これまで断続的に行ってきた一書説教ですが、アドベントや年末年始の礼拝、成長感謝礼拝やウェルカム礼拝などの特別な礼拝があり、実に四ヶ月ぶりとなりました。久しぶりの一書説教。気持ちを新たに取り組みいたいと思います。
一書説教は今日で二十回目。旧約聖書第二十の巻、「箴言」を扱うことになります。六十六巻からなる聖書の中には様々なジャンルが含まれますが、「箴言」はその名の通り、格言集、金言集、諺集、名言集と言える内容です。その多くは知恵者ソロモンによるもので、韻文による知恵の書。知恵を求めることの重要性、知恵者としての生き方は具体的にどのようなものなのか、繰り返し語られ書。
ある人は(ヘンリエッタ・ミアーズ)、詩篇と箴言を対比して、次のように特徴を述べています。「詩篇には、ひざまずいているキリスト者が見出される。箴言には、両足で立っているキリスト者が見出される。詩篇は、キリスト者の礼拝のためのもの。箴言は、キリスト者の歩みのためのもの。詩篇は、祈りのためのもの。箴言は、職場、家庭、運動場のためのもの。」つまり、神の民は、生活の全ての場面で、知恵ある者として生きるように求められているし、その具体的な生き方が箴言に示されているということです。(詩篇、箴言に対するこのような表現が正しいかは議論の余地があると思いますが、一つの目安になると思います。)
今回の一書説教を経て、私たち皆で箴言を読むことが出来ますように。また、箴言を読むことを通して、生活のあらゆる場面で聖書の教える知恵ある者としての生き方を送ることが出来ますように。一書説教が進むにつれて、教会の皆で聖書を読み進めていくという恵みにあずかりたいと願っています。
なぜこの書が記されたのか。ありがたいことに、この書の目的が、その冒頭に記されています。
箴言1章1節~6節、7節
「イスラエルの王、ダビデの子、ソロモンの箴言。これは、知恵と訓戒とを学び、悟りのことばを理解するためであり、正義と公義と公正と、思慮ある訓戒を体得するためであり、わきまえのない者に分別を与え、若い者に知識と思慮を得させるためである。知恵のある者はこれを聞いて理解を深め、悟りのある者は指導を得る。これは箴言と、比喩と、知恵のある者のことばと、そのなぞとを理解するためである。主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。」
知恵、訓戒、悟り、正義、公義、公正、分別、知識、思慮と、いくつもの言葉が出て来ますが、要はこの書を読む者が、聖書の示す知恵を身につけることが、この書が書かれた目的と宣言されます。箴言は私たちに知恵を与えるための書物。
それでは、聖書の示す知恵とは何か。どのような知恵か。その中心は何かと言えば、「主を恐れること」でした。
「主を恐れる。」と聞いて、いかがでしょうか。皆様は正しく主を恐れているでしょうか。神様に恐怖を覚えるようにと教えられているわけではありません。キリストを信じた私たちは神様の子とされた者。親しみをもって神様に近づくことが許された者です。とはいえ、神の子として自由気ままに生きるように教えられているわけでもありません。天の父に対する畏敬の念を持つこと。神の子というあまりに大きな身分を頂いたことに恐れおののくこと。天の父の御名を汚さないように、恐れつつ生きることは、私たちにとって大事なこと。この正しく主を恐れることを私たちが出来るようにと記されたのが箴言でした。
さて、概観ですが、前半と言えるのが、一章から九章までです。
特徴として、親が子に話すような語り口になっていることが挙げられます。格言、諺というよりも、講話的、物語的と言えます。(後半と比べると顕著な違いがあります。)
この前半部分、それなりの分量がありますが、扱われている内容は、僅かに感じます。つまり、同じ内容が繰り返し述べられている。大体二つの内容のどちらかに当てはまるように思います。
一つは、「知恵を求めるように。」あるいは「父からの教えを良く聞くこと。」という内容。イスラエルにおいて、聖書に基づく教育をする責任は父にあると教えられていましたので、ここで言う父からの教えとは、父による聖書に基づく教育を指すと考えられます。聖書の教えを心に留めるように。知恵を求めるように。また、知恵を得て生きることが、どれ程祝福の道なのか語られるところもあります。
二つ目は、「愚かな道に入りこまないように。」という内容。一つ目の内容を反対から表現したもの。父の教えを捨てないように、知恵を求めることをやめないように。愚かな道、悪の道に進まないように、との教え。愚かな道、悪の道に入りこむと、どれ程悲惨な歩みをすることになるのか語られているところもあります。
いくつも例を挙げることが出来ますが、(上記二つの内容に重なるか確認しながらお読み下さい。)例えば、
箴言4章10節~17節
「わが子よ。聞け。私の言うことを受け入れよ。そうすれば、あなたのいのちの年は多くなる。私は知恵の道をあなたに教え、正しい道筋にあなたを導いた。あなたが歩むとき、その歩みは妨げられず、走るときにも、つまずくことはない。訓戒を堅く握って、手放すな。それを見守れ。それはあなたのいのちだから。悪者どもの道にはいるな。悪人たちの道を歩むな。それを無視せよ。そこを通るな。それを避けて通れ。彼らは悪を行なわなければ、眠ることができず、人をつまずかせなければ、眠りが得られない。彼らは不義のパンを食べ、暴虐の酒を飲むからだ。」
父からの教えを離れないように、それを守る時につまずかない。悪から離れるように、悪の道には平安がないと教えられる。これと同じような内容が繰り返し出てくるのが、箴言の前半です。
つまり、前半部分の中心テーマは、知恵ある生き方自体の勧め。知恵ある生き方が具体的にどのようなものかというよりも、知恵を求めることの重要性。心構えを諭す内容と言えます。
(余談となりますが、この前半部分で悪の道として何度も、姦淫がテーマとなっています。人妻、遊女、異国の女に気を付けるようにと。親から子どもへの忠告の中に、異性の問題を入れているのは、さすが聖書と言えるでしょうか。親は自分の役割として、子どもへの性教育の責任も確認すべきでしょう。なお、ソロモン自身がダビデと人妻バテシェバの子であることを思うと、箴言の中に不品行を避けるように強く記されることの意味深さを覚えます。)
この箴言の前半を読む時、自分は聖書が教える知恵を求めているだろうかと問われます。この世界には様々な知恵がありますが、どのような知恵でも身に付けることが出来るとしたら、自分は何を願うのか。仕事のため、学業のため、名声のため、地位のため、自分の夢を叶えるための知恵と、聖書の教える知恵と、どちらを優先して求めているでしょうか。主を恐れる知恵を求めるようにとの勧めに、私たちはどのように応じるでしょうか。
箴言の後半。十章からです。ここからは雰囲気、内容が変わります。前半が講話的、物語的な語り口調であったのに対して、後半は格言、諺の連発となります。主を恐れることの幸いと、愚か者の不幸を、短く、具体的にした言葉の羅列。
箴言10章1節~5節
「ソロモンの箴言
知恵のある子は父を喜ばせ、愚かな子は母の悲しみである。
不義によって得た財宝は役に立たない。しかし正義は人を死から救い出す。
主は正しい者を飢えさせない。しかし悪者の願いを突き放す。
無精者の手は人を貧乏にし、勤勉な者の手は人を富ます。
夏のうちに集める者は思慮深い子であり、刈り入れ時に眠る者は恥知らずの子である。」
箴言後半に出てくる格言は、基本的には、二行からなる対句で一つとなります。一節は、「知恵ある子は父を喜ばせ」が前半で、「愚かな子は母の悲しみである。」が後半。内容は正反対ですが、どちらも同じテーマで、「知恵の勧め」。二節、三節は「正しさの勧め」、四節、五節は「勤勉の勧め」となっています。この五つの節に限定して言えば、主を恐れることは、知恵を求め、正しく生き、勤勉であることと言えるでしょうか。
ところで、この十章の冒頭に出てくる言葉は、一つのテーマについて正反対の二つを並べて、そのコントラストにより強調する格言(反意的対句)となっていますが、これ以外にも様々な形があります。
例えば、二つとも同じ内容で強調する格言。
箴言16章16節
「知恵を得ることは、黄金を得るよりはるかにまさる。悟りを得ることは銀を得るよりも望ましい。」
金銀を求めることを最上とする世界にあって、それよりも知恵を求めるようにと勧める格言。二行からなる対句のどちらも、知恵を得ることの素晴らしさを肯定的に表現しています。(同義的対句。)同じ内容を、表現を少し変えて、強調する格言。
また、比較対象を出すことで、言いたいことを強調する格言もあります。
箴言17章1節
「一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる。」
豪華であることが良く、貧しさは敵と考える世にあって、家庭が平和であることの大切さを訴える格言。平和であることがいかに大切なことか、ご馳走と争いに満ちた家と比較することで、強調する格言。(比較的対句。)
あるいは、比喩を用いることで、主張を強調する格言もあります。
箴言11章22節
「美しいが、たしなみのない女は、金の輪が豚の鼻にあるようだ。」
美しいことが最上とする世にあって、「たしなみ」の方が大事であるとの主張。美しかろうが、たしなみがないということを、金の輪が豚の鼻にあるようだと比喩を用いて糾弾する格言。(比喩的対句。)かなり辛辣な表現だと思いますが、これもまた聖書でした。
このように二行の前半と後半の関係は様々な形があります。箴言の後半、このような二行からなる対句が続きますが、それぞれどのような対句なのか考えながら読むということも、箴言を読む楽しみの一つです。
ところで、この箴言の後半に出てくる格言の並び順ですが、どのようなつながりがあるのか、よく分かりません。次々に内容が変わり、扱うテーマが変わります。そのため、箴言の後半を概観することは非常に難しいのですが、何度も読んでみますと、繰り返し同じようなテーマを見出すことが出来ます。
今回、私が箴言を読みまして、よく見かけたと思うテーマを三つ挙げるとすれば、一つは「ことば」です。舌、口、くちびるという表現も出て来ますが、ことばをいかに大切に使うべきなのか。主を恐れる生き方は、ことばをどのように使うのかに現われると教えられます。
また「家族」をテーマにした格言もよく出て来ます。夫婦、親子、兄弟、あるいは家族全般についての格言が多くあります。主を恐れる生き方が、家族関係に現われると言えるでしょうか。
また「友人・隣人」のテーマもよく出て来ます。友がいることの恵みの大きさ、友としてのあるべき姿、罪人であるが故に友情がいかに傷つきやすいかを教えるもの、などなど、友人・隣人がテーマの格言も多くあります。
「ことば」「家族」「友人・隣人」がよく見かけるテーマと考えると、主を恐れる生き方とは、具体的には身近な人との関係によく現われると言うことも出来ます。
今回、後半でよく目にするテーマとして、私は「ことば」「家族」「友人・隣人」を挙げますが、他にも色々挙げることが出来ます。どのようなテーマが多いと思うか、考えながら読むことも箴言を楽しむ一つの方法です。箴言を読んでみて、このテーマが多いと思うことがあれば、是非とも教えて頂きたいと思います。
(箴言の後半は、二行からなる対句の格言が続きますが、最後の二章は、ソロモンとは別人物の知恵の言葉、前半と同様に講話的な言葉で閉じられることになります。三十一章の十節からは、優れた妻をテーマに、ヘブル語のいろは歌となっていて、優れた詩として有名です。)
以上、簡単にですが箴言を読む備えをしました。最後に、今一度箴言を読む心構えを確認して、説教を閉じたいと思います。
箴言2章1節~6節
「わが子よ。もしあなたが、私のことばを受け入れ、私の命令をあなたのうちにたくわえ、あなたの耳を知恵に傾け、あなたの心を英知に向けるなら、もしあなたが悟りを呼び求め、英知を求めて声をあげ、銀のように、これを捜し、隠された宝のように、これを探り出すなら、そのとき、あなたは、主を恐れることを悟り、神の知識を見いだそう。主が知恵を与え、御口を通して知識と英知を与えられるからだ。」
私たちは聖書を神のことばと信じています。その聖書が知恵を求めるように。それも、主を恐れる知恵を求めるようにと教えています。しかも、この箴言二章の言葉によれば、私たちが知恵を求めさえすれば、それで良い。英知を求めて声を上げ、捜し、探り出すならば、主を恐れることを悟るとの約束です。
では、私たちはどこで主を恐れる知恵を求めれば良いのでしょうか。言うまでもない。目の前にあります。「箴言」です。ここに、主を恐れる知恵があるのです。あとは、私たちが求めるだけ。しかし、この求めるということが、一番の問題なのです。
既に説教中にお聞きしたことですが、もう一度お聞きします。皆様は、どのような知恵でも与えられるとしたら、何を求めるでしょうか。お金を得る知恵、名声を得る知恵、人を思い通りに動かす知恵、自分の夢を叶えるための知恵。それよりも、正しく主を恐れる知恵が自分には必要である、大事であると思っているでしょうか。
今朝、この礼拝にて、神様の前で自分の願いは正しい願いを持っているのか、皆で再確認したいと思います。多くの場合、自分の心からの願いは、自分の欲望を満たすためのもの。その私たちが、正しく主を恐れる知恵を願うためには、意識的に、決意的に、選択する必要があります。
自分の願いがどのようなものであろうとも、聖書が教える最も大切な知恵、正しく主を恐れることの知恵を求める決意を、今日新たにしたいと思います。皆で箴言を読み、その教えを実践することで、正しく主を恐れる歩みを送りたいと思います。