2013年4月28日日曜日

年度聖句説教 Ⅰペテロ4:7~10「何よりもまず」

神と人とを愛する教会となる。これが、私たちの教会のビジョンです。神と人とを愛する教会となる。それでは愛するとは具体的に何を意味するのか。聖書はどう教えているのか。そんなことを考えながら聖書を読みつつ、与えられたのが、Ⅰペテロ4810のことば。これを今年の年間聖句としました。
2013年度の始まりにあたり、今日はこの箇所から三つのことを考え、私たち皆で、神と人とを愛することに取り組む教会として、歩みを進めてゆきたく思います。
先ずは、背景となる7節から。

4:7「万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。」

万物の終わりとは、神様の御心にかなわない今の世界のあり方が終わること、そして、神様の御心にかなった新しい世界の完成、イエス・キリストの再臨とともに到来する新しい天と新しい地の始まりを言います。
この世界を創造した神を天の父と信じる者にとっては待望の時。そうでない者にとってはひたすらに不安を覚える時と言えるでしょうか。
ですから、万物の終わりが近いことを覚えても、神を知らない人のように慌てるのではなく、心を整えつまり心を確かにし、身を慎むように。世の人のように不安にかられて大騒ぎではなく、祈りに励むように。そう勧めるペテロのことばとなっています。
宗教改革者のルターは、「あなたは明日主イエスの再臨があると知らされたら、何をしますか」と聞かれ、「私は予定通りりんごの樹を植えます」と答えました。
神様を信頼する者はあわてず、騒がず、いつもどおり為すべきことを為して、再びこの世界に来られるイエス・キリストをお迎えする。これで良し、と私たちも確認したいところです。
しかし、祈り待ち望み、落ち着いて生活することは大切であるとしても、それが全てではない。むしろ、本当に新天新地、天国を待ち望む私たちは、この地上での教会生活を為しうる限り天国での生活を反映し、証しするものにせよと教えられます。
聖書が教える天国には様々な面がありますが、最も重要なこととして、愛をもってなす交わりをあげることができると思います。ペテロの心にもその様な思いがあったのでしょう。

4:8「何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。」

何よりもまず、互いに愛し合いなさい。確かな希望無く、不安に満ちたこの世。物は豊かでも心の絆を結べず、寂しく生きる人々。人として生きる目的を見失い、流行に大騒ぎをする世界。
この様な地上にあって、熱く愛し合う一団のクリスチャンたち。キリストの教会が、世にあって静かな光を放つという図です。
それも、愛とは名ばかり、看板ばかりというのではなく、実際に愛し合うこと、愛を具体的に実行することに熱心であれとされます。
それでは、愛するとはどういうことなのか。聖書は様々に教えていますが、今日の箇所から、三つのことを考えてみたいのです。
第一は、「愛は多くの罪をおおうからです。」とあるように、罪をおおうイエス・キリストの十字架の愛、アガペーの愛を受けた者として、人の罪をおおう者、ゆるす者であれでした。
地上の教会は、罪赦された罪人の集まり。私たちの心から罪の性質が根こそぎ取り除かれるのは天国でのこと。ですから、残念ながら地上の教会には、偏見、対立、争い、分裂が絶えません。パウロがガラテヤの教会に宛てた手紙の中にこうあります。

ガラテヤ515「もし互いにかみ合ったり、食い合ったりしているなら、お互いの間で滅ぼされてしまいます。気をつけなさい。」

私たちの内にある罪の性質は、人に攻撃されたら攻撃し返す、責められたら責め返す、傷つけられたら自分の悔しさや憤りを相手にぶつけて、一矢報いなければ気が済まないという思いを引き起こします。それは、人間として自然な気持、当然のことと、こうした思いを正当化します。
「互いにかみあったり、食い合ったりしているなら」ということばからすると、ガラテヤの教会の中で、問題があり、それをきっかけにキリストの愛を受けた者同士が、生まれながらの罪の性質による反応で、争い、対立していたと想像されます。
「そんなことをしていたら、お互いの間で滅ぼされてしまいます。気をつけなさい」との戒めは、事態が相当深刻であったことも伺わせます。
私と妻は結婚して30年ほどになりますが、結婚して最初の喧嘩は、本当に些細なこと、味噌汁の味についてでした。
全ての料理が濃い味付けという家庭で育った私と、健康のためには味付けは薄めに、その方が素材の味も味わえるという家庭で育った妻。それは、分かっていたので、他のものについては忍耐していたのですが、大好きな味噌汁だけは、私の基準では「これは到底味噌汁とは言えない」という味気なさに、飲む気持ちが完全に失せました。
私が注文をつけたので、妻も改良をしてくれたようなのですが、どうしても私の基準に達しない。その内、他のおかずも薄味で我慢できず、御醤油をかけるようになりました。すると、妻は「あなたは何にでも醤油をかける」と口を尖らせ、私の方は「何にでも大げさすぎる。ほんの一部にすぎないじゃないか」と反論する。たかが、味付けの問題で、食卓の雰囲気が悪くなることもしばしばでした。
それが長い時間をかけて、お互いを受け容れてきたと言いましょうか。今では、「えっ、今日の味付け相当濃いよ」と私が驚いたり、「今日は味付けが薄くなってしまって、御免ね」と妻が言うので、食べてみると、全く問題なし。「すごく、おいしいよ」と私の方が言う始末。いつの間にか、お互いに歩み寄っていたのだなと感じます。
たかが料理の味付けで喧嘩する。夫婦であっても受け入れ合うことが難しいとするなら、相手から思いもかけず、ひどいことを言われた、された、責められた等と言うことになれば、「あの人は赦せない、到底受け入れられない」と感じるのも、無理からぬ現実でしょう。
しかし、その様な時こそ、十字架において私たちのひどい罪の全てを赦し、私たちを罪あるまま丸ごと受け入れてくださった、イエス・キリストのの愛を思い起こし、受け取る必要があります。
イエス・キリストの愛により、「言い返す、やり返す」という罪の性質から来る反応をこえて、愛をもって相手に応えてゆく自由が与えられていることを覚えたいのです。そして、たとえ何度失敗しても、心の葛藤が続き、どんなに時間がかかっても、相手を赦し、受け入れることを学び、身に着けてゆく。このことが勧められています。
人を愛することは、神様の賜物。同時に、私たちが取り組み、葛藤しつつ、身につけてゆくこと。天国で神と人を愛する喜びを満喫できるように、神様は、地上に教会という愛することを学ぶ、言わば予備校を置いてくださったのです。
第二に、愛するとは、寄る辺無き人、困難な状況にある人、苦しみ悩む人を親切にもてなすことでした。

4:9「つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい。」

日本語の親切は、切(しきりに)と親(したしい)の組み合わせで、しきりに親しくする。親切を尽くすことでした。また、聖書のもとのことばでは、見知らぬ人、他人、旅人を愛する、という意味です。
この時代、どの国にも旅館の設備は稀でした。しかも、そこは不潔で、不道徳がはびこり、とても安心してとまれない場所だったのです。
ですから、ペテロは皮なめし屋シモンの家に泊まり、パウロはマナソンという人の家で一夜を過ごしました。こうした親切が、どれ程彼らの伝道を助けたことか。もちろん、ここで勧められているのは、旅人を泊めることに限らず、もてなす、親切にするという愛の行いです。
しかし、自己中心という罪の性質が生きている私たちは、「どうして自分ばかりがしなければいけないのか」、「自分でなく生活に余裕のある他の人がすればよいのに」とつぶやきがちです。「つぶやかずに」という戒めは、自己中心に状況を見る私たちの心をえぐります。
そのような時、思い起こしたいのが、イエス・キリストが終わりの日に、親切をなした人に対してかけたおことばです。

マタイ253440「そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』
すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』」

今自分が出会っているのは、イエス・キリストが導かれた人。この人にどう接するのかを通して、キリストは私たちがどれ程深く十字架の愛を受けとっているかをご覧になっている。
「あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。」このことばを思い起こし、「イエス様、力をお貸しください」と祈りつつ、親切を尽くす。
旧約のルツやボアズ、新約聖書のバルナバ、アクラとプリスキラ夫妻。人の状況に対する気配り。自分のことはさておき、他人のことを思う思いやり。それに行動力。三拍子揃った信仰の先輩たちに習いつつ、私たちも親切を尽くす者となりたく思います。
第三に、愛するとは、神様に与えられた賜物を用いて人に仕えることでした。

4:10「それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。」

私が洗礼を受ける際、試問会の部屋のすぐ隣の部屋が控え室でした。壁が薄いので、隣の様子が筒抜けでした。
私の前に洗礼の試問を受けていたのは、着物のよく似合う老婦人でしたが、「教会員になったら、どのような奉仕をしたいですか」という質問に対し、「私は裁縫が得意でしたが、今は眼が利きません。でも、教会清掃の時の雑巾なら縫ってささげることができます」と答えていたのです。
賜物を生かして奉仕をするという考えが無かった私は、同じ質問をされたらどうしようと思いつつ、答えがまとまらないまま試問会に臨みました。そして、私が洗礼を受けた教会では、夕の礼拝の後、有志で会堂を清掃するという習慣がありましたから、同じ質問を受けた時、「掃除位なら、させてもらえると思います」と答えたのです。
その場で思いついた答えでしたが、ある長老さんが「どうもありがとうございます。掃除も立派な奉仕です。ありがとうございます。」丁寧に頭を下げてくださるので、とてもうれしく感じたことを思い出します。
際立った賜物をもってとか、人目を気にしてとか、背伸びをして無理に仕えることを、神様は求めてもおられません。私たちは、すでに神様が与えられた賜物を持って仕えれば、それでよいのです。
時間、この体、財産、知恵や能力。私たちの賜物の所有者は神様です。私たちは、神様の願うところに従って、委ねられたものを活用する管理人です。
ユダヤにあるガリラヤ湖は、水をヨルダン川に流し、沿岸を潤す湖。その故に魚の種類も量も多いといわれます。それに対して、水を他から受けるばかりで、独り占めしている死海は魚のいない死せる湖。対照的な二つの湖は大切なことを教えてくれます。
私たちに与えられた時間も、体も、財産も、能力も経験も、みな神様のものです。それを私たちは自分のもの、我が物と考えているので、それらをささげる際、肩に力が入ったり、惜しんだりするのかもしれません。
 以上、赦し合い、親切を尽くし合い、仕え合う姿で、私たちこの一年を歩み、この地域に神様の光を放つ教会になれたらと思います。今日の聖句です。

 4:810「何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい。それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。」


2013年4月21日日曜日

一書説教 ルツ記 ―買い戻しの喜びー  ルツ記4章8節~13節

 聖書には様々な特徴があります。最も多く出版されている本。最も多くの言語に訳された本。世界中の文化や人に影響を与えた本。色々な特徴を挙げることが出来ますが、クリスチャンにとって特に重要な特徴は、聖書は「神のことば」であるということです。聖書は「神のことば」である、唯一の本。
私たちは古代の文献を読みたくて聖書を読むのではありません。この世界を造り支配されている方が、私に何を語られるのか知りたく聖書を読むのです。何が善で何が悪なのか。人はどのように生きるべきなのか。本当の幸せとは何か。人は死んだらどうなるのか。多くの人が、答えがなく大変な思いをして生きている中、私たちは聖書に答えがあることを知っているので、聖書を読むのです。自分の聖書を持ち、自分の母国語で好きな時に聖書を読むことが出来るということが、どれ程大きな恵みなのか。改めて考えたいところです。
ところで、聖書は「神のことば」であるということを、皆さまはどのような意味と受け取っているでしょうか。聖書は「神のことば」であると言っても、様々な意味がありますが、その中でも特に重要なのは、神様の御人格に触れることが出来る言葉という意味です。聖書は、私たちが神様の御人格と交わるための書物。このような意識。神様の御人格に触れたいと願い、聖書を読むことが、どれだけあったでしょうか。
 聖書を読み、聖書の知識を得ること。そこに記された出来事や、人物から励まされること。人生の教訓を得ること。どれも大事なことですが、それだけで終わるとしたら勿体ないのです。「神のことば」である聖書を読み、神様ご自身に感動すること。神様の御人格を喜ぶこと。私たち皆で、そのような聖書の読み手になりたいのです。

 断続的に取り組んでいます一書説教。六十六巻からなる聖書、一つの書を丸ごと扱い説教する。毎回お勧めしていることですが、一書説教の時は、説教を聞いた後で、どうぞ扱われた書をお読み下さい。今回は特に、神様の御人格に触れることを意識しながら、読み進めて下さい。一書説教が進むにつれて、教会の皆で聖書を読み進めていくという恵みにあずかりたいと願っています。

今日は旧約聖書第八の巻、ルツ記に取り組みます。全四章の小書。歴史書の中で一番短い書です。日本のクリスチャンネームでも、比較的多い名前。私たちの教会にも「ルツ」姉妹がいますし、年代別会の名前も、このルツ記から「ルツ会」「ナオミ会」となっています。
 ルツ記は一般的には読みやすいと思います。出来事が中心。これまで読み進めてきました、出エジプト記の後半やレビ記のような、規定ばかりの書ではない。士師記のように、人間の悪が色濃く記された書物でもない。短い文章の中に、美しい出来事が記されている書。
 しかし、簡単に全てを理解出来るかというと、そうでもありません。ルツ記を正しく理解するために、予備知識が必要で、それは親類の義務と権利についてです。聖書は、自分が大変な状態に陥った時、親類に助けてもらうように。親類が危機的状態にある場合、その親類を助けるように、様々なところで定めていました。その危機的状況というのは、色々とあるのですが、ルツ記を読む上で、特に覚えておきたいことは二つ。子どもがいないまま、夫にあたる者が死んだ場合と、土地の売買についての二つです。

申命記25章5節~6節
「兄弟がいっしょに住んでいて、そのうちのひとりが死に、彼に子がない場合、死んだ者の妻は、家族以外のよそ者にとついではならない。その夫の兄弟がその女のところに、はいり、これをめとって妻とし、夫の兄弟としての義務を果たさなければならない。そして彼女が産む初めの男の子に、死んだ兄弟の名を継がせ、その名がイスラエルから消し去られないようにしなければならない。」

 子どもがないままに、夫が死んだ場合の定め。一般的にレビラート婚と言われるものです。ルツは、子どもがいないまま、夫が死んだ女性。未亡人でした。「死んだ者の妻は、家族以外のよそ者にとついではならない。」と聖書は定めていますが、果たしてルツはどうするのか。もう一つ、親類の義務と権利のうち、覚えておきたいのは、土地の売買についてです。

 レビ記25章23節~25節
「地は買い戻しの権利を放棄して、売ってはならない。地はわたしのものであるから。あなたがたはわたしのもとに居留している異国人である。あなたがたの所有するどの土地にも、その土地の買い戻しの権利を認めなければならない。もし、あなたの兄弟が貧しくなり、その所有地を売ったなら、買い戻しの権利のある親類が来て、兄弟の売ったものを買い戻さなければならない。」

 神様がイスラエルの民に与えた土地売買の定めは、所有地を完全に売り買いすることは出来ないものでした。所有地を売る場合、それは、もとの所有者が買い戻す権利を認めた上でのやりとりでした。この買い戻しの権利は、もとの所有者だけでなく、親類にも認められるものでした。そのため、聖書の定めに基づいて、土地を売りたい場合は、まずは親類に話をすることが必要でした。ルツ記にも、土地を売る場面が出てきます。ルツ記を読む際、親類の義務と権利として、この二つのことを覚えておきたいと思います。

 以上、長い前口上になりましたが、ルツ記を確認していきたいと思います。まずは一章。その冒頭で、この記事がどのような場面なのか、記されます。
 ルツ記1章1節~5節
「さばきつかさが治めていたころ、この地にききんがあった。それで、ユダのベツレヘムの人が妻とふたりの息子を連れてモアブの野へ行き、そこに滞在することにした。その人の名はエリメレク。妻の名はナオミ。ふたりの息子の名はマフロンとキルヨン。彼らはユダのベツレヘムの出のエフラテ人であった。彼らがモアブの野へ行き、そこにとどまっているとき、ナオミの夫エリメレクは死に、彼女とふたりの息子があとに残された。ふたりの息子はモアブの女を妻に迎えた。ひとりの名はオルパで、もうひとりの名はルツであった。こうして、彼らは約十年の間、そこに住んでいた。しかし、マフロンとキルヨンのふたりもまた死んだ。こうしてナオミはふたりの子どもと夫に先立たれてしまった。」

 さばきつかさが治めていたというのは、士師記の時代のこと。ベツレヘム出身のエリメレク一家が、飢饉のため、モアブの地に行ったといいます。住み慣れた土地を離れ、異教の地に行く。モアブの地に移り住むというのは、大変なことだったと思いますが、悲惨なことに、更なる困難が待っていました。エリメレク一家のうち、男が三人とも死んでしまう。残されたのは、三人の未亡人。ナオミと、モアブの女性ルツとオルパです。ルツ記の冒頭は、悲劇、絶望、暗闇です。現代日本のように社会制度が整っていない。未亡人三人の恐れや不安は、私たちの想像を越えるものだったでしょう。
 この状態になり、更には飢饉が終わったと聞き、ナオミは故郷ベツレヘムに帰ることを決意します。ナオミからすると、故郷に戻ってもどうなるか分からない。明るい未来があるとも思えない。それならば、嫁の二人。モアブの女性二人は、一緒にベツレヘムに行くのではなく、この地で再婚するのが良いと考え、それを勧めます。

 ルツ記1章8節~9節
「そのうちに、ナオミはふたりの嫁に、『あなたがたは、それぞれ自分の母の家へ帰りなさい。あなたがたが、なくなった者たちと私にしてくれたように、主があなたがたに恵みを賜わり、あなたがたが、それぞれ夫の家で平和な暮らしができるように主がしてくださいますように。』と言った。そしてふたりに口づけしたので、彼女たちは声をあげて泣いた。」

 ナオミはどのような人だったのか。ルツやオルパの姿を見ると、余程の好人物だったと想像します。姑としての魅力。信仰者としての魅力。ルツもオルパも、ナオミとは離れたくない。ともにナオミとイスラエルに行きたいと言います。
ルツもオルパも、モアブの女性ですので、もともとは聖書の神様を知らなかったでしょう。それがナオミとの生活を経て、少なくともルツは(おそらくオルパもですが)、明確に聖書の神様への信仰を持つようになっています。
 ナオミにしても、二人の嫁に、モアブに残るよう勧めるのは苦渋の決断でしょう。しかし、これからどうなるのか分らない。自分の力で、二人を養うことも出来ない。モアブの地に留まるよう、なんとか説得する。このナオミと、二人の嫁とのやりとりは、聖書の中でも特に人情味溢れる箇所として挙げることが出来ます。
 結果、二人の嫁のうち、オルパは泣きながらモアブの地に残ることを選びますが、ルツはナオミと行動をともにすることを堅く決心します。ルツの言葉は、ナオミに対する思いだけでなく、神様への信仰告白として響くもの。実に印象的な信仰告白です。

 ルツ記1章16節
「ルツは言った。『あなたを捨て、あなたから別れて帰るように、私にしむけないで下さい。あなたの行かれる所へ私も行き、あなたの住まわれる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。」
 こうして、ナオミとルツがベツレヘムに帰ったところで一章が閉じられます。

二章は、ベツレヘムに戻ったナオミとルツの生活が記されます。未亡人が食を得るために出来ることは限られていましたが、そのうちの一つが落ち穂拾い。丁度、刈り入れの時期のため、畑に行き、落ち穂拾いをします。

 この時、ルツが行った先はボアズの畑。そこで、ルツは想像以上の親切を経験します。
 ルツ記2章10節~12節
「彼女は顔を伏せ、地面にひれ伏して彼に言った。『私が外国人であるのを知りながら、どうして親切にしてくださるのですか。』ボアズは答えて言った。『あなたの夫がなくなってから、あなたがしゅうとめにしたこと、それにあなたの父母や生まれた国を離れて、これまで知らなかった民のところに来たことについて、私はすっかり話を聞いています。主があなたのしたことに報いてくださるように。また、あなたがその翼の下に避け所を求めて来たイスラエルの神、主から、豊かな報いがあるように。』」

 ルツはボアズのことを知らなかったようです。しかし、ボアズはルツのことを聞いて知っていた。それも、ルツのこれまでの行動、信仰に対して非常に好意的です。後に、この二人が結婚するのですが、ルツやボアズが、お互いにどのように好意を持ったのか。想像しながらルツ記を読みたいところです。
ボアズの好意の結果、ルツは落ち穂拾いにしては、あまりに多い量を持ち帰ることが出来ました。そのためナオミは驚き、一体どこで落ち穂拾いをしたのかと確認すると、それはボアズのところ。ナオミはボアズの名前を聞き、重要なことを言います。

 ルツ記2章20節
「ナオミは嫁に言った。『生きている者にも、死んだ者にも、御恵みを惜しまれない主が、その方を祝福されますように。』それから、ナオミは彼女に言った。『その方は私たちの近親者で、しかも買い戻しの権利のある私たちの親類のひとりです。』」

 ボアズは買い戻しの権利のある親類。ボアズは、エリメレク家に対して、例の親類としての義務と権利を有する人物であるというのです。つまり、ルツとボアズにその思いがあれば、二人が結婚し、ナオミもルツも、ボアズに守ってもらうことが出来る。その相手として、ボアズは相応しいと言っているのです。この結果、三章はナオミの勧めによって、ルツがボアズに結婚を求める場面となります。
 ところで、ここで一つの疑問が出てきます。ボアズが買い戻しの権利のある親類であることは、ナオミは以前から知っていたはずです。そうであれば、ベツレヘムに帰ってきてすぐに、ルツとの結婚含め、自分たちを助けてもらえないかとボアズに相談することが出来たはず。何故、この段階まで、黙っていたのでしょうか。何故、この時に、ボアズは買い戻しの権利のある親戚だと言ったのでしょうか。この時のナオミの思いは、ルツ記を最後まで読むと想像することが出来ます。詳しくは後で確認するとして、まずは三章から。

 ルツ記3章1節~5節
「しゅうとめナオミは彼女に言った。『娘よ。あなたがしあわせになるために、身の落ち着く所を私が捜してあげなければならないのではないでしょうか。ところで、あなたが若い女たちといっしょにいた所のあのボアズは、私たちの親戚ではありませんか。ちょうど今夜、あの方は打ち場で大麦をふるい分けようとしています。あなたはからだを洗って、油を塗り、晴れ着をまとい、打ち場に下って行きなさい。しかし、あの方の食事が終わるまで、気づかれないようにしなさい。あの方が寝るとき、その寝る所を見届けてからはいって行き、その足のところをまくって、そこに寝なさい。あの方はあなたのすべきことを教えてくれましょう。』ルツはしゅうとめに言った。『私におっしゃることはみないたします。』」

 ナオミがルツに勧めたことは、ボアズに結婚を願い出ること。ルツが結婚したいことをボアズに願い出るために、どのようにしなければならないか、説明がされます。ボアズが寝ているところで、その足のところをまくり、そこで寝るように。当時の習慣だったのでしょう。これでボアズにはルツの意図が伝わりました。結婚を願い出されたボアズは、どのように答えたでしょうか。

 ルツ記3章9節~11節
「彼は言った。『あなたはだれか。』彼女は答えた。『私はあなたのはしためルツです。あなたのおおいを広げて、このはしためをおおってください。あなたは買い戻しの権利のある親類ですから。』すると、ボアズは言った。『娘さん。主があなたを祝福されるように。あなたのあとからの真実は、先の真実にまさっています。あなたは貧しい者でも、富む者でも、若い男たちのあとを追わなかったからです。さあ、娘さん。恐れてはいけません。あなたの望むことはみな、してあげましょう。この町の人々はみな、あなたがしっかりした女であることを知っているからです。』」

 ボアズの言葉は印象的です。「あとからの真実は、先の真実にまさっている」と。先の真実とは、ルツが聖書の神様を信じ、ナオミとともに帰ってきたことでしょう。これ程の真実よりも、今、自分に結婚を願い出たこと。あとからの真実の方が、まさっていると。これは一体、どういう意味でしょうか。
 ボアズは、ルツが望めば、若い男と結婚することが出来たと考えています。恐らくは、ルツは若く、美しい女性。ボアズはある程度の年齢を重ねていたのでしょう。そのルツが、自分に結婚を願い出ている。それは、ルツが個人の思いを優先させるよりも、第一に聖書に従う思いの現われ。親類の義務と権利という聖書の定めを最優先にした結果と見たのです。
 私たちは、一時的な熱心で、神様に対する信仰を表明することがあります。このように神様を信じる。神様に従う。神様に奉げ、神様に献身すると。しかし、毎日に生活の中で、その信仰の表明は徐々に薄れ、自分の願い、自分の好みが優先されていくことがあります。ルツはそうではなかった。「聖書の神様こそ私の神様です」と告白したとおりに、聖書の定めを最優先して生きた。ボアズは、そのようなルツの信仰を指して、「あとからの真実は、先の真実にまさっている」と言ったのです。

 こうして二人は結婚へと進むのですが、ここで一つの課題が明らかになります。買い戻しの権利。親類としての義務と権利を果たすには優先順位があり、ボアズより先に、その義務と責任を果たすべき人がいるということ。果たして、その者が親類の義務と権利を果たすのか。それが四章に記されます。

 ルツ記4章3節~4節
「そこで、ボアズは、その買い戻しの権利のある親類の人に言った。『モアブの野から帰って来たナオミは、私たちの身内のエリメレクの畑を売ることにしています。私はそれをあなたの耳に入れ、ここにすわっている人々と私の民の長老たちとの前で、それを買いなさいと、言おうと思ったのです。もし、あなたがそれを買い戻すつもりなら、それを買い戻してください。しかし、もしそれを買い戻さないのなら、私にそう言って知らせてください。あなたをさしおいて、それを買い戻す人はいないのです。私はあなたの次なのですから。』すると彼は言った。『私が買い戻しましょう。』」

 ボアズは最優先に買い戻しの権利がある者に対して、ルツの話は出さずに、まず土地の話をします。ナオミが亡き夫、エリメレクの土地を売りたいと考えている、とです。このエリメレクの土地は、相続する者がいない状態。ここでナオミから土地を買えば、自分の財産として所有する土地が増えることになると考えられる。最優先に買い戻しの権利のある者は、すぐさま「私が買い戻しましょう。」と言います。
 すると、すかさずボアズは言うのです。その場合は、ルツと結婚し、その子どもに、その土地を継がせないといけないと。

 ルツ記4章5節
「そこで、ボアズは言った。『あなたがナオミの手からその畑を買うときには、死んだ者の名をその相続地に起こすために、死んだ者の妻であったモアブの女ルツをも買わなければなりません。』」

 相続人がいない土地を買えると思っていたら、土地を買うだけが親類の義務や権利ではない。ボアズは言います。ルツと結婚し、ナオミやルツを養いつつ、更にはルツとの子どもに、土地を相続させるようにと。これでは、親類の義務や権利を行使すると言っても、購入する土地の代金を払い、養う人が増え、その土地もやがて自分のものではなくなる。何も良いことが無いと判断したのか。最優先に買い戻しの権利のある者は、それならば自分は親類としての義務を果たすことは出来ないと引きさがります。
 ここに来て、ボアズとルツが結婚することは、双方に重大な決断があったことが分かります。ルツは、人間的な思いを優先させて、若い男と結婚することを選ぶことも出来ました。ボアズがルツと結婚することは、人間的な視点、経済的な視点で言えば、何の利点もない。他の親類は、それは自分には出来ないと言うような選択でした。
 ナオミとルツがベツレヘムに帰ってきて、すぐにボアズに相談に行けなかったのは、このようなことが背景にあったのでしょう。つまり、親類の義務や権利と言っても、それを果たすかどうか。ボアズがどのように考えているのか。ルツがどう思うのか。それが分かるまで、ナオミは言いだせなかった。それが、二章の出来事。ボアズがルツに対して好意的に接したこと。ルツがボアズのことを話す様を見て、ナオミも決心がついたのだと思います。

 こうして、ボアズはルツと結婚し、更にルツは男の子を産んだと記録され、ルツ記は閉じられていきます。
 ルツ記4章10節、13節
 「さらに、死んだ者の名をその相続地に起こすために、私はマフロンの妻であったモアブの女ルツを買って、私の妻としました。死んだ者の名を、その身内の者たちの間から、また、その町の門から絶えさせないためです。きょう、あなたがたはその証人です。・・・こうしてボアズはルツをめとり、彼女は彼の妻となった。彼が彼女のところにはいったとき、主は彼女をみごもらせたので、彼女はひとりの男の子を産んだ。」

 飢饉、流浪、三人の死と、暗闇で始まったルツ記が、喜ばしい結婚で幕を閉じます。しかも、このボアズとルツの間に生まれた子が、ダビデ王の祖先であり、それはつまり、キリストの祖先となります。一人一人の人生の積み重ねに、歴史を支配する神様の御手を見ることが出来ます。結果がどうなるのか分からなくとも、私たちがそれぞれの人生の中で、聖書を第一として生きることの重要性を再確認出来ます。

 以上、全四章のルツ記でした。触れておきたいこと、お伝えしたいことは山ほどあるのですが、この説教では僅かしか扱えませんでした。是非、じっくりとルツ記を読んで頂きたいと思います。
 最後に一つ、ルツ記の中で最も重要と思うテーマを確認して終わりにしたいと思います。ルツ記の重要なテーマの一つは、親類の義務と責任。買い戻しの権利という思想です。自分が大変な状況にある時、助け出してくれる者がいる。買い戻しという考え方が、具体例をもって教えられているのがルツ記です。ボアズにとって、ルツと結婚することで、人間的には不利益を被る。その不利益は、ある者にとっては、ルツとは結婚出来ないと思わせる程のものでした。しかし、ボアズはルツとの結婚を選びます。ボアズは、不利益よりも、愛を優先させるのです。
 この親類の義務と責任。買い戻しの権利を指す言葉は、神様にも用いられる言葉です。いくつも箇所を挙げることが出来ますが、そのうちの一つを今日の聖句に選びました。
 イザヤ書47章4節
「私たちを贖う方、その名は万軍の主、イスラエルの聖なる方。」

 ここにある「贖う方」という言葉が、買い戻しの権利と同じ言葉です。それはつまり、神様が私たちに対して、最も近い親類として、その責任を果たして下さる。神様が買い戻しの責任を果たすために、どれ程大きな不利益を被るとしても、愛を優先して下さることを意味します。ボアズは、買い戻しの権利を用いて、不利益があろうともルツと結婚しました。私たちの神様は、買い戻しの権利を用いて、イエスキリストの十字架という方法を用いて、私たちを贖って下さいました。

 ルツ記に記された出来事の先に、神様と私たちの関係を思い、神様によって罪の奴隷から買い戻された喜びを味わいたいと思います。

2013年4月14日日曜日

ヨハネの福音書(17)ヨハネ5:30~47「聖書がわたしについて証言している」


今日の場面。ユダヤの都エルサレムにあるベテスダの池で、38年もの間起き上がることのできなかった病人を、安息日にイエス・キリストが癒した。このことに反感を抱いたユダヤ教指導者に対し、ご自分は神の子であり、真の救い主であることをイエス様が証する。その様な場面となっています。
安息日にしてはならない仕事のリストを事細かに決め、人々の生活を縛っていた当時の指導者たちは、イエス様の癒しの業を非難しました。
しかし、イエス様はそんな非難などどこ吹く風、『わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。』とお答えになる。
ユダヤ人がただお一人と信じる神を「わたしの父」と親しく呼び、「父なる神が今に至るまで働いているのだから、わたしも働くのは当たり前」として、ご自分を神と等しい者、神の子と証言するイエス様。
イエス等無学な田舎者、たかが大工のせがれと見下すエリート指導者からすれば、神を冒涜するとしか思えないこの発言に、彼らの怒りは殺意へと変わりました。
しかし、そんな人々を前に些かも怯むことなく、ご自分と父とは一心一体。「わたしには、わたしのことばを聞いて神を信じる者に永遠の命を与える権威がある。終わりの日には、わたしを信じる者を命によみがえらせ、わたしを拒んだ者をさばきによみがえらせる業を父なる神から任されている」と語られたイエス様。
かくも大胆な証言をすれば、指導者らは自分を確実に死に追いやるだろう。それが分かっていながら、イエス様はこの心頑なな人間たちを愛するがゆえに、命をかけて証言された。これが先週までの流れです。
そして、今日の箇所。「イエス様、もうその辺で口を閉じないと、本当に身に危険が及びますよ」と、読んでいる私たちの心配をよそに、なおも語り続けるイエス様の姿が描かれます。
ひとりでも良い。この人々の心が開かれ、わたしが誰であるかを知り、信じ、救われるならと証しを続けるイエス様。わが身の安全を案ずるより、心頑なな人間の救いを案ずる。ご自分に敵対する者をも愛してやまない。イエス・キリストの愛に心打たれるところです。

5:3032「わたしは、自分からは何事も行なうことができません。ただ聞くとおりにさばくのです。そして、わたしのさばきは正しいのです。わたし自身の望むことを求めず、わたしを遣わした方のみこころを求めるからです。もしわたしだけが自分のことを証言するのなら、わたしの証言は真実ではありません。わたしについて証言する方がほかにあるのです。その方のわたしについて証言される証言が真実であることは、わたしが知っています。」

偏見、ねたみ、無知、独善や自惚れ。人間が下す判断は様々なものに影響され、歪められます。表に現れた行動についてもそうであるなら、まして心の中の思いまで正しくさばくことなど、人間には不可能でしょう。
それをイエス様は「わたしのさばきは正しい」とし、「わたしを使わした方、父なる神のみこころをいつも求めているのだから」と言われる。いつもは謙遜なイエス様のこの大胆なことば。やはり、イエス様は神の子と改めて思い、安心します。

しかし、これを聞いた人々は到底納得できないという顔をしていたのでしょう。それを見て、イエス様はまるで裁判で証言台に立つ証人のように、「わたしについて証言するのはわたし一人ではない。わたしの他に証言する方、父なる神がおられる」と語り、まずバプテスマのヨハネのことを取り上げました。
こんな心頑なな人々等放って置いてもよいはずなのに、何としてもご自分を知って欲しい、信じて欲しいと願う。敵対する者の救いのため、イエス様の熱心は限りなしです。

5:3335「あなたがたは、ヨハネのところに人をやりましたが、彼は真理について証言しました。といっても、わたしは人の証言を受けるのではありません。わたしは、あなたがたが救われるために、そのことを言うのです。彼は燃えて輝くともしびであり、あなたがたはしばらくの間、その光の中で楽しむことを願ったのです。」

バプテスマのヨハネは、父なる神が遣わした預言者。イエス・キリストが救い主として登場する直前、徹底的に罪の悔い改めを説き、ユダヤ全国にその影響は及びました。 
ヨハネは「私ではなく、私の後から来る方が救い主」「イエス様こそ世の罪を取り除くことのできるお方」と語り続け、ともし火のように輝くと、やがて人々の前から消えていきました。
「あのヨハネはわたしを誰だといったのか、わたしのためではなく、あなた方自身が救われるために思い起こせ」と、イエス様は迫ったのです。
次は、「父なる神がわたしに与えたわざ、即ち奇跡を見よ」と語られます。

5:36「しかし、わたしにはヨハネの証言よりもすぐれた証言があります。父がわたしに成し遂げさせようとしてお与えになったわざ、すなわちわたしが行なっているわざそのものが、わたしについて、父がわたしを遣わしたことを証言しているのです。」

眼が見えぬ者の目を開く。耳の聞こえぬ者の耳を開く。38年もの間起き上がれなかった重病人を元気に歩かせる。社会から除け者にされていた女性の病を癒す。死人をよみがえらせる。かと思えば、餓えたる者五千人を憐れんで、パンと魚を大判振舞いする。
ご自分のために奇跡をなさったことは一度も無い。イエス様による数々の奇跡は、ひたすら飢えたる者、貧しい者、苦しみ悩む者、社会の弱者のためになされました。その愛が誰に向いているのか。その御力がいかに偉大か。様々な奇跡は、正にイエス様が神の子、救い主であることを雄弁に物語っていたのです。
そして、バプテスマのヨハネの証言、様々な奇跡に続く証言は、父なる神ご自身による証言、つまり聖書のことばでした。

5:3740「また、わたしを遣わした父ご自身がわたしについて証言しておられます。あなたがたは、まだ一度もその御声を聞いたこともなく、御姿を見たこともありません。また、そのみことばをあなたがたのうちにとどめてもいません。父が遣わした者をあなたがたが信じないからです。あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。」

「あなたがたはその声を聞いたことも無く、姿を見たことも無いけれど、父なる神はみことばを通して、確かにわたしについて証言しておられる。あなた方は聖書の専門家なのに、みことばが心にとどまっていない。わかっていない。なぜなら、聖書の中心であるわたしを信ぜず、わたしのもとに来ようとしないからだ。」指導者の顔が青ざめるような痛烈なことばです。
「論語読みの論語知らず」と言います。知っているように見えても、物事の本質が分かっていない人の喩です。イエス様に敵対する人々は、正に聖書読みの聖書知らず、聖書読みのイエス・キリスト知らずでした。
さらに、イエス様は彼らの心に深く切り込みます。「あなたがたが本当に大切にしているのは、神を愛することではなく、世間の評判、人から受ける名誉、つまり自分を愛することではないか」と。

5:4144「わたしは人からの栄誉は受けません。ただ、わたしはあなたがたを知っています。あなたがたのうちには、神の愛がありません。わたしはわたしの父の名によって来ましたが、あなたがたはわたしを受け入れません。ほかの人がその人自身の名において来れば、あなたがたはその人を受け入れるのです。互いの栄誉は受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたは、どうして信じることができますか。」

イエス様は人から栄誉を受けようが受けまいが全く気にしない。自由な世界に生きておられる。
それに対して、人からの栄誉が欲しくてたまらない指導者たちは、祈る時は人通りの多い道で祈り、断食をする時はわざと身をやつしてみせる。そしてお互いに賞賛しあって満足している。神がそんな偽善をどれほど嫌われるか、神の眼に己の心がいかに酷いものであるか考えることも無い。
「宗教の指導者、専門家として、人々に聖書を教え、神を信じることを説くあなたがたが、実は心のおいては神を敬うことも、愛することも無い、神なしの人生を生きている。だとすれば、父なる神が遣わしたわたしをどうして信じられるでしょう。」彼らの矛盾、偽善を、イエス様は突かれたのです。
さらに、「わたしが個人的な考えであなた方を訴えていると思ったら、それは大間違い。あなたがたが尊敬するモーセが、わたしのことについて書いている、預言しているではないですか」と念を押しました。

5:4547「わたしが、父の前にあなたがたを訴えようとしていると思ってはなりません。あなたがたを訴える者は、あなたがたが望みをおいているモーセです。もしあなたがたがモーセを信じているのなら、わたしを信じたはずです。モーセが書いたのはわたしのことだからです。しかし、あなたがたがモーセの書を信じないのであれば、どうしてわたしのことばを信じるでしょう。」

モーセはユダヤ人が尊敬する旧約聖書中最大の人物。神から十戒などの律法を授かったことでも有名でした。「モーセがわたしの事について書いている」とは、モーセが書いたとされる旧約聖書の創世記から申命記までの五つの書の中に、預言や儀式などを通して、様々に救い主についての証言がある事を指しています。
「モーセが神のことばを書いたと本当に信じるなら、あなたがたはわたしを信じたはずです。」
どこまでも心頑ななユダヤ教指導者を見放さず、むしろ、バプテスマのヨハネの証言、ご自分の行った様々な奇跡、そして彼らが尊敬してやまないモーセの書までも引き合いに出し、人々の心を開き、信仰に導かんとするイエス様。
彼らの不信仰を責めることばも、実はご自分のもとに帰れと招く御声。わが身を顧みず、ひたすらに心頑なな人間たちに仕えるイエス様の愛の御声ではなかったかと思われます。
さて、今日の箇所を振り返って、皆様と心に覚えたいことが二つあります。
ひとつは、イエス様が語られた「あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとにこようとはしません」とのことばについてです。
果たして、私たちはいのちを得るためにどれぐらいイエス・キリストのもとに行き、交わっているでしょうか。イエス・キリストのもとに行き、その十字架を仰いで、罪赦された平安を得る。イエス・キリストのもとに行き、その大きな愛に励まされ、神の御心をなす力に満たされる。イエス・キリストのもとに行き、その復活を覚えて、永遠の命に生かされている幸いを味わう。
「聖書がわたしについて証言している」と言われたのはイエス様です。だとすれば、私たちはもっと熱心な聖書の読み手となって、イエス・キリストを知りたいと思います。聖書を熱心に読むだけでなく、実際にイエス・キリストのもとに行き、親しく交わり、人として生きるべきいのちを受け取りたいと思うのです。
ふたつめは、神を愛することよりも、世間の評判、人からの栄誉を大切にしたユダヤ教指導者の生き方を反面教師としたいということです。
私たちが本当に気にしているのは、神様の眼から見た自分でしょうか。それとも、人の目に映る自分でしょうか。私たちがささげる礼拝や奉仕、隣人に仕える働きは、神様を愛する思いからなされているでしょうか。それとも、人の評判や評価を得るためのものでしょうか。
神様を愛するとは、神様を恐れ敬うことです。神様を恐れ敬うとは、自分の罪を悲しみ、イエス・キリストの贖いの恵みに頼ることです。神様の愛を受け取り、受け取ったその愛で神様と人に仕えることです。たとえ、それが自分に敵対する人であってもです。
願わくは、今日から始まる一週間の歩みにおいて、家庭、地域、職場、教会における私たちの行いのすべてが、神様への愛からなされるものとなりますように。

エペソ51,2「ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。また、愛のうちに歩みなさい。キリストもあなた方を愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。」






2013年4月7日日曜日

ヨハネの福音書(16)ヨハネ5:16~29「ご自身を神と等しく」

 受難節からイースターと、およそ一ヶ月の間、私たちはイエス・キリストの十字架の苦難と復活について思いを巡らせ、その意味を味わってきました。ですから、今日は久しぶりとなりますが、ヨハネの福音書に戻り、イエス様の生涯をたどる、ということになります。
 マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ。イエス様の生涯を記録した福音書は四つあります。中でもヨハネの福音書の特徴のひとつは、父、子、聖霊、三位一体の神様の関係について最も詳しく教えている点ではないかと思います。
 特に、今日の箇所。父なる神と子なる神イエス・キリストが一心一体となって、私たち人間を愛し、心砕き、働いてくださっている。その様子が良く伝わってきます。
 さて、思い出して頂きたいのですが、この日即ち安息日に、イエス様はユダヤの都エルサレムにあるベテスダの池で38年もの間起き上がることのできなかった病人を癒しました。
 ところが、安息日にしてはならない仕事のリストを事細かに決め、人々の生活を縛っていた当時のユダヤ教指導者たちは、イエス様の癒しの業を非難したのです。人の魂と体が神様の安息に預かる日という、安息日本来の精神を彼らは見失っていました。

 5:1618「このためユダヤ人たちは、イエスを迫害した。イエスが安息日にこのようなことをしておられたからである。イエスは彼らに答えられた。『わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。』このためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っておられただけでなく、ご自身を神と等しくして、神を自分の父と呼んでおられたからである。」
 
 これを見ますと、ユダヤ教指導者たちの怒りは、自分たちが重んじた安息日の規則を破ったということのみに向けられたわけではなかったようです。
 「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです」と語り、イエス様がご自分を神と等しくした、わたしの父と呼んでいた。そのために、油注がれた火の如く怒りを燃え上がらせ、ついには殺そうとしたとわかります。
 人間が自分を神と等しくする。これが何故ユダヤ人の怒りの対象となり、神を冒涜する行為と映ったか。人が死んだら神になるという宗教性を持つ日本人には、ちょっとピンと来ないかもしれません。
 少し思い出すだけでも、菅原道真を学問の神様とする天満宮、豊臣秀吉を祭る豊国神社、日露戦争の英雄乃木将軍を祭る乃木神社など、人間を神とする神社仏閣は掃いて捨てるほどあります。さらに、「ボールが止まって見える」と言う名言を吐いた巨人の川上選手は、生きながらにして「打撃の神様」と呼ばれたりしました。
 この世で功績をたてた、ある分野で秀でた才能を持っている。理由は何であれ、いとも簡単に人間が神と呼ばれるのが日本人の宗教性。それに対し、ユダヤにおいて神とは、この世界を創造したお方のみ。神と人間とは絶対的に異なる存在、人間が己を神と等しくするなどとんでもないという世界でした。
それを、ナザレの田舎者、大工のせがれ風情のイエス様が、神をわたしの父と呼び、「わたしのお父さんが今に至るまで働いているのだから、わたしも同じく働くのですよ」と、人の非難などどこ吹く風といったお答えを返された。
だから、これを自分たちが信じる唯一の神への冒涜と考えた指導者たちの怒りは、収まらず、ついには殺害の思いを抱くに至ったというわけです。
しかし、それを見たイエス様。ユダヤ人を恐れて、その場を立ち去ったのかというと、そうではない。口を噤んだのかというと、さにあらず。ご自分と神を等しくするどころか、ご自分と父なる神とがいかに一心一体であるかを説かれたのです。

5:19,20a「そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行なうのです。それは、父が子を愛して、ご自分のなさることをみな、子にお示しになるからです。」

以前、ある教会でパイプオルガンの組立作業を見たことがあります。ドイツから運ばれてきたオルガンを、ドイツの職人が六人がかり、40日かかって組み立てと整音を完成させます。
六人の中には、マイスター、親方とその息子二人がいて、彼らはいつも親方であるお父さんの仕事について回り、お父さんのやることをじっと見て、自分も同じことをしていました。
お父さんは息子を愛して、一人前になって欲しいから、自分の知っていることや技術を全部見せて、息子はその通りにする。やがて、息子はお父さんに重要な仕事を任せられるようになる。そんな光景でした。
イエス・キリストは神であられたのに、天からくだり、人となられた。私たち人間の仲間となってくださった。しかし、たとえ天を離れても、両者の愛と信頼の関係はなんら変わることが無かったのです。
イエス様は父なる神のわざを見て、これを忠実に行う。父なる神がなさることは何でも喜んでこれをなす。父なる神もイエス様を子として愛し、ご自分のみこころやご計画を悉く示してくださる。
ということは、イエス様が語ることは、すべて父なる神のみこころ。イエス様の行いは、すべて父なる神の望むこと。麗しくて親密な関係。まさに一心一体でした。
こうして、ご自分と父なる神の関係を解き明かされたイエス様。今度は、病人を癒すことよりもさらに大きなわざを委ねられていると語ります。

5:20b~23「また、これよりもさらに大きなわざを子に示されます。それは、あなたがたが驚き怪しむためです。父が死人を生かし、いのちをお与えになるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子にゆだねられました。それは、すべての者が、父を敬うように子を敬うためです。子を敬わない者は、子を遣わした父をも敬いません。」

イエス様が行う大きなわざ、ユダヤ人が驚き怪しむような大きなわざ、それは、死人に命を与えること、また最終的なさばきというわざでした。二つとも、旧約聖書においては、この世界を創造した神だけがなしうるわざ。それをイエス様が、父なる神に委ねられ、代わりに行うと言われるのです。
そして、「それは、すべての者が、父を敬うように子を敬うためです。子を敬わない者は、子を遣わした父をも敬いません」とのことば。これはご自分が神であり、父なる神に遣わされた救い主との明白な宣言でした。
さらに、イエス様の証しが続きます。しかも、「まことに、まことに、あなたがたに告げます」という重大な真理を語るときに用いる常套句つき。わたしが行う命を与えるわざとさばきのわざについて、よくよく聞きなさいと迫るイエス様のお姿です。
先ずは、永遠の命についてでした。

52426「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は永遠の命を持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時がきます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。それは、父がご自分のうちにいのちを持っているように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。」

聖書において、永遠の命と言う時、二つの面があります。ひとつは、イエス・キリストを信じる者がこの世で受け取る永遠の命、もうひとつは死後天国で生きるという意味の永遠の命でした。
そして、ここでイエス様が語られる永遠の命とか「生きる」とは、キリストを信じる者がこの世で受け取る永遠の命のこと、また、死とか死人ということばは、肉体的な死ではなく、私たちが神を離れて生きる状態、霊的な死をさすと考えられます。
イエス・キリストは、私たちの過去の罪も、現在の罪も、将来の罪も、悉くすべて背負って十字架で死んでくださいましたから、それを信じる私たちの心には罪赦された確信があります。イエス・キリストを信じた時、キリストの義で覆っていただきましたので、さばきに会うことなしとの平安があります。
また、かって神を離れ、神を無視して、自分の思いのまま生きてきた私たち、霊的に死んでいた私たちは、キリストを信じてから、神様との正しい関係に生きるようになりました。神の子として愛され、喜ばれている大安心。一日一日神様に信頼してゆく歩み。この身をもって神様のすばらしさを少しでも表すことができたらとの願い。
決して完全ではありませんが、私たちは、確かにこの世で永遠の命を受け、神様に対して生かされている新しい自分を覚えることができるのです。
次は、イエス様がもう一度この世に戻ってこられた時、再臨の時になすさばきについてでした。

5:2729「また、父はさばきを行なう権を子に与えられました。子は人の子だからです。このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます。善を行なった者は、よみがえっていのちを受け、悪を行なった者は、よみがえってさばきを受けるのです。」

キリストによる最終的なさばきの宣言です。愛なるイエス様がさばきどなさるはずがないと思っていた者、人間は死んだら無に帰するはず、死後のさばきなど無いのでは等と考えていた者は、この厳粛なことばに思わず声を失うことになるかもしれません。
「善を行った者」、「悪を行った者」の善悪とは、道徳的な善悪ではありません。イエス・キリストによる罪の贖いを信じて、神様の喜ばれる善に心を向けるようになった者はよみがえって命を受ける。しかし、キリストが十字架に命を懸けて示された神様の愛を拒み、自分の思いのまま生きた者は、よみがえってさばきを受けるとの意味です。
ふたつのよみがえり、二つの復活のどちらを選ぶか。それは、あなたがわたしにどのような態度をとるのかによる。わたしのことばを聞いて神を信じ、永遠の命を得るか、それともわたしのことばを聞かずして、霊的に死んだまま生きるのか。
怒りに燃え、敵意をむき出しにするユダヤ教指導者たちを前に、ご自分に対する態度こそ、人生において最も重要な決断と語り、迫るイエス様の姿が浮かび上がってくるような場面となっています。
さて、今日の箇所で、私たち確認したいことが二つあります。
ひとつは、心かたくななユダヤ人たちに対する、イエス・キリストの愛です。
今日の場面、イエス様はすでにユダヤ教指導者の思いを知っていました。我が身を神と等しくするご自分に対する怒り、敵意と殺意。それをを十分知っていたのです。それなのに、そんな彼らの心をさらに刺激するような証しを、イエス様は次々にされました。
ご自分と父なる神とが一心一体であること、ご自分が死人を生かし、命を与えるわざと最終的なさばきのわざを任されていること、ご自分を敬わない者は父をも敬わないとのおことば、「わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は永遠の命を持つ」との宣言。
このような事をしたら、彼らから益々迫害され、死に至ることは確実と思われますのに、「あなたがたはわたしにどのような態度をとるか」と迫るイエス様。そして、事実、イエス様は「神を冒涜した」との罪で訴えられ、死刑に処せられることなります。
つまり、これらのことばは死を覚悟の上でのもの。命を懸けて敵の救いを願うイエス様の愛の表れではなかったでしょうか。「敵をも愛せよ」との教えを自ら実践するイエス様のお姿を、私たちに心に刻みたいところです。
ふたつめは、私たちもこのユダヤ人指導者のように、かって心頑なであったのに、十字架に表されたキリストの愛に心動かされ、永遠の命に生きる者とされたことを感謝したいのです。
神など不要、神がいなくても自分の力で人生生きて行けると考えていた高慢な自分。神のさばきなどあるものかとタカを括り、神を恐れることの無かった自分。キリストの十字架の死を知っても、何の関係もなしと心動かされなかった罪知らずの自分。
こんな心頑なな者が、イエス・キリストを神の子、救い主と信じることができたのは、ただ神様の恵みによる。忍耐に忍耐を重ねて、招きのことばを語り聞かせてくださったキリストの御蔭。心に宿る信仰もまた、神様からの贈物、賜物と感謝したいと思います。
今日の聖句です。

エペソ28,9「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」

「われ罪人のかしらなれども 主はわがために 命を捨てて、つきぬいのちをあたえたまえり」。罪人のかしらである自分のような者のために、主は尊い命を捨てて、尽きることの無い命を与えてくださった。賛美歌249番を歌って、恵みによる救いを確かめ、神様を皆で賛美したいと思います。