年齢の近い親戚のひとり。誰よりも先に、イエス様がキリスト救い主であることを理解し、罪の悔い改めを説いて、人々の心をキリスト到来に向けて準備させた人物です。
最後の預言者とも呼ばれるヨハネの人格と行動は人々に大きな影響を与えました。ヨハネのもとにはユダヤ全国から人々が押し寄せ、罪の悔い改めの洗礼を受ける人も多数。イエス様も、「女から生まれた者の中で、ヨハネよりも偉大な者はいない」と語り、ヨハネに対する心からの尊敬を隠そうとはなさらなかったのです。
この様なヨハネが、「私の後から来る方は、私よりもはるかに偉大な方。神から遣わされた救い主」と紹介したからこそ、人々の眼はイエス様に向けられたと考えられます。まさに、ヨハネは光なるイエス・キリストについて証しする役割に徹した人物でした。
イエス・キリストの前に、ヨハネを置いてくださったのは、人間に対する神様のご配慮だったのです。
しかし、もし心の眼が正常に機能していたなら、イエス・キリストが到来する前であっても、私たち人間に光の存在は見えたはずとも聖書は語ります。
1:9,10「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。」
「この方、イエス・キリストはもとから世におられ、世はこの方によって造られた」とある通り、イエス・キリストの存在とその愛は創造された作品によって示されてきたのです。美しく豊かな大自然。水、光、様々な元素。それらが巧みに設計され、生命を守るシステムとして機能している大自然と言う環境。多種多様な生命の存在。驚くべき人体の構造。人間の知恵によっては何一つ作りだすことのできないこれらのものは、無言のうちに、私たちに対するイエス・キリストの愛を示してきたのです。
それなのに、世はこの方を知らなかったとは残念なこと。この現実を、毎日毎日お母さんが作ってくれるご飯を通して、お母さんの愛を受け取ることができなくなった子どもに譬えることができるかもしれません。神様は太陽を上らせ、雨を降らせ、大地に食物を実らせ、日々私たちを養ってくれているのに、人間ときたら神様の愛どころか、その存在すら認めてこなかったのです。
それでは、せめて神様が選ばれた民、ユダヤの人々はイエス・キリストを受け入れたのかと言うと、何と彼らは拒絶したのです。
1:11「この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。」
ご自分の国とはユダヤ、ご自分の民とはユダヤ人のこと。彼らは神の民として選ばれ、みことばを与えられ、神様のこと、神様の遣わす救い主のことについて、特別丁寧親切に教えてもらったはずの人々でした。それが、こともあろうに肝心要の光として来られたイエス・キリストを拒み、苦しめたのです。
何故でしょうか。イエス・キリストに心のやみがあることを指摘され、反発したからと考えられます。その典型的な姿を、パリサイ人と収税人の祈りという、イエス・キリストのお話が描いていますので、見てみたいと思います。
ルカ18:9~14「自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。
「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』
あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」
祈るために宮に上った人のうちひとりはパリサイ人。人を強請らず、不正をせず、姦淫をなさず、むしろ人並み以上に断食に励み、ささげものをする品行方正な紳士でした。しかし、よくその祈りのことばを聞いていると、この人の心のやみが見えてきます。
第一に、行いは正しく、道徳的でしたが、その心の奥底にある思い、願い、欲望における罪に気がついていないように見えます。パリサイ人は確かに人を強請ることはなかったでしょう。しかし、人のものを欲しがったことはなかったのか。確かに不正な行いをしたことはなかったでしょう。しかし、一度も不正な行いに心が動いたことはなかったのか。確かに姦淫を実行したことはなかったでしょうが、心の中で情欲をもって異性を見たことはなかったのか。
ヴァレリーと言う人が言っています。「もし、これまで自分が心の情欲のまま、姦淫を実行していたら、町中が妊婦であふれていたことだろう。」パリサイ人の眼は外面的な行ないにとどまり、心の奥底のやみを見てはいなかったのです。
第二に、パリサイ人は隣にいる収税人を意識して、「ことにこの取税人のようではないことを、感謝します」と言い放ちました。人を見下し、馬鹿にしていたのです。その様に感じられる自分の生活に満足していたのです。しかし、光なるイエス・キリストは、隣人を見下すこと、馬鹿にすることは、心の中の殺人と断じました。
この世においては、パリサイ人の如く心の中で人を見下したからと言って、さばかれることはありません。しかし、収税人のように姦淫の罪を犯したら、何らかの社会的な罰を受けるか、非常に厳しい目を向けられることになります。
しかし、聖なる神様の眼から見るなら、心の殺人も、実際の姦淫も、等しくさばきに価する罪であることに変わりはありません。つまり、この人は世間の目は意識しても、聖なる神様の眼を意識することはなかった人だったのです。
第三に、パリサイ人は、自分の行いを神様の前で自慢していました。「私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。」ただ神様に対してなすべき断食を、自慢の種とする。ただ神様に心を向けてささげるべきものを、見せびらかす。それがこの人の生き方でした。
心の中に湧き起こる卑しい思いや願望。隣人を見下すこと、自慢、高慢。しかも、これら心の罪を自覚せず、自分の道徳的な生き方に満足していたパリサイ人。この人は、自分の心のやみに気がつくことはなかったか、或いは気がついても、それほど深いものではないと感じていたのでしょう。
それに対して、収税人は目を天に向けようともせず、ただ胸をたたいて神様のあわれみを求めるのみ。自分の行いのひどさ、また、心の中のひどさ、やみにも気がつき、これを悲しみ、心から神様の助けを必要と感じている人の姿です。
ここに二種類の人がいることが分かるでしょうか。ひとりは、心のやみを自覚せず、自分の努力や行いに信頼する人、パリサイ人。もうひとりは、心のやみの深さを認め、悲しみ、自分に頼らず、ただ神様に信頼する人、収税人です。皆様は、自分がどちらの人に似ていると思われるでしょうか。
光の役割はやみを照らすこと、やみの深さを明らかにすることです。同じ太陽の光に照らされて、煉瓦は固くなり、氷は柔らかくなります。煉瓦と氷とでは光に対する反応が異なるのです。光なるイエス・キリストに照らされて、心を固くし、イエス・キリストを拒む者とならぬように。むしろ、心柔らかくして、イエス・キリストを信頼する者になりたいと思います。
さらに、です。キリスト到来の意味は、私たちが心のやみを自覚することにとどまりません。キリスト到来により、誰もが神の子どもとなることが可能となったのです。
1:12,13「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」
普通、私たちは自分が誰の子どもとして生まれるのか、選択することはできません。しかし、イエス・キリストがこの世に来たことにより、誰もが神の子どもとして生まれるかどうかを考え、選択することができるようになったと、聖書は教えています。
そして、神様の子どもとなることは、神様を天の父として生きること。私たちが失った人間本来の命、神様と親しく交わることのできる命を回復することです。イエス・キリストを受け入れ、信じる人は、人間として生きるべき命、最も幸いな命を取り戻すことができる。この様な特権、恵みを皆様は自覚しているでしょうか。
しかも、心のやみを自覚することも、イエス・キリストを知る知識も、信仰も、神の子どもとなると言う願いも、すべて神様が備えてくださった恵みによると言われると、返す言葉が見つかりません。正に至れり尽せり。神様のご配慮に感謝したいと思います。
最後に、イエス・キリスト到来の恵みを私たちの生活に生かすため、二つのことを確認します。
ひとつは、私たち皆が、神様の子どもであることを自覚し、意識しつつ、行動する者でありたいということです。人間の考え方や行動に最も大きな影響を与える者の一つは、アイデンティティーと言われます。自分を何者と考えるかと言うことです。
私の場合でしたら、日本人、四日市キリスト教会の牧師、山崎家の子どもの父親、妻聖子の夫など、様々なアイデンティティーがあります。どれも大切なものばかり。これらを意識する時も、殆ど意識しない時もありますが、私の考え方や行動はこれらのアイデンティティーに大きく影響されています。
今日、ヨハネの福音書が私たちに勧めているのは、イエス・キリストを信じる者は、神様の子どもというアイデンティティーを最も大切にして生きるということです。自分はこの世に生きていようがいまいが、どちらでもよいと言う様な者ではない。この世界を創造した神様に愛され、認められた神様の子どもである。常にこの点に心を向けて、考え、行動する者でありたいと思います。
ふたつ目は、神様の愛を、日々しっかりと受け止める生き方を実践したいと言うことです。人生には晴れの日もありますが、雨の日も嵐の日もあります。家族の病が回復した。仕事で成功した。経済的に満たされた。神様の愛を感じられる日もありますが、そうでない日も多いと思います。
大切なのは、神様の愛を感じられる出来事があった日も、そうでない日も、みことばを通して、神様の愛をしっかり受け取る時間をとることではないでしょうか。その時、心の眼開かれて、それを受け取るに価しない私たちが、神様からいかに多くの良いものを受け取っているかが見えてくるのです。
食べる物、着る物、住む家。健康。大切な家族、信仰の友、神様と交わることのできる人間本来の命。あって当然と考えていたものすべてが、実は神様から子どもである私たちへの贈り物であったことに気がつき、感謝する時間を持つ。私たち皆が、この様な歩みを日々進めてゆけたらと思います。