2013年5月26日日曜日

日本長老教会講壇交換 マタイの福音書18章1節~4節 「天の御国で1番偉い人」

18:1 そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。」
18:2 そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真中に立たせて、
18:3 言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。
18:4 だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。

娘の大好きなレストラン。と言ってもマクドナルドですが、時々、2人で行くのですが、ある日、私たちが座った席から見える所に小さな子どもを連れて来ている親子がいました。娘と同じくらいの年齢の男の子でしたが泣いていました。その椅子の下にはフライドポテトが散らばり、お母さんが大きな声で「ポテトを拾いなさい」と繰り返していましたが、連動するように大きな声をあげて子どもは泣いていました。私には、子どもが自宅で叱られているようには、お母さんは店ではしないということを見抜いているように見えました。結局、お母さんが拾って片付けました。子どもの勝利ということでしょうか。私も親として笑うことはできません。子どもとは、時に可愛く、時にワガママで難しいものだとつくづく感じます。みなさんはどうでしょうか。

今朝の聖書箇所でイエス様は「子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には入れません。」と教えています。「子どものようになる」とはどういうことなのでしょうか。続く4節には「この子どものように自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。」とあります。子どものように自分を低くするとありますが、本当に子どもは自分を低くしているでしょうか。マクドナルドでの親子ではありませんが、子どもは自分勝手で時には泣いてでも、ワガママを押し通そうとする所があります。イエス様は私たちに何を教えようとしているのでしょうか。御言葉を通して「天の御国で一番偉い人は誰か」について分かち合いたいと思います。

マタイの福音書18章1節をもう一度お読みします。
18:1 そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。」

その時とありますが、この時、イエス様の弟子たちの一番の関心事は何であったのか。それは「誰が一番偉いか」ということでした。この質問の背景には、17章の出来事があります。弟子の1人ペテロの税金をイエス様が自分の分と一緒にお払いになったという出来事です。17章27節に記されています。

17:27 しかし、彼らにつまずきを与えないために、湖に行って釣りをして、最初に釣れた魚を取りなさい。その口をあけるとスタテル一枚が見つかるから、それを取って、わたしとあなたとの分として納めなさい。」

この出来事は、ペテロ以外の弟子に嫉妬心を芽生えさせました。ペテロだけがイエス様に税金を払ってもらったのです。それも釣りをして捕まえた魚の口からお金が出て来るという奇跡まで経験させてもらってです。ペテロはイエス様が一番大事にしている弟子ではないかと他の弟子たちは考えました。そうだとすると、天の御国で一番で偉いのはペテロということになる。本当の所はどうなのですかとイエス様に詰め寄ったのです。1節は嫉妬心に燃える弟子たちの質問であったということです。その心をイエス様はご存じでした。そこで、小さな子どもを呼び寄せて答えます。2節から4節をご覧下さい。

18:2 そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真中に立たせて、
18:3 言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。
18:4 だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。

イエス様は弟子たちに「あなたがたは、天の御国で一番偉いのは誰かと質問しているけれども、その天の御国に入ることすらできないことを理解していない」と答えられたのです。言い換えるならば、天の御国に入るには神の前に悔い改めて、子どものようになりなさいと語られたのです。新改訳聖書には3節の「悔い改めて」という所に*がつけられています。欄外を見て下さい。そこには直訳「向きを変えて」と記されています。向きを変えると聞きますと、大抵は、180度方向転換するという意味です。しかし、ここでの意味は大人として歩んでいたのに、もう一度戻ってという意味で「向きを変える」ということです。つまりは、あなたがたは子どもに戻らなくてはならないとイエス様は言われたということです。大人である私たちが、子どもになるにはどうしたらいいか。なかなか難しい問題です。これが、今朝、神様から私たちに投げかけられている問いであり、聖書からのメッセージとなります。


今朝の聖書箇所の1節、3節、4節に「天の御国」という言葉が出てきますが、この言葉は福音書のキーワードとも言える大切な言葉です。弟子たちはイエス様と共に生活し語られるメッセージを聞きながら、このお方こそ天の御国、つまりは神の国をもたらすお方であることを感じていました。ここに記されている「天の御国」とは地上の死をむかえた後の世界、つまりは天国ということだけではありません。神のご支配を表す言葉として「天の御国」と言う言葉が使われているのです。確かに、聖書に天の御国とか神の国という言葉が使われていますと、私たちはすぐに死後の世界のことだけを考えてしまいがちです。そういう意味が全くない訳ではありません。しかし、今朝の聖書箇所で私たちが覚えなければならないことは、神がご支配して下さる、まさに、イエス・キリストが王としてご自分の民を導き共に歩んでくださること。これが、ここに記されている、天の御国という意味です。この天の御国、神の支配がもたらされようとしている時に、弟子たちの一番の感心事は、自分がどの地位を得ることができるかということでした。それに対してイエス様は「偉くなって一番になること、地位を得ること、それが大人になった人間の考え方かもしれない。しかし、そういう世的な考えを捨てて、もう一度子どもになりなさい。向きを変えなさい。」と語られたのです。子どものように、自分が小さい者だということをわきまえることなしに、神の支配、つまりは神と共に生きることはできないからです。ですから、4節で「この子どものように自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。」と、自らを子どものように低くすることを弟子たちに教えられたのでした。

当時の社会では、子どもは数にも入らない者、取るに足らない者と見られていました。偉いということからするならば、子どもは最も低い者と位置づけられていました。しかし、イエス様は「自分を低くして、この子どものようになる人が、天の御国で一番偉い」と語られました。自らを低くすること、それは表面上を繕うことではありません。神の御前に謙遜であることが、最も価値ある生き方だということを教えられたのです。

神の御前に謙遜に生きる人には、本当の自由があります。この世における身分や地位によって価値をはかるのではなく、神に愛され、許され、受け入れられていることに価値を置くからです。その土台となることが出来るのは、イエス・キリストの十字架の愛と救い、許しの恵みによる以外にはありません。天の御国に生きる人は、自分が土台ではありませんので、誰かに偉く見せる必要がないのです。イエス・キリストを人生の土台として、神の愛に満たされ、そこから他者への愛と平和が与えられて、互いに仕える合うことができるのです。

聖書に戻りますが2節をもう一度、ご覧下さい。
18:2 そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真中に立たせて、

「誰が一番偉いのか」と質問する弟子たちの真ん中に、イエス様は小さい子どもを立たせました。当時の偉大と称される、律法学者や宗教的指導者を立たせるのではなく、小さい子どもを立たせたのです。イエス様は弟子たちに何を考えさせ、思い出させようとしたのでしょうか。真ん中に立つ小さな子どもは、小さくて弱く無力な存在です。それは、かつてイエス様と出会った弟子たちの姿ではなかったでしょうか。いつも幼子のようにイエス様の助けを必要とし、愛と憐れみをどれほど素直に受け取ってきたことでしょうか。まさに、幼子とは背丈が低く、大人を見上げるしか出来ない存在です。弟子たちは、そのようにしてイエス様の招きに従い、恵みを受け取っていた人たちだったのです。それがいつの間にか、一番になることだけが関心事になり、自分を上にする生き方、つまりは、神と人を見下げる生き方になってしまっていたのです。更には、自分の力で天の御国に入ることが出来ると勘違いしていたのです。その彼らをご存じで、イエス様はあえて、小さな子どもを真ん中に立たせて「あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。」と語られたのです。

今朝、私たちの真ん中にイエス・キリストが立たれています。私たちはこのお方をどのように見るでしょうか。上から見下げるでしょうか。それとも、子どもようになって見上げるでしょうか。イエス様が十字架にかかられた場面を思い出します。最後に、聖書をお持ちの方はルカの福音書23章39節から43節を、ご一緒に読みたいと思います。

23:39 十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」と言った。
23:40 ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。
23:41 われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」
23:42 そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」
23:43 イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」


十字架にかけられたキリストはあなたを愛しておられます。お祈りします。

2013年5月19日日曜日

ペンテコステ礼拝/ヨハネの福音書14:16~21「もうひとりの助け主」

今日はペンテコステ、聖霊のお働きについて覚える礼拝となります。
私たちは三位一体の神を信じています。父の神、子の神、聖霊の神。各々人格もお働きも違いながら、しかも唯一の神であることを聖書の教えとして世々の教会は受けとめてきました。
父なる神は、私たちを子として愛し養ってくださるお方。子なる神、イエス・キリストは天から降って、人となり、私たちに代わって十字架に死に、罪の贖いを成し遂げ、復活された。ならば、聖霊なる神は一体何をしてくださっているのか。いまひとつピンとこないという人が多いのではないでしょうか。
ところで、良い映画、良いドラマには必ず名脇役がいると言われます。主役と同じ才能、力量を持ちながら、主役を引き立てるのが脇役のつとめ。自らが目立つことは無い、いや目立ってはいけない存在でした。
喩えて言うなら、人間を罪から救うという神のご計画の中で、この脇役に徹したのが聖霊の神と言えるでしょうか。何故なら、聖霊は父と子から遣わされ、ひたすらイエス・キリストの恵みを私達に届け、キリストの栄光を表すため仕えているからです。
今日は、私たちの信仰生活にとって無くてはならないお方、聖霊について、皆で覚える時としたいと思います。
さて、今日取り上げたのは、ヨハネ141621。大きな流れで言いますと、ヨハネの福音書1416章は、イエス様による惜別説教、別れを惜しむ説教とされます。
この場面、十字架の死を明日に控えた前日のことです。弟子たちは、イエス様から「わたしは天の父の元に行く。しかし、あなた方はわたしの行くところに来ることは出来ない。」と言われ、動揺していました。
自分たちの中に裏切り者がいると聞いたこと、弟子の中でもリーダー格のペテロが、「主を知らない」と三度誓うとの預言も、彼らの不安を一層深くしたと思われます。
「イエス様が去ってしまわれたら、自分たちは一体どうしたらよいのか」。そんな心配顔の弟子たちに、「天の父の元に行ったなら、わたしはあなた方のために願いをささげる」とイエス様は約束されました。

14:16「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。」

十字架の死、復活、そして昇天。贖いの業を成し遂げ、天に帰られたイエス様が、まず父に願ったのは、ご自分への報いでも、祝福でもありませんでした。「もう一人の助け主を与え給へ」と、地上に残された弟子たちのために願うというのです。
地上にいる時も、天に帰られても、イエス様の心はご自分を頼る者にひたすらむけられている。これは今も変わりません。今も、地上にある私たち一人一人を見守り、天の父の前で、日夜祈ってくださるイエス様。その主のお姿を、私たちも心に刻みたいところです。
ところで、もうひとりの助け主とはどのようなお方なのでしょうか。

14:17「その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。」

もうひとりの助け主とは真理の御霊。つまり、私たちに真理であるイエス・キリストの恵みを届け、その栄光を表すために与えられる聖霊でした。
「わたしを信じない人々は見ることも、知ることも出来ないけれど、あなた方は知ることが出来る。何故なら、聖霊は格別に親しくあなた方とともに住み、あなたがたのうちにいつまでもいてくださるから」と心配する弟子たちを励ますイエス様です。
さらに、です。もうひとりの助け主は聖霊と聞かされても、弟子たちの動揺は収まっていないと見られたのでしょうか。イエス様は、ことばを代えて「大丈夫だよ。私はあなた方を捨てて孤児にはしない」と、親が子にする様に語りかけます。

14:1821「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。いましばらくで世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。その日には、わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現わします。」

幼子は、お母さんが「ちょっと外に出かけてくる」と言うだけで心配します。「夕飯のおかずを買いに店に行くだけですよ」と言っても、泣き止みません。「必ず、すぐに戻ってくるから」と言われて、漸く安心します。
心から信頼するお母さんがともにいてくれる。それが幼子の安心の源であるように、弟子たちにとってイエス様がともにいてくださるのが何よりも心強いことでした。
ですから、「わたしは、あなた方のところに戻ってくる。あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおり、わたしたちは決して離れることはありません」と、イエス様は約束されたのです。
尤も、これは天に昇られたイエス様が直接戻ってくると言うのではなく、弟子たちに聖霊を送り、聖霊によってともにいてくださることを意味すると考えられます。
何度も言いますように、聖霊はイエス・キリストの恵みを届け、その栄光を表すことに専念し、仕えてくださいますから、聖霊を受けた者はイエス様が共におられるのを確信できるわけです。
こうして、約束された聖霊が、十字架の死から50日後、七週の祭りと呼ばれる小麦の収穫を祝う祭りの時、120人もの人々に降り、エルサレムに初のキリスト教会が誕生することとなります。なお、ペンテコステは元々50日目を意味することばでした。
さて、イエス・キリストが遣わす聖霊は、どのように私たちを助けてくださるのでしょうか。今日は三つの事を確認したいと思います。
一つ目は、私たちの心にイエス・キリストを救い主と信じる信仰を与え続けてくださる、ということです。

12:3「ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ。」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。」

ここに、心に聖霊を頂いた者は誰もイエスを否定できず、必ずイエスを主と告白すると教えられます。
皆様の中には、いつの間にかイエス様を信じていたという、クリスチャンホームの子どもに代表されるような信仰の持ち方をした人もいるでしょう。学びをしている内に素直に信じることができたと言う方もいるでしょうし、長い葛藤の末に信じたと言う方もいることでしょう。
いずれにせよ、イエス・キリストを信じることは、私たちの決断であると同時に、聖霊のお働きと助けがあって実現することでした。
「聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません」。ことばを代えて言うなら、「イエスは主、我が救い主」と告白できた者は、その心に聖霊が宿ると確信して良いし、確信すべしと教えられるのです。
ろうそくの灯火は、赤々と燃えているかと思えば、風前の灯で殆ど消えかかってしまう時もあります。私たちの信仰も同じではないでしょか。信仰に燃えて、力強く行動する時もあれば、主を見失って意気消沈、信仰も停滞、深い悩みの中に落ち込む。そんな時もあるでしょう。
信仰の歩みは山あり谷あり。信仰に燃やされる時も、風前の灯の時もあるのです。しかし、私たちの信仰がどんな状態にあろうとも、一度「イエスは主」と告白しえた者のうちに聖霊が宿っておられるという事実は変わらない。必ずや信仰を復活させてくださる。そう教えてくれるこのみことばに、私たち立ちかえる者でありたいと思います。
二つ目は、聖霊は教会つまり兄弟姉妹を愛し、仕える賜物を与えてくださると言うことです。

12:7「しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現われ(賜物、奉仕)が与えられているのです。」

私たちは、己の力ひとつで信仰の道を歩み続けることが出来るほど強い存在ではないことを、聖書は教えています。
私自身それを経験した者です。19歳で洗礼を受けて一年後、あることをきっかけに信仰の確信をなくした私は、教会を離れてしまいました。それから半年余り、日曜日に礼拝に行かない生活にも慣れ始めた頃、町で偶然出会った教会の友人から、水曜日夜の祈祷会へ強引に誘われました。
教会に対し敷居が高く感じていた私は恥ずかしいやら何やら。気持ちは嫌々、渋々の祈祷会出席でした。しかし、そこで、私は自分のような者のことを忘れず、祈り続けてくれた兄弟姉妹がいることを知ったのです。
私には見えなくなっていた神様を心から信じ、教会のために何一つ奉仕せず、生意気にも教会批判、クリスチャン批判をして飛び出した私のような者のために祈り続けてくれた兄弟姉妹。「ああ、これが教会と言うものか」と心動かされた経験が、私を再び信仰の道に戻してくれたのです。
イエス・キリストは、放っておけばすぐに神信仰から離れてしまうような弱い私たちのために聖霊を与えてくださいました。そして、聖霊は私たちがお互いに愛し、仕える交わりを築く賜物を与えてくださったのです。
祈りの賜物、祈りの奉仕は、私たちに与えられた賜物、私たちがなすべき奉仕の一例でした。私たちの信仰は教会の交わりに支えられ、養われていること、同時に私たちは、兄弟姉妹の信仰を支える賜物を与えられていることを自覚したいと思います。
三つ目は、聖霊は私たちをイエス・キリストに似た者へと造り変えてくださるということです。

ガラテヤ522,23「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁じる律法はありません。」

自分を捨てて神様と人を愛する愛。どんな試練の時も、神様に愛されていることを喜ぶ心。どのような状況にあっても奪い去られない平安。いかなる人も受け入れる寛容。親身になって相手に尽くす親切。いつも相手の美点、賜物を見出そうと努める善意。人を分け隔てせず接する誠実。どんなにひどいことを言われても、感情的になって言い返さない柔和。いかなる場合も、神の御心に照らして、なすべきことをなし、なさざるべきことに手を出さない自制。
ここに御霊の実として挙げられた性質は、私たちが生まれながらにして持つ罪の性質に反するものばかり。私たちは愛すべき人に冷たく、喜ぶべきことを喜べず、平安よりも不平不満に心が満たされることの多い者です。
寛容とは程遠い心の狭さを捨てられず、親切を尽くすより、親切も程々にと考えがちな者です。相手の美点、賜物には目を瞑り、むしろ欠点、弱さをあげつらいます。人を分け隔てし、そのくせ人から少しでもひどい事を言われようものなら、その二倍、三倍でもおかえしてやろうと腹を立てる者です。何かと理由をつけて、なすべきことには手をつけず、なすべからざることに心をむけること、実に多き者です。
しかし、イエス・キリストを信じた時から、聖霊は罪人の私たちの心に入り、これらの良き性質をすべて持つキリストに似た者へと造りかえる作業を開始しました。
私たちは、この聖霊の尊い奉仕に感謝し、協力しているでしょうか。何度失敗しようとも、聖霊が必ずや実現してくださることを信じて、宝石のようなこれらの性質を身につけるべく日々努めること。その様な者となりたく思います。
最後に、今日の聖句を皆で読みたいと思います。

Ⅰコリント619「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。」

愛は愛する者といつもともにいること、そして愛する者に協力し、助け、励まし、慰めることを切に願い、喜びとします。
私たちが聖霊の宮であるとは、罪で汚れた私たちの心を聖霊が自らの住まいとし、いつもともにいたいと願い、心から喜んで仕えたいと思うほど、私たちが聖霊に愛されているということです。
助け主ということばには、いつも近くにいて弁護し、守ってくださるお方、親しい相談相手と言う意味もあるそうです。「聖霊の神様。今私が持つべき考え、とるべき態度、行動はなんですか。それを選べるよう、また実行できるよう力をお貸しください」。
この様な相談相手、人生の守り手として、聖霊が私たちのうちに住んでおられることを自覚し、感謝しつつ、日々歩んでゆきたいと思います。





2013年5月12日日曜日

命の尊さを確信して エペソ2章10節

 本日はウェルカム礼拝の日です。初めて礼拝に来て下さった方、久しぶりに来て下さった方を心から歓迎いたします。今日、来て下さったことを大変嬉しく思いますし、また次週以降、続けて来て下さることも楽しみにしています。教会員の方、毎週来られている方とともに礼拝が出来ることも、大変嬉しく思っています。
 今日は「命が輝く時」をテーマに、礼拝をささげています。「命が輝く」。皆さまは生きていることを喜んでいるでしょうか。毎日の歩みが充実しているでしょうか。希望を持って生きることが出来ているでしょうか。自分らしく生きているでしょうか。皆さまの命は輝いているでしょうか。

 生きることが本当に喜びである。命を輝かせながら生きることは、容易いことではありません。若輩者の私が言うのは生意気ですが、生きるというのは中々大変なことです。
 これまで経験してきた、人からされた悪。自分のなした悪に苛まされること。挫折感や後悔に囚われること。目の前にある問題に心が押し潰されること。家庭の問題、仕事のストレス、難しい人間関係。思い通りにはならない出来事に平安ではいられないこと。将来に対する不安に襲われること。病気になったら、家族の期待に応えられなかったら、大切な人を失うことになったとしたら。素晴らしい明日があると考えるよりも、明日の心配で時間を費やすことが多くあります。
 個人的なことだけでなく、今の世界を見渡す時に問題が山積しているように感じます。繰り返される戦争、紛争、テロ。地球を何百回も破壊出来る程の核エネルギーが存在します。オゾン層は穴があき、温暖化は進み、砂漠は広がり、飢饉や食糧難は蔓延している。日本では、巨大な地震を経験し、経済格差は広がり、就職難やリストラなどの仕事に対する不安が強くあります。目を覆いたくなるような事件が毎日のように起こる。
 このような世界で人生を重ねると、喜んで生きることに対して意欲が失われます。多くの苦しみや悲しみ、ストレスに囲まれ、なんとか毎日を過ごしながら、人生とはそういうものと感じてしまいます。近年、日本では多くの人が、喜んで生きることが出来ていない。希望をもって生きることが出来ていないと言われています。いかがでしょうか。皆さまは生きることに喜びがあるでしょうか。

それでは、命を輝かせるためにはどうしたら良いのか。喜んで生きるためには何が必要でしょうか。多くの人が、この世界が良くなるように。生きる喜びを見出せる社会となるように、様々な取り組みをしています。政治で、医療で、治安維持で、福祉で、教育で、経済活動で、学問で、その他様々な分野で多くの人がより良い世界となるように取り組んでいます。このような取り組み。様々な分野で、それぞれが自分の力量に応じて、世界を良くしていく。明るい未来へ力を注いでいくことは非常に大切なこと。有意義なこと。意味のあることです。
 しかし、世界がどれ程良い状態になったとしても、それだけで、私たちは喜んで生きることが出来るかというと、そうではないと思います。自然環境や社会環境が、素晴らしい状態になったとしても、それだけで私たちが希望をもって生きることが出来るかというと、そうではない。私たちが喜んで生きるためにどうしても必要なもの。命を輝かせて生きるためにどうしても必要なもの。それは、自分の命が尊いことを確信して生きること。私は本当に尊い存在である。私の命は、掛け替えの無いものである。そう確信すること抜きに、本当の意味で、喜んで生きること。本当の意味で命を輝かせることは出来ないと思います。
 このようなことを考えて、今日の聖書の話のタイトルを、「命の尊さを確信して」としました。このテーマで、聖書はどのようなことを教えているのか。皆さまとともに考えていきたいと思います。

 ところで、一般的に「人間の命が尊い」ことは、直観的に分ります。しかし、何故命は尊いのか。何故、自分は尊い存在と言えるのか。説明するのは、意外と難しいこと。皆さまは、何故命が尊いのか。説明出来るでしょうか。
 約三ヶ月前。四日市市が行っている市民講座がありました。テーマが命の尊さ。講演者は産婦人科医の先生でした。市民講座で、命の尊さをテーマに、どのようなことが語られるのか、興味があったので受講しました。
 その産婦人科医の先生が言われた、私たちの命が尊い根拠は、要約するとこのようなものです。「一人の人間の誕生は、ある男性の精子と女性の卵子の結びつきによってなされる。一人の男性が一生の間作る精子の数は一兆を越え、女性の持っている卵子の数は五百程。このうちの、一つの精子と一つの卵子が結びついて、一人の命となる。更に、一つの精子、一つの卵子でも、男性から遺伝を受ける可能性と、女性から遺伝を受ける可能性は、2の23乗の可能性から一つに決まる。これはつまり、私という存在は、考えられない程多くの可能性の中から出てきたものであり、世界に他にない。唯一の存在である。世界に他にない。唯一の存在。だから、命は尊いのです。」ということでした。皆さまは、この説明を聞いて、どのように思うでしょうか。ちなみに、その市民講座は、「世界に他にない。唯一の存在。だから、命は尊い」と語られた後、現在の日本は命よりも経済。人よりモノが優先されている状況で、それを改善した方が良いと語られるものでした。

 約二時間の講座の終わりになりまして、質疑応答の時間となりました。そこで私はすかさず質問しました。「先生、先生は世界に他にない、唯一の存在だから命が尊いということを言われたと思います。それは分りました。しかし、その論理、唯一の存在だから尊いと考えますと、私の命も尊いですが、他の生き物、動物も昆虫も、全て命が平等に尊いことになると思います。先生は人間の命も、他のどのような生き物の命も、平等に尊いとお考えですか。人間の命は尊い。私の命は尊いと考えるには、どうしたら良いでしょうか。」という質問です。
 我ながら、なかなかひどい質問だと思います。約二時間の講座の後、その講座の中心テーマに対して、答えづらいであろう質問をしたわけです。
 するとその先生は、じーっと私の方を見るのです。質問がよく伝われなかったかと思い、「先生、質問の内容は伝わりましたでしょうか。」と聞くと、その先生は「はい、質問はよく分かりました。しかし、難しすぎて答えることが出来ません。」と言われたのです。
 私はこの先生の答えを聞いた時、二つの意味で衝撃を受けました。一つには、ここで「答えることが出来ません。」と言うと、この二時間の講座が何だったのかという話になります。命の尊さを教える講座で、最終的に人間の命が尊いことを言うことが出来ない。「答えることが出来ません。」と言うのは、講演者としては本当に勇気のいることだと思いますが、その先生が正直にそのように答えられたことに、非常に誠実な方だと、良い意味で衝撃を受けました。
 もう一つの衝撃は、無料の市民講座を開催する。時間と労力を割いてでも、命の尊さを訴えたい。そのような情熱のある方でも、結局のところ、人間の命が尊いということを言うことが出来ない。この現実に、衝撃を受けました。

一般的に「人間の命が尊い」ことは分るのです。しかし、何故命は尊いのか。何故、自分は尊い存在と言えるのか。論理的に説明するのは、難しいのです。
そもそも、自分自身の価値を判断する時、他の人の価値を判断する時、私たちはどのような基準を持っているでしょうか。何を基準に、価値がある、価値がないと考えているでしょうか。
 財産を持っていることでしょうか。学歴があることでしょうか。地位や権力、名声があることでしょうか。美しいこと、格好良いことでしょうか。これこそ価値があるとして、多くの人が、このようなものを追い求めています。あるいは、命の価値とか、人間の価値など考えるのも馬鹿らしいとして、お酒やギャンブル、薬物などに手を出す人もいます。皆さまは、何を基準に、価値がある、価値がないと判断しているでしょうか。

 高校時代のこと。倫理の授業で、先生が人間の価値は、本当の友達をどれだけ得ているかだと言っていました。本当の友達がいるかどうか。皆さまは、この意見をどのように思うでしょうか。
 学期末になりまして、この授業のレポートは、授業で扱われた内容で興味のある事であれば何でも良いので、自分の考えをまとめるというものでした。そこで私は人間の価値は何を基準に考えるべきなのか。先生の言われる本当の友達を持つことだとすると、仮にその本当の友達が死んだ場合(勿論、人間はいつか死ぬわけですから)、先生は価値のない存在になるのでしょうか。私は人間の価値は、失われたり、変わるものを判断基準にすべきではないというようなことを書きました。先生の意見を真っ向から否定するようなものになったわけですが、レポートが返ってくると百点でした。度量の大きな先生だったと思います。

 もう一度、お聞きします。皆さまは何を基準に、自分の価値や他の人の価値を測っているでしょうか。財産でしょうか。学歴でしょうか。地位や名声でしょうか。外見でしょうか。それとも、友人関係でしょうか。

 東京に住んでいた時、ホームレス伝道という働きのお手伝いを約三年間していました。毎週、約四百人程のホームレスの方に食事を提供し、ともに礼拝をささげるというものです。色々なホームレスの方に接して、よく思ったことの一つに、今日食べる食事がない、着替える服がない、家がないというのは、大変なことではあるけれど、本当に悲惨なことではないということです。(勿論、食べ物がない、着替えがない、家がないというのは良いことではなく、大したことではないと言いたいのではありません。)人間にとって本当に悲惨なのは、自分には生きる価値がない。自分の命は尊いものではないと、本当に思っている状態です。人生に絶望している状態。家がなく、家族がいない状態で、人生に絶望するというのは、本当に悲惨です。このような人を前にした時、一体何を伝えれば良いのか。私はよく悩みました。自分の前の前に、本当に自分は無価値な存在であると思っている人がいたとしたら、皆さまは何と言うでしょうか。
 財産を得たら良いですよと言うでしょうか。良い学校、良い会社に入ったら良いですよと言うでしょうか。外見を整えましょうと言うでしょうか。果たして、それで何とかなるでしょうか。

 ところで、聖書は私たちの価値について、どのように教えているでしょうか。キリスト教では、私たちはどれ程価値のある存在だと教えているでしょうか。
 聖書によりますと、私たちは神様の作品、それも傑作であると教えられています。
 エペソ2章10節
私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。

 聖書に記されている私たちの神様は、この全世界の造り主。全知全能のお方。その方の傑作として、私たちが存在していると言います。著名な芸術家の作品には、信じられない程の値がつけられますが、そうであれば、神様の傑作としての私たちに、どれ程の価値があるのか。この聖書の言葉を受けとめることが出来る人は幸いです。
 とはいえ、聖書の示す神が、全世界の造り主であるならば、私たちだけが神様の作品というのではない。ありとあらゆるものが、神様の作品なのです。私たちが神の作品であるから価値があるという論理だけですと、私の命も、他のあらゆる生き物の命も、同等です。
 だからでしょうか。聖書は、私たちは神の作品の中でも、特に尊く、神様の愛の対象であると教えていました。

 イザヤ43章4節
わたし(神様)の目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。

 私たちは神様の目から見て高価で尊い。この聖書の宣言を本当に受けとめることが出来る人は幸いです。この宣言を自分に語られている言葉として受けとめる時、自分には価値がないと思うことは出来なくなります。何しろ、絶対的な基準である方に、高価で尊いと宣言されているのです。
 とはいえ、神様が高価で尊いと思われているのは、私たちだけなのかという疑問は残ります。私たちは、神様の目に高価で尊い。しかし、他の動物、他の生き物も、同様に高価で尊いということはないのでしょうか。
 このような疑問にも、聖書は答えています。神様が高価で尊いと思われているけれども、それはどれ程の価値なのか。

 ローマ8章32節
(神様は)私たちすべてのために、ご自分の御子(イエス・キリスト)をさえ惜しまずに死にわたされた。

 罪にまみれた私たちを救いだすために。天国で私たちと永遠に過ごすために。そのためにならば、その一人子、イエスキリストを死に渡された。神様は私たちにどれ程の価値があると思われたのか。それは、その一人子を死に渡す程だと言われる。そして、これは他でもない、私たちにのみ当てはまること。
 人の命は、地球よりも重いと言ったりします。しかし、聖書はそうは言っていません。それどころではない。神の一人子を死に渡す程、思いのだと言う。皆さまは、この聖書の宣言を、どのように受けとめるでしょうか。

 私たちが、毎日を喜んで生きるために。命を輝かせて生きるために必要なのは、自分の命の尊さを確信して生きることです。命の尊さを確信して生きるために必要なのは、何でしょうか。お金でしょうか。地位でしょうか。名誉でしょうか。学歴でしょうか。外見でしょうか。世界で唯一であることでしょうか。本当の友達でしょうか。それらは、有益なものですが、命の尊さを測る基準にすべきではありません。
自分の命の尊さを確信して生きるためにどうしても必要なことは、変わらない基準、失われることのない基準。この世界を造られた神様との関係の中で、命の尊さを見出すことが大切です。
 今日、ウェルカム礼拝に来て下さった皆さまに、心からお勧めしたいことは、この聖書の神様を知ること。信じること。そして、神様との関係の中で、自分の命の尊さを確信することです。どうぞ真剣に、この聖書の宣言を受け入れられるのか、お考え下さい。

 もう一つお勧めしたいことは、教会の中で、お互いの価値を認める関係を持つことです。聖書の神様を知っている。信じている。その神様が、これ以上ない程、私を尊いと言われていることは、頭では分かっている。しかし、それでも自分で自分の価値を見いだせず、心が不安になることがあります。人生の様々な出来事の中で、自分自身を蔑み、自分を愛せなくなることがあります。
 そのような時に、側で自分の価値を認めてくれる人がいることが、大きな助けになります。落ち込み、絶望の淵にいる時に。あなたは大切な存在です。あなたはとても大事です。あなたは価値があります。あなたの存在が喜びです。と認めて、ともに生きていく仲間がいることで、助けられることがあります。
 私たちが、励まし合い支え合うために、神様は教会を造られました。教会は、そのようにお互いの価値を認める関係を築き上げるところです。


 今日の礼拝に来られた全ての人が、命の尊さを確信して生きることが出来ますように。また、私たちが、お互いの価値を認める関係を築き上げることが出来ますように。心からお祈りしています。

2013年5月5日日曜日

ヨハネの福音書(18)ヨハネ6:1~15「パンと魚」

 私が説教を担当する際、主に読み進めていますヨハネの福音書。今日は第六章に入ります。
 ところで、イエス・キリストの生涯を描く福音書はマタイ、マルコ、ルカ、そしてこのヨハネの四つであることは、皆様ご存知と思います。他の福音書と比べて、ヨハネにはどんな特徴があるのか、今迄いくつかのことを紹介してきました。
 今日お伝えしたい特徴のひとつは、マタイ、マルコ、ルカ、三つの福音書には書かれていない、イエス様の教え、奇跡、出来事などが、このヨハネの福音書には数多く登場することです。
四つのうち、一番最後に書かれたヨハネの福音書が前の三つの福音書を補ってくれたお陰で、私たちはイエス様の生涯について、より深く、より豊かに知ることができるということです。
 しかし、たったひとつ、四つの福音書すべてに記されているイエス様の奇跡がありました。それが、五つのパンと二匹の魚を用い、大群衆の胃袋を満たしたという今日の箇所です。もって、この奇跡が非常に重要なものであることを覚え、私たち読み進めたいと思います。
 さて、今日の舞台は、イエス様と弟子たちの故郷ガリラヤ。前の五章では、都エルサレムにおいて、ユダヤ教指導者を相手に、ご自身が神の子、救い主であることを証しされたイエス様。しかし、心頑なな指導者たちはそれを受け入れず、反発し、イエス様を迫害しました。
 もとより、迫害を恐れるイエス様ではありませんでしたが、十字架の死を前に、まだ教えるべきこと、為すべきことありとの思いから、ひと時騒々しい都から故郷ガリラヤに身を退くこととされたのです。
 しかし、人々はイエス様を放っては置きませんでした。特に病に苦しむ者を癒す奇跡を見、それに心惹かれた大勢の人の群れが付き従っていたのです。

6:14「その後、イエスはガリラヤの湖、すなわち、テベリヤの湖の向こう岸へ行かれた。大ぜいの人の群れがイエスにつき従っていた。それはイエスが病人たちになさっていたしるしを見たからである。イエスは山に登り、弟子たちとともにそこにすわられた。さて、ユダヤ人の祭りである過越が間近になっていた。」

風光明媚なガリラヤ湖。岸辺に広がる町の名をとってテベリヤの湖とも呼ばれていました。その湖の向こう岸とは、北側の人里離れた寂しい場所であったようです。
イエス様が山に登り、座られると、弟子たちが数えたのでしょうか。付き従ってきた人の数は、10節によれば男だけで五千人。女性と子どもを含めれば一万人ほど。当時の大きな町一個分の人口が移動してきたような大群衆です。
そして、「ユダヤ人の祭りである過越が間近」(4節)とありますから、季節は春。時は陽も傾きかけた夕刻。一日中歩き続けた人々は皆疲れ果て、腹を空かせていました。
夕暮れの中、改めて確認した群集の多さに恐れをなしたのか。他の福音書を見ますと、弟子たちは、「主よ、この人々に一刻も早くこの場を離れ、家に帰るように命じてください。そうでないと大変なことになりますよ。」と語っています。
腹を空かせた人々が大騒ぎを始めたら、到底自分たちの手には負えないと心配したのでしょう。弟子たちの頭の中には、「面倒な群集など早く追い払ってしまおう」という考えしかなかったようです。
 しかし、弟子たちには面倒な問題でしかなかった群集を、イエス様は心からかわいそうに思っておられました。その空っぽの胃袋を満たし、疲れた体を休ませるため、既に心中、愛の業をなすことを決められたのです。
勝手についてきた者たちとは言え、疲れ切った表情、空腹に悩む姿を見たイエス様が、その様な人々を見放すことなど出来るはずはありませんでした。
ただし、即座に業をなすのではなく、一呼吸置いて、こう語られたのです。弟子たちがご自分と同じ思いで人々を見、仕えることが出来るように、またご自身に対する弟子たちの信仰を目覚めさせるためでした。

6:56「イエスは目を上げて、大ぜいの人の群れがご自分のほうに来るのを見て、ピリポに言われた。「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」もっとも、イエスは、ピリポをためしてこう言われたのであった。イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられたからである。」

「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」とのことばを耳にした時、ピリポはどんなに驚いたことか。けれども、現実主義者のピリポは、すぐに得意のそろばんを弾くと、そんな事は到底不可能と、数字を挙げて説明してみせます。
 
 6:7「ピリポはイエスに答えた。『めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。』」

 一デナリは、その頃の労働者の一日分の賃金。となると二百デナリはかなりの大金です。「もし、二百デナリのパンが買えたとしても、それでも足りません。第一、そんな大金、私たちの財布のどこをはたいても出てきやしませんよ。イエス様、いいかげん眼を覚ましてください。」そんな勢いのピリポのことばです。そこに加勢したのが、アンデレでした。

 6:89「弟子のひとりシモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った。『ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。』」

 当時貧しい者が口にしていた大麦パンが五つと塩をつけ、乾燥させた小魚二匹。アンデレが、それらを手にした少年を連れてきたのは、イエス様の願いがいかに実現不可能かを訴えるための駄目押しでした。
 それにしても、情けないのは弟子たちの何とも不甲斐無い信仰です。ついこの間、ユダヤ教指導者を相手に命の危険も顧みず、ご自身を神の子また信じる人々に永遠の命を与えることの出来る救い主であると堂々と証しされた、イエス様のことばを彼らは聞いていなかったのか、それとももう忘れたのか。
 病に苦しむ者たちを癒し、立ち上がらせたイエス様の奇跡を何度も目撃したはずなのに、彼らの眼は節穴だったのか。
 人の肉体の命を癒すことのできる神の子、人を永遠の命に生かすことの出来る救い主のそばにいながら、疲れ果て倒れそうな人々のため、イエス・キリストに何一つ願おうとしない不信仰。そればかりか、苦しむ人々を面倒に思い、追い払おうとする愛無き心。
 この情けない弟子たちの姿に、イエス様はどれ程心を痛めたことでしょう。しかし、イエス・キリストの愛は、その様な人間の不信仰には挫けない。むしろ、不甲斐無い弟子たちを責めず、彼らを用いて福音書中最大の奇蹟をなしたのです。

 6:1013「イエスは言われた。『人々をすわらせなさい。』その場所には草が多かった。そこで男たちはすわった。その数はおよそ五千人であった。そこで、イエスはパンを取り、感謝をささげてから、すわっている人々に分けてやられた。また、小さい魚も同じようにして、彼らにほしいだけ分けられた。
そして、彼らが十分食べたとき、弟子たちに言われた。『余ったパン切れを、一つもむだに捨てないように集めなさい。』彼らは集めてみた。すると、大麦のパン五つから出て来たパン切れを、人々が食べたうえ、なお余ったもので十二のかごがいっぱいになった。」

イエス様は、人々がゆっくり休めるようにと、草の多い場所に導き、座らせました。優しいご配慮です。そして、ユダヤの家で夕食時、父親がいつもするように、パンを手に取り、神様への感謝の祈りをささげた後、座っている人々に分け与えたのです。
イエス様の御手の中で増やされたパンと魚を、一人一人が食べられるよう、実際に奉仕したのは弟子たちだったでしょう。「余ったパン切れを、一つもむだに捨てないように集めなさい。」と命じられ、彼らが集めてみると、なお余ったもので一杯になった十二の籠。それは、食べる暇もないほど忙しく人々に仕えた弟子達への食料、ご褒美となったと思われます。これも、イエス様のご計画の内だったでしょうか。イエス・キリストの偉大な御力と共に、注目したいのは、イエス・キリストと大群衆との間に、パンと魚、共同の食事を通して、ひとつの霊的な家族関係が結ばれたということです。
先程言いました様に、イエス様はこの時、家長つまり愛する家族に配慮し、仕える者として振る舞いました。凄い奇跡を行って、世間の注目を浴びようなどと言う思いは全くなかった。ただ、眼の前にいる疲れ果て空腹に悩む人々を、大切な尊い家族として愛し、業を行われたのです。
春の夕べ。ガリラヤの湖の北の草原で行われた壮大なピクニック。イエス・キリストの愛を受けた者同士による楽しい食卓の交わり。それまで互いを知らなかった者も、仕えた人も、仕えられた人も、老いも若きも、皆が身も心も満たされて、互いに語らう愛の交わり。これが、地上におけるキリスト教会のあるべき姿、また、やがて来たる天の御国における祝福された交わりを示すものと、私たち心に刻みたいところです。
しかし、最後に残念なことが起こります。この食卓の恵みにあずかった人々が、イエス様を「世に来られるはずの預言者」と信じたのは良かったのですが、自分たちの王とするために、行動し始めたというのです。

614,15「人々はイエスのなさったしるしを見て、『まことに、この方こそ、世に来られるはずの預言者だ』と言った。そこで、イエスは、人々が自分を王とするために、むりやりに連れて行こうとしているのを知って、ただひとり、また山に退かれた。」

瞬時にしてパンと魚を増やし、男だけで五千人の空腹を満たす。余りにも巨大な奇跡を体験した人々は、イエス・キリストの愛ではなく、力に注目したようです。恵みの与え手であるイエス・キリストよりも、恵みの量、食物の量に心惹かれたようなのです。
彼らは当時ユダヤを支配していたローマ帝国の支配を打ち破り、自分たちにもっと豊かな食糧や物をもたらしてくれる地上の王を求めました。
しかし、イエス様の願いはあくまでも自分の罪を認める者に魂の救い、人々を神様と隣人との正しい関係に回復すること。この擦れ違いゆえに、イエス様は群衆を離れ、一人山に退かざるをえなかったということです。
さて、今日の個所。イエス・キリストが与えて下さる魂の救いとは、私たちを神様と隣人との正しい関係に回復することと言う点に焦点を当て、二つのことを確認したいと思います。
ひとつ目は、神様との正しい関係の回復です。先程見ました様に、胃袋を満たされた人々は、イエス様を地上の王に担ごうとしました。それは、物の豊かさを人生の目的とするという生き方を選んだという事です。
皆様は、三種の神器と言うことばをご存知でしょうか。もともとは、天皇家の持つ三つの宝物を言いますが、1955年、私が生まれる少し前、日本人がこれを持てたら幸せと考え、憧れていた三つの家電をさす流行語でした。
その三つとは、白黒テレビ、電気洗濯機、電気冷蔵庫。今の若者にとっては白黒のテレビって何のこと?電気ではない洗濯機や冷蔵庫なんてあったの?ということになるでしょうか。さらに経済が発展すると、三Cと呼ばれる、カー(車)、クーラー、カラーテレビが豊かな生活のシンボルとなります。
 そして今や車、クーラー、カラーテレビのない人はまずいないだろうという時代になって、果してどうか。家族の崩壊、自分が何のために生きているのか分からないと言う人の増加、自殺者が毎年三万人以上など、物は満ちても魂は悲惨な状況です。
 今こそ神様との正しい関係に立てと勧めるイエス様の言葉に、私たち皆が耳を傾ける必要があると思います。今日の聖句です。

 マタイ631,32「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」

 物の豊かを追求し、人生の目的とする時、私たちの心は物欲に捕われて心配のし過ぎ、思い煩いに陥ってしまい、抜け出せない。むしろ、私たちを愛し、私たちの生活に必要なものをすべて知っていてくださる天の父なる神様に心を向け、信頼せよ。そして、神様の御心に従うことを第一に、つまり人生の目的とする時、必要なものをすべてが与えられるという祝福にあずかることができる。
 このイエス様の約束のことばを今日心にとめ、果して自分は何を第一として生きてきたか、生きているか。一人ひとり神様との関係を振り返ってみたいと思います。
 ふたつめは、隣人との正しい関係の回復です。弟子たちにとって、集まっていた群衆はストレスの源、面倒の種。しかし、イエス様は、疲れ果て苦しむ彼らがかわいそうでならない。イエス様は愛に動かされ、力を尽くして人々に仕えたのです。
 自分の事しか考えない。隣人の面倒な問題とはなるべく関わりたくない。そんな自己中心の罪人であった私たちのために、イエス・キリストが十字架で死んでくださった。それは、私たちが自己中心の罪に死に、イエス様と同じ目で隣人を見、イエス様と同じ心を頂いて、隣人を愛するためでした。

 イエス・キリストを信じる私たちの心には、私たちを無限の愛でささえ、なすべきことをなす力を注いでくださるイエス様がいてくださる。このイエス様と共に隣人に仕える者となれたらと思います。