人間は祈る動物と言われます。ある辞書に、「祈りとは、神などの人間を超える存在に対して、何かの実現を願うこと。昔から世界中で行われている人間の営み」と説明されています。確かに人種や文化は異なっても、祈りのための宮や教会のない国はありません。
ご多幸を、あるいは健康回復をお祈りしていますと書かれた手紙は多くあります。祈りと言うことばが入った歌や本のタイトルは数知れません。元旦には、9000万人の日本人が神社仏閣に願い事を祈りに出かけます。普段は「神などいるものか」と口にする無神論者も、大変なことが起これば、祈りの手を合わせるのです。
しかし、悲しいことに、祈る相手が定かでなかったり、相手が聞くことも、語ることもできない木や石の偶像であったりと、聖書の神様から遠く離れた人間の祈りは不確かで、虚しくて、どこか一人相撲、自己満足という気がします。
それに対して、私たちは、この世界の造り主を相手に祈る者。誰に向かって祈っているのか分からない祈りでも、一方通行で、相手からの応答がない祈りでもない。心から信頼することのできる神様に天の父と呼びかけ、手ごたえのある祈りをささげ、交わることができるという幸いを受け取っています。神様に祈ることができる幸いです。
この点、多くの方は共感してくださると思います。しかし、祈りにはもう一つの面があることを、今日の箇所は私たちに教えているのです。それは、神の御子イエス・キリストに祈られているという幸いでした。
今、私たちが読み進めているヨハネの福音書は、第13章から、十字架前夜のイエス様と弟子たちの食事、いわゆる最後の晩餐の場面に焦点を当てています。第13章から16章まで、イエス様は、洗足と様々な教えにより、間近に迫った十字架の死について、それが彼らに必要であることを示し、祝福であることを説いてこられました。
そして、今日の17章では、天の父に対する祈りを通して、もう一度ご自分の使命を確認するとともに、弟子たちに対する愛を現されたのです。この祈り、聖書に登場するイエス様の祈りとしては最も長く、大祭司の祈りと呼ばれることもあります。
大祭司は、旧約聖書の時代、ただひとり神殿の最も奥の建物、至聖所と言う神様がおられる場所に入ることができた人物です。大祭司だけが人々の罪の贖いをするため、罪のいけにえを携え、年に一度至聖所に入ることができました。
今日の箇所が大祭司の祈りと呼ばれてきたのは、大祭司とイエス様の姿が重なるからです。この時、正にイエス様は、私たちの罪の贖いのため、ご自身を罪のいけにえとするべく、祈りによって天の父に近づいていかれる。その姿を思い描いて、17章を見てゆきたいと思います。
17章は通常三つに分けられます。1節から8節がイエス様ご自身のための祈り、9節から19節が弟子たちのための祈り、20節から26節が弟子たちの後に続く弟子たち、つまり私たちのための祈りでした。
こう言いますと、三つが別々の祈りと感じられるかもしれません。しかし、実際には三つが混じり合っています。今日の部分も、イエス様ご自身の祈りとともに、弟子たちのため、私たちのための祈りが込められていることを覚えておくと良いと思います。
17:1~3「イエスはこれらのことを話してから、目を天に向けて、言われた。「父よ。時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現わすために、子の栄光を現わしてください。それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため、あなたは、すべての人を支配する権威を子にお与えになったからです。その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」
十字架前夜、イエス様が切に願ったのは、ご自分が神の御子としての栄光を現すため、十字架に進むことができるようにでした。ご自分の栄光は、父の栄光でもあると、イエス様は考えています。
それでは、父の栄光、イエス様の栄光とは何でしょうか。様々な言い方ができますが、ここでは、神様の最も根本的なご性質である愛を現すことと言って良いかと思います。イエス様はご自分の死を通して、神様の愛が明らかに示されるように、そのために十字架の道を進めるよう助けてくださいと、祈り願っておられるのです。
当時十字架は最も残酷な刑罰。十字架の木につけられ、裸にされ、鞭で打たれるその人は、惨めさの極地にあると考えられました。来るべき救い主の苦しみについて預言している旧約聖書のイザヤ書にも、人々がその様に感じることが述べられています。
53:2「彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。」
53:3「人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。」
53:4「私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。」
つまり、多くの人が「これほど惨めなものはない」と感じるのが十字架の死でした。そこに父なる神とイエス・キリストの愛が最も輝いている等とは、誰も考えることのできないもの。それが、イエス様が成し遂げようとしている使命だったのです。
誰にも理解してもらえない困難な使命を、ただひとり成し遂げねばならないイエス様。しかし、天の父だけはイエス様の思い、苦しみを理解してくださる。だからこそ、イエス様は天に目を向け、父なる神様に信頼し、祈られたのです。
ご自分が十字架に死なねば、人間の罪は赦されない。そのままでは人間はみな永遠の死にゆくことになる。ならば、本来人間が受けるべき神の罰を身代わりに受け、ご自分を信じる者の罪を赦し、永遠のいのちに生かしたい。その一点にイエス様の思いは集中していました。
さらに、十字架の道を選び、歩みを進めることができる様にとの祈りが続きます。
17:4、5「あなたがわたしに行なわせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現わしました。今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。」
様々な病人を癒し、死人を生き返らせる。罪に悩む人々に、罪の赦しを宣言する。イエス様はこれまでも、天の父の栄光を現してきました。弟子たちは、それを見るたび、「この方は一体どなたなのか」と驚きに包まれてきました。そして、ついに神から来た救い主と信じるに至ったのです。
しかし、やがて、それらすばらしいことばやみわざも影をひそめるほど、大きな神様の栄光が現されようとしていました。十字架の上に輝く神様の愛です。「父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください」。この祈りには、重大な使命を前に、一際父のそばにいて、一際父の愛に守られて、これを果たしてゆきたい、そんなイエス様の切なる願いを見ることができるように思います。
こうして、イエス様が祈りをもって準備し、成し遂げた十字架の死。それによって私たちが与えられる永遠のいのちとは何だったのか。それは、神様、イエス様との交わりでした。「永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ること」とある通りです。
神様を父とし、イエス様を救い主とも友とも呼ぶ親しい交わり、死後も永遠に続く、心から安心できる愛の関係。皆様は、ご自分が今この永遠のいのち、本来人間として生きるべきいのちをもっていることを自覚しているでしょうか。
永遠のいのちを実感し、味わうためには、私たちの心の眼が開かれて、イエス様の十字架の死の意味を悟ること、十字架から流れる神様の愛を心に受け取ることが、ぜひとも必要です。果たして、私たち永遠のいのちのことなど忘れて、目先のことで右往左往していないか。せっかく、イエス様が与えてくださったいのちを、どこかに仕舞い込んではいないか。イエス様が尊い犠牲を払い、買い取ってくださったいのちを満喫することを、私たちも生活の中で、何よりも大切にしたいと思いうのです。
さて、次は、天の父とイエス様にとって、弟子たちが、そして、私たちがどのような存在であるかを考えさせてくれる祈りとなっています。
17:6~8「わたしは、あなたが世から取り出してわたしに下さった人々に、あなたの御名を明らかにしました。彼らはあなたのものであって、あなたは彼らをわたしに下さいました。彼らはあなたのみことばを守りました。いま彼らは、あなたがわたしに下さったものはみな、あなたから出ていることを知っています。それは、あなたがわたしに下さったみことばを、わたしが彼らに与えたからです。彼らはそれを受け入れ、わたしがあなたから出て来たことを確かに知り、また、あなたがわたしを遣わされたことを信じました。」
弟子たちは、この中で「天の父がこの世から取り出した者」「天の父の者」「天の父がイエス様にくださった者」と言われています。この「くださった」ということばは、イエス様が、弟子たちを天の父からの賜物、宝物として与えられたと感じている、そういう意味があると言われます。
イエス様は、弟子たちを天の父から下された大切なものと思うからこそ、彼らにご自分のことを明らかにし、彼らがイエス様を救い主と信じるまで、みことばを教えられたと言うのです。
イザヤ43:4「わたしの眼に、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」
宇宙のチリの様な、小さく、無力な人間。自分の様な者がこの世界に生きることに何の意味があるのかと寂しく感じることもある私たちが、本当はどのような価値を持つ存在なのか。改めて、私たちたちひとりひとりが、天の父とイエス様にとって、非常に大切な存在、かけがえのないもの、特別な愛の対象であることを思わせてくれる祈りではないでしょうか。
最後に、私たちの信仰の歩みにとって大切なことを二つ、確認しておきたいと思います。
ひとつは、イエス様の視点から、自分の信仰の歩みを見るということです。今日の祈りの中で、イエス様は、弟子たちが「あなたのみことばを守りました。あなたがわたしを遣わされたことを信じました」と語っています。
現実としては、彼らはこの後ゲッセマネ園で、踏み込んできたローマ兵を恐れて、離れ去ります。裁判の行われる家の庭まで追いかけたペテロも人を恐れて、イエス様との関係を否定します。やがて、彼らは故郷に帰り、元の生活に戻ってしまうのです。
これを考えますと、イエス様のことばは、弟子たちの信仰に対する過大評価と思えます。しかし、イエス様の愛は、情けないほどに弱く、脆い弟子たちを信頼し、心からその将来に期待しています。それだけでなく、彼らと最後まで歩みをともにし、完全な者としてくださると言うのです。
「彼らはみことばを守りました。あなたがわたしを遣わされたことを信じました」ということばは、彼ら不肖の弟子たちを、天の父から下された本当に大切な者として、最後まで責任をもって完成に導くと言う誓いのことばとも取れるのです。
私たちも、弟子たち同様情けないほど人を恐れる者ですし、神様に背を向けることもしばしばです。罪の力に引っ張られる自分の悲惨な有様に涙することもあるでしょう。ですから、なおさらのこと、イエス様にこの様に見守られていることが嬉しく、心強いのです。イエス様の視点から見る時、私たちの信仰の歩みは必ず完成すると教えられ、安心できるのです。
「主我を愛す。主は強ければ、我弱くとも、恐れはあらじ。我が主イエス、我が主イエス、我が主イエス、我を愛す。」
私たちの信仰の歩みを見守っておられるイエス様の姿、その眼差しを心にとめて、日々歩んでゆけたらと思います。
二つ目は、イエス様に祈られている幸いを心に刻むことです。古代キリスト教会の指導者として有名なアウグスチヌスは、若い頃多くの問題を抱えていました。異教の教えに心傾けていたこと、自己中心で傲慢な性格、結婚前に女性と同棲し、性的に放縦であったこと。このアウグスチヌスが罪を悔い改め、神様を信じる様にと、涙ながらにとりなしの祈りをささげたのが母モニカです。
後に、キリスト教会の指導者となったアウグスチヌスは、自分が神様を信じ、進みべき道を進めるようになったのは、母の祈りのおかげ、母の祈りが自分の人生を支えたと感謝しています。
モニカが、神から遠く離れた生活を送っていた息子を、心から大切な存在と覚え、祈り続けたように、イエス・キリストも、私たちを、母が息子を思う以上の愛で慕い、祈り続けてくださっている。私たちの歩みは、イエス・キリストの祈りに覚えられ、支えられている。私たち皆が、私たちのために祈り続けてくださるイエス様の姿を日々仰ぐ者でありたいと思います。