「見えるように」 ルカ18:35~43 2015・3・8
35 イエスがエリコに近づかれたころ、ある盲人が、道ばたにすわり、
物ごいをしていた。
36 群集が通って行くのを耳にして、これはいったい何事ですか、と
尋ねた。
37
ナザレのイエスがお通りになるのだ、と知らせると、
38 彼は大声で、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください」と言った。
目の不自由な人が道ばたにべったりすわって、物乞いをしていますと、遠くから大勢の人が近づいてくる気配です。いったい何事かといえば、あの不思議な力を持つイエスがここを通られるという。
私思うに、物乞いもお商売の一つ。人が通ってお金を投げてくれなければ話にならない。これはラッキーやで。このまま待っていればおこぼれがありそうや・・・と考えるのが普通です。しかしこの男、全然別のことを考えました。うわさに聞く、奇跡をなさるイエスならきっと自分の願いを聞いてくださるにちがいない。見えない目を開いてくださるにちがいない。きょうこそ、とびついてでもお願いしよう、こう考えて大声で叫びます。
「救い主イエス様、私を助けてください」
周りの人は腹を立てる。うるさいやっちゃなあ。おまえなんかあっちへ行け。消え失せろ。というのは、人々には特別の期待がありました・・・イエスはエルサレムに着くやいなや、天から火を呼ぶかして敵をほろぼし王となるはずでした。超大国であるローマを倒して、自分たちが世界一強い国になる。イエス様についていけば自分の将来は間違いなし、勝ち馬に乗れるのや、そういう意気込みです。それは国民全体の期待であり確信でした。それなのにこの男、目が見えるようにとか、つまらないことで手間を取らせよって・・さ、どいたどいた・・・
39 彼を黙らせようとして、先頭にいた人々がたしなめたが、盲人は、ま す
ます「ダビデの子よ。私をあわれんでください」と叫び立てた。
人々にとってはただの小うるさいやつ、どうでもいいやつ、しかし彼の心の中にある願いを、イエスは聴き取っておられました。群衆に混じって歩いていたイエスの動きがぴたりと止まる。みんなびっくり、ざわめいていたのが静まってしーんとします。その静けさの中で・・・
40 イエスは立ち止まって、彼をそばに連れて来るように言いつけられた。
41
彼が近寄って来たので、「わたしに何をしてほしいのか」と尋ねられると、彼は、「主よ。目が見えるようになることです」と言った。
この一言ですよ。物乞いを始めてから何年、あるいは何十年、毎日毎日、「お
金を恵んでください」と繰り返してきましたが、この日、生まれて初めて、
お金以外のものを求めたのです。