一月から私達皆が新たな思いで信仰生活を送ることができるようにと願い、礼拝では信仰生活の基本に関する事柄を扱ってきました。礼拝、伝道、交わり、奉仕と扱ってきましたが、どうでしょうか。各々の分野で新たな思いを抱き取り組んでおられるでしょうか。今日は先週に続き、少し違った視点から奉仕についてお話ししたいと思います。
先回確認したことの一つは、世界の初め、人間が神様と親しい交わりの中にあった時、他の人の必要を満たすために働くことは、人間にとって喜びであったこと、しかし、神様に背を向けて生きるようになってから、働くことには苦しみや虚しさが伴うようになったということです。
「働けど働けど なお我がくらし 楽にならざり じっと手を見る」。先週も紹介したこの石川啄木の歌。生きてゆくため食べてゆくため、嫌でも何でも仕事をしなければならない辛さ、働いても楽にはならない生活の苦しみが伝わり、共感できます。
また、会社の為にと一生懸命働いてきた人が病気、定年などやむを得ない理由で退職する時、会社と言う組織の中のいつでも交換可能な歯車の一つの様に自分を感じて虚しくなる。この様な話も、よく耳にするところです。
ところで、仕事に関するあるアンケート調査で、「働いていて良かったと思った時はどんな時ですか」と言う質問がありました。皆様ならどう答えるでしょうか。
矢張りと言うべきか、案の定と言うべきか。第一位は、給料、ボーナスをもらった時で、男女とも半数がこれをあげています。一方、ありがとうと言われた時、人から頼りにされた時、社会に貢献できた時、人間関係が広がった時、成長を実感できる時と答えた人も多数います。また、会社を退職した人々からの答えの第一位は「自分の趣味、時間を楽しみたい」でしたが、知識、経験を活かして人のため、社会のために何らかの働きをすることが生きがいと答える方もかなりの数にのぼっています。
確かに、この世界で働くこと、奉仕することには苦しみや虚しさがあることは否定できません。しかし、アンケートからも分かるように、人間は生涯、収入があろうとなかろうと、奉仕を喜び、働くことを生きがいとする生活を求め続ける存在ではないかと感じます。そして聖書は、私たちが奉仕を喜び、働くことを生きがいと思える人生を回復するため、イエス・キリストがこの世界に来られ、十字架に罪の贖いを成し遂げてくださったと教えているのです。
今日は、そのイエス様がご自身の行動により、奉仕について大切なことを教えられた箇所、有名な洗足の場面を読み進めてゆきます。
13:3~5「イエスは、父が万物を自分の手に渡されたことと、ご自分が父から来て父に行くことを知られ、夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。」
時は紀元30年頃の春、十字架前夜、都エルサレムのある家で、イエス様と弟子たちが過越しの食事を始めようとしていた場面です。いよいよ食事開始と思われた瞬間、イエス様が突然立ち上がり、上着を脱いで、手拭いを腰に巻き、たらいに水を入れると、足を投げ出す弟子たちの前に跪きました。両手で泥と埃に汚れた弟子たちの足を抱え、たらいに導き、自ら洗い出したと言うのです。
これまで、弟子たちが何度も議論してきたことの一つは、誰が一番偉いかというもの。その度に、イエス様は「聖書の神を知らない人々は、人を支配する者が偉いと考えているが、神の国では、人に仕える者こそ偉大である」と説いてきましたから、自分が足を洗おうと考える弟子が一人ぐらいいたとしても、おかしくはなかったのです。しかし、それを実行する弟子はいませんでした。
何故か。当時ユダヤの社会では、人の足を洗うと言う行いはユダヤ人の奴隷にも強要されることがなかったと言われます。それは異邦人の奴隷に限り、命じることができること、要するに最も身分の低い者の仕事、最も価値なき奉仕とされていました。ですから、洗足を自分の奉仕と考える弟子誰一人いなかったのです。
それを誰あろう、イエス様ご自身が当然のことの様に始められたと言うのですから、弟子たちの驚きは相当なものだったでしょう。彼らは驚き、戸惑い、お互いに口をつぐむばかり。沈黙が覆うなか、ひとり自分の思いを心に秘めて置くことのできない性格の弟子ペテロはそれに耐えきれず、口を開きます。
13:6~11「こうして、イエスはシモン・ペテロのところに来られた。ペテロはイエスに言った。「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。」イエスは答えて言われた。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」ペテロはイエスに言った。「決して私の足をお洗いにならないでください。」イエスは答えられた。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」シモン・ペテロは言った。「主よ。わたしの足だけでなく、手も頭も洗ってください。」イエスは彼に言われた。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。あなたがたはきよいのですが、みながそうではありません。」イエスはご自分を裏切る者を知っておられた。それで、「みながきよいのではない。」と言われたのである。」
ペテロが最初に言ったことばでは、「あなた」と「私」の二語が非常に強調されています。つまり、ペテロは、「主よ。あなたが、主であるあなたが、こんな私の足を洗ってくださるのですか」と言いたかったのです。いかに、イエス様の常識破りの行いに驚き、戸惑っていたかが伝わってきます。
それに対してイエス様は、「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになる」とお答えになる。これは、洗足によって弟子たちの足をきよめる行いが、イエス様が十字架の死を通し彼らの罪を贖い、きよめることを予告することばでした。
しかし、イエス様が言われた通り、ペテロが洗足と十字架の意味、その関係を理解するのは後のこと。この時全く理解できなかった彼は、「主よ。わたしの足だけでなく、手も頭も洗ってください」等と、とんちんかんなことを口走っています。
それはそれとして、注目したいのは、「自分の足を洗っていただくなんて」と恐縮したペテロが、洗足を断ったことに対するイエス様の応答です。イエス様はペテロに、「もし、わたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません」と語られました。
これは、非常に強いことば、厳粛な表現です。ここに込められたイエス様の思いとは、果たしてどのようなものだったのでしょうか。先程も言いました様に、洗足は当時奴隷の仕事、人がなす最も低きつとめ。イエス様は自らしもべとなり、この奉仕をなすことで弟子たちに対する愛を示されました。そして、これは翌日、神のしもべとして十字架に死ぬことにより現された更に大きな愛、人間の罪を贖う愛を予告していたのです。
「洗足と十字架の死を通して表わすわたしの愛を受け取りなさい。遠慮している場合ではありません。しもべとなって仕えるほどに、あなたを愛しているわたしの愛を先ず心に受け取って欲しいのです」。これが、イエス様の思い、メッセージでした。
以上、洗足はイエス様が十字架において現された罪の贖いの愛、しもべとして私たち罪人に仕えてくださる愛を示すものであることを見てきました。しかし、洗足の意味は、これにとどまりません。それは、私たちの生き方の模範でもあったのです。
13:12~17「イエスは、彼らの足を洗い終わり、上着を着けて、再び席に着いて、彼らに言われた。「わたしがあなたがたに何をしたか、わかりますか。あなたがたはわたしを先生とも主とも呼んでいます。あなたがたがそう言うのはよい。わたしはそのような者だからです。それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。まことに、まことに、あなたがたに告げます。しもべはその主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさるものではありません。あなたがたがこれらのことを知っているのなら、それを行なうときに、あなたがたは祝福されるのです。」
ここでイエス様が教えておられるのは、私たちクリスチャンの奉仕の姿勢、また、この世の価値観との違いです。しもべはその主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさるものではないと言われた通り、この世においては、地位の高い者、財産を持つ者、能力のある者が尊いとされます。
神様から離れて生きるようになってから、人間は奉仕の価値、奉仕をする人の価値をその地位や、収入や、能力などによって判断するようになりました。誰もが、自分の仕事や存在を価値あるものと思い、認めてもらう為、少しでも人より上の地位、収入を願い、周りの人々の賞賛、注目を求めて働くようになったのです。
勿論、一生懸命働いた結果として、地位や収入を与えられること、人々に認められることは、神様の恵みであり、嬉しいことです。しかし、地位や収入、人々の賞賛、評価を第一に求めて働くこと、奉仕することは、イエス様の望まれることではないと教えられます。むしろ、それらのものを得る見込みがない奉仕、低きつとめ、誰もしたがらないような働きを自ら進んでなす者こそ、神様の祝福を受け取る人、神様の眼に最も尊き人と教えられるのです。
この後イエス様がゲッセマネの園で祈りをささげますが、何を祈られたのか、ご存知でしょうか。天の父に対し、みこころなら十字架の死を避けたいと祈られたのです。十字架刑の肉体的苦痛、人々から罵られる精神的苦痛、父なる神様からさばかれ、見捨てられると言う苦痛。イエス様にとって十字架の死は非常な苦しみであり、大切な使命とは覚えつつも、受け入れたくはないものでした。
しかし、天の父との交わりの中で、最終的に十字架に道を選ばれたイエス様は労苦のあとを振り返り、心から満足されたと旧約聖書は語っています。
イザヤ53:11 「彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。・・・」
しもべとなることを嫌う、苦労を伴う奉仕を避けたいと言う思いも、私たちの中にある罪の性質から生まれてくるものです。しかし、イエス様の十字架と比べるのは畏れ多く、気が引けますが、私たちも苦労を重ね、人に仕える奉仕を成し遂げた時、心からの満足を味わうことができるように思います。その人の必要を満たし、その人が喜ぶためならしもべとなることも厭わない。その様な思いで奉仕を成し遂げ、一切の苦労を忘れる程の喜び、生きがいを感じる瞬間です。しもべとなって奉仕する時、神様が私たちに与えてくださるこの様な祝福を期待したいと思います。
最後に、二つのことを確認したいと思います。ひとつは、神様のみこころを理解し、しっかりと受けとめることです。
今日の場面、弟子たちにしもべとなり奉仕すること勧める前に、イエス様がご自身の愛の奉仕を受け取るよう命じていたことを思い出してください。「もし、わたしが足を洗わなければ、わたしとあなたは何の関係もないのです」と語った、あのことばです。
イエス様は、互いに仕えることのできなかった弟子たち、誰が一番偉いのかと自己中心の性質丸出しで争う弟子たち、つまりイエス様の愛を受け取るに値しない罪人に対する愛を現し、奉仕の前に先ずご自身の愛を受け取るよう命じているのです。
ことばを代えて言えば、罪を持ったままの私たちを愛する神様の愛、奉仕をささげても、ささげなくても私たちの存在を大切に思う、無条件で、巨大な神様の愛。この神様の愛を心にしっかりと受けとめ、味わい、憩うことが、神様のみこころ、イエス様の願いだったのです。
奉仕をしないと神様が怒る。あるいは奉仕ができない自分、成果をあげられない自分を神様は愛してくれないのではないか。その様に、私たちが神様のみこころを誤解したまま、奉仕に取り組むことを、神様は望んでおられません。むしろ、先ず何よりも神様の愛を心に受け取り、憩い、安心すること。その上で、今置かれた場所で自分がなすべき奉仕について考え、実行してゆくこと。これが、神様のみこころと覚えたいのです。
二つ目は、奉仕について広い視点で考えることです。イエス様ご自身が示された姿勢、自由な心でしもべとなり、低きつとめを果たすと言う姿勢で、教会とこの世における奉仕をなしてゆくことです。
コロサイ3:23「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。」
これは、初代教会において多く存在したと考えられるクリスチャン奴隷への勧めのことばです。彼らは、主人に呼ばれれば、それが礼拝の日であっても仕事をしなければならず、気の進まない仕事、困難な仕事も抱えていたと考えられます。
その様な厳しい状況に置かれた人々に対し、あなたを愛し、あなたに仕えておられる主イエス・キリストに対する奉仕として、仕事をするようにとパウロは勧めています。地上の主人に強いられた仕事としてではなく、愛するイエス・キリストに対する奉仕と受けとめ、心からそれを選ぶことを勧めているのです。
聖書は、教会における奉仕も、家庭における家事も育児も、社会におけるボランティア活動や仕事も、すべてのことをイエス・キリストに対する心からの奉仕として行う時、私たちは祝福されるのです。
人生には様々なことがあります。教会で奉仕をと願っていても、病気の家族の世話をするために、それができないと言う時もあるでしょう。そうならば、イエス・キリストに仕えるよう、病気の家族に仕えることが神様の喜ばれる奉仕なのだと思います。
礼拝に出席したいと願っても、仕事を命じられ、心ならずも出勤しなければならないと言うこともあるでしょう。その時は会社の仕事をイエス・キリストに対する奉仕として忠実に為す人を、神様は祝福されるのです。私たちみなが、教会でも、家庭でも、社会でも、自ら進んでしもべとなると言う姿勢で奉仕に取り組み、神様の栄光を現してゆけたらと思います。今日の聖句です。