皆様には、自分が神様に救われているのかどうかわからなくなったと言う経験はないでしょうか。病に苦しむ時、試練の中にある時、本当に自分は神様に守られているのだろうかと不安を感じたことはないでしょうか。
この様な経験は、私たちだけのものではありません。聖書、特に詩篇を読みますと、昔から信仰者たちは、しばしば救いの確信がないことを嘆き、神様の守りの御手が見えずに苦しみ悩んでいたことが分かります。
宗教改革の時代に活躍したイギリス人ジョン・ノックスは、死が迫る中非常な不安に襲われましたが、枕元にいた妻にこのヨハネの福音書17章を読んでほしいと願い、イエス・キリストの祈りを聞きながら、平安のうちに世を去ることができたと言われます。
このヨハネの福音書17章が、救いの確信を持てずに悩む信仰者、神様の守りを実感することができず不安を抱く信仰者たちを助け、支えてきたもののひとつであることを覚え、私たち読み進めてゆきたいと思います。
時は紀元30年頃の春。十字架前夜、イエス・キリストが弟子たちとともに最後の晩餐を過ごした際、天の父にささげた祈りの場面。大祭司の祈りと呼ばれてきたところです。
大祭司とは、旧約聖書の時代、イスラエルの民のなかで、神様がそこにおられると考えられた神殿の一番奥の部屋至聖所に入ることを許されたただ一人の人物。大祭司はその際、人々の罪を背負った罪のいけにえの動物を携え、神様に近づくことができました。この大祭司の姿が、ご自分を罪のいけにえとして十字架にささげ、天の父のもとに近づこうとするイエス・キリストと重なるため、ヨハネ17章は昔からイエス様による大祭司の祈りと呼ばれてきたのです。
さて、先回見てきたように、イエス様はまずご自分が天の父の栄光を表わすことができる様に、ことばを代えれば、十字架に死に、人々の罪の贖いを成し遂げることができるよう助けてくださいと祈られました。いわば、ご自分のための祈りです。
今日の箇所では、祈りの焦点が、最後の晩餐に連なる弟子たち、今まで共に歩んできた弟子たちに移ってゆきます。
17:9,10「わたしは彼らのためにお願いします。世のためにではなく、あなたがわたしに下さった者たちのためにです。なぜなら彼らはあなたのものだからです。わたしのものはみなあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。そして、わたしは彼らによって栄光を受けました。」
イエス様は、弟子たちのことを「あなたがわたしに下さった者」「あなたの者」「あなたのものはわたしのもの」と語っています。天の父とイエス様にとって、弟子たちの存在がいかに大切であるかを確認しておられます。さらに、「わたしは彼らによって栄光を受けました」と言い、弟子たちを褒めています。苦楽を共にしてきた彼らがイエス様を神の御子、救い主と信じたことを、心から喜んでいるのです。
ご存知のように、この後イエス様を逮捕する人々がやってくると、恐れた弟子たちは雲の子を散らすように逃げ去り、イエス様とのかかわりを否定するようになります。そんな不肖の弟子たちであるのに、彼らを非常に大切な存在と思い、心から喜んでおられるイエス様の姿が、この祈りから浮かび上がってきます。
但し、ここに「世のためではなく」と言うことばがあるのに違和感を覚えると言う人もあるかもしれません。イエス様はご自分を信じた弟子たちだけを大切にし、世の人々のことはどうでもよいとしているのだろうかと疑問を感じる人もいることでしょう。
しかし、同じヨハネの福音書の中には、この世つまり神様を認めない人々を、神様は愛し、その様な人々に永遠のいのちを与えるため、イエス様を世に与えたとあります。
3:16「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」
つまり、父なる神なる神様が大切に思う世の人々の救いのため、弟子たちが非常に重要な役割を果たすことになるので、先ずその弟子たちのために祈られた。これが、イエス様の思いだったのです。そして、弟子たちのための祈りが続きます。
17:11,12「わたしはもう世にいなくなります。彼らは世におりますが、わたしはあなたのみもとにまいります。聖なる父。あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に、彼らを保ってください。それはわたしたちと同様に、彼らが一つとなるためです。わたしは彼らといっしょにいたとき、あなたがわたしに下さっている御名の中に彼らを保ち、また守りました。彼らのうちだれも滅びた者はなく、ただ滅びの子が滅びました。それは、聖書が成就するためです。」
これまで全力で弟子たちに仕え、守ってこられたイエス様。そのイエス様が、十字架で人々の罪の贖いを成し遂げ、天に行くときには、「父よ。この弟子たちをあなたの御名の中に保って下さい。守ってください」と祈られたのです。
少し前、最後の晩餐の席で、イエス様は天に帰って行かれたら、その時はもうひとりの助け主、聖霊を遣わすと約束されました。それを思うと、イエス様がこの世に残してゆく弟子たちを救いのうちに守るため、いかに心砕いておられたかが分かります。先には聖霊の神様に、今は天の父なる神様に。ご自分といっしょになって、地上を歩む不信仰な弟子たちを全身全霊で守るよう、協力を願い求めるイエス様でした。
私たちがお願いする前に、天の父と聖霊とに私たちの魂のガードマンとなることを、イエス様が先ずお願いしてくださった。弱い信仰しか持っていないのに、とても暢気な弟子たち、私たちに代わって、いつもこうして祈り願いをささげておられるイエス様のことを心強く、頼もしく感じられるところではないでしょうか。
さて、次は、弟子たちの心に喜びが満たされるようにとの祈りとなります。
17:13「わたしは今みもとにまいります。わたしは彼らの中でわたしの喜びが全うされるために、世にあってこれらのことを話しているのです。」
十字架の死と言う大変な使命を目指して歩んでこられたイエス様の心には喜びがあったと言われます。イエス様ご自身が持っていた喜びが、弟子たちの中で全うされるように、彼らの心がイエス様の喜びで満たされるようにとの祈りです。
労苦と悲しみが多かったと思われるイエス様の生涯。しかし、聖書を読みますと、イエス様が天の父との交わりを喜び、収税人や罪人と呼ばれ社会から除け者にされていた人々との食事の交わりを喜んでおられたことが分かります。また、幼子が神を賛美する姿や、ローマ人の百人隊長など信仰をもってご自分に近づいてきた人々、先程見たように、弟子たちとの交わりをも喜んでおられたことが分かります。
さらに、ご自分の前に置かれた喜びがあるので、イエス様は十字架の苦しみと恥とを忍耐することができたと、聖書は教えているのです。
へブル12:2「…イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」
ご自分の前に置かれた喜びとは、地上での使命を終え、懐かしい天の父のもとに帰ってゆき、心ゆくまで親しく交わることのできる生活を指しています。
果たして、皆様の信仰生活に喜びはあるでしょうか。私たちクリスチャンは自分の罪を悲しみます。世の悲惨を悲しみます。しかし、同時に、天の父との交わり、イエス様が私たちの周りにおいてくださった人々との交わり、信仰の友との交わり、それらを豊かにする健康や食べ物、住まい、天国の希望など、多くの良いものを与えられている。このことに心の眼が開かれ、喜びたいと思うのです。悲しむべことを悲しみ、喜ぶべきことを喜ぶ。私たち皆でクリスチャン人生の豊かさを味わってゆきたいと思います。
さらに、弟子たちがこの世で神様のことを証しする者となるための祈りです。
17:14~16「わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。しかし、世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものでないからです。彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。」
真剣に神様に従って生きようとする時、「そんな生き方やめとけよ」と忠告する友人がいる。「そんな生き方をしていると結婚も、出世もできないじゃないか」と反対する家族がいる。職場の同僚や上司からは煙ったがられる。イエス様が「世は彼らを憎む」と言われた通り、これらはしばしば私たちが経験することです。
そんな時、私たちは「辛い」「生きにくい」と感じ、この世を厭います。弟子たちの時代、キリスト者に対する迫害は非常に厳しくありましたから、この様な思いを抱くクリスチャンはさらに多かったであろうと思われます。
しかし、イエス様が天の父に祈り願ったのは、弟子たちをこの世から取り去って、安全な天国に迎えることではなく、この世で迫害する者から守ることでした。この世に私たちを遣わし、この世に私たちを置くこと、そして、私たちがこの世で神様の存在やすばらしさを証しすること、それがイエス様の願いであり期待だったのです。
17:17~19「真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。わたしは、彼らのため、わたし自身を聖め別ちます。彼ら自身も真理によって聖め別たれるためです。」
この地上における日々を最後の一日に至るまで、神様を証しする者として生き抜くこと。その為に、この世に遣わされ、生かされ、守られている我が身であることを覚えたいのです。今日と言う一日をこの私が生きるため、イエス様が尊い命を十字架に犠牲にしてくださったことを感謝しつつ、神様を証しする歩みを進めてゆきたいと思います。
最後に、皆様とともに確認したいことが二つあります。
ひとつは、この祈りの中に救いの確信を見出すことです。信仰の歩みは山あり谷あり。救いを確信して軽やかに過ごす日もあれば、自分が神様に救われているのかどうかわからなくなり、不安と恐れの中過ごす日もあるでしょう。経済的援助や健康回復、仕事の成功などに恵まれ、神様に守られていることを実感できる時もあれば、試練に次ぐ試練で、神様の守りなどあるのかと悩む時もあると思います。
その様な場合、私たちはこのイエス様による祈りを思い出したいのです。私たちが人生の途上で不安や恐れに陥り、悩む前そのはるか前に、イエス様と天の父が全力を尽くして私たちを救いのうちに守ることを約束しておられたことを思い起こすなら、私たちは本当に助けられ、支えられるのではないでしょうか。
二つ目は、イエス様が真理つまり神様のみこころによってご自身を聖め別ち、十字架に至るまで神様に従われたように、私たちも真理のみことばによって自分自身を聖め別つ歩みをしてゆきたいと思うのです。
聖書には、「聖であれ」とか「きよい歩み」を為せと言う命令が出てきます。きよさと言う時、私たちはすぐに道徳的に悪ではない、いわゆるきよい行いを思い浮かべます。しかし、聖書において、きよさの根本的な意味は私たちの神様に対する心の在り方、態度に関わることです。具体的には、私たちの心が神様の愛で満たされ、私たちが神様を愛し、神様に従う思いで一つになっている状態、態度と言えるでしょうか。
けれども、この様な状態を私たちが作りだすのは非常に難しいこと。一人では不可能なことです。放っておけば、私たちの心は神様から離れて行きますし、何もせず自然のままでは、神様に対する態度を整えることはできません。ですから、イエス様は、私たちが「真理のみことばによって聖め別たれるために」祈られました。
私たちはみことばによって神様の愛を確認し、喜ぶことができます。私たちはみことばによって、心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神様を愛する態度へと変えられ、整えられるのです。
霊的なことに非常に弱い私たちは、みことばに接し、みことばに親しみ、みことばを通して神様と親しく交わり、神様の愛に安らう機会をもつ必要があると思います。それを習慣にする必要があるのではないでしょうか。イエス様が私たちの弱さを良く知り、私たちが霊的な習慣を確立できるよう祈り続けておられること、忘れてはいけないと思います。
Ⅰペテロ2:2「あなたがたは、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」