2013年5月26日日曜日

日本長老教会講壇交換 マタイの福音書18章1節~4節 「天の御国で1番偉い人」

18:1 そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。」
18:2 そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真中に立たせて、
18:3 言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。
18:4 だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。

娘の大好きなレストラン。と言ってもマクドナルドですが、時々、2人で行くのですが、ある日、私たちが座った席から見える所に小さな子どもを連れて来ている親子がいました。娘と同じくらいの年齢の男の子でしたが泣いていました。その椅子の下にはフライドポテトが散らばり、お母さんが大きな声で「ポテトを拾いなさい」と繰り返していましたが、連動するように大きな声をあげて子どもは泣いていました。私には、子どもが自宅で叱られているようには、お母さんは店ではしないということを見抜いているように見えました。結局、お母さんが拾って片付けました。子どもの勝利ということでしょうか。私も親として笑うことはできません。子どもとは、時に可愛く、時にワガママで難しいものだとつくづく感じます。みなさんはどうでしょうか。

今朝の聖書箇所でイエス様は「子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には入れません。」と教えています。「子どものようになる」とはどういうことなのでしょうか。続く4節には「この子どものように自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。」とあります。子どものように自分を低くするとありますが、本当に子どもは自分を低くしているでしょうか。マクドナルドでの親子ではありませんが、子どもは自分勝手で時には泣いてでも、ワガママを押し通そうとする所があります。イエス様は私たちに何を教えようとしているのでしょうか。御言葉を通して「天の御国で一番偉い人は誰か」について分かち合いたいと思います。

マタイの福音書18章1節をもう一度お読みします。
18:1 そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。」

その時とありますが、この時、イエス様の弟子たちの一番の関心事は何であったのか。それは「誰が一番偉いか」ということでした。この質問の背景には、17章の出来事があります。弟子の1人ペテロの税金をイエス様が自分の分と一緒にお払いになったという出来事です。17章27節に記されています。

17:27 しかし、彼らにつまずきを与えないために、湖に行って釣りをして、最初に釣れた魚を取りなさい。その口をあけるとスタテル一枚が見つかるから、それを取って、わたしとあなたとの分として納めなさい。」

この出来事は、ペテロ以外の弟子に嫉妬心を芽生えさせました。ペテロだけがイエス様に税金を払ってもらったのです。それも釣りをして捕まえた魚の口からお金が出て来るという奇跡まで経験させてもらってです。ペテロはイエス様が一番大事にしている弟子ではないかと他の弟子たちは考えました。そうだとすると、天の御国で一番で偉いのはペテロということになる。本当の所はどうなのですかとイエス様に詰め寄ったのです。1節は嫉妬心に燃える弟子たちの質問であったということです。その心をイエス様はご存じでした。そこで、小さな子どもを呼び寄せて答えます。2節から4節をご覧下さい。

18:2 そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真中に立たせて、
18:3 言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。
18:4 だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。

イエス様は弟子たちに「あなたがたは、天の御国で一番偉いのは誰かと質問しているけれども、その天の御国に入ることすらできないことを理解していない」と答えられたのです。言い換えるならば、天の御国に入るには神の前に悔い改めて、子どものようになりなさいと語られたのです。新改訳聖書には3節の「悔い改めて」という所に*がつけられています。欄外を見て下さい。そこには直訳「向きを変えて」と記されています。向きを変えると聞きますと、大抵は、180度方向転換するという意味です。しかし、ここでの意味は大人として歩んでいたのに、もう一度戻ってという意味で「向きを変える」ということです。つまりは、あなたがたは子どもに戻らなくてはならないとイエス様は言われたということです。大人である私たちが、子どもになるにはどうしたらいいか。なかなか難しい問題です。これが、今朝、神様から私たちに投げかけられている問いであり、聖書からのメッセージとなります。


今朝の聖書箇所の1節、3節、4節に「天の御国」という言葉が出てきますが、この言葉は福音書のキーワードとも言える大切な言葉です。弟子たちはイエス様と共に生活し語られるメッセージを聞きながら、このお方こそ天の御国、つまりは神の国をもたらすお方であることを感じていました。ここに記されている「天の御国」とは地上の死をむかえた後の世界、つまりは天国ということだけではありません。神のご支配を表す言葉として「天の御国」と言う言葉が使われているのです。確かに、聖書に天の御国とか神の国という言葉が使われていますと、私たちはすぐに死後の世界のことだけを考えてしまいがちです。そういう意味が全くない訳ではありません。しかし、今朝の聖書箇所で私たちが覚えなければならないことは、神がご支配して下さる、まさに、イエス・キリストが王としてご自分の民を導き共に歩んでくださること。これが、ここに記されている、天の御国という意味です。この天の御国、神の支配がもたらされようとしている時に、弟子たちの一番の感心事は、自分がどの地位を得ることができるかということでした。それに対してイエス様は「偉くなって一番になること、地位を得ること、それが大人になった人間の考え方かもしれない。しかし、そういう世的な考えを捨てて、もう一度子どもになりなさい。向きを変えなさい。」と語られたのです。子どものように、自分が小さい者だということをわきまえることなしに、神の支配、つまりは神と共に生きることはできないからです。ですから、4節で「この子どものように自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。」と、自らを子どものように低くすることを弟子たちに教えられたのでした。

当時の社会では、子どもは数にも入らない者、取るに足らない者と見られていました。偉いということからするならば、子どもは最も低い者と位置づけられていました。しかし、イエス様は「自分を低くして、この子どものようになる人が、天の御国で一番偉い」と語られました。自らを低くすること、それは表面上を繕うことではありません。神の御前に謙遜であることが、最も価値ある生き方だということを教えられたのです。

神の御前に謙遜に生きる人には、本当の自由があります。この世における身分や地位によって価値をはかるのではなく、神に愛され、許され、受け入れられていることに価値を置くからです。その土台となることが出来るのは、イエス・キリストの十字架の愛と救い、許しの恵みによる以外にはありません。天の御国に生きる人は、自分が土台ではありませんので、誰かに偉く見せる必要がないのです。イエス・キリストを人生の土台として、神の愛に満たされ、そこから他者への愛と平和が与えられて、互いに仕える合うことができるのです。

聖書に戻りますが2節をもう一度、ご覧下さい。
18:2 そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真中に立たせて、

「誰が一番偉いのか」と質問する弟子たちの真ん中に、イエス様は小さい子どもを立たせました。当時の偉大と称される、律法学者や宗教的指導者を立たせるのではなく、小さい子どもを立たせたのです。イエス様は弟子たちに何を考えさせ、思い出させようとしたのでしょうか。真ん中に立つ小さな子どもは、小さくて弱く無力な存在です。それは、かつてイエス様と出会った弟子たちの姿ではなかったでしょうか。いつも幼子のようにイエス様の助けを必要とし、愛と憐れみをどれほど素直に受け取ってきたことでしょうか。まさに、幼子とは背丈が低く、大人を見上げるしか出来ない存在です。弟子たちは、そのようにしてイエス様の招きに従い、恵みを受け取っていた人たちだったのです。それがいつの間にか、一番になることだけが関心事になり、自分を上にする生き方、つまりは、神と人を見下げる生き方になってしまっていたのです。更には、自分の力で天の御国に入ることが出来ると勘違いしていたのです。その彼らをご存じで、イエス様はあえて、小さな子どもを真ん中に立たせて「あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。」と語られたのです。

今朝、私たちの真ん中にイエス・キリストが立たれています。私たちはこのお方をどのように見るでしょうか。上から見下げるでしょうか。それとも、子どもようになって見上げるでしょうか。イエス様が十字架にかかられた場面を思い出します。最後に、聖書をお持ちの方はルカの福音書23章39節から43節を、ご一緒に読みたいと思います。

23:39 十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」と言った。
23:40 ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。
23:41 われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」
23:42 そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」
23:43 イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」


十字架にかけられたキリストはあなたを愛しておられます。お祈りします。