2013年4月28日日曜日

年度聖句説教 Ⅰペテロ4:7~10「何よりもまず」

神と人とを愛する教会となる。これが、私たちの教会のビジョンです。神と人とを愛する教会となる。それでは愛するとは具体的に何を意味するのか。聖書はどう教えているのか。そんなことを考えながら聖書を読みつつ、与えられたのが、Ⅰペテロ4810のことば。これを今年の年間聖句としました。
2013年度の始まりにあたり、今日はこの箇所から三つのことを考え、私たち皆で、神と人とを愛することに取り組む教会として、歩みを進めてゆきたく思います。
先ずは、背景となる7節から。

4:7「万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。」

万物の終わりとは、神様の御心にかなわない今の世界のあり方が終わること、そして、神様の御心にかなった新しい世界の完成、イエス・キリストの再臨とともに到来する新しい天と新しい地の始まりを言います。
この世界を創造した神を天の父と信じる者にとっては待望の時。そうでない者にとってはひたすらに不安を覚える時と言えるでしょうか。
ですから、万物の終わりが近いことを覚えても、神を知らない人のように慌てるのではなく、心を整えつまり心を確かにし、身を慎むように。世の人のように不安にかられて大騒ぎではなく、祈りに励むように。そう勧めるペテロのことばとなっています。
宗教改革者のルターは、「あなたは明日主イエスの再臨があると知らされたら、何をしますか」と聞かれ、「私は予定通りりんごの樹を植えます」と答えました。
神様を信頼する者はあわてず、騒がず、いつもどおり為すべきことを為して、再びこの世界に来られるイエス・キリストをお迎えする。これで良し、と私たちも確認したいところです。
しかし、祈り待ち望み、落ち着いて生活することは大切であるとしても、それが全てではない。むしろ、本当に新天新地、天国を待ち望む私たちは、この地上での教会生活を為しうる限り天国での生活を反映し、証しするものにせよと教えられます。
聖書が教える天国には様々な面がありますが、最も重要なこととして、愛をもってなす交わりをあげることができると思います。ペテロの心にもその様な思いがあったのでしょう。

4:8「何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。」

何よりもまず、互いに愛し合いなさい。確かな希望無く、不安に満ちたこの世。物は豊かでも心の絆を結べず、寂しく生きる人々。人として生きる目的を見失い、流行に大騒ぎをする世界。
この様な地上にあって、熱く愛し合う一団のクリスチャンたち。キリストの教会が、世にあって静かな光を放つという図です。
それも、愛とは名ばかり、看板ばかりというのではなく、実際に愛し合うこと、愛を具体的に実行することに熱心であれとされます。
それでは、愛するとはどういうことなのか。聖書は様々に教えていますが、今日の箇所から、三つのことを考えてみたいのです。
第一は、「愛は多くの罪をおおうからです。」とあるように、罪をおおうイエス・キリストの十字架の愛、アガペーの愛を受けた者として、人の罪をおおう者、ゆるす者であれでした。
地上の教会は、罪赦された罪人の集まり。私たちの心から罪の性質が根こそぎ取り除かれるのは天国でのこと。ですから、残念ながら地上の教会には、偏見、対立、争い、分裂が絶えません。パウロがガラテヤの教会に宛てた手紙の中にこうあります。

ガラテヤ515「もし互いにかみ合ったり、食い合ったりしているなら、お互いの間で滅ぼされてしまいます。気をつけなさい。」

私たちの内にある罪の性質は、人に攻撃されたら攻撃し返す、責められたら責め返す、傷つけられたら自分の悔しさや憤りを相手にぶつけて、一矢報いなければ気が済まないという思いを引き起こします。それは、人間として自然な気持、当然のことと、こうした思いを正当化します。
「互いにかみあったり、食い合ったりしているなら」ということばからすると、ガラテヤの教会の中で、問題があり、それをきっかけにキリストの愛を受けた者同士が、生まれながらの罪の性質による反応で、争い、対立していたと想像されます。
「そんなことをしていたら、お互いの間で滅ぼされてしまいます。気をつけなさい」との戒めは、事態が相当深刻であったことも伺わせます。
私と妻は結婚して30年ほどになりますが、結婚して最初の喧嘩は、本当に些細なこと、味噌汁の味についてでした。
全ての料理が濃い味付けという家庭で育った私と、健康のためには味付けは薄めに、その方が素材の味も味わえるという家庭で育った妻。それは、分かっていたので、他のものについては忍耐していたのですが、大好きな味噌汁だけは、私の基準では「これは到底味噌汁とは言えない」という味気なさに、飲む気持ちが完全に失せました。
私が注文をつけたので、妻も改良をしてくれたようなのですが、どうしても私の基準に達しない。その内、他のおかずも薄味で我慢できず、御醤油をかけるようになりました。すると、妻は「あなたは何にでも醤油をかける」と口を尖らせ、私の方は「何にでも大げさすぎる。ほんの一部にすぎないじゃないか」と反論する。たかが、味付けの問題で、食卓の雰囲気が悪くなることもしばしばでした。
それが長い時間をかけて、お互いを受け容れてきたと言いましょうか。今では、「えっ、今日の味付け相当濃いよ」と私が驚いたり、「今日は味付けが薄くなってしまって、御免ね」と妻が言うので、食べてみると、全く問題なし。「すごく、おいしいよ」と私の方が言う始末。いつの間にか、お互いに歩み寄っていたのだなと感じます。
たかが料理の味付けで喧嘩する。夫婦であっても受け入れ合うことが難しいとするなら、相手から思いもかけず、ひどいことを言われた、された、責められた等と言うことになれば、「あの人は赦せない、到底受け入れられない」と感じるのも、無理からぬ現実でしょう。
しかし、その様な時こそ、十字架において私たちのひどい罪の全てを赦し、私たちを罪あるまま丸ごと受け入れてくださった、イエス・キリストのの愛を思い起こし、受け取る必要があります。
イエス・キリストの愛により、「言い返す、やり返す」という罪の性質から来る反応をこえて、愛をもって相手に応えてゆく自由が与えられていることを覚えたいのです。そして、たとえ何度失敗しても、心の葛藤が続き、どんなに時間がかかっても、相手を赦し、受け入れることを学び、身に着けてゆく。このことが勧められています。
人を愛することは、神様の賜物。同時に、私たちが取り組み、葛藤しつつ、身につけてゆくこと。天国で神と人を愛する喜びを満喫できるように、神様は、地上に教会という愛することを学ぶ、言わば予備校を置いてくださったのです。
第二に、愛するとは、寄る辺無き人、困難な状況にある人、苦しみ悩む人を親切にもてなすことでした。

4:9「つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい。」

日本語の親切は、切(しきりに)と親(したしい)の組み合わせで、しきりに親しくする。親切を尽くすことでした。また、聖書のもとのことばでは、見知らぬ人、他人、旅人を愛する、という意味です。
この時代、どの国にも旅館の設備は稀でした。しかも、そこは不潔で、不道徳がはびこり、とても安心してとまれない場所だったのです。
ですから、ペテロは皮なめし屋シモンの家に泊まり、パウロはマナソンという人の家で一夜を過ごしました。こうした親切が、どれ程彼らの伝道を助けたことか。もちろん、ここで勧められているのは、旅人を泊めることに限らず、もてなす、親切にするという愛の行いです。
しかし、自己中心という罪の性質が生きている私たちは、「どうして自分ばかりがしなければいけないのか」、「自分でなく生活に余裕のある他の人がすればよいのに」とつぶやきがちです。「つぶやかずに」という戒めは、自己中心に状況を見る私たちの心をえぐります。
そのような時、思い起こしたいのが、イエス・キリストが終わりの日に、親切をなした人に対してかけたおことばです。

マタイ253440「そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』
すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』」

今自分が出会っているのは、イエス・キリストが導かれた人。この人にどう接するのかを通して、キリストは私たちがどれ程深く十字架の愛を受けとっているかをご覧になっている。
「あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。」このことばを思い起こし、「イエス様、力をお貸しください」と祈りつつ、親切を尽くす。
旧約のルツやボアズ、新約聖書のバルナバ、アクラとプリスキラ夫妻。人の状況に対する気配り。自分のことはさておき、他人のことを思う思いやり。それに行動力。三拍子揃った信仰の先輩たちに習いつつ、私たちも親切を尽くす者となりたく思います。
第三に、愛するとは、神様に与えられた賜物を用いて人に仕えることでした。

4:10「それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。」

私が洗礼を受ける際、試問会の部屋のすぐ隣の部屋が控え室でした。壁が薄いので、隣の様子が筒抜けでした。
私の前に洗礼の試問を受けていたのは、着物のよく似合う老婦人でしたが、「教会員になったら、どのような奉仕をしたいですか」という質問に対し、「私は裁縫が得意でしたが、今は眼が利きません。でも、教会清掃の時の雑巾なら縫ってささげることができます」と答えていたのです。
賜物を生かして奉仕をするという考えが無かった私は、同じ質問をされたらどうしようと思いつつ、答えがまとまらないまま試問会に臨みました。そして、私が洗礼を受けた教会では、夕の礼拝の後、有志で会堂を清掃するという習慣がありましたから、同じ質問を受けた時、「掃除位なら、させてもらえると思います」と答えたのです。
その場で思いついた答えでしたが、ある長老さんが「どうもありがとうございます。掃除も立派な奉仕です。ありがとうございます。」丁寧に頭を下げてくださるので、とてもうれしく感じたことを思い出します。
際立った賜物をもってとか、人目を気にしてとか、背伸びをして無理に仕えることを、神様は求めてもおられません。私たちは、すでに神様が与えられた賜物を持って仕えれば、それでよいのです。
時間、この体、財産、知恵や能力。私たちの賜物の所有者は神様です。私たちは、神様の願うところに従って、委ねられたものを活用する管理人です。
ユダヤにあるガリラヤ湖は、水をヨルダン川に流し、沿岸を潤す湖。その故に魚の種類も量も多いといわれます。それに対して、水を他から受けるばかりで、独り占めしている死海は魚のいない死せる湖。対照的な二つの湖は大切なことを教えてくれます。
私たちに与えられた時間も、体も、財産も、能力も経験も、みな神様のものです。それを私たちは自分のもの、我が物と考えているので、それらをささげる際、肩に力が入ったり、惜しんだりするのかもしれません。
 以上、赦し合い、親切を尽くし合い、仕え合う姿で、私たちこの一年を歩み、この地域に神様の光を放つ教会になれたらと思います。今日の聖句です。

 4:810「何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい。それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。」