2013年4月7日日曜日

ヨハネの福音書(16)ヨハネ5:16~29「ご自身を神と等しく」

 受難節からイースターと、およそ一ヶ月の間、私たちはイエス・キリストの十字架の苦難と復活について思いを巡らせ、その意味を味わってきました。ですから、今日は久しぶりとなりますが、ヨハネの福音書に戻り、イエス様の生涯をたどる、ということになります。
 マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ。イエス様の生涯を記録した福音書は四つあります。中でもヨハネの福音書の特徴のひとつは、父、子、聖霊、三位一体の神様の関係について最も詳しく教えている点ではないかと思います。
 特に、今日の箇所。父なる神と子なる神イエス・キリストが一心一体となって、私たち人間を愛し、心砕き、働いてくださっている。その様子が良く伝わってきます。
 さて、思い出して頂きたいのですが、この日即ち安息日に、イエス様はユダヤの都エルサレムにあるベテスダの池で38年もの間起き上がることのできなかった病人を癒しました。
 ところが、安息日にしてはならない仕事のリストを事細かに決め、人々の生活を縛っていた当時のユダヤ教指導者たちは、イエス様の癒しの業を非難したのです。人の魂と体が神様の安息に預かる日という、安息日本来の精神を彼らは見失っていました。

 5:1618「このためユダヤ人たちは、イエスを迫害した。イエスが安息日にこのようなことをしておられたからである。イエスは彼らに答えられた。『わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。』このためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っておられただけでなく、ご自身を神と等しくして、神を自分の父と呼んでおられたからである。」
 
 これを見ますと、ユダヤ教指導者たちの怒りは、自分たちが重んじた安息日の規則を破ったということのみに向けられたわけではなかったようです。
 「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです」と語り、イエス様がご自分を神と等しくした、わたしの父と呼んでいた。そのために、油注がれた火の如く怒りを燃え上がらせ、ついには殺そうとしたとわかります。
 人間が自分を神と等しくする。これが何故ユダヤ人の怒りの対象となり、神を冒涜する行為と映ったか。人が死んだら神になるという宗教性を持つ日本人には、ちょっとピンと来ないかもしれません。
 少し思い出すだけでも、菅原道真を学問の神様とする天満宮、豊臣秀吉を祭る豊国神社、日露戦争の英雄乃木将軍を祭る乃木神社など、人間を神とする神社仏閣は掃いて捨てるほどあります。さらに、「ボールが止まって見える」と言う名言を吐いた巨人の川上選手は、生きながらにして「打撃の神様」と呼ばれたりしました。
 この世で功績をたてた、ある分野で秀でた才能を持っている。理由は何であれ、いとも簡単に人間が神と呼ばれるのが日本人の宗教性。それに対し、ユダヤにおいて神とは、この世界を創造したお方のみ。神と人間とは絶対的に異なる存在、人間が己を神と等しくするなどとんでもないという世界でした。
それを、ナザレの田舎者、大工のせがれ風情のイエス様が、神をわたしの父と呼び、「わたしのお父さんが今に至るまで働いているのだから、わたしも同じく働くのですよ」と、人の非難などどこ吹く風といったお答えを返された。
だから、これを自分たちが信じる唯一の神への冒涜と考えた指導者たちの怒りは、収まらず、ついには殺害の思いを抱くに至ったというわけです。
しかし、それを見たイエス様。ユダヤ人を恐れて、その場を立ち去ったのかというと、そうではない。口を噤んだのかというと、さにあらず。ご自分と神を等しくするどころか、ご自分と父なる神とがいかに一心一体であるかを説かれたのです。

5:19,20a「そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行なうのです。それは、父が子を愛して、ご自分のなさることをみな、子にお示しになるからです。」

以前、ある教会でパイプオルガンの組立作業を見たことがあります。ドイツから運ばれてきたオルガンを、ドイツの職人が六人がかり、40日かかって組み立てと整音を完成させます。
六人の中には、マイスター、親方とその息子二人がいて、彼らはいつも親方であるお父さんの仕事について回り、お父さんのやることをじっと見て、自分も同じことをしていました。
お父さんは息子を愛して、一人前になって欲しいから、自分の知っていることや技術を全部見せて、息子はその通りにする。やがて、息子はお父さんに重要な仕事を任せられるようになる。そんな光景でした。
イエス・キリストは神であられたのに、天からくだり、人となられた。私たち人間の仲間となってくださった。しかし、たとえ天を離れても、両者の愛と信頼の関係はなんら変わることが無かったのです。
イエス様は父なる神のわざを見て、これを忠実に行う。父なる神がなさることは何でも喜んでこれをなす。父なる神もイエス様を子として愛し、ご自分のみこころやご計画を悉く示してくださる。
ということは、イエス様が語ることは、すべて父なる神のみこころ。イエス様の行いは、すべて父なる神の望むこと。麗しくて親密な関係。まさに一心一体でした。
こうして、ご自分と父なる神の関係を解き明かされたイエス様。今度は、病人を癒すことよりもさらに大きなわざを委ねられていると語ります。

5:20b~23「また、これよりもさらに大きなわざを子に示されます。それは、あなたがたが驚き怪しむためです。父が死人を生かし、いのちをお与えになるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子にゆだねられました。それは、すべての者が、父を敬うように子を敬うためです。子を敬わない者は、子を遣わした父をも敬いません。」

イエス様が行う大きなわざ、ユダヤ人が驚き怪しむような大きなわざ、それは、死人に命を与えること、また最終的なさばきというわざでした。二つとも、旧約聖書においては、この世界を創造した神だけがなしうるわざ。それをイエス様が、父なる神に委ねられ、代わりに行うと言われるのです。
そして、「それは、すべての者が、父を敬うように子を敬うためです。子を敬わない者は、子を遣わした父をも敬いません」とのことば。これはご自分が神であり、父なる神に遣わされた救い主との明白な宣言でした。
さらに、イエス様の証しが続きます。しかも、「まことに、まことに、あなたがたに告げます」という重大な真理を語るときに用いる常套句つき。わたしが行う命を与えるわざとさばきのわざについて、よくよく聞きなさいと迫るイエス様のお姿です。
先ずは、永遠の命についてでした。

52426「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は永遠の命を持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時がきます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。それは、父がご自分のうちにいのちを持っているように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。」

聖書において、永遠の命と言う時、二つの面があります。ひとつは、イエス・キリストを信じる者がこの世で受け取る永遠の命、もうひとつは死後天国で生きるという意味の永遠の命でした。
そして、ここでイエス様が語られる永遠の命とか「生きる」とは、キリストを信じる者がこの世で受け取る永遠の命のこと、また、死とか死人ということばは、肉体的な死ではなく、私たちが神を離れて生きる状態、霊的な死をさすと考えられます。
イエス・キリストは、私たちの過去の罪も、現在の罪も、将来の罪も、悉くすべて背負って十字架で死んでくださいましたから、それを信じる私たちの心には罪赦された確信があります。イエス・キリストを信じた時、キリストの義で覆っていただきましたので、さばきに会うことなしとの平安があります。
また、かって神を離れ、神を無視して、自分の思いのまま生きてきた私たち、霊的に死んでいた私たちは、キリストを信じてから、神様との正しい関係に生きるようになりました。神の子として愛され、喜ばれている大安心。一日一日神様に信頼してゆく歩み。この身をもって神様のすばらしさを少しでも表すことができたらとの願い。
決して完全ではありませんが、私たちは、確かにこの世で永遠の命を受け、神様に対して生かされている新しい自分を覚えることができるのです。
次は、イエス様がもう一度この世に戻ってこられた時、再臨の時になすさばきについてでした。

5:2729「また、父はさばきを行なう権を子に与えられました。子は人の子だからです。このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます。善を行なった者は、よみがえっていのちを受け、悪を行なった者は、よみがえってさばきを受けるのです。」

キリストによる最終的なさばきの宣言です。愛なるイエス様がさばきどなさるはずがないと思っていた者、人間は死んだら無に帰するはず、死後のさばきなど無いのでは等と考えていた者は、この厳粛なことばに思わず声を失うことになるかもしれません。
「善を行った者」、「悪を行った者」の善悪とは、道徳的な善悪ではありません。イエス・キリストによる罪の贖いを信じて、神様の喜ばれる善に心を向けるようになった者はよみがえって命を受ける。しかし、キリストが十字架に命を懸けて示された神様の愛を拒み、自分の思いのまま生きた者は、よみがえってさばきを受けるとの意味です。
ふたつのよみがえり、二つの復活のどちらを選ぶか。それは、あなたがわたしにどのような態度をとるのかによる。わたしのことばを聞いて神を信じ、永遠の命を得るか、それともわたしのことばを聞かずして、霊的に死んだまま生きるのか。
怒りに燃え、敵意をむき出しにするユダヤ教指導者たちを前に、ご自分に対する態度こそ、人生において最も重要な決断と語り、迫るイエス様の姿が浮かび上がってくるような場面となっています。
さて、今日の箇所で、私たち確認したいことが二つあります。
ひとつは、心かたくななユダヤ人たちに対する、イエス・キリストの愛です。
今日の場面、イエス様はすでにユダヤ教指導者の思いを知っていました。我が身を神と等しくするご自分に対する怒り、敵意と殺意。それをを十分知っていたのです。それなのに、そんな彼らの心をさらに刺激するような証しを、イエス様は次々にされました。
ご自分と父なる神とが一心一体であること、ご自分が死人を生かし、命を与えるわざと最終的なさばきのわざを任されていること、ご自分を敬わない者は父をも敬わないとのおことば、「わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は永遠の命を持つ」との宣言。
このような事をしたら、彼らから益々迫害され、死に至ることは確実と思われますのに、「あなたがたはわたしにどのような態度をとるか」と迫るイエス様。そして、事実、イエス様は「神を冒涜した」との罪で訴えられ、死刑に処せられることなります。
つまり、これらのことばは死を覚悟の上でのもの。命を懸けて敵の救いを願うイエス様の愛の表れではなかったでしょうか。「敵をも愛せよ」との教えを自ら実践するイエス様のお姿を、私たちに心に刻みたいところです。
ふたつめは、私たちもこのユダヤ人指導者のように、かって心頑なであったのに、十字架に表されたキリストの愛に心動かされ、永遠の命に生きる者とされたことを感謝したいのです。
神など不要、神がいなくても自分の力で人生生きて行けると考えていた高慢な自分。神のさばきなどあるものかとタカを括り、神を恐れることの無かった自分。キリストの十字架の死を知っても、何の関係もなしと心動かされなかった罪知らずの自分。
こんな心頑なな者が、イエス・キリストを神の子、救い主と信じることができたのは、ただ神様の恵みによる。忍耐に忍耐を重ねて、招きのことばを語り聞かせてくださったキリストの御蔭。心に宿る信仰もまた、神様からの贈物、賜物と感謝したいと思います。
今日の聖句です。

エペソ28,9「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」

「われ罪人のかしらなれども 主はわがために 命を捨てて、つきぬいのちをあたえたまえり」。罪人のかしらである自分のような者のために、主は尊い命を捨てて、尽きることの無い命を与えてくださった。賛美歌249番を歌って、恵みによる救いを確かめ、神様を皆で賛美したいと思います。