私が説教を担当する際、主に読み進めていますヨハネの福音書。今日は第六章に入ります。
ところで、イエス・キリストの生涯を描く福音書はマタイ、マルコ、ルカ、そしてこのヨハネの四つであることは、皆様ご存知と思います。他の福音書と比べて、ヨハネにはどんな特徴があるのか、今迄いくつかのことを紹介してきました。
今日お伝えしたい特徴のひとつは、マタイ、マルコ、ルカ、三つの福音書には書かれていない、イエス様の教え、奇跡、出来事などが、このヨハネの福音書には数多く登場することです。
四つのうち、一番最後に書かれたヨハネの福音書が前の三つの福音書を補ってくれたお陰で、私たちはイエス様の生涯について、より深く、より豊かに知ることができるということです。
しかし、たったひとつ、四つの福音書すべてに記されているイエス様の奇跡がありました。それが、五つのパンと二匹の魚を用い、大群衆の胃袋を満たしたという今日の箇所です。もって、この奇跡が非常に重要なものであることを覚え、私たち読み進めたいと思います。
さて、今日の舞台は、イエス様と弟子たちの故郷ガリラヤ。前の五章では、都エルサレムにおいて、ユダヤ教指導者を相手に、ご自身が神の子、救い主であることを証しされたイエス様。しかし、心頑なな指導者たちはそれを受け入れず、反発し、イエス様を迫害しました。
もとより、迫害を恐れるイエス様ではありませんでしたが、十字架の死を前に、まだ教えるべきこと、為すべきことありとの思いから、ひと時騒々しい都から故郷ガリラヤに身を退くこととされたのです。
しかし、人々はイエス様を放っては置きませんでした。特に病に苦しむ者を癒す奇跡を見、それに心惹かれた大勢の人の群れが付き従っていたのです。
6:1~4「その後、イエスはガリラヤの湖、すなわち、テベリヤの湖の向こう岸へ行かれた。大ぜいの人の群れがイエスにつき従っていた。それはイエスが病人たちになさっていたしるしを見たからである。イエスは山に登り、弟子たちとともにそこにすわられた。さて、ユダヤ人の祭りである過越が間近になっていた。」
風光明媚なガリラヤ湖。岸辺に広がる町の名をとってテベリヤの湖とも呼ばれていました。その湖の向こう岸とは、北側の人里離れた寂しい場所であったようです。
イエス様が山に登り、座られると、弟子たちが数えたのでしょうか。付き従ってきた人の数は、10節によれば男だけで五千人。女性と子どもを含めれば一万人ほど。当時の大きな町一個分の人口が移動してきたような大群衆です。
そして、「ユダヤ人の祭りである過越が間近」(4節)とありますから、季節は春。時は陽も傾きかけた夕刻。一日中歩き続けた人々は皆疲れ果て、腹を空かせていました。
夕暮れの中、改めて確認した群集の多さに恐れをなしたのか。他の福音書を見ますと、弟子たちは、「主よ、この人々に一刻も早くこの場を離れ、家に帰るように命じてください。そうでないと大変なことになりますよ。」と語っています。
腹を空かせた人々が大騒ぎを始めたら、到底自分たちの手には負えないと心配したのでしょう。弟子たちの頭の中には、「面倒な群集など早く追い払ってしまおう」という考えしかなかったようです。
しかし、弟子たちには面倒な問題でしかなかった群集を、イエス様は心からかわいそうに思っておられました。その空っぽの胃袋を満たし、疲れた体を休ませるため、既に心中、愛の業をなすことを決められたのです。
勝手についてきた者たちとは言え、疲れ切った表情、空腹に悩む姿を見たイエス様が、その様な人々を見放すことなど出来るはずはありませんでした。
ただし、即座に業をなすのではなく、一呼吸置いて、こう語られたのです。弟子たちがご自分と同じ思いで人々を見、仕えることが出来るように、またご自身に対する弟子たちの信仰を目覚めさせるためでした。
6:5、6「イエスは目を上げて、大ぜいの人の群れがご自分のほうに来るのを見て、ピリポに言われた。「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」もっとも、イエスは、ピリポをためしてこう言われたのであった。イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられたからである。」
「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」とのことばを耳にした時、ピリポはどんなに驚いたことか。けれども、現実主義者のピリポは、すぐに得意のそろばんを弾くと、そんな事は到底不可能と、数字を挙げて説明してみせます。
6:7「ピリポはイエスに答えた。『めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。』」
一デナリは、その頃の労働者の一日分の賃金。となると二百デナリはかなりの大金です。「もし、二百デナリのパンが買えたとしても、それでも足りません。第一、そんな大金、私たちの財布のどこをはたいても出てきやしませんよ。イエス様、いいかげん眼を覚ましてください。」そんな勢いのピリポのことばです。そこに加勢したのが、アンデレでした。
6:8、9「弟子のひとりシモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った。『ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。』」
当時貧しい者が口にしていた大麦パンが五つと塩をつけ、乾燥させた小魚二匹。アンデレが、それらを手にした少年を連れてきたのは、イエス様の願いがいかに実現不可能かを訴えるための駄目押しでした。
それにしても、情けないのは弟子たちの何とも不甲斐無い信仰です。ついこの間、ユダヤ教指導者を相手に命の危険も顧みず、ご自身を神の子また信じる人々に永遠の命を与えることの出来る救い主であると堂々と証しされた、イエス様のことばを彼らは聞いていなかったのか、それとももう忘れたのか。
病に苦しむ者たちを癒し、立ち上がらせたイエス様の奇跡を何度も目撃したはずなのに、彼らの眼は節穴だったのか。
人の肉体の命を癒すことのできる神の子、人を永遠の命に生かすことの出来る救い主のそばにいながら、疲れ果て倒れそうな人々のため、イエス・キリストに何一つ願おうとしない不信仰。そればかりか、苦しむ人々を面倒に思い、追い払おうとする愛無き心。
この情けない弟子たちの姿に、イエス様はどれ程心を痛めたことでしょう。しかし、イエス・キリストの愛は、その様な人間の不信仰には挫けない。むしろ、不甲斐無い弟子たちを責めず、彼らを用いて福音書中最大の奇蹟をなしたのです。
6:10~13「イエスは言われた。『人々をすわらせなさい。』その場所には草が多かった。そこで男たちはすわった。その数はおよそ五千人であった。そこで、イエスはパンを取り、感謝をささげてから、すわっている人々に分けてやられた。また、小さい魚も同じようにして、彼らにほしいだけ分けられた。
そして、彼らが十分食べたとき、弟子たちに言われた。『余ったパン切れを、一つもむだに捨てないように集めなさい。』彼らは集めてみた。すると、大麦のパン五つから出て来たパン切れを、人々が食べたうえ、なお余ったもので十二のかごがいっぱいになった。」
イエス様は、人々がゆっくり休めるようにと、草の多い場所に導き、座らせました。優しいご配慮です。そして、ユダヤの家で夕食時、父親がいつもするように、パンを手に取り、神様への感謝の祈りをささげた後、座っている人々に分け与えたのです。
イエス様の御手の中で増やされたパンと魚を、一人一人が食べられるよう、実際に奉仕したのは弟子たちだったでしょう。「余ったパン切れを、一つもむだに捨てないように集めなさい。」と命じられ、彼らが集めてみると、なお余ったもので一杯になった十二の籠。それは、食べる暇もないほど忙しく人々に仕えた弟子達への食料、ご褒美となったと思われます。これも、イエス様のご計画の内だったでしょうか。イエス・キリストの偉大な御力と共に、注目したいのは、イエス・キリストと大群衆との間に、パンと魚、共同の食事を通して、ひとつの霊的な家族関係が結ばれたということです。
先程言いました様に、イエス様はこの時、家長つまり愛する家族に配慮し、仕える者として振る舞いました。凄い奇跡を行って、世間の注目を浴びようなどと言う思いは全くなかった。ただ、眼の前にいる疲れ果て空腹に悩む人々を、大切な尊い家族として愛し、業を行われたのです。
春の夕べ。ガリラヤの湖の北の草原で行われた壮大なピクニック。イエス・キリストの愛を受けた者同士による楽しい食卓の交わり。それまで互いを知らなかった者も、仕えた人も、仕えられた人も、老いも若きも、皆が身も心も満たされて、互いに語らう愛の交わり。これが、地上におけるキリスト教会のあるべき姿、また、やがて来たる天の御国における祝福された交わりを示すものと、私たち心に刻みたいところです。
しかし、最後に残念なことが起こります。この食卓の恵みにあずかった人々が、イエス様を「世に来られるはずの預言者」と信じたのは良かったのですが、自分たちの王とするために、行動し始めたというのです。
6:14,15「人々はイエスのなさったしるしを見て、『まことに、この方こそ、世に来られるはずの預言者だ』と言った。そこで、イエスは、人々が自分を王とするために、むりやりに連れて行こうとしているのを知って、ただひとり、また山に退かれた。」
瞬時にしてパンと魚を増やし、男だけで五千人の空腹を満たす。余りにも巨大な奇跡を体験した人々は、イエス・キリストの愛ではなく、力に注目したようです。恵みの与え手であるイエス・キリストよりも、恵みの量、食物の量に心惹かれたようなのです。
彼らは当時ユダヤを支配していたローマ帝国の支配を打ち破り、自分たちにもっと豊かな食糧や物をもたらしてくれる地上の王を求めました。
しかし、イエス様の願いはあくまでも自分の罪を認める者に魂の救い、人々を神様と隣人との正しい関係に回復すること。この擦れ違いゆえに、イエス様は群衆を離れ、一人山に退かざるをえなかったということです。
さて、今日の個所。イエス・キリストが与えて下さる魂の救いとは、私たちを神様と隣人との正しい関係に回復することと言う点に焦点を当て、二つのことを確認したいと思います。
ひとつ目は、神様との正しい関係の回復です。先程見ました様に、胃袋を満たされた人々は、イエス様を地上の王に担ごうとしました。それは、物の豊かさを人生の目的とするという生き方を選んだという事です。
皆様は、三種の神器と言うことばをご存知でしょうか。もともとは、天皇家の持つ三つの宝物を言いますが、1955年、私が生まれる少し前、日本人がこれを持てたら幸せと考え、憧れていた三つの家電をさす流行語でした。
その三つとは、白黒テレビ、電気洗濯機、電気冷蔵庫。今の若者にとっては白黒のテレビって何のこと?電気ではない洗濯機や冷蔵庫なんてあったの?ということになるでしょうか。さらに経済が発展すると、三Cと呼ばれる、カー(車)、クーラー、カラーテレビが豊かな生活のシンボルとなります。
そして今や車、クーラー、カラーテレビのない人はまずいないだろうという時代になって、果してどうか。家族の崩壊、自分が何のために生きているのか分からないと言う人の増加、自殺者が毎年三万人以上など、物は満ちても魂は悲惨な状況です。
今こそ神様との正しい関係に立てと勧めるイエス様の言葉に、私たち皆が耳を傾ける必要があると思います。今日の聖句です。
マタイ6:31,32「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」
物の豊かを追求し、人生の目的とする時、私たちの心は物欲に捕われて心配のし過ぎ、思い煩いに陥ってしまい、抜け出せない。むしろ、私たちを愛し、私たちの生活に必要なものをすべて知っていてくださる天の父なる神様に心を向け、信頼せよ。そして、神様の御心に従うことを第一に、つまり人生の目的とする時、必要なものをすべてが与えられるという祝福にあずかることができる。
このイエス様の約束のことばを今日心にとめ、果して自分は何を第一として生きてきたか、生きているか。一人ひとり神様との関係を振り返ってみたいと思います。
ふたつめは、隣人との正しい関係の回復です。弟子たちにとって、集まっていた群衆はストレスの源、面倒の種。しかし、イエス様は、疲れ果て苦しむ彼らがかわいそうでならない。イエス様は愛に動かされ、力を尽くして人々に仕えたのです。
自分の事しか考えない。隣人の面倒な問題とはなるべく関わりたくない。そんな自己中心の罪人であった私たちのために、イエス・キリストが十字架で死んでくださった。それは、私たちが自己中心の罪に死に、イエス様と同じ目で隣人を見、イエス様と同じ心を頂いて、隣人を愛するためでした。
イエス・キリストを信じる私たちの心には、私たちを無限の愛でささえ、なすべきことをなす力を注いでくださるイエス様がいてくださる。このイエス様と共に隣人に仕える者となれたらと思います。