聖書によれば、この世界を創造した神様に背を向けてから、私たち人間は非常に大切なものを失ってきました。世界の初めには持っていたのに、今は不完全な形で、部分的にしかもっていないものとも言えるでしょうか。
隣人を愛し、仕える心、その実行力、家族の絆、善悪の基準、体の健康、平和な社会、美しく豊かな自然。多くの良いものを私たちは失ったと聖書は教えていますし、多くの人は共感されることと思います。しかし、私たちが失った良いものの中で最大のもの、根本的なものとは何ですかと聞かれたら、皆様は何と思われるでしょうか。何と答えるでしょうか。
聖書は、この世界を創造した神様との交わり、私たちを愛してやまない神様との親しい交わり、それこそ、私たちが失った最大のもの、根本的なものと教えています。そして、今日の箇所で、イエス・キリストはその様な交わりが実現する日が来たと、弟子たちに教えているのです。
およそ三か月。ヨハネの福音書の説教から離れていましたので、少し思い出して頂けたらと思います。私たちが読み進めてきたのはヨハネの福音書。イエス様の弟子ヨハネが書いたイエス様の生涯に関する記録、福音書の第16章です。
今、福音書はイエス様の生涯の記録と言いましたが、不思議なことにどの福音書もイエス様の生涯の全体をまんべんなく記録しているわけではなく、最後の三年間特に十字架の死に至る最後の一週間の出来事に多くが割かれていました。
ヨハネの福音書も例外ではありません。ヨハネの場合、過越しの食事、いわゆる最後の晩餐の場面におけるイエス様と弟子たちのやり取り、イエス様の教えと祈りを詳しく書いているのが特徴と言われます。事実、13章から16章が最後の晩餐の席におけるイエス様の教え、17章がイエス様の祈りとなっていますから、全部で5章を使って十字架前夜わずか数時間の出来事を描いていることになります。ですから、今日の場面はイエス様が弟子たちとともにゲッセマネの園へ進む直前、彼らに伝えた最後の教えでした。
16:25~28「これらのことを、わたしはあなたがたにたとえで話しました。もはやたとえでは話さないで、父についてはっきりと告げる時が来ます。その日には、あなたがたはわたしの名によって求めるのです。わたしはあなたがたに代わって父に願ってあげようとは言いません。それはあなたがたがわたしを愛し、また、わたしを神から出て来た者と信じたので、父ご自身があなたがたを愛しておられるからです。わたしは父から出て、世に来ました。もう一度、わたしは世を去って父のみもとに行きます。」
これまで、天の父なる神様について、ご自分のことについて、イエス様は多くのたとえを使い、人々に話してきました。しかし、これからは天の父についてはっきりと告げる日、イエス様を救い主と信じる人々が、イエスの名によって求める日が来ると言うのです。私たちが天の父なる神様と直に、親しい交わりができる時代の到来です。
それでは、これまで天の父と私たちの交わりを妨げて来たものは、一体何だったのでしょうか。
イザヤ59:1,2「見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。」
神様を認めず、神様に背を向ける生き方。そこから生まれてくる自己中心的な考え方や行動。つまり、私たち人間の罪が、神様と間の仕切りとなっていると言うのです。この仕切りを取り去るため、この世界に来られたのがイエス様でした。イエス様は、本来私たちが受けるべき罪の罰を身代わりに受けて十字架に死に、神様と私たちの間の仕切りを完全に壊し、永遠に撤廃されたのです。譬えて言うなら、ベルリンの壁崩壊でしょうか。
こうして、イエス・キリストを信じる者は、命を懸けてイエス様が行った罪の贖いのゆえに、誰でも、いつでも、どこでも、また、直に、親しく、この世界を創造した神様を天の父と呼び、交わることができるようになったのです。
ある人が、この箇所を母親と幼子の関係にたとえていました。自分で祈れない幼子がお母さんに手を組んでもらい、幼子のことばで代わりに祈ってもらってきたと言うのがこれまでの弟子たちの姿。しかし、これからはイエス様によって自分の罪が贖われたと信じることで、イエス様と同じく神様の子どもとして、ひとり立ちできると言うのです。
今はどうなのかわかりませんが、昔東西冷戦の時代、西側代表のアメリカ大統領と東側代表のソ連の首相の間には、直通電話、ホットラインがあり、これによって何度か戦争の危機が回避されたと言われます。
イエス様の十字架により、私たちは天の父との間に直通電話、ホットラインをもっているということ。これが、どれほどの恵みか、皆様は感じておられるでしょうか。
本来なら、直通のホットライン、一対一での親しい交わりなど、ありえない立場にいた私たちが、今はみことばにより直に神様の愛のみ声を聞き、心開いてお話しすることができる。私たちの喜び、悲しみ、悩みの一つ一つを、それがどんなに小さなものであっても、子を愛する親の如く真剣に耳を傾けてくださる神様の姿を思い描いて、交わることができる。この世にある他のどの様な喜びにもまさる喜び。この喜びが、イエス様の尊い犠牲のゆえに与えられたことを決して忘れぬよう、私たちはイエスの名によって、神様を天の父と呼び、神様に祈り、神様と親しく交わる者とされたのです。
かっては、自分の心の思いを誰に聞いてもらえるのかわからぬまま、孤児の様に寂しく感じていた者が、今は、この世界を創造した神様を父と思い、交わることができる。この恵み、この特権を日々味わう者となりたいと思います。
さて、「あなたがたはわたしを神から出てきた者と信じました」とのことばを頂いた弟子たち。彼らは、自分たちも漸く弟子として一人前と認められたと感じたのでしょうか。つい嬉しくなり、こう答えています。
16:29、30「弟子たちは言った。「ああ、今あなたははっきりとお話しになって、何一つたとえ話はなさいません。いま私たちは、あなたがいっさいのことをご存じで、だれもあなたにお尋ねする必要がないことがわかりました。これで、私たちはあなたが神から来られたことを信じます。」
弟子たちは今までイエス様の言動に接してきて、その人の思いを見抜く目の鋭さ、正確さに何度も驚いてきたのでしょう。イエス様に尋ねようとする人が、ことばを口にする前に、その思いを見抜くこともしばしばでした。彼らはイエス様の人並み外れた、神のごとき全知のゆえに、「私たちはあなたが神から来られたことを信じる」と告白したのです。
しかし、イエス様は、この後ゲッセマネの園で、そこに踏み込んできたローマ兵を恐れ、弟子たちが逃げ去ることをご存知でした。その後、彼らが故郷ガリラヤに帰り、元の生活に戻ってしまうことをも知っておられたのです。
16:31~33「イエスは彼らに答えられた。「あなたがたは今、信じているのですか。見なさい。あなたがたが散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとり残す時が来ます。いや、すでに来ています。しかし、わたしはひとりではありません。父がわたしといっしょにおられるからです。わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」
「あなたがたは今、信じているのですか」と言うことばは、「あなたがたは今、本当にわたしを信じていると言えますか」と言う疑問、質問と考えられます。イエス様は、弟子たちが、人の思いを正確に見抜くという点から、ご自分を神と信じたことは認めました。しかし、ご自分が何のために十字架に死なねばならないのか、その意味な意味をまったく理解してはいないことも、ご存じだったのです。
しかし、ここでイエス様は、弟子たちの無理解や裏切りを責めているのではありません。むしろ、弟子たちが離れ去り、ひとり取り残された状況の中、どのようにして十字架の死と言う使命を実行することができるのか、それを証しされたのです。ことばを代えて言うなら、非常に困難な状況の中、天の父との親しい交わりが、どれ程の慰め、励まし、力となることか。弟子たちのために語られた場面となります。
最初に、人間が神様に背を向けて生きるようになってから、失ってしまった良きものの中で、最大のもの、根本的なものは、神様との親しい交わりと言いました。聖書の別の表現では、永遠のいのちとか霊的ないのちとも呼ばれます。イエス様は、これを私たちに与えるため、この世界に来られたのです。
しかし、これ程大切なもの、イエス様が十字架に命を懸けて与えてくださったものを、人間は心から求めることをしてきませんでした。イエス様と一緒にいた弟子たちにしても同じことです。だからこそ、イエス様は天の父がともにおられる天の父との交わりが、いかに良いもの、恵みであるか。それを伝えておられるのです。
先ず、イエス様がこの時もっておられた平安とは何でしょうか。それは、愛していた弟子たちが離れ去ってゆく痛み、宗教指導者や群衆からの不当な攻撃を忍耐しなければならない苦しみ、十字架の死への恐れ。その様な状況の中、天の父がともにいてくださる、ご臨在の恵みを確信することから生まれる平安でした。
この平安は、「たとえ一人残されても、わたしはひとりではありません。父がわたしといっしょにおられるからです」ということばによく表れています。
この様に神様がともにいてくださること、神様との交わりから生まれてくる平安は、聖書の様々な箇所で告白されてきました。例えば、自分を羊、神様を羊飼いにたとえた旧約の詩人ダビデは、神様のご臨在の恵みが、いかに慰めであり、力であるかを、この様に語っていました。
詩篇23:3、4「主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。」
心が痛み、苦しみ、恐れを覚えざるを得ない、非常に厳しい状況の中、何故イエス様が、神様の望まれる道を歩むことができたのか。それはともにおられる神様との親しい交わりをもっていたから、その交わりの中で天の父の愛を受け取り、その愛を力の源とされていたからと考えられます。
そして、この様な平安をもっているからこそ、「わたしはすでに世に勝ったのです。」とのおことばどおり、イエス様は心から十字架の道を選び、罪の贖いを成し遂げることがおできになった、そう教えられるのです。
最後に、考えてみたいのは「世に勝利するとは何か」です。もし、皆様がイエス様と同じような状況に置かれたとしたら、どうするでしょう。愛する人が自分のもとを離れ去ってゆくこと。周りの人から不当に攻撃され、避難されること。自分が望まない道を進まなければならないこと。イエス様ほどではないにせよ、私たちも厳しい状況に置かれ、心痛み、苦しみ、恐れることがあるのではないでしょうか。
その様な時、私たちの心に自然と湧き上がって来るものがあります。自分から離れて行った人を責める気持ち、自分を攻撃する人への怒りや復讐心、自分が望まない道をゆくことへの不安や恐れ、これらがこの世のものです。これらの思いや感情に支配されたまま行動しないこと、それがこの世に勝利の第一歩です。
そして、これら自然に湧いてくる思いや感情を一旦受けとめた上で、自分を離れて行った人を愛すること、自分を攻撃する人を赦すこと、自分の不安や恐れを神様に明け渡し、神様に信頼すること、つまり、神様からもらった愛をもって対応すること、これがこの世に対する勝利なのです。
これは本当に難しい戦いです。一人の力では倒されてしまう戦い、勝利不可能な戦いです。一度上手くいったからと言って、次も上手くいくとは限らない。むしろ、失敗の連続で、ほとほと自分の無力が嫌になり、失望、落胆を繰り返す、そのような時もあることでしょう。
しかし、神様はその様な私たちを愛し、大切に思い、いつでも、ともにいてくださるお方です。私たちの心の痛み、苦しみ、恐れや不安を理解してくださるお方です。どんなに酷い状態にあっても責めず、さばかず、私たちを受け入れ、慰め、励まし、力を貸してくださるお方なのです。
「あなたがたは、この世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい(しっかりしなさい)」とイエス様は勧められました。それは神様の愛を受け取り、神様と交わる時、私たちの心に湧いてくる勇気なのです。
いつでもともにいてくださる神様を信じるとは、神様を私たちの人生の安全基地とすることと言えるかもしれません。イエス様も、天の父を安全基地として歩み、神様のみこころに従ってゆかれました。皆様にとって神様との関係は安全なものでしょうか。神様を人生の安全基地と思えるでしょうか。
この平安がないと、私たちはいつの間にか、人を相手に戦ってしまうのではないかと思います。しかし、私たちが戦う相手はあの人、この人ではありません。心に湧いてくるこの世の思いや感情、ことばを代えて言えば古い自分、私たちの中にあるこの世的な性質なのです。ですから、先ず何よりも、天の父の愛を心に受け取ること、味わうことを大切にしたいと思います。最終的には、神様が勝利を与えてくださることを望みつつ、日々の歩みを進めてゆけたらと思います。今日の聖句です。
イザヤ41:10「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」