2013年5月12日日曜日

命の尊さを確信して エペソ2章10節

 本日はウェルカム礼拝の日です。初めて礼拝に来て下さった方、久しぶりに来て下さった方を心から歓迎いたします。今日、来て下さったことを大変嬉しく思いますし、また次週以降、続けて来て下さることも楽しみにしています。教会員の方、毎週来られている方とともに礼拝が出来ることも、大変嬉しく思っています。
 今日は「命が輝く時」をテーマに、礼拝をささげています。「命が輝く」。皆さまは生きていることを喜んでいるでしょうか。毎日の歩みが充実しているでしょうか。希望を持って生きることが出来ているでしょうか。自分らしく生きているでしょうか。皆さまの命は輝いているでしょうか。

 生きることが本当に喜びである。命を輝かせながら生きることは、容易いことではありません。若輩者の私が言うのは生意気ですが、生きるというのは中々大変なことです。
 これまで経験してきた、人からされた悪。自分のなした悪に苛まされること。挫折感や後悔に囚われること。目の前にある問題に心が押し潰されること。家庭の問題、仕事のストレス、難しい人間関係。思い通りにはならない出来事に平安ではいられないこと。将来に対する不安に襲われること。病気になったら、家族の期待に応えられなかったら、大切な人を失うことになったとしたら。素晴らしい明日があると考えるよりも、明日の心配で時間を費やすことが多くあります。
 個人的なことだけでなく、今の世界を見渡す時に問題が山積しているように感じます。繰り返される戦争、紛争、テロ。地球を何百回も破壊出来る程の核エネルギーが存在します。オゾン層は穴があき、温暖化は進み、砂漠は広がり、飢饉や食糧難は蔓延している。日本では、巨大な地震を経験し、経済格差は広がり、就職難やリストラなどの仕事に対する不安が強くあります。目を覆いたくなるような事件が毎日のように起こる。
 このような世界で人生を重ねると、喜んで生きることに対して意欲が失われます。多くの苦しみや悲しみ、ストレスに囲まれ、なんとか毎日を過ごしながら、人生とはそういうものと感じてしまいます。近年、日本では多くの人が、喜んで生きることが出来ていない。希望をもって生きることが出来ていないと言われています。いかがでしょうか。皆さまは生きることに喜びがあるでしょうか。

それでは、命を輝かせるためにはどうしたら良いのか。喜んで生きるためには何が必要でしょうか。多くの人が、この世界が良くなるように。生きる喜びを見出せる社会となるように、様々な取り組みをしています。政治で、医療で、治安維持で、福祉で、教育で、経済活動で、学問で、その他様々な分野で多くの人がより良い世界となるように取り組んでいます。このような取り組み。様々な分野で、それぞれが自分の力量に応じて、世界を良くしていく。明るい未来へ力を注いでいくことは非常に大切なこと。有意義なこと。意味のあることです。
 しかし、世界がどれ程良い状態になったとしても、それだけで、私たちは喜んで生きることが出来るかというと、そうではないと思います。自然環境や社会環境が、素晴らしい状態になったとしても、それだけで私たちが希望をもって生きることが出来るかというと、そうではない。私たちが喜んで生きるためにどうしても必要なもの。命を輝かせて生きるためにどうしても必要なもの。それは、自分の命が尊いことを確信して生きること。私は本当に尊い存在である。私の命は、掛け替えの無いものである。そう確信すること抜きに、本当の意味で、喜んで生きること。本当の意味で命を輝かせることは出来ないと思います。
 このようなことを考えて、今日の聖書の話のタイトルを、「命の尊さを確信して」としました。このテーマで、聖書はどのようなことを教えているのか。皆さまとともに考えていきたいと思います。

 ところで、一般的に「人間の命が尊い」ことは、直観的に分ります。しかし、何故命は尊いのか。何故、自分は尊い存在と言えるのか。説明するのは、意外と難しいこと。皆さまは、何故命が尊いのか。説明出来るでしょうか。
 約三ヶ月前。四日市市が行っている市民講座がありました。テーマが命の尊さ。講演者は産婦人科医の先生でした。市民講座で、命の尊さをテーマに、どのようなことが語られるのか、興味があったので受講しました。
 その産婦人科医の先生が言われた、私たちの命が尊い根拠は、要約するとこのようなものです。「一人の人間の誕生は、ある男性の精子と女性の卵子の結びつきによってなされる。一人の男性が一生の間作る精子の数は一兆を越え、女性の持っている卵子の数は五百程。このうちの、一つの精子と一つの卵子が結びついて、一人の命となる。更に、一つの精子、一つの卵子でも、男性から遺伝を受ける可能性と、女性から遺伝を受ける可能性は、2の23乗の可能性から一つに決まる。これはつまり、私という存在は、考えられない程多くの可能性の中から出てきたものであり、世界に他にない。唯一の存在である。世界に他にない。唯一の存在。だから、命は尊いのです。」ということでした。皆さまは、この説明を聞いて、どのように思うでしょうか。ちなみに、その市民講座は、「世界に他にない。唯一の存在。だから、命は尊い」と語られた後、現在の日本は命よりも経済。人よりモノが優先されている状況で、それを改善した方が良いと語られるものでした。

 約二時間の講座の終わりになりまして、質疑応答の時間となりました。そこで私はすかさず質問しました。「先生、先生は世界に他にない、唯一の存在だから命が尊いということを言われたと思います。それは分りました。しかし、その論理、唯一の存在だから尊いと考えますと、私の命も尊いですが、他の生き物、動物も昆虫も、全て命が平等に尊いことになると思います。先生は人間の命も、他のどのような生き物の命も、平等に尊いとお考えですか。人間の命は尊い。私の命は尊いと考えるには、どうしたら良いでしょうか。」という質問です。
 我ながら、なかなかひどい質問だと思います。約二時間の講座の後、その講座の中心テーマに対して、答えづらいであろう質問をしたわけです。
 するとその先生は、じーっと私の方を見るのです。質問がよく伝われなかったかと思い、「先生、質問の内容は伝わりましたでしょうか。」と聞くと、その先生は「はい、質問はよく分かりました。しかし、難しすぎて答えることが出来ません。」と言われたのです。
 私はこの先生の答えを聞いた時、二つの意味で衝撃を受けました。一つには、ここで「答えることが出来ません。」と言うと、この二時間の講座が何だったのかという話になります。命の尊さを教える講座で、最終的に人間の命が尊いことを言うことが出来ない。「答えることが出来ません。」と言うのは、講演者としては本当に勇気のいることだと思いますが、その先生が正直にそのように答えられたことに、非常に誠実な方だと、良い意味で衝撃を受けました。
 もう一つの衝撃は、無料の市民講座を開催する。時間と労力を割いてでも、命の尊さを訴えたい。そのような情熱のある方でも、結局のところ、人間の命が尊いということを言うことが出来ない。この現実に、衝撃を受けました。

一般的に「人間の命が尊い」ことは分るのです。しかし、何故命は尊いのか。何故、自分は尊い存在と言えるのか。論理的に説明するのは、難しいのです。
そもそも、自分自身の価値を判断する時、他の人の価値を判断する時、私たちはどのような基準を持っているでしょうか。何を基準に、価値がある、価値がないと考えているでしょうか。
 財産を持っていることでしょうか。学歴があることでしょうか。地位や権力、名声があることでしょうか。美しいこと、格好良いことでしょうか。これこそ価値があるとして、多くの人が、このようなものを追い求めています。あるいは、命の価値とか、人間の価値など考えるのも馬鹿らしいとして、お酒やギャンブル、薬物などに手を出す人もいます。皆さまは、何を基準に、価値がある、価値がないと判断しているでしょうか。

 高校時代のこと。倫理の授業で、先生が人間の価値は、本当の友達をどれだけ得ているかだと言っていました。本当の友達がいるかどうか。皆さまは、この意見をどのように思うでしょうか。
 学期末になりまして、この授業のレポートは、授業で扱われた内容で興味のある事であれば何でも良いので、自分の考えをまとめるというものでした。そこで私は人間の価値は何を基準に考えるべきなのか。先生の言われる本当の友達を持つことだとすると、仮にその本当の友達が死んだ場合(勿論、人間はいつか死ぬわけですから)、先生は価値のない存在になるのでしょうか。私は人間の価値は、失われたり、変わるものを判断基準にすべきではないというようなことを書きました。先生の意見を真っ向から否定するようなものになったわけですが、レポートが返ってくると百点でした。度量の大きな先生だったと思います。

 もう一度、お聞きします。皆さまは何を基準に、自分の価値や他の人の価値を測っているでしょうか。財産でしょうか。学歴でしょうか。地位や名声でしょうか。外見でしょうか。それとも、友人関係でしょうか。

 東京に住んでいた時、ホームレス伝道という働きのお手伝いを約三年間していました。毎週、約四百人程のホームレスの方に食事を提供し、ともに礼拝をささげるというものです。色々なホームレスの方に接して、よく思ったことの一つに、今日食べる食事がない、着替える服がない、家がないというのは、大変なことではあるけれど、本当に悲惨なことではないということです。(勿論、食べ物がない、着替えがない、家がないというのは良いことではなく、大したことではないと言いたいのではありません。)人間にとって本当に悲惨なのは、自分には生きる価値がない。自分の命は尊いものではないと、本当に思っている状態です。人生に絶望している状態。家がなく、家族がいない状態で、人生に絶望するというのは、本当に悲惨です。このような人を前にした時、一体何を伝えれば良いのか。私はよく悩みました。自分の前の前に、本当に自分は無価値な存在であると思っている人がいたとしたら、皆さまは何と言うでしょうか。
 財産を得たら良いですよと言うでしょうか。良い学校、良い会社に入ったら良いですよと言うでしょうか。外見を整えましょうと言うでしょうか。果たして、それで何とかなるでしょうか。

 ところで、聖書は私たちの価値について、どのように教えているでしょうか。キリスト教では、私たちはどれ程価値のある存在だと教えているでしょうか。
 聖書によりますと、私たちは神様の作品、それも傑作であると教えられています。
 エペソ2章10節
私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。

 聖書に記されている私たちの神様は、この全世界の造り主。全知全能のお方。その方の傑作として、私たちが存在していると言います。著名な芸術家の作品には、信じられない程の値がつけられますが、そうであれば、神様の傑作としての私たちに、どれ程の価値があるのか。この聖書の言葉を受けとめることが出来る人は幸いです。
 とはいえ、聖書の示す神が、全世界の造り主であるならば、私たちだけが神様の作品というのではない。ありとあらゆるものが、神様の作品なのです。私たちが神の作品であるから価値があるという論理だけですと、私の命も、他のあらゆる生き物の命も、同等です。
 だからでしょうか。聖書は、私たちは神の作品の中でも、特に尊く、神様の愛の対象であると教えていました。

 イザヤ43章4節
わたし(神様)の目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。

 私たちは神様の目から見て高価で尊い。この聖書の宣言を本当に受けとめることが出来る人は幸いです。この宣言を自分に語られている言葉として受けとめる時、自分には価値がないと思うことは出来なくなります。何しろ、絶対的な基準である方に、高価で尊いと宣言されているのです。
 とはいえ、神様が高価で尊いと思われているのは、私たちだけなのかという疑問は残ります。私たちは、神様の目に高価で尊い。しかし、他の動物、他の生き物も、同様に高価で尊いということはないのでしょうか。
 このような疑問にも、聖書は答えています。神様が高価で尊いと思われているけれども、それはどれ程の価値なのか。

 ローマ8章32節
(神様は)私たちすべてのために、ご自分の御子(イエス・キリスト)をさえ惜しまずに死にわたされた。

 罪にまみれた私たちを救いだすために。天国で私たちと永遠に過ごすために。そのためにならば、その一人子、イエスキリストを死に渡された。神様は私たちにどれ程の価値があると思われたのか。それは、その一人子を死に渡す程だと言われる。そして、これは他でもない、私たちにのみ当てはまること。
 人の命は、地球よりも重いと言ったりします。しかし、聖書はそうは言っていません。それどころではない。神の一人子を死に渡す程、思いのだと言う。皆さまは、この聖書の宣言を、どのように受けとめるでしょうか。

 私たちが、毎日を喜んで生きるために。命を輝かせて生きるために必要なのは、自分の命の尊さを確信して生きることです。命の尊さを確信して生きるために必要なのは、何でしょうか。お金でしょうか。地位でしょうか。名誉でしょうか。学歴でしょうか。外見でしょうか。世界で唯一であることでしょうか。本当の友達でしょうか。それらは、有益なものですが、命の尊さを測る基準にすべきではありません。
自分の命の尊さを確信して生きるためにどうしても必要なことは、変わらない基準、失われることのない基準。この世界を造られた神様との関係の中で、命の尊さを見出すことが大切です。
 今日、ウェルカム礼拝に来て下さった皆さまに、心からお勧めしたいことは、この聖書の神様を知ること。信じること。そして、神様との関係の中で、自分の命の尊さを確信することです。どうぞ真剣に、この聖書の宣言を受け入れられるのか、お考え下さい。

 もう一つお勧めしたいことは、教会の中で、お互いの価値を認める関係を持つことです。聖書の神様を知っている。信じている。その神様が、これ以上ない程、私を尊いと言われていることは、頭では分かっている。しかし、それでも自分で自分の価値を見いだせず、心が不安になることがあります。人生の様々な出来事の中で、自分自身を蔑み、自分を愛せなくなることがあります。
 そのような時に、側で自分の価値を認めてくれる人がいることが、大きな助けになります。落ち込み、絶望の淵にいる時に。あなたは大切な存在です。あなたはとても大事です。あなたは価値があります。あなたの存在が喜びです。と認めて、ともに生きていく仲間がいることで、助けられることがあります。
 私たちが、励まし合い支え合うために、神様は教会を造られました。教会は、そのようにお互いの価値を認める関係を築き上げるところです。


 今日の礼拝に来られた全ての人が、命の尊さを確信して生きることが出来ますように。また、私たちが、お互いの価値を認める関係を築き上げることが出来ますように。心からお祈りしています。