2013年4月14日日曜日

ヨハネの福音書(17)ヨハネ5:30~47「聖書がわたしについて証言している」


今日の場面。ユダヤの都エルサレムにあるベテスダの池で、38年もの間起き上がることのできなかった病人を、安息日にイエス・キリストが癒した。このことに反感を抱いたユダヤ教指導者に対し、ご自分は神の子であり、真の救い主であることをイエス様が証する。その様な場面となっています。
安息日にしてはならない仕事のリストを事細かに決め、人々の生活を縛っていた当時の指導者たちは、イエス様の癒しの業を非難しました。
しかし、イエス様はそんな非難などどこ吹く風、『わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。』とお答えになる。
ユダヤ人がただお一人と信じる神を「わたしの父」と親しく呼び、「父なる神が今に至るまで働いているのだから、わたしも働くのは当たり前」として、ご自分を神と等しい者、神の子と証言するイエス様。
イエス等無学な田舎者、たかが大工のせがれと見下すエリート指導者からすれば、神を冒涜するとしか思えないこの発言に、彼らの怒りは殺意へと変わりました。
しかし、そんな人々を前に些かも怯むことなく、ご自分と父とは一心一体。「わたしには、わたしのことばを聞いて神を信じる者に永遠の命を与える権威がある。終わりの日には、わたしを信じる者を命によみがえらせ、わたしを拒んだ者をさばきによみがえらせる業を父なる神から任されている」と語られたイエス様。
かくも大胆な証言をすれば、指導者らは自分を確実に死に追いやるだろう。それが分かっていながら、イエス様はこの心頑なな人間たちを愛するがゆえに、命をかけて証言された。これが先週までの流れです。
そして、今日の箇所。「イエス様、もうその辺で口を閉じないと、本当に身に危険が及びますよ」と、読んでいる私たちの心配をよそに、なおも語り続けるイエス様の姿が描かれます。
ひとりでも良い。この人々の心が開かれ、わたしが誰であるかを知り、信じ、救われるならと証しを続けるイエス様。わが身の安全を案ずるより、心頑なな人間の救いを案ずる。ご自分に敵対する者をも愛してやまない。イエス・キリストの愛に心打たれるところです。

5:3032「わたしは、自分からは何事も行なうことができません。ただ聞くとおりにさばくのです。そして、わたしのさばきは正しいのです。わたし自身の望むことを求めず、わたしを遣わした方のみこころを求めるからです。もしわたしだけが自分のことを証言するのなら、わたしの証言は真実ではありません。わたしについて証言する方がほかにあるのです。その方のわたしについて証言される証言が真実であることは、わたしが知っています。」

偏見、ねたみ、無知、独善や自惚れ。人間が下す判断は様々なものに影響され、歪められます。表に現れた行動についてもそうであるなら、まして心の中の思いまで正しくさばくことなど、人間には不可能でしょう。
それをイエス様は「わたしのさばきは正しい」とし、「わたしを使わした方、父なる神のみこころをいつも求めているのだから」と言われる。いつもは謙遜なイエス様のこの大胆なことば。やはり、イエス様は神の子と改めて思い、安心します。

しかし、これを聞いた人々は到底納得できないという顔をしていたのでしょう。それを見て、イエス様はまるで裁判で証言台に立つ証人のように、「わたしについて証言するのはわたし一人ではない。わたしの他に証言する方、父なる神がおられる」と語り、まずバプテスマのヨハネのことを取り上げました。
こんな心頑なな人々等放って置いてもよいはずなのに、何としてもご自分を知って欲しい、信じて欲しいと願う。敵対する者の救いのため、イエス様の熱心は限りなしです。

5:3335「あなたがたは、ヨハネのところに人をやりましたが、彼は真理について証言しました。といっても、わたしは人の証言を受けるのではありません。わたしは、あなたがたが救われるために、そのことを言うのです。彼は燃えて輝くともしびであり、あなたがたはしばらくの間、その光の中で楽しむことを願ったのです。」

バプテスマのヨハネは、父なる神が遣わした預言者。イエス・キリストが救い主として登場する直前、徹底的に罪の悔い改めを説き、ユダヤ全国にその影響は及びました。 
ヨハネは「私ではなく、私の後から来る方が救い主」「イエス様こそ世の罪を取り除くことのできるお方」と語り続け、ともし火のように輝くと、やがて人々の前から消えていきました。
「あのヨハネはわたしを誰だといったのか、わたしのためではなく、あなた方自身が救われるために思い起こせ」と、イエス様は迫ったのです。
次は、「父なる神がわたしに与えたわざ、即ち奇跡を見よ」と語られます。

5:36「しかし、わたしにはヨハネの証言よりもすぐれた証言があります。父がわたしに成し遂げさせようとしてお与えになったわざ、すなわちわたしが行なっているわざそのものが、わたしについて、父がわたしを遣わしたことを証言しているのです。」

眼が見えぬ者の目を開く。耳の聞こえぬ者の耳を開く。38年もの間起き上がれなかった重病人を元気に歩かせる。社会から除け者にされていた女性の病を癒す。死人をよみがえらせる。かと思えば、餓えたる者五千人を憐れんで、パンと魚を大判振舞いする。
ご自分のために奇跡をなさったことは一度も無い。イエス様による数々の奇跡は、ひたすら飢えたる者、貧しい者、苦しみ悩む者、社会の弱者のためになされました。その愛が誰に向いているのか。その御力がいかに偉大か。様々な奇跡は、正にイエス様が神の子、救い主であることを雄弁に物語っていたのです。
そして、バプテスマのヨハネの証言、様々な奇跡に続く証言は、父なる神ご自身による証言、つまり聖書のことばでした。

5:3740「また、わたしを遣わした父ご自身がわたしについて証言しておられます。あなたがたは、まだ一度もその御声を聞いたこともなく、御姿を見たこともありません。また、そのみことばをあなたがたのうちにとどめてもいません。父が遣わした者をあなたがたが信じないからです。あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。」

「あなたがたはその声を聞いたことも無く、姿を見たことも無いけれど、父なる神はみことばを通して、確かにわたしについて証言しておられる。あなた方は聖書の専門家なのに、みことばが心にとどまっていない。わかっていない。なぜなら、聖書の中心であるわたしを信ぜず、わたしのもとに来ようとしないからだ。」指導者の顔が青ざめるような痛烈なことばです。
「論語読みの論語知らず」と言います。知っているように見えても、物事の本質が分かっていない人の喩です。イエス様に敵対する人々は、正に聖書読みの聖書知らず、聖書読みのイエス・キリスト知らずでした。
さらに、イエス様は彼らの心に深く切り込みます。「あなたがたが本当に大切にしているのは、神を愛することではなく、世間の評判、人から受ける名誉、つまり自分を愛することではないか」と。

5:4144「わたしは人からの栄誉は受けません。ただ、わたしはあなたがたを知っています。あなたがたのうちには、神の愛がありません。わたしはわたしの父の名によって来ましたが、あなたがたはわたしを受け入れません。ほかの人がその人自身の名において来れば、あなたがたはその人を受け入れるのです。互いの栄誉は受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたは、どうして信じることができますか。」

イエス様は人から栄誉を受けようが受けまいが全く気にしない。自由な世界に生きておられる。
それに対して、人からの栄誉が欲しくてたまらない指導者たちは、祈る時は人通りの多い道で祈り、断食をする時はわざと身をやつしてみせる。そしてお互いに賞賛しあって満足している。神がそんな偽善をどれほど嫌われるか、神の眼に己の心がいかに酷いものであるか考えることも無い。
「宗教の指導者、専門家として、人々に聖書を教え、神を信じることを説くあなたがたが、実は心のおいては神を敬うことも、愛することも無い、神なしの人生を生きている。だとすれば、父なる神が遣わしたわたしをどうして信じられるでしょう。」彼らの矛盾、偽善を、イエス様は突かれたのです。
さらに、「わたしが個人的な考えであなた方を訴えていると思ったら、それは大間違い。あなたがたが尊敬するモーセが、わたしのことについて書いている、預言しているではないですか」と念を押しました。

5:4547「わたしが、父の前にあなたがたを訴えようとしていると思ってはなりません。あなたがたを訴える者は、あなたがたが望みをおいているモーセです。もしあなたがたがモーセを信じているのなら、わたしを信じたはずです。モーセが書いたのはわたしのことだからです。しかし、あなたがたがモーセの書を信じないのであれば、どうしてわたしのことばを信じるでしょう。」

モーセはユダヤ人が尊敬する旧約聖書中最大の人物。神から十戒などの律法を授かったことでも有名でした。「モーセがわたしの事について書いている」とは、モーセが書いたとされる旧約聖書の創世記から申命記までの五つの書の中に、預言や儀式などを通して、様々に救い主についての証言がある事を指しています。
「モーセが神のことばを書いたと本当に信じるなら、あなたがたはわたしを信じたはずです。」
どこまでも心頑ななユダヤ教指導者を見放さず、むしろ、バプテスマのヨハネの証言、ご自分の行った様々な奇跡、そして彼らが尊敬してやまないモーセの書までも引き合いに出し、人々の心を開き、信仰に導かんとするイエス様。
彼らの不信仰を責めることばも、実はご自分のもとに帰れと招く御声。わが身を顧みず、ひたすらに心頑なな人間たちに仕えるイエス様の愛の御声ではなかったかと思われます。
さて、今日の箇所を振り返って、皆様と心に覚えたいことが二つあります。
ひとつは、イエス様が語られた「あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとにこようとはしません」とのことばについてです。
果たして、私たちはいのちを得るためにどれぐらいイエス・キリストのもとに行き、交わっているでしょうか。イエス・キリストのもとに行き、その十字架を仰いで、罪赦された平安を得る。イエス・キリストのもとに行き、その大きな愛に励まされ、神の御心をなす力に満たされる。イエス・キリストのもとに行き、その復活を覚えて、永遠の命に生かされている幸いを味わう。
「聖書がわたしについて証言している」と言われたのはイエス様です。だとすれば、私たちはもっと熱心な聖書の読み手となって、イエス・キリストを知りたいと思います。聖書を熱心に読むだけでなく、実際にイエス・キリストのもとに行き、親しく交わり、人として生きるべきいのちを受け取りたいと思うのです。
ふたつめは、神を愛することよりも、世間の評判、人からの栄誉を大切にしたユダヤ教指導者の生き方を反面教師としたいということです。
私たちが本当に気にしているのは、神様の眼から見た自分でしょうか。それとも、人の目に映る自分でしょうか。私たちがささげる礼拝や奉仕、隣人に仕える働きは、神様を愛する思いからなされているでしょうか。それとも、人の評判や評価を得るためのものでしょうか。
神様を愛するとは、神様を恐れ敬うことです。神様を恐れ敬うとは、自分の罪を悲しみ、イエス・キリストの贖いの恵みに頼ることです。神様の愛を受け取り、受け取ったその愛で神様と人に仕えることです。たとえ、それが自分に敵対する人であってもです。
願わくは、今日から始まる一週間の歩みにおいて、家庭、地域、職場、教会における私たちの行いのすべてが、神様への愛からなされるものとなりますように。

エペソ51,2「ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。また、愛のうちに歩みなさい。キリストもあなた方を愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。」