2015年3月15日日曜日

伝道者の書12章9節~14節 「一書説教 伝道者の書~結局のところ~」

 私たちは聖書を「神のことば」として受け取っています。この世界を造られた方から私たちへ宛てられた書。とはいえ、天から本が降ってきたというのではありません。神様に選ばれ人物が、特別な守りの中で記した人間の手による書でもある。
「神のことば」であるため、その内容には普遍性があります。聖書には、どの時代、どの地域、どの文化、どのような人にも当てはまる内容が記されている。それと同時に、記した人間の特徴も言葉に表れるため、聖書にある書は、それぞれ色が異なります。私たちにとって、読み易いと思う書もあれば、読みにくい、理解が難しいと思う書もある。読みにくさと言っても、色々な読みにくさがあります。今の私たちとどのような関係があるのか分かりにくい。馴染みのない人名、地名が多い。何を主張しているのか掴めない、などなど。いかがでしょうか。これまで読み進めてきた書で、読みにくかった書と聞いて思い出すのは何でしょうか。

 断続的に行ってきた一書説教。今日は二十一回目となり、旧約聖書第二十一の巻、伝道者の書を扱います。難解であるという点で有名な伝道者の書。(次回扱う、雅歌も非常に難解ですが。)知恵の名声をほしいままにした、あの大王ソロモンの名前を冠する知恵文学。旧約聖書の謎の書、秘書、珍書、奇書。
一定の筋道というより、断片的。時に相互に矛盾していると思われる箇所が出てきて、著者が混乱しているのか、はたまた私が混乱しているのかと首をかしげながら、しかし、全くのデタラメというわけでもない。楽観論、悲観論、不可知論、運命論、合理主義、懐疑主義と様々な思想が展開し、世界を見渡しながら、人生の意味、人間の意味を探る伝道者の書。果たして、自分に理解出来るのかと怖じ気づきながらも、私たち皆で伝道者の書を読むことに取り組みたい。一回読んで分からなければ、百回読めば良い。百回読んで分からなければ、千回読めば良い。どうしても分からなければ、天国に行ってから聞くので良いとして、ともかく皆で聖書にあたりたいと思います。一書説教が進むにつれて、教会の皆で聖書を読み進めるという恵みにあずかりたいと思います。

 その冒頭は、非常に有名です。空の空。全ては空として、人生の虚しさ、儚さ、甲斐の無さ、呆気なさが歌われます。
 伝道者の書1章1節~3節
「エルサレムでの王、ダビデの子、伝道者のことば。空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう。」

 宇宙の暗さ、人生の疲労感漂う始まり。これが他でもない、栄華を極めたソロモンの言葉であるということに重さがあります。初めて伝道者の書を手にする人は、このような虚無主義、悲観主義の言葉に驚くことになります。
 聖書の中には、世界の中心として造られた人間、創造主の宝である私たちという、明るい響きがありました。しかし同時に、「全ては空」という暗い響きもある。「聖書広し」です。
 そして、この「全ては空」というのが、伝道者の書の基調、基本的なメロディでした。何も考えずに「全ては空」と言っているわけではない。前半は、世界を見渡し、よくよく考えて、「全ては空」と言う。著者は私たちをあちらこちらと連れていき、やはり空である。あの思想、この思想と確かめて、やはり空であると言う展開となるのです。(後半は、不思議な格言が多く出て来て、行間を読む力が問われる内容となります。)

 まずは一章。「一つの時代は去り、次の時代が来る。」(四節)「日は上り、日は沈む。」(五節)「風は南に吹き、巡って北に吹く。巡り巡って風は吹く。」(六節)など、全ては繰り返しではないかという視点で世界が見渡されます。人間の歴史も繰り返し。太陽も風も繰り返し。この世界は延々と同じことを繰り返している。壮大にして憂鬱、やりきれない退屈な世界。繰り返しの世界は、虚しいという主張。(後半に、知恵を得ること、それも正気の知恵だけでなく、狂気や愚かさも手にしてみたが、やはり空という主張も出て来ます。)

 この繰り返しの世界を見た結果、それでは快楽に生きるのはどうか。快楽にこそ、人生の意味が見出せるのではないかと、二章は快楽主義の登場です。快楽を味わう、心のおもむくままに楽しむ。(一節、三節、十節)事業を拡張し、宮殿を建て、庭園を整え、果樹園を設け、奴隷も家畜も得て、食べ物や酒で食欲を満たしたら、多くのそばめで色欲を満たす。欲しいものは全て手に入れ、やりたいだけやった。快楽に人生の意義を見出し、満足したかと言えば、いやそうではない。全ては虚しいと確認されるのです。
 伝道者の書2章11節
「しかし、私が手がけたあらゆる事業と、そのために私が骨折った労苦とを振り返ってみると、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。日の下には何一つ益になるものはない。」

 三章は人間の様々な場面を輪切りにして提示する紙芝居で始まります。有名な箇所。「生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を引き抜くのに時がある。」(二、三節)「時」「時」と三十回繰り返される。それも、それぞれ対になっていて、「泣くのに時があり、ほほえむのに時がある。」(四節)「抱擁するのに時があり、抱擁をやめるのに時がある。」(五節)と、この「時」というのは、始まりと終わりの時を指しています。人生の様々な場面を見つつも、始まりがあれば、終わりがある。人間は、悲劇と喜劇を繰り返して死ぬだけ、という確認でしょうか。まとめとしての言葉が暗く響きます。
 伝道者の書3章9節
「働く者は労苦して何の益を得よう。」

 繰り返しの人生。働くことも虚しい。空の空。すべては虚しいとの調べ。しかし、この章ではここから著者は一転するのです。
 伝道者の書3章11節a
「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。」

 人生とは繰り返し、働くことも虚しいと言っていた著者が、突如、神を信じる者の幸い、真っ当な信仰の発露を見せるのです。急に、主張や雰囲気が変わる。さすがは奇書と言ってよいでしょうか。しかし、これが伝道者の書の一つの特徴で、全体としては「全ては空」という調べを響かせながら、所々で、全てが虚しいのではない、神を認めよと楔が打ち込まれるのです。(実は二章の後半にも、神有との視点が語られていました。)

 続く四章では、人間社会、権力者に目を向けて、やはり虚しい世界よとつぶやきが聞こえます。
 伝道者の書4章1節
「私は再び、日の下で行なわれるいっさいのしいたげを見た。見よ、しいたげられている者の涙を。彼らには慰める者がいない。しいたげる者が権力をふるう。しかし、彼らには慰める者がいない。」

 人間社会を見渡した時、権力者が相応しくその権力を使うことがいかに稀であるのか。文明は進んでいるように見えても、弱肉強食は形を変えて残る世界。虚しい世界。そのしいたげられている様を見ると、死人の方がましではないかと思われる。(二節)
それでは、権力者が変われば良いのかと言えば、良きリーダーと思う者が立っても、次第に悪に染まり、しいたげる者となる。初めは英雄でも、やがては独裁者となってしまう。やはり、虚しい世界(十三節~十六節)とため息がもれるのです。

 こうして大自然、人間の人生、社会、政治と見てきた著者は、続く五章、六章にて金銭の虚しさに目を当てます。(五章の前半は、正しくない宗教行為の虚しさに触れています。)
 伝道者の書5章10節、13節
「金銭を愛する者は金銭に満足しない。富を愛する者は収益に満足しない。これもまた、むなしい。・・・私は日の下に、痛ましいことがあるのを見た。所有者に守られている富が、その人に害を加えることだ。」

 金銭、富を得ることは自由が増えること、幸せに近づくことかと思いきや、むしろ反対となる。富を得ると、それを失わないようにと苦労が増える。いや、苦労どころではない、害を受けるのだと。本来、金銭自体が悪ではなく、生きるのに必要なもの。富の意味、富の本質をわきまえることが大事です。しかし、誰もが富を正しく扱うことが出来ない。皆が皆、金銭を愛することになり、その虜となって満足を得ることが出来ず、これもまた虚しいと言うのです。

 このように伝道者の書の前半は、あれやこれやと世界を見渡し、様々な思想を確かめながら、有意義なことはないか、人間の生きる意味とは何かと確認します。その結果、空の空、全ては空と見る。(ところどころに、神様を信じることの幸いも盛り込みながら、となるのですが。)人生意義なし。甲斐無し。全ては虚しいとの声。重苦しい前半。

 それでは後半はどうなるのでしょうか。「空の空」から反転して、明るい調子になるかと言えば、そういうこともなく、何故か格言集となります。その格言が人生は虚しいというテーマで統一されているのならばまだ分かるのですが、そうでもない。(八章の後半から九章は、人生の虚しさをテーマにした格言で統一されていると考える人もいますが。)格言の中には、一般的な知恵と思えるものもありますが、よく意味が分からない、難解な格言も続々と出て来ます。「ムムム」と唸りたくなる内容。一体何なのかと手を挙げたくなります。さすがは謎の書。前半も十分難解ですが、後半はますます難解。

 難解な格言が多く出てくる。とはいえ有名な言葉も多くあります。「祝宴の家にいくよりは、喪中の家に行く方が良い。そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ。」(七章二節)とか、「あなたは正しすぎてはならない。知恵がありすぎてはならない。」(七章十六節)とか、「私は快楽を賛美する。日の下では、食べて、飲んで、楽しむよりほかに、人にとって良いことはない。」(八章十五節)とか、「あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見いだそう。」(十一章一節)などなど。七章の後半には、女性は恐ろしいと、聖書の中でも最悪の女性観が出てきたり、十章には、七つの小噺、七つの絵本のような内容が出てきたり。このような文章が聖書に含まれているのが面白く、興味深く、しかし何を言わんとしているのか理解が難しい。有名、しかし難解という言葉が多数出て来ます。一般的に有名な箇所を意識しつつ、自分が気になる言葉をチェックしながら、読み進めると良いと思います。

 このように確認しますと、伝道者の書は、世界を見渡して、人生の意義なし、全ては空という前半と、様々な格言が記された後半で出来た書物と言えますが、その最後、あとがき、編集後記にあたるところで、非常に重要なメッセージが記されていました。
 伝道者の書12章9節~11節
「伝道者は知恵ある者であったが、そのうえ、知識を民に教えた。彼は思索し、探求し、多くの箴言をまとめた。伝道者は適切なことばを見いだそうとし、真理のことばを正しく書き残した。知恵ある者のことばは突き棒のようなもの、編集されたものはよく打ちつけられた釘のようなものである。これらはひとりの羊飼いによって与えられた。」

 著者である伝道者は、「適切なことば」「真理のことば」を書き残したと言います。そして、この知恵の言葉は「ひとりの羊飼いによって与えられた」と言うのです。私たちの羊飼い、神様から教えられたという意味でしょう。(旧約聖書の中に、たびたび神様を羊飼いとする箇所がありました。ここでも羊飼いと言っているので、この知恵を、「突き棒」と「うちつけられた釘」と、羊飼いには日常的なものに例たのだと思います。)
 何を教えられたのか。伝道者の書で繰り返されたメッセージは、「日の下では、全ては空。」というメッセージ。これでもかと、あらゆるものの空しさが語られましたが、このメッセージは神様から与えられたものだと言うのです。
(「空」という言葉は、旧約聖書に七十二回出てくる言葉ですが、そのうち三十七回が、伝道者の書に出てきています。もう一つの鍵の言葉は「日の下」という言葉。二十九回です。日の下以外に、天の下、地の上などの表現も。)
 では、あらゆるものを空しいとして、何が言いたかったのか。結局のところとして続きます。

 伝道者の書12章11節~14節
「わが子よ。これ以外のことにも注意せよ。多くの本を作ることには、限りがない。多くのものに熱中すると、からだが疲れる。結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ。」

 神を恐れ、神の命令を守る。この一事に尽きるとして、伝道者の書は閉じられます。
考えてみますと、「日の下」では「すべては空」というのは、日の下だからです。日の下で事を計って、人生の意義を見出そうとしたから、「空の空」となったのです。日の下ではなく、天の上に目をむけなければならなかった。日の下、この地上にだけ焦点を当てる、神無し、神抜きで人生の意義を見出そうとすると、何をしようにも、どのような思想を持ってこようとも、全ては空しい。人生の意義を見出したいのであれば、世界を造られた神様に向き合う必要があるとして、伝道者の書は閉じられます。

 以上、大雑把にですが、伝道者の書を読む備えをなしました。あとはどうぞ、それぞれで読み、互いに感想を言い合いたいと思います。
 最後に二つのことを確認して終わりにいたします。
旧約聖書中、難解として有名な伝道者の書。その全ての内容を理解することを目指すと、実に難しい書と言えます。しかし、この書を通して、神様が私たちに伝えているメッセージの中心。私たちに求めていることは何かと問われれば、これ以上ない程に簡単に分かります。著者が、結局のところ、としてまとめているからです。「神を恐れること、神の命令を守ること。」これが、今日、神様が私たちに求めていることです。実際に、伝道者の書を読み、難しいという感想を口にするとしても、最も重要なメッセージは、逃すことのないように。しっかりと受けとめたいと思います。
 もう一つ覚えておきたいのは、この「神を恐れること、神の命令を守ること」が、私にとっては何を意味することなのか。よくよく考えたいと思います。今日、何をすることが、正しく「神を恐れること、神の命令を守ること」になるのでしょうか。この聖書のメッセージに真剣に従うとは、どのように生きることなのか。考えたいのです。クリスチャンにとって、「神を恐れること、神の命令を守ること」が大事であるということを、「それはそうでしょう。分かっています。」として終わらないように。よく祈り、よく考えて、私にとって「神を恐れること、神の命令を守ること」は、このようなことですと決心して、取り組むことが出来るようにと願います。

 私たち皆で、聖書を読み、聖書に従う幸いを味わいたいと思います。