2014年12月28日日曜日

ルカの福音書11章33節~36節 「何を見るか」

 今年最後の聖日礼拝となりました。一年間、礼拝の歩みが守られた恵みを心から感謝いたします。
 年の瀬が迫ると多くの人が、時が経つのは速い、あっという間の一年だったと感想を漏らします。光陰矢のごとし。月日に関守なし。烏兎怱怱。歳月人を待たず。特にキリスト者である私たちは、十一月の終わりからアドベントを過ごし、先聖日にクリスマス礼拝、週の半ばにクリスマスを迎えたところ。目を回し、気が付いたら最後の聖日という印象。あっという間に今年の終わりが来ました。
 しかし、正反対の思いもあります。一年の間に多くのことを経験した。嬉しいことも、辛いこともあった。あっという間だなってとんでもない。あれも今年のこと、これも今年のことと、驚く気持ちもある。
 何故、あっという間という感想と、あれもあった、これもあったという感想と、両方持つのか。それは私がしっかりと一年を振り返っていないからだと思われます。自分はどのように生きてきたのか、振り返っていない。そのため、いつの間にか時間が経ってしまったという思いと、そういえばあんなこと、こんなことがあったという思い、両方が出てくるのです。
そして、それは決して良いことではありません。スケジュールをこなし、一年を終えることのないようにと願います。自分はどのように一年間生きてきたのか考える。起こった出来事の意味を考える。悔い改めるべきことは悔い改める、感謝することは感謝する時間を持ちたいと思います。

 一年の終わり、どのような思いで一年を振り返り、どのような思いで新たな一年を迎えたら良いのかを考えたく、今日は主イエスの言葉を聞きたいと思います。

 ルカ11章33節
「だれも、あかりをつけてから、それを穴倉や、枡の下に置く者はいません。燭台の上に置きます。はいって来る人々に、その光が見えるためです。」

 あかりをつけたら、穴倉や枡の下に置く者はいない。燭台の上に置く。入って来る人々に、光が見えるために。至極真っ当な言葉です。現代風に言えば、蛍光灯を部屋の隅や、机の下に備え付ける者はいない。部屋の中央、最も効果的な場所に設置する、となるでしょうか。もっとも、今より約二千年前の光と言えば、今の私たちが持つ光のイメージよりも、より貴重なもの。真っ暗闇の中、油に浸った灯心に灯る火のあかり。今より、光が光らしく、光がより貴く、意味が深い時代。あかりは燭台の上へというのは、当然も当然のことだったでしょう。
 このごく普通の当然の言葉が、聖書においてはお馴染の言葉。マタイの福音書にも、マルコの福音書にも出てくる。ルカにおいては、すでに八章で同じ言葉が出ています。イエス様がよく使われた言葉だったのでしょうか。
 どうも主イエスは「あかり」とか「ひかり」のイメージを用いるのが好きだったように思います。自分自身を指して「世の光」と言い、キリストを信じる私たちのことも「世の光」と言われました。

 それはそれとして、何故このようなごく普通の、当然のことを、イエス様が語られたのか。それは少し前の十六節、二十九節を受けてのことだと思われます。
 ルカ11章16節
「また、イエスをためそうとして、彼に天からのしるしを求める者もいた。」

 ルカ11章29節
「さて、群衆の数がふえて来ると、イエスは話し始められた。『この時代は悪い時代です。しるしを求めているが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。』」

 ここまでイエス様が約束の救い主であるしるしは、存分に示されていました。しかし、既に示されたしるしを見ようともしないで、「天からのしるし」を求めた者たちがいた。しるしは十分。そうだとすれば、見る者たちに問題があった。見ても見ない、聞いても聞かないという者たちを前に、イエス様が嘆かれた場面。
 つまり、見る者に責任があるという文脈の中で、今日のイエス様の言葉があると読めます。

 ルカ11章33節
「だれも、あかりをつけてから、それを穴倉や、枡の下に置く者はいません。燭台の上に置きます。はいって来る人々に、その光が見えるためです。」

 あかり、光として来られたキリスト。その活動、その言葉は隠されていたわけではありません。人々に見えるように明示されていた。それにもかかわらず、イエスをキリストと認めない者たちに対して、その責任はあなたにあるのだと切りつける言葉が続きます。

 ルカ11章34節
「からだのあかりは、あなたの目です。目が健全なら、あなたの全身も明るいが、しかし、目が悪いと、からだも暗くなります。」

 あかりは既に十分灯されている。それを見るのか、見ないのかは、私たちの責任。目が健全であれば全身も明るく、目が悪いとからだも暗いと言われます。ここで言われるからだとは、私たちの生き方、行動、人生のことでしょう。
私たちの人生が明るいものとなるのか、暗いものとなるのか。その鍵は私たちが何を見るのかだと教えられるのです。果たして私たちは何を見て生きてきたのか。

 見るべきものを見ない、見たくないとして生きる。その結果、人生の歩みが躓き、道を踏み外し、誘惑の穴に落ち込む。大怪我をする。目を開けないから、恐れ、不安がつきまとい、力まなくてもよいところで力を使い果たす。五里霧中の中で人生を生き、この地上の後がどうなるかも分からないまま生きてきた。
 それが、神の光を見た時から変わったのです。キリストの光を浴びた時に、自分を確かめることが出来た。自分はこの道を進むのだと人生の目的を見定めることが出来た。大先輩パウロが言っていた「私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。」(Ⅰコリント9章26節)という生き方が、私の生き方となった。
 見るべきものを見る時に私たちの人生は明るく、目を閉ざす時に私たちの人生は暗くなる。キリストに対してもっとしるしを見せよと言う者たちは、目をあけるべきだった。人生の暗さに嘆く者たちは、キリストに焦点を合わせるべきでした。

 ところで一旦見えたからといっても気をつけなければならない。再度、目を曇らせてしまう者もいる。せっかく頂いた内なる光を暗くすることのないようにと注意が飛びます。
 ルカ11章35節
「だから、あなたのうちの光が、暗やみにならないように、気をつけなさい。」

 今日、年の終わりの聖日。私たちは急いでいる足を一度止めて、一体自分は何を見てきたのか、よくよく考えたいと思います。私の心の目を、どこに焦点を合わせていたのか。自分の心はどこを向いていたのか。
お金か、名誉か、地位か、快楽か、趣味か。あるいは怒りや憎しみ、恐れや不安に押し潰されたことはなかったか。私たちの心は何に支配されていたでしょうか。私たちのうちの光が、暗やみとなる生き方ではなかったのか。

 今年の初め、元旦礼拝にてなされた山崎先生の説教を覚えているでしょうか。詩篇十六篇より、「いつも私の前に主を」という題での説教でした。まとめとして語られたことが、「聖書を通し、神様との関係の中で物事を考える」ということ。これはまさに、神の光に目を向けて生きること。
 あの元旦礼拝で決心したことに、どれ程真剣に取り組んできたのか。今朝、もう一度考えたいと思います。

 ところで、キリストに焦点を当てて生きることは、私たちの全身を明るくすると教えられ、また暗やみとならないように気をつけるよう注意を受けた上で、もう一度三十三節の言葉を見ますと、もう一つの意味が見えてきます。
 ルカ11章33節
「だれも、あかりをつけてから、それを穴倉や、枡の下に置く者はいません。燭台の上に置きます。はいって来る人々に、その光が見えるためです。」

 神様が私たちをあかりとして用いるとしたら、それは他の人々のため。あかりを自分のためだけのものとするのではなく、まわりの人々のためとする。自分だけ見えているので良しとするのではなく、人々にも、隣人のためにも。あかりである私たちは隠れるのではなく、人々を照らすために生きるようにとも教えられます。
 今日の最後の言葉は、まさにそのことを教える言葉として読めます。

 ルカ11章36節
「もし、あなたの全身が明るくて何の暗い部分もないなら、その全身はちょうどあかりが輝いて、あなたを照らすときのように明るく輝きます。」

 人のうちに灯った光が、その内側から輝き出す。何とも面白い表現。内に灯った光が輝き出して周りを照らすとは、私たちでいえば提灯のイメージでしょうか。クリスチャン提灯説とは面白く聞こえます。キリストを信じた者はどうなるのか、提灯となるとの答え。それも格好つけた表現が許されれば、キリストの十字架の紋入り提灯。足元を照らすだけでなく、隣人を導く提灯。
思い出されるのは、山上の説教で語られたキリストの言葉です。
 マタイ5章14節~16節
「あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」

 ところで、「キリストに頂いた光を煌々と照らして生きた人」と言うと、誰を思い出すでしょうか。あの人、この人と多くの人を思い出せる人は幸いです。聖書の中に、この点できわめつけの人がいます。キリストを指し示す働きをしたバプテスマのヨハネ。提灯どころか燃え盛る松明のように、イエス様に評されていました。
 ヨハネ5章33、35節
「あなたがたは、ヨハネのところに人をやりましたが、彼は真理について証言しました。・・・彼は燃えて輝くともしびであり、あなたがたはしばらくの間、その光の中で楽しむことを願ったのです。」

 さすがはバプテスマのヨハネ。イエス様をして、「燃えて輝くともしび」と評される栄誉はヨハネならではのもの。とはいえ、私たちもヨハネに続く者でありたいのです。あかりは燭台の上に。人々に見えるために。世の光として召された私たちは、ひたすらにキリストに焦点を合わせて、生きていきたいのです。

 以上、ルカの福音書よりイエス様の言葉を確認しました。教えられたことをまとめて、終わりにいたします。
 教えられ一つ目のことは、全身が明るいか、暗いか。私たちの歩み、私たちの人生が明るいか、暗いかは、何を見ているのかによっていること。この一年の終わり、自分の歩みを振り返る時、自分は何を見て生きてきたのか。心の目はどこに焦点を合わせていたのか。自分の心を支配していたのは、どのような思いなのか。もう一度確認したいと思います。是非とも、しっかりと時間をとり、一年の歩みを振り返ることをお勧めいたします。キリストから目を離していたことを悔い改め、キリストに焦点を当て生きた際に抱いた恵みに感謝する時を持ちますように。それも、一人で取り組むのではなく、教会の仲間とともに、あるいは家族で取り組むのが良いと思います。

 教えられた二つ目のことは、私たちが光を見る時に、私たちの内なる光も輝くということ。 先週、私たちは世の光として来られたキリストの誕生を祝いました。キリストの到来は何のためだったのか。それは私たちを世の光とするため。私たちを輝かすためでした。
私たちは、世の光として生きることに取り組むのです。それは自己鍛錬して道徳的な生き方を目指すのではなく、ひたすらにキリストを見続ける生き方に取り組むということです。キリストを見続ける、キリストと共に生きる、全てのことをキリストとの関係で受けとめる。その時、私たちは光輝くのです。
 暗い世界にあって、私たちは光輝く存在として生きる。キリストの提灯として生きる。それも独りで小さく光るのではなく、あちらにも、こちらにもあかりが灯されている。北に南に、東に西に、キリストの十字架を浮かびあがらせながら、生きる決意を持ち、新たな年を迎えたいと思います。