私の愛するプロ野球は今シーズンオフですが、ちょっと嬉しいニュースがありました。元広島カープのピッチャー黒田選手が広島に帰って来ると言うのです。それも、大リーグのチームからは年俸20億円と言う条件を提示されていたのにそれを蹴って、年棒4億の広島カープを選んだと言うことで、大リーグの選手たちは非常に驚いているそうです。「広島カープは、どこの球団も目を留めない平凡な選手だった自分を見出し、声をかけ、育ててくれたチーム。だから、自分がピッチャーとして活躍できる状態で、必ず愛する広島に帰りたいと思っていた」、と黒田選手は答えていました。
黒田選手が大リーグに移籍した時、松坂選手やダルビッシュ選手ほど注目も、期待もされなかった記憶があります。しかし、黒田選手は5年連続二けた勝利をあげ、名門ヤンキースの先発ピッチャーとして、信頼される地位を築いてきました。年棒20億の提示を受けても全く不思議ではない選手です。しかし、今回それを退け、愛するカープとファンに恩返しをしたいという思いから、広島に帰る道を選んだのです。
大リーグの選手たちの反応から分かるように、この世においては仕事の価値が金銭的価値で判断されることが往々にしてあります。人の存在価値が収入によって測られることもしばしばです。その様な風潮の中、黒田選手の決断は、私たちがなす仕事には金銭的価値以上の意味があること、愛が心にある時、人は充実した働きをなすことができることを教えてくれたのではないかと思います。
一月から、私たちは新たな思いで信仰の歩みを進めてゆけたらと願い、信仰生活の基本となる事柄を学んできました。今日は第四回で働くこと、奉仕について考えます。
世界の初め、働くこと、奉仕は人間にとって喜びでした。エデンの園は食べて、寝て、生きると言う点においては、何一つ不足することのなかった楽園。最初の人アダムは生きるために働く必要はなかったのです。しかし、そこでアダムは神様に仕え働く喜び、奉仕の喜びを味わっていました。賜物を活かしての働き、この世界を良くする奉仕が最高の喜びと言うのが、人間本来の生き方であることを聖書は教えているのです。
しかし、神様に背を向けた時から、人間は生きるために働かねばならない存在となりました。神様と人に仕えると言う本来の目的を忘れ、生きるため稼ぐために働く人間の心からは喜びが薄れ、代わりに苦しみや虚しさが伴う様になったのです。
働けど働けど、わが生活なお楽にならざり じっと手を見る。故郷から家族を呼び寄せ、東京で新聞社の丁稚として働き始めた石川啄木が歌った歌です。働いても働いても楽にはならない生活。苦しくても家族を養うため働き続けなければならない労苦。じっと手を見ると言うことばの中に、啄木が感じていた苦しみを垣間見ることができます。
しかし、たとえ働いた結果多くの富を手にできたとして、それで人間の心は満ち足りるのかと言うと、そうでもありませんでした。栄耀栄華を極めたイスラエルの王ソロモンは、晩年この様に語っています。
伝道者の書2:11「しかし、私が手がけたあらゆる事業と、そのために私が骨折った労苦とを振り返ってみると、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。日の下には何一つ益になるものはない。」
この時、ソロモンは壮麗な宮殿に住んでいました。宮殿には美しい庭がついていました。ソロモンが集めた宝物の量、側女、奴隷、歌うたいの数は膨大でした。しかし、死を前にしたソロモンにはすべてが何の意味もなく、虚しいものに感じられたのです。
この様な悲惨な状態をあわれみ、神様は、私たちにとって働き、奉仕が再び喜びとなるとなるよう、イエス・キリストを与えてくださいました。イエス・キリストは私たちの心に奉仕の喜びを回復するため、罪から救い出してくださったお方なのです。
さて、今日の箇所。イエス・キリストによる、主人と三人のしもべのたとえとなっています。このたとえで、主人は神様を、しもべは私たち人間を表していることは言うまでもありません。
25:14~19「天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。五タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに五タラントもうけた。同様に、二タラント預かった者も、さらに二タラントもうけた。ところが、一タラント預かった者は、出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠した。さて、よほどたってから、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算をした。」
注目したいのは、主人がいかにしもべたちを愛し、信頼していたかと言う点です。先ず、主人は多額の金銭をしもべたちに任せています。最も少ないしもべでさえ一タラント。当時一タラントは6000デナリ、一デナリは労働者の一日の賃金にあたると言われますから、ざっと計算して17年分の賃金となります。二タラントはその二倍で34年分の賃金、五タラントは五倍で85年分の賃金。いずれにしても、主人がしもべに託すお金としては信じられないほど多額、膨大です。
しかも、この主人。しもべたちに指示らしい指示をだすこともなく、長い旅に出かけます。託したものを活用するかどうか、するとすればどのようにするのかは、各々の考えに委ねられていた、つまり彼らしもべたちは自由を持っていたということです。
これ程多くのものを任せ、旅にでることのできる関係。監視の目を光らせることなく、その人の自由に委ねることのできる関係。これはもう主人としもべと言うより、大切な仕事のパートナー、対等な人格的関係と言っても良いでしょう。
実は、これが聖書が教える神様と私たちの関係です。使徒パウロは「私たちは神の協力者である」と述べています。彼は神様が伝道という大切な仕事のパートナーとして、自分が召されていることを自覚していました。神様は、私たちのことも教会を建てあげるための協力者、この世界を良くする働きのためのパートナーと考え、多くの賜物を与えてくださった。このことを皆様は自覚しているでしょうか。
なお、「よほどたってから、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算をした。」
とあるように、このたとえはイエス・キリストが神の栄光を帯びてこの世界に戻り、地上における私たちの働きを最終的に評価する時のことを描いています。
これらを踏まえた上で、先ず見てみたいのは主人と悪いしもべのことです。
25:24~30「ところが、一タラント預かっていた者も来て、言った。『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。』
ところが、主人は彼に答えて言った。『悪いなまけ者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。だから、そのタラントを彼から取り上げて、それを十タラント持っている者にやりなさい。』だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。役に立たぬしもべは、外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです。」
このしもべの言うことを聞いていますと、彼がいかに主人の思いを理解していなかったかが分かります。しもべは、主人を非常に恐れています。自分に不当なほど厳しく接する主人、ひたすら仕事の成果、利益を求めている欲の深い主人であると感じています。そして、この主人に対する誤解が、しもべの行動に大きな影響を与えていました。彼は主人のお金を減らし怒られることを恐れ、預かったものを隠しておいたと言うのです。
この様な神観は世界共通に見られるものでした。古代バビロニアの神話には人間は神々のために奉仕するために造られたとあり、次の様に書かれています。「私は野蛮なものである人間を造ろう。人間には神々に奉仕すると言う務めを与え、怠けぬようにしよう。人間の奉仕によって神々が安楽に過ごすためである。」
力の強い者が力の弱い者を利用して利益を得る。利用された者はさらに弱い者を利用し利益を得ようとする。たとえ、夫婦、友人、同僚など対等な関係であっても、私たちは自分の必要を満たすため、相手に奉仕を求め、強いることがあります。これは罪から生まれてくる人間関係の歪みですが、人間はこの歪んで眼で神と言う存在を見てきました。
奉仕をしないと神が怒る。その様な恐怖感から奉仕に励む、あるいは奉仕をしない自分を責める。逆に人一倍奉仕すれば、神が報いてくださると信じて奉仕に励むと言う場合もあるでしょう。残念なことに、この様な恐怖感をあおって、人々を奉仕へと駆り立てようとする宗教が後を絶ちませんし、聖書の神様を信じているはずの私たちの心にも、この様な神観が残っていることを感じます。しかし、この様に神様の思いを誤解したままで奉仕に取り組むことは悪い、間違っていると、イエス様は仰るのです。
「悪い怠け者のしもべ」ということばからは、この人の怠け、怠惰が悪いと非難されているように見えます。しかし、イエス様が指摘しているのは、しもべの怠けそのものではありません。むしろ、恐れや怠けのもととなっている間違った神理解にあると考えられます。
聖書によれば、私たちと信じる神様はご自分の必要を満たすため、人間の奉仕を必要としないお方です。神様はあらゆる点で限りなく豊かであり、何一つ欠けのないお方なのです。むしろ、神様は私たちを我が子のように愛してくださるお方、私たちの心と体を満ちたらせるため、あふれるばかりの恵みを与えてくださるお方でした。
Ⅱコリント9:8「神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ちたりて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。」
神様のことをみことばに基づいて理解し、信頼しようとしなかったこと、むしろ、人を利用したり、人から利用することを恐れたり、その様な人間関係の延長線上で神様の思いを考えていたこと、つまり神様と正しい関係にないことが、しもべの問題点です。
そして、神様との正しい関係にないままに生き続けるなら、その人は外の暗闇に追い出され、吐いて歯ぎしりするような苦しみを味わうことになると、イエス様は語ります。働くことに何の喜びも見いだせない世界。神様からの恵みを貰えないまま、ただ生きるために働く苦しみ、虚しさを味わい続ける世界。その様な世界が待っていると言う警告でした。そして、これとは対照的に、良いしもべの姿からは喜びと満足が感じられます。
25:20~23「すると、五タラント預かった者が来て、もう五タラント差し出して言った。『ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。私はさらに五タラントもうけました。』その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』二タラントの者も来て言った。『ご主人さま。私は二タラント預かりましたが、ご覧ください。さらに二タラントもうけました。』その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
良いしもべたちは、主人の信頼と愛に応えて働けたことを、心から喜び満足しています。主人の方は、自分の信頼と愛とを彼らが心で受けとめ、それに応えて忠実に働いたことを見て、心から喜んでいます。そして、彼らは、さらに主人から愛され、信頼され、さらに大切な働きを任されるという祝福を受け取るのです。これこそ、やがてイエス様とお会いする時、私たちみなが経験する事でした。
ところで、「主人の喜びをともに喜んでくれ。」とありますが、神様の喜びとは何でしょうか。それは、私たちのささげる奉仕やその成果ではなく、私たち自身であることをこの譬から教えられます。
子どもにおもちゃをプレゼントした親が喜ぶことは何でしょうか。その子どもがおもちゃを壊して親から叱られるのを恐れしまって置いたとしたら、親は喜ぶでしょうか。それよりも、そんなことを恐れず、おもちゃを使って思い切り友達と遊び、子ども喜ぶ姿こそ、親の喜びではないでしょうか。神様は奉仕を通して、私たちが神様と人とを喜ぶ者になること、ことばを代えて言えば、私たちが本来の生き方を回復し、私たちらしく輝く姿を見たいと切に願っているのです。
最後に二つのことをお勧めしたいと思います。ひとつ目は、みことばに基づいて神様の私たちに対する思い、みこころを理解し奉仕に取り組むことです。人間の奉仕を求める神。奉仕をささげ成果を上げる人間を喜び、そうでない人間を怒り、退ける神。その様な間違った神観は、私たちの中に深く根付いています。
私たちもいつの間にかその様な歪んだ思いに心が占領され、奉仕が苦しみ、重荷になってしまう危険があります。ですから、常に私たちを愛し、自由を与えてくださる神様を思い礼拝すること、神様の愛を受けとめ、応えてゆくことを大切にしたいのです。
ふたつめは、教会においても、この世においても、神様と人に仕える奉仕の心を持ち続けることです。今日の聖句をともに読みましょう。
コロサイ3:23「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。」
教会を建てあげる働き。この世を良くする働き。それは本当に多種多様です。小さな働き、人の目に留まらない蔭の働き、人の嫌がるような働きもあるでしょう。しかし、どのような働きも、神様と人を愛し、仕える心で取り組んでゆく。その時、その場所に、神様がおられることを覚え、神様に向けてささげる奉仕として心から行う。この一年、教会でも、家庭でも、会社でも、地域でも、この世界のいたる所で、その様な奉仕として歩んでゆけたらと思います。