2015年4月12日日曜日

ヨハネの福音書17章20節~26節 「みな一つとなるために」

聖書によれば、神様を離れ罪に落ちた人間が失ったものがふたつあります。一つは、神様との親しい交わり。もう一つは互いに愛し合う交わりです。
事実、人類最初の夫婦アダムとエバの間も喧嘩をしたことが記されています。夫アダムは禁断の木の実を食べたことを妻のせいに、妻エバは誘惑した蛇のせいに、各々責任転嫁し争いました。最初もっていた親密な交わりを失ったのです。ある意味で、聖書は、それ以降、夫婦親子隣人、民族と民族、国と国。人間の交わりがいかに酷いものになってしまったか。どれ程あるべき状態から落ちてしまったのか。その記録と言えます。
そして、状況は現代においても変わらないかもしれない。いや、より深刻になったとも感じます。人間を機械の歯車のように扱う企業。女性を性的な商品のように扱う男性。親が子を、子が親を、夫と妻が互いを利用し合い、争う家族。友人を望みながら、傷つくのを恐れ、親しくなるのを避ける人々。アンケートでは人生において大切なものは、家族や信頼できる友と答えるものの、多くの人が孤独に悩んでいるのではという気がします。
さて、受難週とイースター、二回の礼拝を間に挟みましたが、今日私たちはヨハネの福音書17章にある、イエス・キリストによる大祭司の祈りの学びに戻ります。
この祈りは、十字架前夜、最後の晩餐の席上、イエス・キリストが天の父に向けてささげたもの。今まで、ご自身のため、次に席を同じくする弟子たちのためと祈ってこられたイエス・キリストが、今日の箇所では、今世界中に広がる私たちクリスチャンのことを覚えて、祈りをささげておられます。
そして、この祈りの中心にあるのは、イエス・キリストを信じる私たちの中に、失ってしまった愛の交わりが回復するようにとの願いであることに注目したいと思うのです。

17:20,21「わたしは、ただこの人々(席を同じくする弟子たち)のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々(今世界中に広がる私たちクリスチャン)のためにもお願いします。それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。」

この祈りの中で私たちが一つになるようにと何度祈られたか、わかるでしょうか。三度です。もって、これがイエス様にとっていかに大切な願いであるかが分かります。
それでは、「一つとなるため」の「一つ」の意味は何でしょうか。それは、「統一」ではなく「一致」ということばにより近いものです。譬えて言うなら、デパートや銀行で店員さんが皆同じ制服を着ていること、これは統一でした。それに対して、三本の異なる色の糸がより合わされ、より豊かな色合いの一本の糸となることが一致と言えるでしょうか。
つまり、多様性が認められる中で、皆が心を合わせ一つに結ばれることです。教会をキリストの体にたとえたパウロは、「器官は多くありますが、からだはひとつ」と語り、「それは、からだの中に分裂がなく、みながいたわり合うためです」(Ⅰコリント12:20,25)と書いていますが、様々な器官がバラバラでなく、一つからだ一ついのちとして機能する状態、これを一致と言っても良いでしょう。
「あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるため」と、イエス様は言われました。天の父がイエス様におられ、イエス様が天の父にいる様に、私たちが一つとなる。これは、どういうことでしょうか。
人を愛する時、その人の存在はたとえ場所が離れていても私たちの心にいると言う経験を、皆様はされたことがあるのではないかと思います。親が遠く外国に住む我が子のことを心に思い浮かべ、心配したり、励ましたりする。戦場で戦う夫を思い、母国に残る妻が心の中で語りかける。確かに、私たちが愛する人は私たちの中に存在するのです。
天におられる父なる神様と地上にいるイエス様も、その様な関係にありました。ですから、天の父がイエス様におられ、イエス様が天の父にいる様に私たちが一つとなるとは、私たちが自由な愛によって一つに結ばれる。その様な関係をイエス様が心から願っておられるということになります。
天の父とイエス様とが異なるように、私たちもお互いに性格、賜物、働き、生まれ育った環境等様々な点で異なっています。愛を表現する方法、愛を受け取る態度も異なります。
しかし、罪の中にある私たちにとって、お互いの違いを受け入れつつ、一つになることは、非常に難しいことです。何故なら、罪とは神中心ではなく自分中心に考え、生きることだからです。
私たちは自分と同じ考えに人が立つこと、自分の理想どおりに人が行動することを一致と思い、そうでない人の存在にイライラしたり、さばいたり、排除したりする性質を宿してします。しかもそうした自分になかなか気がつかないと言う、厄介な存在なのです。
けれども、そうした罪の性質を取り除くため、天の父がイエス様に与え、イエス様が私たちに与えてくださったものがあると言われます。

17:22,23「またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです。」

天の父がイエス様に与え、イエス様が私たちに与えてくださった栄光とは、罪の贖いの恵み、あるいは聖霊を指すと考えられます。自分と異なる人を妬み、さばき、排除する性質。自分と異なる人を受け入れることのできない不寛容。それら愛の交わりを妨げる罪の性質を取り除くため、イエス様が十字架で成し遂げてくださった罪の贖いの恵みとそれを心に届けてくださる聖霊を、イエス様を信じる者はみな受け取ることができる。この聖書の福音、良き知らせを、私たちも受け取る者でありたいと思います。
ところで、私たちが愛によって一つとなることをイエス様が願ったのは、この世の人々のことをも愛しているからでした。「あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるため」「あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたことを、この世が知るため」とある様に、私たちの交わりを通して、イエス様の存在と父なる神様の愛をこの世の人々は知ることができるのです。
松尾牧師と言う方の証しを聞いたことがあります。この方は元僧侶でしたが、キリスト教を信じて牧師となり、寺を捨てた人物です。その改心のきっかけは夫人の改心であったそうです。夫人は駅前で配られた集会のチラシを見て、生まれて初めて教会の門をくぐったのですが、説教はよくわからずじまい。しかし、心をとらえて離さなかったのが教会の中にあった何とも形容しがたい和でした。老若男女、仕事も性格も異なる様々な人々がいるのに、どうしてこれほど仲良くしていられるのか。それが不思議でならなかったのです。
やがて、夫人は寺に帰りますが、寺の現実とかけ離れている、教会の和と一致とに心惹かれ、翌日も教会に行き、やがてキリストを信じるに至ります。こともあろうに僧侶の奥さんがクリスチャンになったと言うことで、みなが大騒ぎ。ご主人も檀家の人々も随分反対したそうです。しかし、やがて夫人の心の中に神様から与えられたとしか思えない平安と力とを見たご主人が、奥さんの信じる神様に関心を向けるようになり、とうとう二人してお寺を出て、牧師になったと言う証しです。
私たちは、この世の人々が教会の何に心惹かれるのか、気がついていないのかもしれなません。壮麗な建物、数多くのプログラム、伝統や格式。案外私たちはそうしたものに、人々は魅力を感じて教会に足を運ぶのではと考えていないでしょうか。
しかし、この世になく教会にあるもの、いや教会にあるべきもの、愛の交わりこそ、人々が神様の存在に心を向ける源。その様な教会をつくるため、わたしは十字架にいのちをささげた。この祈りの中に、私たちこの様なイエス様の御声を聞くことができたらと思うのです。
さらに、イエス様の願いはこれにとどまりませんでした。私たちと永遠にともにいることを、天の父に強く願われたのです。

17:24「父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。」

この直後、イエス様は十字架に死に、天に帰って行きますが、地上に残る私たちのことを忘れてはおられなかったのです。むしろ、「時が来たら必ずや彼らを天の御国に導いて、わたしとともに生活できるようにしてください」。念を押すように祈るイエス様の姿が目に浮かぶところです。
もちろん、今もイエス様は聖霊によって私たちともにいてくださいます。地上にいても、私たちはイエス様がともにおられるのを覚えることができます。しかし、その知り方は、残念ながら直接ではなく間接に、直にと言うよりみことばを介してのものです。ですから、信仰の弱い私たちは、ともにおられるはずのイエス様を見失ってしまう様な心細さを覚える時もあるでしょう。
ですから、ここでイエス様が天の父にお願いしているのは、私たちが直接イエス様を知り、さらに親しくなること、顔と顔とを見合わせてお話しすること、栄光のイエス様のもとにこの体をもって、いつでも、何度でも、安心して行ける関係が完全にまた永遠に続く状態なのです。
私たち夫婦は、結婚する前7年間交際しましたが、最初の一年ぐらいが恋愛絶頂期、最盛期だったと思います。昼間大学の食堂で一緒にご飯を食べる。クラブで出会う。授業が終わるとデートをする。デートが終わると家の近くまで電車を乗り継ぎ、なるべく長く一緒にいる為駅からバスを使わず、歩く。夜アパートに帰ると、財布を十円玉で一杯にして、近くの公衆電話から彼女の家に、家族の人が出ないようにと祈りながら、電話をする。
今振り返ると、よくあれ程一緒にいたいと言う気持ちが湧いてきたものだと、不思議に感じます。何をしたか、何を話したかは全く覚えていませんが、とにかく一緒にいることが楽しい、一緒にいたいと言う思いが湧き続けて途切れないという状態は、あれが人生で最初にして最後という気がします。
イエス様の私たちに対する思いも同じではないでしょうか。イエス様は、貧しくとも富んでいても、病をもっていても健康でも、何ができてもできなくても、性格が明るくても暗くても、この地上でも、天の御国でも、私たちとともにいることを強く強く願っているお方です。イエス様は、私たちが持っているものではなく、私たち自身を愛し、私たちの存在そのものを大切に思っておられるお方なのです。この祈りも、私たちの心を慰め、励ましてくれるものではないでしょうか。
そして、天の御国での生活が実現するその時まで、「天の父よ、わたしはあなたの愛が彼らの中にあるよう、地上にいる者たちにあなたのことを知らせ続けます」と語る,誓いの祈りで締めくくられます。

17:25,26「正しい父よ。この世はあなたを知りません。しかし、わたしはあなたを知っています。また、この人々は、あなたがわたしを遣わされたことを知りました。そして、わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。それは、あなたがわたしを愛してくださったその愛が彼らの中にあり、またわたしが彼らの中にいるためです。」

最後に、今日のところから、私たち心に刻みたいことが二つあります。
ひとつは、イエス様は、私たちが父なる神様の愛を心に受け取り、それに憩うことを何よりも、切に願っているということです。
「あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛された」また「あなたがわたしを愛してくださったその愛が彼らの中にある」と言われる通り、父なる神様はイエス様を愛されたのと全く同じ愛で、私たちを愛しておられます。罪を持ったままの汚れた私たちが、罪のないイエス様と全く等しく、天の父から愛されていると言うのです。
また、二千年前に為された祈りのうちに、イエス様が私たちのこと思い、心に覚え、刻祈りつつ、十字架の道を進んでくださった姿を確認することができました。
私たちは、教会で奉仕をしたり、献金したり、この世で働いたり、他人を助ける等、神様のために何かをすることで自分の信仰を証明したり、評価する傾向があります。
しかし、イエス様が願うのは、私たちが何かをする前に、まず神様の愛を受け取り、憩うこと、安らぐことです。神様の愛を喜び、感謝することなのです。その上で、神様が自分に期待していることは何かを考え、行動すれば良いのです。日々その様な歩みを進めてゆきたいと思います。
二つ目は、私たちが愛し合う交わりを築くことは、この世に対して非常に大きな影響力があるということです。ですから、この世の人々が神様のことを知るため、私たち教会が一つになるようにと、イエス様は繰り返し祈りました。
けれども、旧約聖書の神の民イスラエルも、新約聖書の教会も、様々な問題で分裂、分派、対立を起こし、この様な交わりを築くことに失敗してきました。その後のキリスト教会の歴史を見ても、何度も同じ失敗が繰り返されています。
この様な教会が何故地上から消えてなくならないのか。それは、私たちは不真実でもイエス様は真実だから、イエス様が全身全霊私たちのためにとりなし、祈り続けておられるからであることを、今日の祈りで確認したいのです。
イエス様は今も祈り、期待しておられます。神様に背いて以来、人間が失ってしまった愛の交わりを、たとえ不完全であっても、私たちがこの地上に築くことを応援し、期待しているのです。イエス・キリストの罪の贖いの恵みを受けた者にしか築くことのできない交わり、人々にとって最も必要な愛の交わりを、何としてでもこの世界に残し、広げることを願い、それを私たちに託しておられるのです。私たちが、このイエス様の期待を感じながら、教会生活を送れたらと思います。今日の聖句です。

エペソ4:32「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」

2015年4月5日日曜日

Ⅰコリント人への手紙15章20節~27節 「キリストによってすべての人が生かされ」

 今日はイースターの礼拝。イエス・キリストの復活の意味を考え、永遠のいのちの望みについて確認する礼拝となります。
 聖書によれば、神様は世界の初め、人間を永遠に生きることができる者として創造されました。しかし、それは無条件にではありませんでした。神様を信頼し続ける時、人間は神様とともに永遠に生きると言う祝福に入ることができたのです。
 けれども、人類の先祖アダムはこのテストに失敗。アダムは神様に背き、それ以降、アダムの子孫である人間は死すべき者となったのです。そして、人間の死には、神様との交わりを失い、罪を持ったまま生きる霊的な死と、肉体の死と言う二つの側面がありました。
しかし、死すべき者となったものの、人間の心から永遠へのいのちへの思いが消え去ることはなかったのです。
形あるものは壊れ、咲いた花は散る。それらが決して不思議なことではなく、自然のことであるのと同じ様に、生まれた人間が死ぬのは自然なこと、当然のことではないかと考える人々がいます。
しかし、それは人間の頭がひねり出した一つの理屈ではないかと感じます。何故なら、親しい者の死に直面して、私たちの心に悲しみが湧き上がるのはなぜでしょう。愛する親や子どもの死をありうべからざることのように感じ、嘆くのは、どうしてなのでしょうか。
私が死後の世界を意識したのは、小学校1年生の時のことです。可愛がってくれた祖母が53歳で亡くなりました。声をかけても答えてくれない祖母の姿に驚き、悲しくなった私は、親戚の叔父に「おばあちゃんはどこへ行ったの?」と聞いたのです。
すると、叔父は「おばあちゃんにはおばあちゃんの住む所があって、そこに今行くことはできないけれど、お盆になると家に帰ってきてくれるよ」と慰めてくれました。叔父は普段、人間は死んだら土に帰り消えてなくなる」と言っている人でした。しかし、さすがにそれを言ったら子どもが傷つくと考えたのか。それとも、自分自身を納得させるためのことばであったのか。ともかく、死後の世界があることを説いて、私の心を静めてくれようとしたのだと思います。こうした深い感情は、頭で考えた理屈では割り切れないものと感じます。
また、古代エジプト人は死者が永遠に生きることを願ってミイラを造り、日用品をも埋葬しました。その涙は病を癒し、その血を口にすると不死のいのちを授かると言われるフェニックス、不死鳥伝説は世界中に残っています。
強大な権力を手に入れた中国の始皇帝は死を恐れ、不老不死を手に入れようと部下達に無理難題を押し付けますが、無謀な命令を受けた彼らが作りだしたのは水銀などを原料とした丸薬であり、それを飲んだ始皇帝は猛毒によって死亡した、とも言われます。
古今東西、多くの人が氏を自然なことと割り切れず、永遠に生きることを強く願ってきたと言えます。
さらに、現代の仏教研究家の一人は、こう語っています。「死後の問題は信念の問題であって、事実や科学の問題ではありません。私は死後はないとみるよりも、有ると信じたいのです。死後の世界がないと考えたのでは、現実の自分の行動を納得のゆくように説明することはできません。私たちは無意識のうちに、死後の世界の存在を認めつつ、現実の世界で決断し、行動しているのです。」
    この様に時代を経て、科学が進歩しても、人々の心から死後の世界を望む気持ちが消えないのは何故なのでしょうか。それは、神様が人の心に永遠への思いを植えつけたからと、聖書は語っています。

    伝道者の書314「…神はまた人の心に永遠への思いを与えられた。」

    時代が変わっても、国が異なっても、人々の心に残っている永遠への思い、死後の世界への関心は、神様の恵みだったのです。
しかし、親しい者の死に直面して誰もが覚える悲しみの感情、世界中に残る不死鳥や不老不死の伝説に見られる死後のいのちへの願い、死後の世界がなければこの世を正しく生きられないとする信念。この様な人間の姿は、聖書の神を抜きにして死後の問題を考える時、私たちに本当の解決はないことを示しているようにも見えます。
    先程も言いました通り、人間は神様に背いてから、永遠のいのちを失いました。しかし、その様な人間を神様はあわれみ、もう一度神様とともに永遠に生きることのできるいのち、人間本来のいのちへと回復するため、イエス・キリストを送られたと、聖書は教えているのです。
    そして、私たちを永遠のいのちへと活かすため、イエス・キリストは十字架で罪の贖いの死を遂げ、復活された。これがイースターの意味であり、私たちがキリストの復活を祝う理由なのです。
ですから、キリストの十字架と復活を、弟子たちはこの世界で起こった現実の出来事、歴史の事実として、いのちをかけて伝えていました。そのいのちがけの思いは、もし、キリストの復活が現実に起こらなかったとしたら、復活が単なる希望にすぎないとしたら、キリスト教信仰のゆえにこれ程苦しめられている自分たちは、この世で最もあわれな存在ではないかと語るパウロのことばに、よく表れています。
 
15:19「もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。」

 しかし、これは実際にキリストが復活したことを知り、目撃した人の逆説的表現でした。だからこそ、復活したキリストに出会い大きく人生を変えられたパウロは、その事実と意味を次の様に告げています。

15:20「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」

「眠った者」とは聖書独特の表現。イエス・キリストを信じた人々の死を、神様の御手の中に守られて眠り、やがて復活という目覚めの時を待つ姿として、美しく描いています。その様な死者の初穂、つまり先駆けとしてキリストが復活したことは、やがて将来キリストを信じるが皆復活する確かな証拠だと言うのです。
3月の上旬。私は教会の姉妹の方々と、なばなの里に行き、河津桜を見てきました。河津桜は一番咲の桜です。それが花をつけると、私たちは日本全国に桜前線が近づいているのを知ることができるからです。
言わば、河津桜は日本中の桜の初穂。それと同じく、二千年前に起こったイエス・キリストの復活は、将来の私たちの復活の初穂でした。
そして、イエス・キリストの存在がいかに大切なものか。それは、神様に信頼し続けることに失敗した人類の先祖アダムが死をもたらしたのとは逆に、十字架の死に至るまで神様に信頼し続けたキリストが私たちにいのちをもたらしたから、と聖書は教えています。

15:21~23「というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。」

私たちが失った永遠のいのちは、私たち自身の努力によっては回復できない。ただ、イエス・キリストの十字架の死と復活を信じることによる。アダムの子孫であり、死すべき者であった私たちも、キリストを信じて永遠のいのちに生かされる。これが、聖書の良い知らせ、福音です。
しかし、よく見ると、復活には定められた順番がありと示されていました。まず二千年前のキリストの復活。これが初穂。その後、将来の再臨の時に、キリストを信じる者たちの復活が続くとされます。
では、何故イエス・キリストを信じた者はすぐに復活せず、将来を待たなければならないでしょうか。それは、親が生れ来るわが子のため最良の環境を用意するようつとめるでしょう。同様に、神様も私たちが生活するにふさわしい世界、最良の世界を整えてくださっているのであり、その完成がキリストの再臨の時でした。つまり、私たちがすぐに復活しないのは、神様の愛であり、配慮のゆえだったのです。
私たちが死んで後、再び生れ来る世界が、もしこの悲惨なままの世界であるとしたら、何の益があるでしょうか。何を好んで、もう一度この罪の世で生活したいと思う人がいるでしょうか。誰もが正義と平和と愛に満ちる世界で生活することを望むことでしょう。
その様な世界は、イエス・キリストの再臨によってもたらされるのです。

15:24~27a「それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。最後の敵である死も滅ぼされます。 「彼は万物をその足の下に従わせた。」からです。」

「滅ぼす」と言うことばは、「無効にする、無用なものとする」との意味です。イエス・キリストが再びこの世界に来られた時、無用なものとする支配、権威、権力の中には、キリストに敵対する権力ばかりか、神様によって立てられたこの世のすべての権力も、そこに含まれるとされます。
人々を苦しめる為政者、貧しい者から搾取する特権階級がいなくなる世界。犯罪も戦争も起こらないため、この世では必要とされた警察や軍隊が無用の長物として消え去る世界。主人と召使、王と平民、身分階級の区別も終わりを告げる世界。ことばを代えれば、すべての人が対等、平等で、自分よりも隣人を尊び、喜び、愛する世界の到来です。
最初に読んだ黙示録のことばを用いれば、神様がともにおられ、私たちの眼の涙をすっかり拭い去り、もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない世界。この世の悪しきものがすべて過ぎ去った世界と言えるでしょうか。この様な最良、最高の世界を準備し終えたタイミングで、神様は私たちを復活させてくださる。これもまた、大いなる
恵みではないかと思います。
最後に確認したいのは、永遠のいのちと言う視点で、人生を考えることの大切さです。その様な視点に立つ時、先ず変わってくるのは、死の意味です。
大きな鎌を持った死神、骸骨、黒いカラス、青ざめた馬。昔から人々は、死を不気味な存在、恐ろしいものと考えてきました。しかし、神様が備えてくださる世界を目指す者にとって、死はもはや恐れの対象ではありません。
永遠のいのちと言う視点に立つなら、一つの通過点です。それも、今よりも遥かに良い世界、今よりもお互いが愛し合い、今よりも神様と親しく生活できる世界であることを思うと、喜ぶべき通過点とも言えるのではないでしょうか。
さらに、永遠のいのちと言う視点で人生を考える時、私たちはこの世のものに捕われ、この世のものに縛られる苦しみから解放される気がします。
この世がすべて、この世でしか生きられないと考えるなら、私たちは、この世での仕事の成功に、この世での財産の獲得に、この世での地位や名誉に、この世での快楽を貪ることに心を向け、いつしかそれらのものに縛られてがんじがらめ。そうした生き方が実に重荷、ストレスとなります。
しかし、私たちの心を縛らず、重荷ともならない、真の成功、真の財産、真の名誉、真の快楽。それらをすべて備えた完全な世界が用意されていると信じるなら、私たちは必要以上の荷物を背負わないことを第一の心得とし、神様と人を愛することに心集中して生きることができるのではないでしょうか。今日の聖句です。

Ⅰコリント15:58「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」

2015年3月29日日曜日

マルコの福音書15章16節~32節 「神のさばきと恵み」

 今日は受難週の礼拝。イエス・キリストの十字架の苦しみを思い巡らし、その意味を考える礼拝です。今日からの一週間が受難週と言われるのは、ユダヤの都エルサレムに入城してから十字架、復活に至るイエス・キリストの歩みを、日毎に辿ることを、キリスト教会が行ってきたからです。今年は、私たちの教会でも十字架前夜、木曜日の夜に、イエス・キリストが弟子たちと最後の晩餐を守ったことにちなんで、聖餐礼拝を行います。お時間のある方は、ぜひご参加くださればと思います。
 ところで、皆様は十字架に神様のさばきを見る派でしょうか。それとも、神様の恵みを見る派でしょうか。一般的に神様のさばきは、私たちが目を向けにくいもの、あまり考えたくないもの。それに対して、恵みは私たちにとって心地よいものです。
しかし、聖書は、十字架における神様のさばきと恵みの両面を、しっかりと見よ、考えよと教えているように思われます。さばきの厳しさを見つめることで、恵みの深さを知れと語っているように感じます。この点を踏まえた上で、今日の箇所、読み進めてゆきたいと思います。
時は紀元30年頃の春、ある金曜日の朝。場所はユダヤの都エルサレム郊外にある、通称ドクロの丘。最後の晩餐、ゲッセマネの園での逮捕、ユダヤ教の裁判、ローマ式の裁判、そして鞭打ち。前夜から、心にも体にも様々な苦しみを受けてこられたイエス様が、ついに十字架の木に釘づけにされます。

15:22,24,25「そして、彼らはイエスをゴルゴタの場所(訳すと、「どくろ」の場所)へ連れて行った。…それから、彼らは、イエスを十字架につけた。そして、だれが何を取るかをくじ引きで決めたうえで、イエスの着物を分けた。彼らがイエスを十字架につけたのは、午前九時であった。」

人類史上最も残酷な刑と言われるのが十字架です。その木につけられたイエス様の体を襲う想像を絶する痛み。それに加えて、両隣の強盗、道行く人々、ユダヤ教指導者など、ありとあらゆる人が浴びせる嘲りのことば。午前9時から12時までの間、イエス様が忍耐していた苦しみは、このふたつです。
しかし、十字架刑による肉体的痛み、人々が浴びせる「他人は救ったが、自分は救えない」という屈辱的なことば。これらはイエス様にとって肉体的、精神的な苦しみ以上の意味を持っていたと考えられます。
聖書全体を読むと、神様の救いの計画を阻止しようと、サタンが様々に活動していることに気がつかれると思います。イエス様の生涯においても、十字架への道を進まぬようにと、サタンが荒野で直接誘惑したことがあります。弟子のペテロを用いて「十字架に死ぬことなど考えないように」勧めると言う出来事も記されています。
何故なら、イエス様が十字架に死ぬことによって、人類の罪を贖うと言う神様の救いの計画は実現するわけで、サタンにしてみれば、これこそ何としても阻止すべき出来事だったのです。
そうした流れの中で見ますと、この場面イエス様は十字架から降りるよう、試みられていたと言えます。十字架刑による肉体的苦痛だけでも、人をしてすぐに十字架から降りたいと思わせるのに十分なことです。また、「お前は、人は救えても自分は救えない哀れな男なのか。本当の救い主なら、十字架から降りてみよ」との嘲りも、イエス様をして十字架から降りる思いへと導く、誘惑のことばとして働いていたと思われます。
出来事の表面を見るなら、イエス様は人々に強いられて十字架につけられた者。苦しめられても、嘲られても、そこから逃れることのできないあわれな男と見えます。しかし、聖書の教えるところはそれとは異なります。聖書は、十字架から降りようと思えばいつでも降りることのできたイエス様が、自由な意志で、十字架の苦しみを受け続けることを選ばれたと言うのです。

Ⅰペテロ2:22~24「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」

ここで注目すべきは「自分から十字架の上で」ということばです。自分から、すなわち、人に強いられてでも、仕方なくでもなく、自ら進んで、自由な意志で、イエス様は十字架の上にとどまり続けたと言うのです。
この場面、イエス様は人々に抵抗せず、言い返してもいません。十字架から降りようともしていません。しかし、それはイエス様が無力だからではありませんでした。イエス様は私たちの罪を贖う為、ご自分の持てる力をフルに使い、全力でまた心から進んで十字架にとどまり続けてくださったのです。見える形では、イエス様は太い釘によって十字架につけられていましたが、本当にイエス様を十字架につけていたもの、それは私たち罪人への愛だったのです。
そして、その様なイエス様が、昼の12時からは、さらなる苦しみを受けることになります。

15:33,34「さて、十二時になったとき、全地が暗くなって、午後三時まで続いた。そして、三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ。」と叫ばれた。それは訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。」

12時になり、突然全地を覆った暗闇。散々嘲っていた人々が、ことばを失うほどの恐怖を感じた暗闇。3時に発せられたイエス様のことばと同時に、ぴたりと晴れた暗闇。この様な不思議で、超自然的な暗闇がただ一度、歴史の中で起こったことを、聖書は記しています。
それは、旧約聖書の時代、大国エジプトで苦しめられていたイスラエルの民が、エジプト脱出の際、神様が行った10の奇跡のうち9番目のもの。それが、エジプト全土を覆う暗闇でした。この時も、人々は恐れのあまり、声を失ったとあります。聖書において、暗闇は神様の直接的なさばきを示すしるしとしての意味を持っていたのです。
ですから、やがて世の終わりの時下る神様の永遠のさばき、地獄、ゲヘナの世界も、「人々は闇の中で泣いて、歯ぎしりする」と言う様に、暗闇と言うことばで象徴的に表現されていました。この時、十字架の立つ丘を中心に襲った暗闇は、神様の永遠さばきだったのです。
そして、その恐るべきさばきをすべて受けとめられたイエス様のことばが、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」でした。この叫びによって、イエス様は、罪を持ったまま生き続ける者が最終的にどのような世界に行き着くのか、身をもって示してくださったのです。
それは、肉体的にも、精神的にも非常に苦しい世界。何よりも、神様に見捨てられた状態、神様の愛を全く感じることのできない世界で永遠に生き続けると言う霊的に苦しい世界でした。
私たちは、ここに私たちの罪に対する神様のさばきがいかに厳しいものかを見ることができますし、見るべきでしょう。ことばを代えて言うなら、私たちの罪は私たちが思う以上に酷いもの、汚れたもの、腐ったものであるかを考える必要があると言うことです。
皆様は、「殺してはならない」と言う戒めの意味について、イエス様が教えられたことばを覚えておられるでしょうか。その戒めを、殺人と言う犯罪の禁止と考え、神様が込められた真の意味を知らずにいた人々に対し、イエス様はこう語っています。

5:21,22「昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし。』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。」

人に向かって腹を立てる者はさばきを受ける。人に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡される。『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれる。ことばは各々異なりますが、強調点は一つ。人に対して自分勝手な怒りを感じたり、人の存在を見下し、否定するようなことばや態度は、どれも神様の永遠のさばきに値すると言うのです。
私の知人の女性は、子どもの頃お母さんの存在が恥ずかしくて仕方がないと感じる時がたびたびあったそうです。それはお母さんの首のあたりにケロイド状に爛れた部分があり、特に暑い夏や銭湯に行く時など、それが人の眼に分かると、とても恥ずかしく、お母さんに自分から離れていてほしい、いなくなればいいと感じることもありました。
その皮膚の傷が幼子の自分が火に近づいた時、身を挺して守ってくれたためにできたものと父親に教えてもらった時も、お母さんに感謝するより、どうしてお母さんはそれを言ってくれなかったのかと腹が立ったのだそうです。
その彼女がこのことばをを知り、自分は毎日心の中で母を殺してきたと告白したのです。自分を愛し、育ててくれた母。その母の存在を身勝手な理由で恥かしく思い、疎ましく感じ、いなくなればいいと考えたりもした。何と自分の罪は酷いものであるか。本当に救いがたい罪人だと思う。そう言われたのです。
私たちには罪を見くびる傾向があります。私たちの内にある古い性質は、「社会の法律に違反しなければ良い」、「周りの人もこの程度の事は思ったり、したりしているじゃないか」と自分の罪を軽く見ようとします。神様の眼に罪がどのようなものかを考えようとしないのです。
罪が本当に酷いもの。私たちは本来神様にさばかれるべき立場にあり、そのさばきはいかにきびしいものであるか。そのことを、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と十字架上で叫ばれたイエス様の姿を通して、私たちいつも心に刻んでおきたいと思います。
最後に、十字架がもたらす恵みについて、三つのことを確認しておきましょう。

15:35~37「そばに立っていた幾人かが、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる。」と言った。すると、ひとりが走って行って、海綿に酸いぶどう酒を含ませ、それを葦の棒につけて、イエスに飲ませようとしながら言った。「エリヤがやって来て、彼を降ろすかどうか、私たちは見ることにしよう。」それから、イエスは大声をあげて息を引き取られた。」

イエス様が、神様のさばきを受け、忍耐しておられる姿を見ても、全くそれを理解しようとしない不信仰な人々の姿です。彼らは「エロイ、エロイ」、これは「私の神、わが神」と言う意味ですが、このことばを預言者のエリヤと聞き間違えたのか、あるいはことば尻をとらえ、からかおうとしたのか。「こいつがエリヤに助けを求めているなら、本当にエリヤがやって来るか見ることにしよう」と、またも嘲りました。
ところが不思議なことに、さばかれて当然の彼らは死なず、息を引き取ったのはイエス様であったと聖書は伝えているのです。これは、本来さばかれ、滅ぼされて当然の私たち罪人ではなく、イエス様が身代わりにただひとり神様のさばきを受けてくださったことのしるしと考えられるところです。
続いて、二つの驚くべき出来事が起こりました。

15:38,39「神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。イエスの正面に立っていた百人隊長は、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「この方はまことに神の子であった。」と言った。

神殿の幕とは、神殿の一番奥にある部屋、そこに神様がおられると考えられていた至聖所と手前の聖所と言う部屋を隔てる幕のことです。神様と罪人の親しい交わりを隔てるもののシンボルでした。それが、イエス様の死によって真二つに裂けたのは、神様と私たちの間に親しい交わりが回復したことを示しています。
さらに、驚くべきは、イエス様を十字架につけた男、死刑執行人である、ローマ人の百人隊長の心が、イエス様に捕えられたことです。「この方はまことに神の子であった。」十字架において現されたイエス様の愛は、刑を執行した罪人の心を砕き、その生き方を変えてしまったのです。
以上、私たちが受けるべきさばきは、イエス様がすべてを引き受けてくださったこと、神様と私たちとの間に親しい交わり、安心安全な関係が回復したこと、イエス様の愛はどんなひどい罪人をも赦し、受け入れてやまない愛であること。十字架の恵みを確認することができたと思います。
今日は、私たちは、十字架を神様のさばきと言う視点から考えました。罪を神様のことばから見ようとしない私たちの古い性質、自分の罪を見くびり、軽く見ようとする私たちの高慢さを戒められたいと思います。
また、十字架を神様の恵みと言う視点からも考えました。特に、自分の罪の酷さ、凄まじさに悩む時、私たちは十字架の恵みに憩い、安らう者となりたいのです。
罪を軽く見ることは高慢です。しかし、神様が赦すと言われた罪を、自分は赦せないと考え、悩むことも、形を変えた高慢と言えるかもしれません。罪のどん底にあっても、赦しを求めることのできる恵み。私たちがそうすることを心から願い、そのために十字架にとどまり続けたイエス・キリスト。私たちは、この地上の生涯が続く限り、十字架を見上げ、溢れるばかりの恵みを受け取る者でありたいと思います。


Ⅰヨハネ3:16「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって、私たちに愛がわかったのです。」

2015年3月22日日曜日

ヨハネの福音書17章9節~19節 「聖め別たれる者」

 皆様には、自分が神様に救われているのかどうかわからなくなったと言う経験はないでしょうか。病に苦しむ時、試練の中にある時、本当に自分は神様に守られているのだろうかと不安を感じたことはないでしょうか。
 この様な経験は、私たちだけのものではありません。聖書、特に詩篇を読みますと、昔から信仰者たちは、しばしば救いの確信がないことを嘆き、神様の守りの御手が見えずに苦しみ悩んでいたことが分かります。
 宗教改革の時代に活躍したイギリス人ジョン・ノックスは、死が迫る中非常な不安に襲われましたが、枕元にいた妻にこのヨハネの福音書17章を読んでほしいと願い、イエス・キリストの祈りを聞きながら、平安のうちに世を去ることができたと言われます。
 このヨハネの福音書17章が、救いの確信を持てずに悩む信仰者、神様の守りを実感することができず不安を抱く信仰者たちを助け、支えてきたもののひとつであることを覚え、私たち読み進めてゆきたいと思います。
 時は紀元30年頃の春。十字架前夜、イエス・キリストが弟子たちとともに最後の晩餐を過ごした際、天の父にささげた祈りの場面。大祭司の祈りと呼ばれてきたところです。
 大祭司とは、旧約聖書の時代、イスラエルの民のなかで、神様がそこにおられると考えられた神殿の一番奥の部屋至聖所に入ることを許されたただ一人の人物。大祭司はその際、人々の罪を背負った罪のいけにえの動物を携え、神様に近づくことができました。この大祭司の姿が、ご自分を罪のいけにえとして十字架にささげ、天の父のもとに近づこうとするイエス・キリストと重なるため、ヨハネ17章は昔からイエス様による大祭司の祈りと呼ばれてきたのです。
 さて、先回見てきたように、イエス様はまずご自分が天の父の栄光を表わすことができる様に、ことばを代えれば、十字架に死に、人々の罪の贖いを成し遂げることができるよう助けてくださいと祈られました。いわば、ご自分のための祈りです。
 今日の箇所では、祈りの焦点が、最後の晩餐に連なる弟子たち、今まで共に歩んできた弟子たちに移ってゆきます。

17:9,10「わたしは彼らのためにお願いします。世のためにではなく、あなたがわたしに下さった者たちのためにです。なぜなら彼らはあなたのものだからです。わたしのものはみなあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。そして、わたしは彼らによって栄光を受けました。」

 イエス様は、弟子たちのことを「あなたがわたしに下さった者」「あなたの者」「あなたのものはわたしのもの」と語っています。天の父とイエス様にとって、弟子たちの存在がいかに大切であるかを確認しておられます。さらに、「わたしは彼らによって栄光を受けました」と言い、弟子たちを褒めています。苦楽を共にしてきた彼らがイエス様を神の御子、救い主と信じたことを、心から喜んでいるのです。
 ご存知のように、この後イエス様を逮捕する人々がやってくると、恐れた弟子たちは雲の子を散らすように逃げ去り、イエス様とのかかわりを否定するようになります。そんな不肖の弟子たちであるのに、彼らを非常に大切な存在と思い、心から喜んでおられるイエス様の姿が、この祈りから浮かび上がってきます。
 但し、ここに「世のためではなく」と言うことばがあるのに違和感を覚えると言う人もあるかもしれません。イエス様はご自分を信じた弟子たちだけを大切にし、世の人々のことはどうでもよいとしているのだろうかと疑問を感じる人もいることでしょう。
 しかし、同じヨハネの福音書の中には、この世つまり神様を認めない人々を、神様は愛し、その様な人々に永遠のいのちを与えるため、イエス様を世に与えたとあります。

 3:16「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

 つまり、父なる神なる神様が大切に思う世の人々の救いのため、弟子たちが非常に重要な役割を果たすことになるので、先ずその弟子たちのために祈られた。これが、イエス様の思いだったのです。そして、弟子たちのための祈りが続きます。

 17:11,12「わたしはもう世にいなくなります。彼らは世におりますが、わたしはあなたのみもとにまいります。聖なる父。あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に、彼らを保ってください。それはわたしたちと同様に、彼らが一つとなるためです。わたしは彼らといっしょにいたとき、あなたがわたしに下さっている御名の中に彼らを保ち、また守りました。彼らのうちだれも滅びた者はなく、ただ滅びの子が滅びました。それは、聖書が成就するためです。」

 これまで全力で弟子たちに仕え、守ってこられたイエス様。そのイエス様が、十字架で人々の罪の贖いを成し遂げ、天に行くときには、「父よ。この弟子たちをあなたの御名の中に保って下さい。守ってください」と祈られたのです。
 少し前、最後の晩餐の席で、イエス様は天に帰って行かれたら、その時はもうひとりの助け主、聖霊を遣わすと約束されました。それを思うと、イエス様がこの世に残してゆく弟子たちを救いのうちに守るため、いかに心砕いておられたかが分かります。先には聖霊の神様に、今は天の父なる神様に。ご自分といっしょになって、地上を歩む不信仰な弟子たちを全身全霊で守るよう、協力を願い求めるイエス様でした。
 私たちがお願いする前に、天の父と聖霊とに私たちの魂のガードマンとなることを、イエス様が先ずお願いしてくださった。弱い信仰しか持っていないのに、とても暢気な弟子たち、私たちに代わって、いつもこうして祈り願いをささげておられるイエス様のことを心強く、頼もしく感じられるところではないでしょうか。
 さて、次は、弟子たちの心に喜びが満たされるようにとの祈りとなります。

 17:13「わたしは今みもとにまいります。わたしは彼らの中でわたしの喜びが全うされるために、世にあってこれらのことを話しているのです。」

 十字架の死と言う大変な使命を目指して歩んでこられたイエス様の心には喜びがあったと言われます。イエス様ご自身が持っていた喜びが、弟子たちの中で全うされるように、彼らの心がイエス様の喜びで満たされるようにとの祈りです。
 労苦と悲しみが多かったと思われるイエス様の生涯。しかし、聖書を読みますと、イエス様が天の父との交わりを喜び、収税人や罪人と呼ばれ社会から除け者にされていた人々との食事の交わりを喜んでおられたことが分かります。また、幼子が神を賛美する姿や、ローマ人の百人隊長など信仰をもってご自分に近づいてきた人々、先程見たように、弟子たちとの交わりをも喜んでおられたことが分かります。
 さらに、ご自分の前に置かれた喜びがあるので、イエス様は十字架の苦しみと恥とを忍耐することができたと、聖書は教えているのです。

 へブル12:2「…イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」

 ご自分の前に置かれた喜びとは、地上での使命を終え、懐かしい天の父のもとに帰ってゆき、心ゆくまで親しく交わることのできる生活を指しています。
 果たして、皆様の信仰生活に喜びはあるでしょうか。私たちクリスチャンは自分の罪を悲しみます。世の悲惨を悲しみます。しかし、同時に、天の父との交わり、イエス様が私たちの周りにおいてくださった人々との交わり、信仰の友との交わり、それらを豊かにする健康や食べ物、住まい、天国の希望など、多くの良いものを与えられている。このことに心の眼が開かれ、喜びたいと思うのです。悲しむべことを悲しみ、喜ぶべきことを喜ぶ。私たち皆でクリスチャン人生の豊かさを味わってゆきたいと思います。
 さらに、弟子たちがこの世で神様のことを証しする者となるための祈りです。

 17:14~16「わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。しかし、世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものでないからです。彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。」

 真剣に神様に従って生きようとする時、「そんな生き方やめとけよ」と忠告する友人がいる。「そんな生き方をしていると結婚も、出世もできないじゃないか」と反対する家族がいる。職場の同僚や上司からは煙ったがられる。イエス様が「世は彼らを憎む」と言われた通り、これらはしばしば私たちが経験することです。
そんな時、私たちは「辛い」「生きにくい」と感じ、この世を厭います。弟子たちの時代、キリスト者に対する迫害は非常に厳しくありましたから、この様な思いを抱くクリスチャンはさらに多かったであろうと思われます。
 しかし、イエス様が天の父に祈り願ったのは、弟子たちをこの世から取り去って、安全な天国に迎えることではなく、この世で迫害する者から守ることでした。この世に私たちを遣わし、この世に私たちを置くこと、そして、私たちがこの世で神様の存在やすばらしさを証しすること、それがイエス様の願いであり期待だったのです。

 17:17~19「真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。わたしは、彼らのため、わたし自身を聖め別ちます。彼ら自身も真理によって聖め別たれるためです。」

 この地上における日々を最後の一日に至るまで、神様を証しする者として生き抜くこと。その為に、この世に遣わされ、生かされ、守られている我が身であることを覚えたいのです。今日と言う一日をこの私が生きるため、イエス様が尊い命を十字架に犠牲にしてくださったことを感謝しつつ、神様を証しする歩みを進めてゆきたいと思います。
 最後に、皆様とともに確認したいことが二つあります。
 ひとつは、この祈りの中に救いの確信を見出すことです。信仰の歩みは山あり谷あり。救いを確信して軽やかに過ごす日もあれば、自分が神様に救われているのかどうかわからなくなり、不安と恐れの中過ごす日もあるでしょう。経済的援助や健康回復、仕事の成功などに恵まれ、神様に守られていることを実感できる時もあれば、試練に次ぐ試練で、神様の守りなどあるのかと悩む時もあると思います。
 その様な場合、私たちはこのイエス様による祈りを思い出したいのです。私たちが人生の途上で不安や恐れに陥り、悩む前そのはるか前に、イエス様と天の父が全力を尽くして私たちを救いのうちに守ることを約束しておられたことを思い起こすなら、私たちは本当に助けられ、支えられるのではないでしょうか。
 二つ目は、イエス様が真理つまり神様のみこころによってご自身を聖め別ち、十字架に至るまで神様に従われたように、私たちも真理のみことばによって自分自身を聖め別つ歩みをしてゆきたいと思うのです。
 聖書には、「聖であれ」とか「きよい歩み」を為せと言う命令が出てきます。きよさと言う時、私たちはすぐに道徳的に悪ではない、いわゆるきよい行いを思い浮かべます。しかし、聖書において、きよさの根本的な意味は私たちの神様に対する心の在り方、態度に関わることです。具体的には、私たちの心が神様の愛で満たされ、私たちが神様を愛し、神様に従う思いで一つになっている状態、態度と言えるでしょうか。
 けれども、この様な状態を私たちが作りだすのは非常に難しいこと。一人では不可能なことです。放っておけば、私たちの心は神様から離れて行きますし、何もせず自然のままでは、神様に対する態度を整えることはできません。ですから、イエス様は、私たちが「真理のみことばによって聖め別たれるために」祈られました。
 私たちはみことばによって神様の愛を確認し、喜ぶことができます。私たちはみことばによって、心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神様を愛する態度へと変えられ、整えられるのです。
 霊的なことに非常に弱い私たちは、みことばに接し、みことばに親しみ、みことばを通して神様と親しく交わり、神様の愛に安らう機会をもつ必要があると思います。それを習慣にする必要があるのではないでしょうか。イエス様が私たちの弱さを良く知り、私たちが霊的な習慣を確立できるよう祈り続けておられること、忘れてはいけないと思います。


 Ⅰペテロ2:2「あなたがたは、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」

2015年3月15日日曜日

伝道者の書12章9節~14節 「一書説教 伝道者の書~結局のところ~」

 私たちは聖書を「神のことば」として受け取っています。この世界を造られた方から私たちへ宛てられた書。とはいえ、天から本が降ってきたというのではありません。神様に選ばれ人物が、特別な守りの中で記した人間の手による書でもある。
「神のことば」であるため、その内容には普遍性があります。聖書には、どの時代、どの地域、どの文化、どのような人にも当てはまる内容が記されている。それと同時に、記した人間の特徴も言葉に表れるため、聖書にある書は、それぞれ色が異なります。私たちにとって、読み易いと思う書もあれば、読みにくい、理解が難しいと思う書もある。読みにくさと言っても、色々な読みにくさがあります。今の私たちとどのような関係があるのか分かりにくい。馴染みのない人名、地名が多い。何を主張しているのか掴めない、などなど。いかがでしょうか。これまで読み進めてきた書で、読みにくかった書と聞いて思い出すのは何でしょうか。

 断続的に行ってきた一書説教。今日は二十一回目となり、旧約聖書第二十一の巻、伝道者の書を扱います。難解であるという点で有名な伝道者の書。(次回扱う、雅歌も非常に難解ですが。)知恵の名声をほしいままにした、あの大王ソロモンの名前を冠する知恵文学。旧約聖書の謎の書、秘書、珍書、奇書。
一定の筋道というより、断片的。時に相互に矛盾していると思われる箇所が出てきて、著者が混乱しているのか、はたまた私が混乱しているのかと首をかしげながら、しかし、全くのデタラメというわけでもない。楽観論、悲観論、不可知論、運命論、合理主義、懐疑主義と様々な思想が展開し、世界を見渡しながら、人生の意味、人間の意味を探る伝道者の書。果たして、自分に理解出来るのかと怖じ気づきながらも、私たち皆で伝道者の書を読むことに取り組みたい。一回読んで分からなければ、百回読めば良い。百回読んで分からなければ、千回読めば良い。どうしても分からなければ、天国に行ってから聞くので良いとして、ともかく皆で聖書にあたりたいと思います。一書説教が進むにつれて、教会の皆で聖書を読み進めるという恵みにあずかりたいと思います。

 その冒頭は、非常に有名です。空の空。全ては空として、人生の虚しさ、儚さ、甲斐の無さ、呆気なさが歌われます。
 伝道者の書1章1節~3節
「エルサレムでの王、ダビデの子、伝道者のことば。空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう。」

 宇宙の暗さ、人生の疲労感漂う始まり。これが他でもない、栄華を極めたソロモンの言葉であるということに重さがあります。初めて伝道者の書を手にする人は、このような虚無主義、悲観主義の言葉に驚くことになります。
 聖書の中には、世界の中心として造られた人間、創造主の宝である私たちという、明るい響きがありました。しかし同時に、「全ては空」という暗い響きもある。「聖書広し」です。
 そして、この「全ては空」というのが、伝道者の書の基調、基本的なメロディでした。何も考えずに「全ては空」と言っているわけではない。前半は、世界を見渡し、よくよく考えて、「全ては空」と言う。著者は私たちをあちらこちらと連れていき、やはり空である。あの思想、この思想と確かめて、やはり空であると言う展開となるのです。(後半は、不思議な格言が多く出て来て、行間を読む力が問われる内容となります。)

 まずは一章。「一つの時代は去り、次の時代が来る。」(四節)「日は上り、日は沈む。」(五節)「風は南に吹き、巡って北に吹く。巡り巡って風は吹く。」(六節)など、全ては繰り返しではないかという視点で世界が見渡されます。人間の歴史も繰り返し。太陽も風も繰り返し。この世界は延々と同じことを繰り返している。壮大にして憂鬱、やりきれない退屈な世界。繰り返しの世界は、虚しいという主張。(後半に、知恵を得ること、それも正気の知恵だけでなく、狂気や愚かさも手にしてみたが、やはり空という主張も出て来ます。)

 この繰り返しの世界を見た結果、それでは快楽に生きるのはどうか。快楽にこそ、人生の意味が見出せるのではないかと、二章は快楽主義の登場です。快楽を味わう、心のおもむくままに楽しむ。(一節、三節、十節)事業を拡張し、宮殿を建て、庭園を整え、果樹園を設け、奴隷も家畜も得て、食べ物や酒で食欲を満たしたら、多くのそばめで色欲を満たす。欲しいものは全て手に入れ、やりたいだけやった。快楽に人生の意義を見出し、満足したかと言えば、いやそうではない。全ては虚しいと確認されるのです。
 伝道者の書2章11節
「しかし、私が手がけたあらゆる事業と、そのために私が骨折った労苦とを振り返ってみると、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。日の下には何一つ益になるものはない。」

 三章は人間の様々な場面を輪切りにして提示する紙芝居で始まります。有名な箇所。「生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を引き抜くのに時がある。」(二、三節)「時」「時」と三十回繰り返される。それも、それぞれ対になっていて、「泣くのに時があり、ほほえむのに時がある。」(四節)「抱擁するのに時があり、抱擁をやめるのに時がある。」(五節)と、この「時」というのは、始まりと終わりの時を指しています。人生の様々な場面を見つつも、始まりがあれば、終わりがある。人間は、悲劇と喜劇を繰り返して死ぬだけ、という確認でしょうか。まとめとしての言葉が暗く響きます。
 伝道者の書3章9節
「働く者は労苦して何の益を得よう。」

 繰り返しの人生。働くことも虚しい。空の空。すべては虚しいとの調べ。しかし、この章ではここから著者は一転するのです。
 伝道者の書3章11節a
「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。」

 人生とは繰り返し、働くことも虚しいと言っていた著者が、突如、神を信じる者の幸い、真っ当な信仰の発露を見せるのです。急に、主張や雰囲気が変わる。さすがは奇書と言ってよいでしょうか。しかし、これが伝道者の書の一つの特徴で、全体としては「全ては空」という調べを響かせながら、所々で、全てが虚しいのではない、神を認めよと楔が打ち込まれるのです。(実は二章の後半にも、神有との視点が語られていました。)

 続く四章では、人間社会、権力者に目を向けて、やはり虚しい世界よとつぶやきが聞こえます。
 伝道者の書4章1節
「私は再び、日の下で行なわれるいっさいのしいたげを見た。見よ、しいたげられている者の涙を。彼らには慰める者がいない。しいたげる者が権力をふるう。しかし、彼らには慰める者がいない。」

 人間社会を見渡した時、権力者が相応しくその権力を使うことがいかに稀であるのか。文明は進んでいるように見えても、弱肉強食は形を変えて残る世界。虚しい世界。そのしいたげられている様を見ると、死人の方がましではないかと思われる。(二節)
それでは、権力者が変われば良いのかと言えば、良きリーダーと思う者が立っても、次第に悪に染まり、しいたげる者となる。初めは英雄でも、やがては独裁者となってしまう。やはり、虚しい世界(十三節~十六節)とため息がもれるのです。

 こうして大自然、人間の人生、社会、政治と見てきた著者は、続く五章、六章にて金銭の虚しさに目を当てます。(五章の前半は、正しくない宗教行為の虚しさに触れています。)
 伝道者の書5章10節、13節
「金銭を愛する者は金銭に満足しない。富を愛する者は収益に満足しない。これもまた、むなしい。・・・私は日の下に、痛ましいことがあるのを見た。所有者に守られている富が、その人に害を加えることだ。」

 金銭、富を得ることは自由が増えること、幸せに近づくことかと思いきや、むしろ反対となる。富を得ると、それを失わないようにと苦労が増える。いや、苦労どころではない、害を受けるのだと。本来、金銭自体が悪ではなく、生きるのに必要なもの。富の意味、富の本質をわきまえることが大事です。しかし、誰もが富を正しく扱うことが出来ない。皆が皆、金銭を愛することになり、その虜となって満足を得ることが出来ず、これもまた虚しいと言うのです。

 このように伝道者の書の前半は、あれやこれやと世界を見渡し、様々な思想を確かめながら、有意義なことはないか、人間の生きる意味とは何かと確認します。その結果、空の空、全ては空と見る。(ところどころに、神様を信じることの幸いも盛り込みながら、となるのですが。)人生意義なし。甲斐無し。全ては虚しいとの声。重苦しい前半。

 それでは後半はどうなるのでしょうか。「空の空」から反転して、明るい調子になるかと言えば、そういうこともなく、何故か格言集となります。その格言が人生は虚しいというテーマで統一されているのならばまだ分かるのですが、そうでもない。(八章の後半から九章は、人生の虚しさをテーマにした格言で統一されていると考える人もいますが。)格言の中には、一般的な知恵と思えるものもありますが、よく意味が分からない、難解な格言も続々と出て来ます。「ムムム」と唸りたくなる内容。一体何なのかと手を挙げたくなります。さすがは謎の書。前半も十分難解ですが、後半はますます難解。

 難解な格言が多く出てくる。とはいえ有名な言葉も多くあります。「祝宴の家にいくよりは、喪中の家に行く方が良い。そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ。」(七章二節)とか、「あなたは正しすぎてはならない。知恵がありすぎてはならない。」(七章十六節)とか、「私は快楽を賛美する。日の下では、食べて、飲んで、楽しむよりほかに、人にとって良いことはない。」(八章十五節)とか、「あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見いだそう。」(十一章一節)などなど。七章の後半には、女性は恐ろしいと、聖書の中でも最悪の女性観が出てきたり、十章には、七つの小噺、七つの絵本のような内容が出てきたり。このような文章が聖書に含まれているのが面白く、興味深く、しかし何を言わんとしているのか理解が難しい。有名、しかし難解という言葉が多数出て来ます。一般的に有名な箇所を意識しつつ、自分が気になる言葉をチェックしながら、読み進めると良いと思います。

 このように確認しますと、伝道者の書は、世界を見渡して、人生の意義なし、全ては空という前半と、様々な格言が記された後半で出来た書物と言えますが、その最後、あとがき、編集後記にあたるところで、非常に重要なメッセージが記されていました。
 伝道者の書12章9節~11節
「伝道者は知恵ある者であったが、そのうえ、知識を民に教えた。彼は思索し、探求し、多くの箴言をまとめた。伝道者は適切なことばを見いだそうとし、真理のことばを正しく書き残した。知恵ある者のことばは突き棒のようなもの、編集されたものはよく打ちつけられた釘のようなものである。これらはひとりの羊飼いによって与えられた。」

 著者である伝道者は、「適切なことば」「真理のことば」を書き残したと言います。そして、この知恵の言葉は「ひとりの羊飼いによって与えられた」と言うのです。私たちの羊飼い、神様から教えられたという意味でしょう。(旧約聖書の中に、たびたび神様を羊飼いとする箇所がありました。ここでも羊飼いと言っているので、この知恵を、「突き棒」と「うちつけられた釘」と、羊飼いには日常的なものに例たのだと思います。)
 何を教えられたのか。伝道者の書で繰り返されたメッセージは、「日の下では、全ては空。」というメッセージ。これでもかと、あらゆるものの空しさが語られましたが、このメッセージは神様から与えられたものだと言うのです。
(「空」という言葉は、旧約聖書に七十二回出てくる言葉ですが、そのうち三十七回が、伝道者の書に出てきています。もう一つの鍵の言葉は「日の下」という言葉。二十九回です。日の下以外に、天の下、地の上などの表現も。)
 では、あらゆるものを空しいとして、何が言いたかったのか。結局のところとして続きます。

 伝道者の書12章11節~14節
「わが子よ。これ以外のことにも注意せよ。多くの本を作ることには、限りがない。多くのものに熱中すると、からだが疲れる。結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ。」

 神を恐れ、神の命令を守る。この一事に尽きるとして、伝道者の書は閉じられます。
考えてみますと、「日の下」では「すべては空」というのは、日の下だからです。日の下で事を計って、人生の意義を見出そうとしたから、「空の空」となったのです。日の下ではなく、天の上に目をむけなければならなかった。日の下、この地上にだけ焦点を当てる、神無し、神抜きで人生の意義を見出そうとすると、何をしようにも、どのような思想を持ってこようとも、全ては空しい。人生の意義を見出したいのであれば、世界を造られた神様に向き合う必要があるとして、伝道者の書は閉じられます。

 以上、大雑把にですが、伝道者の書を読む備えをなしました。あとはどうぞ、それぞれで読み、互いに感想を言い合いたいと思います。
 最後に二つのことを確認して終わりにいたします。
旧約聖書中、難解として有名な伝道者の書。その全ての内容を理解することを目指すと、実に難しい書と言えます。しかし、この書を通して、神様が私たちに伝えているメッセージの中心。私たちに求めていることは何かと問われれば、これ以上ない程に簡単に分かります。著者が、結局のところ、としてまとめているからです。「神を恐れること、神の命令を守ること。」これが、今日、神様が私たちに求めていることです。実際に、伝道者の書を読み、難しいという感想を口にするとしても、最も重要なメッセージは、逃すことのないように。しっかりと受けとめたいと思います。
 もう一つ覚えておきたいのは、この「神を恐れること、神の命令を守ること」が、私にとっては何を意味することなのか。よくよく考えたいと思います。今日、何をすることが、正しく「神を恐れること、神の命令を守ること」になるのでしょうか。この聖書のメッセージに真剣に従うとは、どのように生きることなのか。考えたいのです。クリスチャンにとって、「神を恐れること、神の命令を守ること」が大事であるということを、「それはそうでしょう。分かっています。」として終わらないように。よく祈り、よく考えて、私にとって「神を恐れること、神の命令を守ること」は、このようなことですと決心して、取り組むことが出来るようにと願います。

 私たち皆で、聖書を読み、聖書に従う幸いを味わいたいと思います。

2015年3月8日日曜日

ルカの福音書18章35節~43節 「見えるように」

「見えるように」 ルカ18:35~43  2015・3・8 

 35 イエスがエリコに近づかれたころ、ある盲人が、道ばたにすわり、
   物ごいをしていた。
 36 群集が通って行くのを耳にして、これはいったい何事ですか、と
  尋ねた。
 37 ナザレのイエスがお通りになるのだ、と知らせると、
 38 彼は大声で、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください」と言った。

 目の不自由な人が道ばたにべったりすわって、物乞いをしていますと、遠くから大勢の人が近づいてくる気配です。いったい何事かといえば、あの不思議な力を持つイエスがここを通られるという。
 私思うに、物乞いもお商売の一つ。人が通ってお金を投げてくれなければ話にならない。これはラッキーやで。このまま待っていればおこぼれがありそうや・・・と考えるのが普通です。しかしこの男、全然別のことを考えました。うわさに聞く、奇跡をなさるイエスならきっと自分の願いを聞いてくださるにちがいない。見えない目を開いてくださるにちがいない。きょうこそ、とびついてでもお願いしよう、こう考えて大声で叫びます。
「救い主イエス様、私を助けてください」
周りの人は腹を立てる。うるさいやっちゃなあ。おまえなんかあっちへ行け。消え失せろ。というのは、人々には特別の期待がありました・・・イエスはエルサレムに着くやいなや、天から火を呼ぶかして敵をほろぼし王となるはずでした。超大国であるローマを倒して、自分たちが世界一強い国になる。イエス様についていけば自分の将来は間違いなし、勝ち馬に乗れるのや、そういう意気込みです。それは国民全体の期待であり確信でした。それなのにこの男、目が見えるようにとか、つまらないことで手間を取らせよって・・さ、どいたどいた・・・
39 彼を黙らせようとして、先頭にいた人々がたしなめたが、盲人は、ま
 ます「ダビデの子よ。私をあわれんでください」と叫び立てた。
人々にとってはただの小うるさいやつ、どうでもいいやつ、しかし彼の心の中にある願いを、イエスは聴き取っておられました。群衆に混じって歩いていたイエスの動きがぴたりと止まる。みんなびっくり、ざわめいていたのが静まってしーんとします。その静けさの中で・・・
 40 イエスは立ち止まって、彼をそばに連れて来るように言いつけられた。
 41 彼が近寄って来たので、「わたしに何をしてほしいのか」と尋ねられると、彼は、「主よ。目が見えるようになることです」と言った。

この一言ですよ。物乞いを始めてから何年、あるいは何十年、毎日毎日、「お
金を恵んでください」と繰り返してきましたが、この日、生まれて初めて、

お金以外のものを求めたのです。

2015年3月1日日曜日

ヨハネの福音書17章1節~8節 「イエス・キリストの祈り(1)~ご自分のために~」

 人間は祈る動物と言われます。ある辞書に、「祈りとは、神などの人間を超える存在に対して、何かの実現を願うこと。昔から世界中で行われている人間の営み」と説明されています。確かに人種や文化は異なっても、祈りのための宮や教会のない国はありません。
 ご多幸を、あるいは健康回復をお祈りしていますと書かれた手紙は多くあります。祈りと言うことばが入った歌や本のタイトルは数知れません。元旦には、9000万人の日本人が神社仏閣に願い事を祈りに出かけます。普段は「神などいるものか」と口にする無神論者も、大変なことが起これば、祈りの手を合わせるのです。
 しかし、悲しいことに、祈る相手が定かでなかったり、相手が聞くことも、語ることもできない木や石の偶像であったりと、聖書の神様から遠く離れた人間の祈りは不確かで、虚しくて、どこか一人相撲、自己満足という気がします。
 それに対して、私たちは、この世界の造り主を相手に祈る者。誰に向かって祈っているのか分からない祈りでも、一方通行で、相手からの応答がない祈りでもない。心から信頼することのできる神様に天の父と呼びかけ、手ごたえのある祈りをささげ、交わることができるという幸いを受け取っています。神様に祈ることができる幸いです。
 この点、多くの方は共感してくださると思います。しかし、祈りにはもう一つの面があることを、今日の箇所は私たちに教えているのです。それは、神の御子イエス・キリストに祈られているという幸いでした。
 今、私たちが読み進めているヨハネの福音書は、第13章から、十字架前夜のイエス様と弟子たちの食事、いわゆる最後の晩餐の場面に焦点を当てています。第13章から16章まで、イエス様は、洗足と様々な教えにより、間近に迫った十字架の死について、それが彼らに必要であることを示し、祝福であることを説いてこられました。
 そして、今日の17章では、天の父に対する祈りを通して、もう一度ご自分の使命を確認するとともに、弟子たちに対する愛を現されたのです。この祈り、聖書に登場するイエス様の祈りとしては最も長く、大祭司の祈りと呼ばれることもあります。
 大祭司は、旧約聖書の時代、ただひとり神殿の最も奥の建物、至聖所と言う神様がおられる場所に入ることができた人物です。大祭司だけが人々の罪の贖いをするため、罪のいけにえを携え、年に一度至聖所に入ることができました。
 今日の箇所が大祭司の祈りと呼ばれてきたのは、大祭司とイエス様の姿が重なるからです。この時、正にイエス様は、私たちの罪の贖いのため、ご自身を罪のいけにえとするべく、祈りによって天の父に近づいていかれる。その姿を思い描いて、17章を見てゆきたいと思います。
 17章は通常三つに分けられます。1節から8節がイエス様ご自身のための祈り、9節から19節が弟子たちのための祈り、20節から26節が弟子たちの後に続く弟子たち、つまり私たちのための祈りでした。
 こう言いますと、三つが別々の祈りと感じられるかもしれません。しかし、実際には三つが混じり合っています。今日の部分も、イエス様ご自身の祈りとともに、弟子たちのため、私たちのための祈りが込められていることを覚えておくと良いと思います。
17:1~3「イエスはこれらのことを話してから、目を天に向けて、言われた。「父よ。時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現わすために、子の栄光を現わしてください。それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため、あなたは、すべての人を支配する権威を子にお与えになったからです。その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」

 十字架前夜、イエス様が切に願ったのは、ご自分が神の御子としての栄光を現すため、十字架に進むことができるようにでした。ご自分の栄光は、父の栄光でもあると、イエス様は考えています。
 それでは、父の栄光、イエス様の栄光とは何でしょうか。様々な言い方ができますが、ここでは、神様の最も根本的なご性質である愛を現すことと言って良いかと思います。イエス様はご自分の死を通して、神様の愛が明らかに示されるように、そのために十字架の道を進めるよう助けてくださいと、祈り願っておられるのです。
 当時十字架は最も残酷な刑罰。十字架の木につけられ、裸にされ、鞭で打たれるその人は、惨めさの極地にあると考えられました。来るべき救い主の苦しみについて預言している旧約聖書のイザヤ書にも、人々がその様に感じることが述べられています。

 53:2「彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。」
 53:3「人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。」
 53:4「私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。」

 つまり、多くの人が「これほど惨めなものはない」と感じるのが十字架の死でした。そこに父なる神とイエス・キリストの愛が最も輝いている等とは、誰も考えることのできないもの。それが、イエス様が成し遂げようとしている使命だったのです。
 誰にも理解してもらえない困難な使命を、ただひとり成し遂げねばならないイエス様。しかし、天の父だけはイエス様の思い、苦しみを理解してくださる。だからこそ、イエス様は天に目を向け、父なる神様に信頼し、祈られたのです。
ご自分が十字架に死なねば、人間の罪は赦されない。そのままでは人間はみな永遠の死にゆくことになる。ならば、本来人間が受けるべき神の罰を身代わりに受け、ご自分を信じる者の罪を赦し、永遠のいのちに生かしたい。その一点にイエス様の思いは集中していました。
さらに、十字架の道を選び、歩みを進めることができる様にとの祈りが続きます。

17:4、5「あなたがわたしに行なわせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現わしました。今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。」

様々な病人を癒し、死人を生き返らせる。罪に悩む人々に、罪の赦しを宣言する。イエス様はこれまでも、天の父の栄光を現してきました。弟子たちは、それを見るたび、「この方は一体どなたなのか」と驚きに包まれてきました。そして、ついに神から来た救い主と信じるに至ったのです。
しかし、やがて、それらすばらしいことばやみわざも影をひそめるほど、大きな神様の栄光が現されようとしていました。十字架の上に輝く神様の愛です。「父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください」。この祈りには、重大な使命を前に、一際父のそばにいて、一際父の愛に守られて、これを果たしてゆきたい、そんなイエス様の切なる願いを見ることができるように思います。
こうして、イエス様が祈りをもって準備し、成し遂げた十字架の死。それによって私たちが与えられる永遠のいのちとは何だったのか。それは、神様、イエス様との交わりでした。「永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ること」とある通りです。
神様を父とし、イエス様を救い主とも友とも呼ぶ親しい交わり、死後も永遠に続く、心から安心できる愛の関係。皆様は、ご自分が今この永遠のいのち、本来人間として生きるべきいのちをもっていることを自覚しているでしょうか。
永遠のいのちを実感し、味わうためには、私たちの心の眼が開かれて、イエス様の十字架の死の意味を悟ること、十字架から流れる神様の愛を心に受け取ることが、ぜひとも必要です。果たして、私たち永遠のいのちのことなど忘れて、目先のことで右往左往していないか。せっかく、イエス様が与えてくださったいのちを、どこかに仕舞い込んではいないか。イエス様が尊い犠牲を払い、買い取ってくださったいのちを満喫することを、私たちも生活の中で、何よりも大切にしたいと思いうのです。
さて、次は、天の父とイエス様にとって、弟子たちが、そして、私たちがどのような存在であるかを考えさせてくれる祈りとなっています。

17:6~8「わたしは、あなたが世から取り出してわたしに下さった人々に、あなたの御名を明らかにしました。彼らはあなたのものであって、あなたは彼らをわたしに下さいました。彼らはあなたのみことばを守りました。いま彼らは、あなたがわたしに下さったものはみな、あなたから出ていることを知っています。それは、あなたがわたしに下さったみことばを、わたしが彼らに与えたからです。彼らはそれを受け入れ、わたしがあなたから出て来たことを確かに知り、また、あなたがわたしを遣わされたことを信じました。」

弟子たちは、この中で「天の父がこの世から取り出した者」「天の父の者」「天の父がイエス様にくださった者」と言われています。この「くださった」ということばは、イエス様が、弟子たちを天の父からの賜物、宝物として与えられたと感じている、そういう意味があると言われます。
イエス様は、弟子たちを天の父から下された大切なものと思うからこそ、彼らにご自分のことを明らかにし、彼らがイエス様を救い主と信じるまで、みことばを教えられたと言うのです。

イザヤ43:4「わたしの眼に、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」

宇宙のチリの様な、小さく、無力な人間。自分の様な者がこの世界に生きることに何の意味があるのかと寂しく感じることもある私たちが、本当はどのような価値を持つ存在なのか。改めて、私たちたちひとりひとりが、天の父とイエス様にとって、非常に大切な存在、かけがえのないもの、特別な愛の対象であることを思わせてくれる祈りではないでしょうか。
最後に、私たちの信仰の歩みにとって大切なことを二つ、確認しておきたいと思います。
 ひとつは、イエス様の視点から、自分の信仰の歩みを見るということです。今日の祈りの中で、イエス様は、弟子たちが「あなたのみことばを守りました。あなたがわたしを遣わされたことを信じました」と語っています。
 現実としては、彼らはこの後ゲッセマネ園で、踏み込んできたローマ兵を恐れて、離れ去ります。裁判の行われる家の庭まで追いかけたペテロも人を恐れて、イエス様との関係を否定します。やがて、彼らは故郷に帰り、元の生活に戻ってしまうのです。
 これを考えますと、イエス様のことばは、弟子たちの信仰に対する過大評価と思えます。しかし、イエス様の愛は、情けないほどに弱く、脆い弟子たちを信頼し、心からその将来に期待しています。それだけでなく、彼らと最後まで歩みをともにし、完全な者としてくださると言うのです。
 「彼らはみことばを守りました。あなたがわたしを遣わされたことを信じました」ということばは、彼ら不肖の弟子たちを、天の父から下された本当に大切な者として、最後まで責任をもって完成に導くと言う誓いのことばとも取れるのです。
 私たちも、弟子たち同様情けないほど人を恐れる者ですし、神様に背を向けることもしばしばです。罪の力に引っ張られる自分の悲惨な有様に涙することもあるでしょう。ですから、なおさらのこと、イエス様にこの様に見守られていることが嬉しく、心強いのです。イエス様の視点から見る時、私たちの信仰の歩みは必ず完成すると教えられ、安心できるのです。
「主我を愛す。主は強ければ、我弱くとも、恐れはあらじ。我が主イエス、我が主イエス、我が主イエス、我を愛す。」
 私たちの信仰の歩みを見守っておられるイエス様の姿、その眼差しを心にとめて、日々歩んでゆけたらと思います。
 二つ目は、イエス様に祈られている幸いを心に刻むことです。古代キリスト教会の指導者として有名なアウグスチヌスは、若い頃多くの問題を抱えていました。異教の教えに心傾けていたこと、自己中心で傲慢な性格、結婚前に女性と同棲し、性的に放縦であったこと。このアウグスチヌスが罪を悔い改め、神様を信じる様にと、涙ながらにとりなしの祈りをささげたのが母モニカです。
後に、キリスト教会の指導者となったアウグスチヌスは、自分が神様を信じ、進みべき道を進めるようになったのは、母の祈りのおかげ、母の祈りが自分の人生を支えたと感謝しています。
モニカが、神から遠く離れた生活を送っていた息子を、心から大切な存在と覚え、祈り続けたように、イエス・キリストも、私たちを、母が息子を思う以上の愛で慕い、祈り続けてくださっている。私たちの歩みは、イエス・キリストの祈りに覚えられ、支えられている。私たち皆が、私たちのために祈り続けてくださるイエス様の姿を日々仰ぐ者でありたいと思います。