2015年2月22日日曜日

ヨハネの福音書16章25節~33節 「キリストにある平安と勝利」

 聖書によれば、この世界を創造した神様に背を向けてから、私たち人間は非常に大切なものを失ってきました。世界の初めには持っていたのに、今は不完全な形で、部分的にしかもっていないものとも言えるでしょうか。
隣人を愛し、仕える心、その実行力、家族の絆、善悪の基準、体の健康、平和な社会、美しく豊かな自然。多くの良いものを私たちは失ったと聖書は教えていますし、多くの人は共感されることと思います。しかし、私たちが失った良いものの中で最大のもの、根本的なものとは何ですかと聞かれたら、皆様は何と思われるでしょうか。何と答えるでしょうか。
聖書は、この世界を創造した神様との交わり、私たちを愛してやまない神様との親しい交わり、それこそ、私たちが失った最大のもの、根本的なものと教えています。そして、今日の箇所で、イエス・キリストはその様な交わりが実現する日が来たと、弟子たちに教えているのです。
およそ三か月。ヨハネの福音書の説教から離れていましたので、少し思い出して頂けたらと思います。私たちが読み進めてきたのはヨハネの福音書。イエス様の弟子ヨハネが書いたイエス様の生涯に関する記録、福音書の第16章です。
今、福音書はイエス様の生涯の記録と言いましたが、不思議なことにどの福音書もイエス様の生涯の全体をまんべんなく記録しているわけではなく、最後の三年間特に十字架の死に至る最後の一週間の出来事に多くが割かれていました。
ヨハネの福音書も例外ではありません。ヨハネの場合、過越しの食事、いわゆる最後の晩餐の場面におけるイエス様と弟子たちのやり取り、イエス様の教えと祈りを詳しく書いているのが特徴と言われます。事実、13章から16章が最後の晩餐の席におけるイエス様の教え、17章がイエス様の祈りとなっていますから、全部で5章を使って十字架前夜わずか数時間の出来事を描いていることになります。ですから、今日の場面はイエス様が弟子たちとともにゲッセマネの園へ進む直前、彼らに伝えた最後の教えでした。

16:25~28「これらのことを、わたしはあなたがたにたとえで話しました。もはやたとえでは話さないで、父についてはっきりと告げる時が来ます。その日には、あなたがたはわたしの名によって求めるのです。わたしはあなたがたに代わって父に願ってあげようとは言いません。それはあなたがたがわたしを愛し、また、わたしを神から出て来た者と信じたので、父ご自身があなたがたを愛しておられるからです。わたしは父から出て、世に来ました。もう一度、わたしは世を去って父のみもとに行きます。」

これまで、天の父なる神様について、ご自分のことについて、イエス様は多くのたとえを使い、人々に話してきました。しかし、これからは天の父についてはっきりと告げる日、イエス様を救い主と信じる人々が、イエスの名によって求める日が来ると言うのです。私たちが天の父なる神様と直に、親しい交わりができる時代の到来です。
それでは、これまで天の父と私たちの交わりを妨げて来たものは、一体何だったのでしょうか。

イザヤ59:1,2「見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。」

神様を認めず、神様に背を向ける生き方。そこから生まれてくる自己中心的な考え方や行動。つまり、私たち人間の罪が、神様と間の仕切りとなっていると言うのです。この仕切りを取り去るため、この世界に来られたのがイエス様でした。イエス様は、本来私たちが受けるべき罪の罰を身代わりに受けて十字架に死に、神様と私たちの間の仕切りを完全に壊し、永遠に撤廃されたのです。譬えて言うなら、ベルリンの壁崩壊でしょうか。
こうして、イエス・キリストを信じる者は、命を懸けてイエス様が行った罪の贖いのゆえに、誰でも、いつでも、どこでも、また、直に、親しく、この世界を創造した神様を天の父と呼び、交わることができるようになったのです。
ある人が、この箇所を母親と幼子の関係にたとえていました。自分で祈れない幼子がお母さんに手を組んでもらい、幼子のことばで代わりに祈ってもらってきたと言うのがこれまでの弟子たちの姿。しかし、これからはイエス様によって自分の罪が贖われたと信じることで、イエス様と同じく神様の子どもとして、ひとり立ちできると言うのです。
今はどうなのかわかりませんが、昔東西冷戦の時代、西側代表のアメリカ大統領と東側代表のソ連の首相の間には、直通電話、ホットラインがあり、これによって何度か戦争の危機が回避されたと言われます。
イエス様の十字架により、私たちは天の父との間に直通電話、ホットラインをもっているということ。これが、どれほどの恵みか、皆様は感じておられるでしょうか。
本来なら、直通のホットライン、一対一での親しい交わりなど、ありえない立場にいた私たちが、今はみことばにより直に神様の愛のみ声を聞き、心開いてお話しすることができる。私たちの喜び、悲しみ、悩みの一つ一つを、それがどんなに小さなものであっても、子を愛する親の如く真剣に耳を傾けてくださる神様の姿を思い描いて、交わることができる。この世にある他のどの様な喜びにもまさる喜び。この喜びが、イエス様の尊い犠牲のゆえに与えられたことを決して忘れぬよう、私たちはイエスの名によって、神様を天の父と呼び、神様に祈り、神様と親しく交わる者とされたのです。
かっては、自分の心の思いを誰に聞いてもらえるのかわからぬまま、孤児の様に寂しく感じていた者が、今は、この世界を創造した神様を父と思い、交わることができる。この恵み、この特権を日々味わう者となりたいと思います。
さて、「あなたがたはわたしを神から出てきた者と信じました」とのことばを頂いた弟子たち。彼らは、自分たちも漸く弟子として一人前と認められたと感じたのでしょうか。つい嬉しくなり、こう答えています。

16:29、30「弟子たちは言った。「ああ、今あなたははっきりとお話しになって、何一つたとえ話はなさいません。いま私たちは、あなたがいっさいのことをご存じで、だれもあなたにお尋ねする必要がないことがわかりました。これで、私たちはあなたが神から来られたことを信じます。」

 弟子たちは今までイエス様の言動に接してきて、その人の思いを見抜く目の鋭さ、正確さに何度も驚いてきたのでしょう。イエス様に尋ねようとする人が、ことばを口にする前に、その思いを見抜くこともしばしばでした。彼らはイエス様の人並み外れた、神のごとき全知のゆえに、「私たちはあなたが神から来られたことを信じる」と告白したのです。
 しかし、イエス様は、この後ゲッセマネの園で、そこに踏み込んできたローマ兵を恐れ、弟子たちが逃げ去ることをご存知でした。その後、彼らが故郷ガリラヤに帰り、元の生活に戻ってしまうことをも知っておられたのです。

 16:31~33「イエスは彼らに答えられた。「あなたがたは今、信じているのですか。見なさい。あなたがたが散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとり残す時が来ます。いや、すでに来ています。しかし、わたしはひとりではありません。父がわたしといっしょにおられるからです。わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」

 「あなたがたは今、信じているのですか」と言うことばは、「あなたがたは今、本当にわたしを信じていると言えますか」と言う疑問、質問と考えられます。イエス様は、弟子たちが、人の思いを正確に見抜くという点から、ご自分を神と信じたことは認めました。しかし、ご自分が何のために十字架に死なねばならないのか、その意味な意味をまったく理解してはいないことも、ご存じだったのです。
 しかし、ここでイエス様は、弟子たちの無理解や裏切りを責めているのではありません。むしろ、弟子たちが離れ去り、ひとり取り残された状況の中、どのようにして十字架の死と言う使命を実行することができるのか、それを証しされたのです。ことばを代えて言うなら、非常に困難な状況の中、天の父との親しい交わりが、どれ程の慰め、励まし、力となることか。弟子たちのために語られた場面となります。
 最初に、人間が神様に背を向けて生きるようになってから、失ってしまった良きものの中で、最大のもの、根本的なものは、神様との親しい交わりと言いました。聖書の別の表現では、永遠のいのちとか霊的ないのちとも呼ばれます。イエス様は、これを私たちに与えるため、この世界に来られたのです。
 しかし、これ程大切なもの、イエス様が十字架に命を懸けて与えてくださったものを、人間は心から求めることをしてきませんでした。イエス様と一緒にいた弟子たちにしても同じことです。だからこそ、イエス様は天の父がともにおられる天の父との交わりが、いかに良いもの、恵みであるか。それを伝えておられるのです。
 先ず、イエス様がこの時もっておられた平安とは何でしょうか。それは、愛していた弟子たちが離れ去ってゆく痛み、宗教指導者や群衆からの不当な攻撃を忍耐しなければならない苦しみ、十字架の死への恐れ。その様な状況の中、天の父がともにいてくださる、ご臨在の恵みを確信することから生まれる平安でした。
 この平安は、「たとえ一人残されても、わたしはひとりではありません。父がわたしといっしょにおられるからです」ということばによく表れています。
 この様に神様がともにいてくださること、神様との交わりから生まれてくる平安は、聖書の様々な箇所で告白されてきました。例えば、自分を羊、神様を羊飼いにたとえた旧約の詩人ダビデは、神様のご臨在の恵みが、いかに慰めであり、力であるかを、この様に語っていました。

 詩篇23:3、4「主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。」

 心が痛み、苦しみ、恐れを覚えざるを得ない、非常に厳しい状況の中、何故イエス様が、神様の望まれる道を歩むことができたのか。それはともにおられる神様との親しい交わりをもっていたから、その交わりの中で天の父の愛を受け取り、その愛を力の源とされていたからと考えられます。
 そして、この様な平安をもっているからこそ、「わたしはすでに世に勝ったのです。」とのおことばどおり、イエス様は心から十字架の道を選び、罪の贖いを成し遂げることがおできになった、そう教えられるのです。
 最後に、考えてみたいのは「世に勝利するとは何か」です。もし、皆様がイエス様と同じような状況に置かれたとしたら、どうするでしょう。愛する人が自分のもとを離れ去ってゆくこと。周りの人から不当に攻撃され、避難されること。自分が望まない道を進まなければならないこと。イエス様ほどではないにせよ、私たちも厳しい状況に置かれ、心痛み、苦しみ、恐れることがあるのではないでしょうか。
 その様な時、私たちの心に自然と湧き上がって来るものがあります。自分から離れて行った人を責める気持ち、自分を攻撃する人への怒りや復讐心、自分が望まない道をゆくことへの不安や恐れ、これらがこの世のものです。これらの思いや感情に支配されたまま行動しないこと、それがこの世に勝利の第一歩です。
 そして、これら自然に湧いてくる思いや感情を一旦受けとめた上で、自分を離れて行った人を愛すること、自分を攻撃する人を赦すこと、自分の不安や恐れを神様に明け渡し、神様に信頼すること、つまり、神様からもらった愛をもって対応すること、これがこの世に対する勝利なのです。
 これは本当に難しい戦いです。一人の力では倒されてしまう戦い、勝利不可能な戦いです。一度上手くいったからと言って、次も上手くいくとは限らない。むしろ、失敗の連続で、ほとほと自分の無力が嫌になり、失望、落胆を繰り返す、そのような時もあることでしょう。
 しかし、神様はその様な私たちを愛し、大切に思い、いつでも、ともにいてくださるお方です。私たちの心の痛み、苦しみ、恐れや不安を理解してくださるお方です。どんなに酷い状態にあっても責めず、さばかず、私たちを受け入れ、慰め、励まし、力を貸してくださるお方なのです。
 「あなたがたは、この世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい(しっかりしなさい)」とイエス様は勧められました。それは神様の愛を受け取り、神様と交わる時、私たちの心に湧いてくる勇気なのです。
 いつでもともにいてくださる神様を信じるとは、神様を私たちの人生の安全基地とすることと言えるかもしれません。イエス様も、天の父を安全基地として歩み、神様のみこころに従ってゆかれました。皆様にとって神様との関係は安全なものでしょうか。神様を人生の安全基地と思えるでしょうか。
 この平安がないと、私たちはいつの間にか、人を相手に戦ってしまうのではないかと思います。しかし、私たちが戦う相手はあの人、この人ではありません。心に湧いてくるこの世の思いや感情、ことばを代えて言えば古い自分、私たちの中にあるこの世的な性質なのです。ですから、先ず何よりも、天の父の愛を心に受け取ること、味わうことを大切にしたいと思います。最終的には、神様が勝利を与えてくださることを望みつつ、日々の歩みを進めてゆけたらと思います。今日の聖句です。

 イザヤ41:10「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」



2015年2月15日日曜日

箴言2章1節~6節 「一書説教 箴言 ~正しく主を恐れる~」

 これまで断続的に行ってきた一書説教ですが、アドベントや年末年始の礼拝、成長感謝礼拝やウェルカム礼拝などの特別な礼拝があり、実に四ヶ月ぶりとなりました。久しぶりの一書説教。気持ちを新たに取り組みいたいと思います。
 一書説教は今日で二十回目。旧約聖書第二十の巻、「箴言」を扱うことになります。六十六巻からなる聖書の中には様々なジャンルが含まれますが、「箴言」はその名の通り、格言集、金言集、諺集、名言集と言える内容です。その多くは知恵者ソロモンによるもので、韻文による知恵の書。知恵を求めることの重要性、知恵者としての生き方は具体的にどのようなものなのか、繰り返し語られ書。
ある人は(ヘンリエッタ・ミアーズ)、詩篇と箴言を対比して、次のように特徴を述べています。「詩篇には、ひざまずいているキリスト者が見出される。箴言には、両足で立っているキリスト者が見出される。詩篇は、キリスト者の礼拝のためのもの。箴言は、キリスト者の歩みのためのもの。詩篇は、祈りのためのもの。箴言は、職場、家庭、運動場のためのもの。」つまり、神の民は、生活の全ての場面で、知恵ある者として生きるように求められているし、その具体的な生き方が箴言に示されているということです。(詩篇、箴言に対するこのような表現が正しいかは議論の余地があると思いますが、一つの目安になると思います。)
 今回の一書説教を経て、私たち皆で箴言を読むことが出来ますように。また、箴言を読むことを通して、生活のあらゆる場面で聖書の教える知恵ある者としての生き方を送ることが出来ますように。一書説教が進むにつれて、教会の皆で聖書を読み進めていくという恵みにあずかりたいと願っています。

 なぜこの書が記されたのか。ありがたいことに、この書の目的が、その冒頭に記されています。
箴言1章1節~6節、7節
「イスラエルの王、ダビデの子、ソロモンの箴言。これは、知恵と訓戒とを学び、悟りのことばを理解するためであり、正義と公義と公正と、思慮ある訓戒を体得するためであり、わきまえのない者に分別を与え、若い者に知識と思慮を得させるためである。知恵のある者はこれを聞いて理解を深め、悟りのある者は指導を得る。これは箴言と、比喩と、知恵のある者のことばと、そのなぞとを理解するためである。主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。」

 知恵、訓戒、悟り、正義、公義、公正、分別、知識、思慮と、いくつもの言葉が出て来ますが、要はこの書を読む者が、聖書の示す知恵を身につけることが、この書が書かれた目的と宣言されます。箴言は私たちに知恵を与えるための書物。
それでは、聖書の示す知恵とは何か。どのような知恵か。その中心は何かと言えば、「主を恐れること」でした。
「主を恐れる。」と聞いて、いかがでしょうか。皆様は正しく主を恐れているでしょうか。神様に恐怖を覚えるようにと教えられているわけではありません。キリストを信じた私たちは神様の子とされた者。親しみをもって神様に近づくことが許された者です。とはいえ、神の子として自由気ままに生きるように教えられているわけでもありません。天の父に対する畏敬の念を持つこと。神の子というあまりに大きな身分を頂いたことに恐れおののくこと。天の父の御名を汚さないように、恐れつつ生きることは、私たちにとって大事なこと。この正しく主を恐れることを私たちが出来るようにと記されたのが箴言でした。
 
 さて、概観ですが、前半と言えるのが、一章から九章までです。
 特徴として、親が子に話すような語り口になっていることが挙げられます。格言、諺というよりも、講話的、物語的と言えます。(後半と比べると顕著な違いがあります。)
 この前半部分、それなりの分量がありますが、扱われている内容は、僅かに感じます。つまり、同じ内容が繰り返し述べられている。大体二つの内容のどちらかに当てはまるように思います。
一つは、「知恵を求めるように。」あるいは「父からの教えを良く聞くこと。」という内容。イスラエルにおいて、聖書に基づく教育をする責任は父にあると教えられていましたので、ここで言う父からの教えとは、父による聖書に基づく教育を指すと考えられます。聖書の教えを心に留めるように。知恵を求めるように。また、知恵を得て生きることが、どれ程祝福の道なのか語られるところもあります。
二つ目は、「愚かな道に入りこまないように。」という内容。一つ目の内容を反対から表現したもの。父の教えを捨てないように、知恵を求めることをやめないように。愚かな道、悪の道に進まないように、との教え。愚かな道、悪の道に入りこむと、どれ程悲惨な歩みをすることになるのか語られているところもあります。

 いくつも例を挙げることが出来ますが、(上記二つの内容に重なるか確認しながらお読み下さい。)例えば、
 箴言4章10節~17節
「わが子よ。聞け。私の言うことを受け入れよ。そうすれば、あなたのいのちの年は多くなる。私は知恵の道をあなたに教え、正しい道筋にあなたを導いた。あなたが歩むとき、その歩みは妨げられず、走るときにも、つまずくことはない。訓戒を堅く握って、手放すな。それを見守れ。それはあなたのいのちだから。悪者どもの道にはいるな。悪人たちの道を歩むな。それを無視せよ。そこを通るな。それを避けて通れ。彼らは悪を行なわなければ、眠ることができず、人をつまずかせなければ、眠りが得られない。彼らは不義のパンを食べ、暴虐の酒を飲むからだ。」

 父からの教えを離れないように、それを守る時につまずかない。悪から離れるように、悪の道には平安がないと教えられる。これと同じような内容が繰り返し出てくるのが、箴言の前半です。
 つまり、前半部分の中心テーマは、知恵ある生き方自体の勧め。知恵ある生き方が具体的にどのようなものかというよりも、知恵を求めることの重要性。心構えを諭す内容と言えます。
(余談となりますが、この前半部分で悪の道として何度も、姦淫がテーマとなっています。人妻、遊女、異国の女に気を付けるようにと。親から子どもへの忠告の中に、異性の問題を入れているのは、さすが聖書と言えるでしょうか。親は自分の役割として、子どもへの性教育の責任も確認すべきでしょう。なお、ソロモン自身がダビデと人妻バテシェバの子であることを思うと、箴言の中に不品行を避けるように強く記されることの意味深さを覚えます。)

 この箴言の前半を読む時、自分は聖書が教える知恵を求めているだろうかと問われます。この世界には様々な知恵がありますが、どのような知恵でも身に付けることが出来るとしたら、自分は何を願うのか。仕事のため、学業のため、名声のため、地位のため、自分の夢を叶えるための知恵と、聖書の教える知恵と、どちらを優先して求めているでしょうか。主を恐れる知恵を求めるようにとの勧めに、私たちはどのように応じるでしょうか。

 箴言の後半。十章からです。ここからは雰囲気、内容が変わります。前半が講話的、物語的な語り口調であったのに対して、後半は格言、諺の連発となります。主を恐れることの幸いと、愚か者の不幸を、短く、具体的にした言葉の羅列。
 箴言10章1節~5節
「ソロモンの箴言 
知恵のある子は父を喜ばせ、愚かな子は母の悲しみである。
  不義によって得た財宝は役に立たない。しかし正義は人を死から救い出す。
  主は正しい者を飢えさせない。しかし悪者の願いを突き放す。
  無精者の手は人を貧乏にし、勤勉な者の手は人を富ます。
  夏のうちに集める者は思慮深い子であり、刈り入れ時に眠る者は恥知らずの子である。」

 箴言後半に出てくる格言は、基本的には、二行からなる対句で一つとなります。一節は、「知恵ある子は父を喜ばせ」が前半で、「愚かな子は母の悲しみである。」が後半。内容は正反対ですが、どちらも同じテーマで、「知恵の勧め」。二節、三節は「正しさの勧め」、四節、五節は「勤勉の勧め」となっています。この五つの節に限定して言えば、主を恐れることは、知恵を求め、正しく生き、勤勉であることと言えるでしょうか。
 ところで、この十章の冒頭に出てくる言葉は、一つのテーマについて正反対の二つを並べて、そのコントラストにより強調する格言(反意的対句)となっていますが、これ以外にも様々な形があります。

 例えば、二つとも同じ内容で強調する格言。
箴言16章16節
「知恵を得ることは、黄金を得るよりはるかにまさる。悟りを得ることは銀を得るよりも望ましい。」

 金銀を求めることを最上とする世界にあって、それよりも知恵を求めるようにと勧める格言。二行からなる対句のどちらも、知恵を得ることの素晴らしさを肯定的に表現しています。(同義的対句。)同じ内容を、表現を少し変えて、強調する格言。

また、比較対象を出すことで、言いたいことを強調する格言もあります。
 箴言17章1節
「一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる。」

 豪華であることが良く、貧しさは敵と考える世にあって、家庭が平和であることの大切さを訴える格言。平和であることがいかに大切なことか、ご馳走と争いに満ちた家と比較することで、強調する格言。(比較的対句。)
 
あるいは、比喩を用いることで、主張を強調する格言もあります。
 箴言11章22節
「美しいが、たしなみのない女は、金の輪が豚の鼻にあるようだ。」

 美しいことが最上とする世にあって、「たしなみ」の方が大事であるとの主張。美しかろうが、たしなみがないということを、金の輪が豚の鼻にあるようだと比喩を用いて糾弾する格言。(比喩的対句。)かなり辛辣な表現だと思いますが、これもまた聖書でした。
 このように二行の前半と後半の関係は様々な形があります。箴言の後半、このような二行からなる対句が続きますが、それぞれどのような対句なのか考えながら読むということも、箴言を読む楽しみの一つです。

 ところで、この箴言の後半に出てくる格言の並び順ですが、どのようなつながりがあるのか、よく分かりません。次々に内容が変わり、扱うテーマが変わります。そのため、箴言の後半を概観することは非常に難しいのですが、何度も読んでみますと、繰り返し同じようなテーマを見出すことが出来ます。
 今回、私が箴言を読みまして、よく見かけたと思うテーマを三つ挙げるとすれば、一つは「ことば」です。舌、口、くちびるという表現も出て来ますが、ことばをいかに大切に使うべきなのか。主を恐れる生き方は、ことばをどのように使うのかに現われると教えられます。
 また「家族」をテーマにした格言もよく出て来ます。夫婦、親子、兄弟、あるいは家族全般についての格言が多くあります。主を恐れる生き方が、家族関係に現われると言えるでしょうか。
 また「友人・隣人」のテーマもよく出て来ます。友がいることの恵みの大きさ、友としてのあるべき姿、罪人であるが故に友情がいかに傷つきやすいかを教えるもの、などなど、友人・隣人がテーマの格言も多くあります。
 「ことば」「家族」「友人・隣人」がよく見かけるテーマと考えると、主を恐れる生き方とは、具体的には身近な人との関係によく現われると言うことも出来ます。

今回、後半でよく目にするテーマとして、私は「ことば」「家族」「友人・隣人」を挙げますが、他にも色々挙げることが出来ます。どのようなテーマが多いと思うか、考えながら読むことも箴言を楽しむ一つの方法です。箴言を読んでみて、このテーマが多いと思うことがあれば、是非とも教えて頂きたいと思います。
(箴言の後半は、二行からなる対句の格言が続きますが、最後の二章は、ソロモンとは別人物の知恵の言葉、前半と同様に講話的な言葉で閉じられることになります。三十一章の十節からは、優れた妻をテーマに、ヘブル語のいろは歌となっていて、優れた詩として有名です。)

 以上、簡単にですが箴言を読む備えをしました。最後に、今一度箴言を読む心構えを確認して、説教を閉じたいと思います。
 箴言2章1節~6節
「わが子よ。もしあなたが、私のことばを受け入れ、私の命令をあなたのうちにたくわえ、あなたの耳を知恵に傾け、あなたの心を英知に向けるなら、もしあなたが悟りを呼び求め、英知を求めて声をあげ、銀のように、これを捜し、隠された宝のように、これを探り出すなら、そのとき、あなたは、主を恐れることを悟り、神の知識を見いだそう。主が知恵を与え、御口を通して知識と英知を与えられるからだ。」

 私たちは聖書を神のことばと信じています。その聖書が知恵を求めるように。それも、主を恐れる知恵を求めるようにと教えています。しかも、この箴言二章の言葉によれば、私たちが知恵を求めさえすれば、それで良い。英知を求めて声を上げ、捜し、探り出すならば、主を恐れることを悟るとの約束です。
では、私たちはどこで主を恐れる知恵を求めれば良いのでしょうか。言うまでもない。目の前にあります。「箴言」です。ここに、主を恐れる知恵があるのです。あとは、私たちが求めるだけ。しかし、この求めるということが、一番の問題なのです。
既に説教中にお聞きしたことですが、もう一度お聞きします。皆様は、どのような知恵でも与えられるとしたら、何を求めるでしょうか。お金を得る知恵、名声を得る知恵、人を思い通りに動かす知恵、自分の夢を叶えるための知恵。それよりも、正しく主を恐れる知恵が自分には必要である、大事であると思っているでしょうか。
 今朝、この礼拝にて、神様の前で自分の願いは正しい願いを持っているのか、皆で再確認したいと思います。多くの場合、自分の心からの願いは、自分の欲望を満たすためのもの。その私たちが、正しく主を恐れる知恵を願うためには、意識的に、決意的に、選択する必要があります。

 自分の願いがどのようなものであろうとも、聖書が教える最も大切な知恵、正しく主を恐れることの知恵を求める決意を、今日新たにしたいと思います。皆で箴言を読み、その教えを実践することで、正しく主を恐れる歩みを送りたいと思います。

2015年2月8日日曜日

ヨハネの福音書13章3節~17節「信仰生活の基本(5) 奉仕 ~しもべとなる~」

 一月から私達皆が新たな思いで信仰生活を送ることができるようにと願い、礼拝では信仰生活の基本に関する事柄を扱ってきました。礼拝、伝道、交わり、奉仕と扱ってきましたが、どうでしょうか。各々の分野で新たな思いを抱き取り組んでおられるでしょうか。今日は先週に続き、少し違った視点から奉仕についてお話ししたいと思います。
先回確認したことの一つは、世界の初め、人間が神様と親しい交わりの中にあった時、他の人の必要を満たすために働くことは、人間にとって喜びであったこと、しかし、神様に背を向けて生きるようになってから、働くことには苦しみや虚しさが伴うようになったということです。
「働けど働けど なお我がくらし 楽にならざり じっと手を見る」。先週も紹介したこの石川啄木の歌。生きてゆくため食べてゆくため、嫌でも何でも仕事をしなければならない辛さ、働いても楽にはならない生活の苦しみが伝わり、共感できます。
また、会社の為にと一生懸命働いてきた人が病気、定年などやむを得ない理由で退職する時、会社と言う組織の中のいつでも交換可能な歯車の一つの様に自分を感じて虚しくなる。この様な話も、よく耳にするところです。
ところで、仕事に関するあるアンケート調査で、「働いていて良かったと思った時はどんな時ですか」と言う質問がありました。皆様ならどう答えるでしょうか。
矢張りと言うべきか、案の定と言うべきか。第一位は、給料、ボーナスをもらった時で、男女とも半数がこれをあげています。一方、ありがとうと言われた時、人から頼りにされた時、社会に貢献できた時、人間関係が広がった時、成長を実感できる時と答えた人も多数います。また、会社を退職した人々からの答えの第一位は「自分の趣味、時間を楽しみたい」でしたが、知識、経験を活かして人のため、社会のために何らかの働きをすることが生きがいと答える方もかなりの数にのぼっています。
確かに、この世界で働くこと、奉仕することには苦しみや虚しさがあることは否定できません。しかし、アンケートからも分かるように、人間は生涯、収入があろうとなかろうと、奉仕を喜び、働くことを生きがいとする生活を求め続ける存在ではないかと感じます。そして聖書は、私たちが奉仕を喜び、働くことを生きがいと思える人生を回復するため、イエス・キリストがこの世界に来られ、十字架に罪の贖いを成し遂げてくださったと教えているのです。
今日は、そのイエス様がご自身の行動により、奉仕について大切なことを教えられた箇所、有名な洗足の場面を読み進めてゆきます。

13:3~5「イエスは、父が万物を自分の手に渡されたことと、ご自分が父から来て父に行くことを知られ、夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。」

時は紀元30年頃の春、十字架前夜、都エルサレムのある家で、イエス様と弟子たちが過越しの食事を始めようとしていた場面です。いよいよ食事開始と思われた瞬間、イエス様が突然立ち上がり、上着を脱いで、手拭いを腰に巻き、たらいに水を入れると、足を投げ出す弟子たちの前に跪きました。両手で泥と埃に汚れた弟子たちの足を抱え、たらいに導き、自ら洗い出したと言うのです。
これまで、弟子たちが何度も議論してきたことの一つは、誰が一番偉いかというもの。その度に、イエス様は「聖書の神を知らない人々は、人を支配する者が偉いと考えているが、神の国では、人に仕える者こそ偉大である」と説いてきましたから、自分が足を洗おうと考える弟子が一人ぐらいいたとしても、おかしくはなかったのです。しかし、それを実行する弟子はいませんでした。
何故か。当時ユダヤの社会では、人の足を洗うと言う行いはユダヤ人の奴隷にも強要されることがなかったと言われます。それは異邦人の奴隷に限り、命じることができること、要するに最も身分の低い者の仕事、最も価値なき奉仕とされていました。ですから、洗足を自分の奉仕と考える弟子誰一人いなかったのです。
それを誰あろう、イエス様ご自身が当然のことの様に始められたと言うのですから、弟子たちの驚きは相当なものだったでしょう。彼らは驚き、戸惑い、お互いに口をつぐむばかり。沈黙が覆うなか、ひとり自分の思いを心に秘めて置くことのできない性格の弟子ペテロはそれに耐えきれず、口を開きます。

13:6~11「こうして、イエスはシモン・ペテロのところに来られた。ペテロはイエスに言った。「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。」イエスは答えて言われた。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」ペテロはイエスに言った。「決して私の足をお洗いにならないでください。」イエスは答えられた。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」シモン・ペテロは言った。「主よ。わたしの足だけでなく、手も頭も洗ってください。」イエスは彼に言われた。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。あなたがたはきよいのですが、みながそうではありません。」イエスはご自分を裏切る者を知っておられた。それで、「みながきよいのではない。」と言われたのである。」

ペテロが最初に言ったことばでは、「あなた」と「私」の二語が非常に強調されています。つまり、ペテロは、「主よ。あなたが、主であるあなたが、こんな私の足を洗ってくださるのですか」と言いたかったのです。いかに、イエス様の常識破りの行いに驚き、戸惑っていたかが伝わってきます。
それに対してイエス様は、「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになる」とお答えになる。これは、洗足によって弟子たちの足をきよめる行いが、イエス様が十字架の死を通し彼らの罪を贖い、きよめることを予告することばでした。
しかし、イエス様が言われた通り、ペテロが洗足と十字架の意味、その関係を理解するのは後のこと。この時全く理解できなかった彼は、「主よ。わたしの足だけでなく、手も頭も洗ってください」等と、とんちんかんなことを口走っています。
それはそれとして、注目したいのは、「自分の足を洗っていただくなんて」と恐縮したペテロが、洗足を断ったことに対するイエス様の応答です。イエス様はペテロに、「もし、わたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません」と語られました。
これは、非常に強いことば、厳粛な表現です。ここに込められたイエス様の思いとは、果たしてどのようなものだったのでしょうか。先程も言いました様に、洗足は当時奴隷の仕事、人がなす最も低きつとめ。イエス様は自らしもべとなり、この奉仕をなすことで弟子たちに対する愛を示されました。そして、これは翌日、神のしもべとして十字架に死ぬことにより現された更に大きな愛、人間の罪を贖う愛を予告していたのです。
「洗足と十字架の死を通して表わすわたしの愛を受け取りなさい。遠慮している場合ではありません。しもべとなって仕えるほどに、あなたを愛しているわたしの愛を先ず心に受け取って欲しいのです」。これが、イエス様の思い、メッセージでした。
以上、洗足はイエス様が十字架において現された罪の贖いの愛、しもべとして私たち罪人に仕えてくださる愛を示すものであることを見てきました。しかし、洗足の意味は、これにとどまりません。それは、私たちの生き方の模範でもあったのです。

13:12~17「イエスは、彼らの足を洗い終わり、上着を着けて、再び席に着いて、彼らに言われた。「わたしがあなたがたに何をしたか、わかりますか。あなたがたはわたしを先生とも主とも呼んでいます。あなたがたがそう言うのはよい。わたしはそのような者だからです。それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。まことに、まことに、あなたがたに告げます。しもべはその主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさるものではありません。あなたがたがこれらのことを知っているのなら、それを行なうときに、あなたがたは祝福されるのです。」

ここでイエス様が教えておられるのは、私たちクリスチャンの奉仕の姿勢、また、この世の価値観との違いです。しもべはその主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさるものではないと言われた通り、この世においては、地位の高い者、財産を持つ者、能力のある者が尊いとされます。
神様から離れて生きるようになってから、人間は奉仕の価値、奉仕をする人の価値をその地位や、収入や、能力などによって判断するようになりました。誰もが、自分の仕事や存在を価値あるものと思い、認めてもらう為、少しでも人より上の地位、収入を願い、周りの人々の賞賛、注目を求めて働くようになったのです。
勿論、一生懸命働いた結果として、地位や収入を与えられること、人々に認められることは、神様の恵みであり、嬉しいことです。しかし、地位や収入、人々の賞賛、評価を第一に求めて働くこと、奉仕することは、イエス様の望まれることではないと教えられます。むしろ、それらのものを得る見込みがない奉仕、低きつとめ、誰もしたがらないような働きを自ら進んでなす者こそ、神様の祝福を受け取る人、神様の眼に最も尊き人と教えられるのです。
この後イエス様がゲッセマネの園で祈りをささげますが、何を祈られたのか、ご存知でしょうか。天の父に対し、みこころなら十字架の死を避けたいと祈られたのです。十字架刑の肉体的苦痛、人々から罵られる精神的苦痛、父なる神様からさばかれ、見捨てられると言う苦痛。イエス様にとって十字架の死は非常な苦しみであり、大切な使命とは覚えつつも、受け入れたくはないものでした。
しかし、天の父との交わりの中で、最終的に十字架に道を選ばれたイエス様は労苦のあとを振り返り、心から満足されたと旧約聖書は語っています。

イザヤ53:11 「彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。・・・」

しもべとなることを嫌う、苦労を伴う奉仕を避けたいと言う思いも、私たちの中にある罪の性質から生まれてくるものです。しかし、イエス様の十字架と比べるのは畏れ多く、気が引けますが、私たちも苦労を重ね、人に仕える奉仕を成し遂げた時、心からの満足を味わうことができるように思います。その人の必要を満たし、その人が喜ぶためならしもべとなることも厭わない。その様な思いで奉仕を成し遂げ、一切の苦労を忘れる程の喜び、生きがいを感じる瞬間です。しもべとなって奉仕する時、神様が私たちに与えてくださるこの様な祝福を期待したいと思います。
最後に、二つのことを確認したいと思います。ひとつは、神様のみこころを理解し、しっかりと受けとめることです。
今日の場面、弟子たちにしもべとなり奉仕すること勧める前に、イエス様がご自身の愛の奉仕を受け取るよう命じていたことを思い出してください。「もし、わたしが足を洗わなければ、わたしとあなたは何の関係もないのです」と語った、あのことばです。
イエス様は、互いに仕えることのできなかった弟子たち、誰が一番偉いのかと自己中心の性質丸出しで争う弟子たち、つまりイエス様の愛を受け取るに値しない罪人に対する愛を現し、奉仕の前に先ずご自身の愛を受け取るよう命じているのです。
ことばを代えて言えば、罪を持ったままの私たちを愛する神様の愛、奉仕をささげても、ささげなくても私たちの存在を大切に思う、無条件で、巨大な神様の愛。この神様の愛を心にしっかりと受けとめ、味わい、憩うことが、神様のみこころ、イエス様の願いだったのです。
奉仕をしないと神様が怒る。あるいは奉仕ができない自分、成果をあげられない自分を神様は愛してくれないのではないか。その様に、私たちが神様のみこころを誤解したまま、奉仕に取り組むことを、神様は望んでおられません。むしろ、先ず何よりも神様の愛を心に受け取り、憩い、安心すること。その上で、今置かれた場所で自分がなすべき奉仕について考え、実行してゆくこと。これが、神様のみこころと覚えたいのです。
二つ目は、奉仕について広い視点で考えることです。イエス様ご自身が示された姿勢、自由な心でしもべとなり、低きつとめを果たすと言う姿勢で、教会とこの世における奉仕をなしてゆくことです。

コロサイ323何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。」
 
これは、初代教会において多く存在したと考えられるクリスチャン奴隷への勧めのことばです。彼らは、主人に呼ばれれば、それが礼拝の日であっても仕事をしなければならず、気の進まない仕事、困難な仕事も抱えていたと考えられます。
その様な厳しい状況に置かれた人々に対し、あなたを愛し、あなたに仕えておられる主イエス・キリストに対する奉仕として、仕事をするようにとパウロは勧めています。地上の主人に強いられた仕事としてではなく、愛するイエス・キリストに対する奉仕と受けとめ、心からそれを選ぶことを勧めているのです。
 聖書は、教会における奉仕も、家庭における家事も育児も、社会におけるボランティア活動や仕事も、すべてのことをイエス・キリストに対する心からの奉仕として行う時、私たちは祝福されるのです。
 人生には様々なことがあります。教会で奉仕をと願っていても、病気の家族の世話をするために、それができないと言う時もあるでしょう。そうならば、イエス・キリストに仕えるよう、病気の家族に仕えることが神様の喜ばれる奉仕なのだと思います。
礼拝に出席したいと願っても、仕事を命じられ、心ならずも出勤しなければならないと言うこともあるでしょう。その時は会社の仕事をイエス・キリストに対する奉仕として忠実に為す人を、神様は祝福されるのです。私たちみなが、教会でも、家庭でも、社会でも、自ら進んでしもべとなると言う姿勢で奉仕に取り組み、神様の栄光を現してゆけたらと思います。今日の聖句です。
 
 ヨハネ1314それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。」 

2015年2月1日日曜日

マタイ25章14節~30節 「信仰生活の基本(4)奉仕~奉仕のこころ~」

私の愛するプロ野球は今シーズンオフですが、ちょっと嬉しいニュースがありました。元広島カープのピッチャー黒田選手が広島に帰って来ると言うのです。それも、大リーグのチームからは年俸20億円と言う条件を提示されていたのにそれを蹴って、年棒4億の広島カープを選んだと言うことで、大リーグの選手たちは非常に驚いているそうです。「広島カープは、どこの球団も目を留めない平凡な選手だった自分を見出し、声をかけ、育ててくれたチーム。だから、自分がピッチャーとして活躍できる状態で、必ず愛する広島に帰りたいと思っていた」、と黒田選手は答えていました。
黒田選手が大リーグに移籍した時、松坂選手やダルビッシュ選手ほど注目も、期待もされなかった記憶があります。しかし、黒田選手は5年連続二けた勝利をあげ、名門ヤンキースの先発ピッチャーとして、信頼される地位を築いてきました。年棒20億の提示を受けても全く不思議ではない選手です。しかし、今回それを退け、愛するカープとファンに恩返しをしたいという思いから、広島に帰る道を選んだのです。
大リーグの選手たちの反応から分かるように、この世においては仕事の価値が金銭的価値で判断されることが往々にしてあります。人の存在価値が収入によって測られることもしばしばです。その様な風潮の中、黒田選手の決断は、私たちがなす仕事には金銭的価値以上の意味があること、愛が心にある時、人は充実した働きをなすことができることを教えてくれたのではないかと思います。
一月から、私たちは新たな思いで信仰の歩みを進めてゆけたらと願い、信仰生活の基本となる事柄を学んできました。今日は第四回で働くこと、奉仕について考えます。
世界の初め、働くこと、奉仕は人間にとって喜びでした。エデンの園は食べて、寝て、生きると言う点においては、何一つ不足することのなかった楽園。最初の人アダムは生きるために働く必要はなかったのです。しかし、そこでアダムは神様に仕え働く喜び、奉仕の喜びを味わっていました。賜物を活かしての働き、この世界を良くする奉仕が最高の喜びと言うのが、人間本来の生き方であることを聖書は教えているのです。
しかし、神様に背を向けた時から、人間は生きるために働かねばならない存在となりました。神様と人に仕えると言う本来の目的を忘れ、生きるため稼ぐために働く人間の心からは喜びが薄れ、代わりに苦しみや虚しさが伴う様になったのです。
働けど働けど、わが生活なお楽にならざり じっと手を見る。故郷から家族を呼び寄せ、東京で新聞社の丁稚として働き始めた石川啄木が歌った歌です。働いても働いても楽にはならない生活。苦しくても家族を養うため働き続けなければならない労苦。じっと手を見ると言うことばの中に、啄木が感じていた苦しみを垣間見ることができます。
しかし、たとえ働いた結果多くの富を手にできたとして、それで人間の心は満ち足りるのかと言うと、そうでもありませんでした。栄耀栄華を極めたイスラエルの王ソロモンは、晩年この様に語っています。

伝道者の書2:11「しかし、私が手がけたあらゆる事業と、そのために私が骨折った労苦とを振り返ってみると、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。日の下には何一つ益になるものはない。」
 
この時、ソロモンは壮麗な宮殿に住んでいました。宮殿には美しい庭がついていました。ソロモンが集めた宝物の量、側女、奴隷、歌うたいの数は膨大でした。しかし、死を前にしたソロモンにはすべてが何の意味もなく、虚しいものに感じられたのです。
この様な悲惨な状態をあわれみ、神様は、私たちにとって働き、奉仕が再び喜びとなるとなるよう、イエス・キリストを与えてくださいました。イエス・キリストは私たちの心に奉仕の喜びを回復するため、罪から救い出してくださったお方なのです。
さて、今日の箇所。イエス・キリストによる、主人と三人のしもべのたとえとなっています。このたとえで、主人は神様を、しもべは私たち人間を表していることは言うまでもありません。

25:14~19「天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。五タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに五タラントもうけた。同様に、二タラント預かった者も、さらに二タラントもうけた。ところが、一タラント預かった者は、出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠した。さて、よほどたってから、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算をした。」

注目したいのは、主人がいかにしもべたちを愛し、信頼していたかと言う点です。先ず、主人は多額の金銭をしもべたちに任せています。最も少ないしもべでさえ一タラント。当時一タラントは6000デナリ、一デナリは労働者の一日の賃金にあたると言われますから、ざっと計算して17年分の賃金となります。二タラントはその二倍で34年分の賃金、五タラントは五倍で85年分の賃金。いずれにしても、主人がしもべに託すお金としては信じられないほど多額、膨大です。
しかも、この主人。しもべたちに指示らしい指示をだすこともなく、長い旅に出かけます。託したものを活用するかどうか、するとすればどのようにするのかは、各々の考えに委ねられていた、つまり彼らしもべたちは自由を持っていたということです。
これ程多くのものを任せ、旅にでることのできる関係。監視の目を光らせることなく、その人の自由に委ねることのできる関係。これはもう主人としもべと言うより、大切な仕事のパートナー、対等な人格的関係と言っても良いでしょう。
実は、これが聖書が教える神様と私たちの関係です。使徒パウロは「私たちは神の協力者である」と述べています。彼は神様が伝道という大切な仕事のパートナーとして、自分が召されていることを自覚していました。神様は、私たちのことも教会を建てあげるための協力者、この世界を良くする働きのためのパートナーと考え、多くの賜物を与えてくださった。このことを皆様は自覚しているでしょうか。
なお、「よほどたってから、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算をした。」
とあるように、このたとえはイエス・キリストが神の栄光を帯びてこの世界に戻り、地上における私たちの働きを最終的に評価する時のことを描いています。
これらを踏まえた上で、先ず見てみたいのは主人と悪いしもべのことです。
 
25:24~30「ところが、一タラント預かっていた者も来て、言った。『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。』
ところが、主人は彼に答えて言った。『悪いなまけ者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。だから、そのタラントを彼から取り上げて、それを十タラント持っている者にやりなさい。』だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。役に立たぬしもべは、外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです。」

このしもべの言うことを聞いていますと、彼がいかに主人の思いを理解していなかったかが分かります。しもべは、主人を非常に恐れています。自分に不当なほど厳しく接する主人、ひたすら仕事の成果、利益を求めている欲の深い主人であると感じています。そして、この主人に対する誤解が、しもべの行動に大きな影響を与えていました。彼は主人のお金を減らし怒られることを恐れ、預かったものを隠しておいたと言うのです。
この様な神観は世界共通に見られるものでした。古代バビロニアの神話には人間は神々のために奉仕するために造られたとあり、次の様に書かれています。「私は野蛮なものである人間を造ろう。人間には神々に奉仕すると言う務めを与え、怠けぬようにしよう。人間の奉仕によって神々が安楽に過ごすためである。」
力の強い者が力の弱い者を利用して利益を得る。利用された者はさらに弱い者を利用し利益を得ようとする。たとえ、夫婦、友人、同僚など対等な関係であっても、私たちは自分の必要を満たすため、相手に奉仕を求め、強いることがあります。これは罪から生まれてくる人間関係の歪みですが、人間はこの歪んで眼で神と言う存在を見てきました。
奉仕をしないと神が怒る。その様な恐怖感から奉仕に励む、あるいは奉仕をしない自分を責める。逆に人一倍奉仕すれば、神が報いてくださると信じて奉仕に励むと言う場合もあるでしょう。残念なことに、この様な恐怖感をあおって、人々を奉仕へと駆り立てようとする宗教が後を絶ちませんし、聖書の神様を信じているはずの私たちの心にも、この様な神観が残っていることを感じます。しかし、この様に神様の思いを誤解したままで奉仕に取り組むことは悪い、間違っていると、イエス様は仰るのです。
「悪い怠け者のしもべ」ということばからは、この人の怠け、怠惰が悪いと非難されているように見えます。しかし、イエス様が指摘しているのは、しもべの怠けそのものではありません。むしろ、恐れや怠けのもととなっている間違った神理解にあると考えられます。
聖書によれば、私たちと信じる神様はご自分の必要を満たすため、人間の奉仕を必要としないお方です。神様はあらゆる点で限りなく豊かであり、何一つ欠けのないお方なのです。むしろ、神様は私たちを我が子のように愛してくださるお方、私たちの心と体を満ちたらせるため、あふれるばかりの恵みを与えてくださるお方でした。

Ⅱコリント9:8「神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ちたりて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。」

神様のことをみことばに基づいて理解し、信頼しようとしなかったこと、むしろ、人を利用したり、人から利用することを恐れたり、その様な人間関係の延長線上で神様の思いを考えていたこと、つまり神様と正しい関係にないことが、しもべの問題点です。
そして、神様との正しい関係にないままに生き続けるなら、その人は外の暗闇に追い出され、吐いて歯ぎしりするような苦しみを味わうことになると、イエス様は語ります。働くことに何の喜びも見いだせない世界。神様からの恵みを貰えないまま、ただ生きるために働く苦しみ、虚しさを味わい続ける世界。その様な世界が待っていると言う警告でした。そして、これとは対照的に、良いしもべの姿からは喜びと満足が感じられます。

25:20~23「すると、五タラント預かった者が来て、もう五タラント差し出して言った。『ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。私はさらに五タラントもうけました。』その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』二タラントの者も来て言った。『ご主人さま。私は二タラント預かりましたが、ご覧ください。さらに二タラントもうけました。』その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』

良いしもべたちは、主人の信頼と愛に応えて働けたことを、心から喜び満足しています。主人の方は、自分の信頼と愛とを彼らが心で受けとめ、それに応えて忠実に働いたことを見て、心から喜んでいます。そして、彼らは、さらに主人から愛され、信頼され、さらに大切な働きを任されるという祝福を受け取るのです。これこそ、やがてイエス様とお会いする時、私たちみなが経験する事でした。
ところで、「主人の喜びをともに喜んでくれ。」とありますが、神様の喜びとは何でしょうか。それは、私たちのささげる奉仕やその成果ではなく、私たち自身であることをこの譬から教えられます。
子どもにおもちゃをプレゼントした親が喜ぶことは何でしょうか。その子どもがおもちゃを壊して親から叱られるのを恐れしまって置いたとしたら、親は喜ぶでしょうか。それよりも、そんなことを恐れず、おもちゃを使って思い切り友達と遊び、子ども喜ぶ姿こそ、親の喜びではないでしょうか。神様は奉仕を通して、私たちが神様と人とを喜ぶ者になること、ことばを代えて言えば、私たちが本来の生き方を回復し、私たちらしく輝く姿を見たいと切に願っているのです。
最後に二つのことをお勧めしたいと思います。ひとつ目は、みことばに基づいて神様の私たちに対する思い、みこころを理解し奉仕に取り組むことです。人間の奉仕を求める神。奉仕をささげ成果を上げる人間を喜び、そうでない人間を怒り、退ける神。その様な間違った神観は、私たちの中に深く根付いています。
私たちもいつの間にかその様な歪んだ思いに心が占領され、奉仕が苦しみ、重荷になってしまう危険があります。ですから、常に私たちを愛し、自由を与えてくださる神様を思い礼拝すること、神様の愛を受けとめ、応えてゆくことを大切にしたいのです。
ふたつめは、教会においても、この世においても、神様と人に仕える奉仕の心を持ち続けることです。今日の聖句をともに読みましょう。

コロサイ3:23「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。」

教会を建てあげる働き。この世を良くする働き。それは本当に多種多様です。小さな働き、人の目に留まらない蔭の働き、人の嫌がるような働きもあるでしょう。しかし、どのような働きも、神様と人を愛し、仕える心で取り組んでゆく。その時、その場所に、神様がおられることを覚え、神様に向けてささげる奉仕として心から行う。この一年、教会でも、家庭でも、会社でも、地域でも、この世界のいたる所で、その様な奉仕として歩んでゆけたらと思います。