今日はペンテコステ、聖霊のお働きについて覚える礼拝となります。
私たちは三位一体の神を信じています。父の神、子の神、聖霊の神。各々人格もお働きも違いながら、しかも唯一の神であることを聖書の教えとして世々の教会は受けとめてきました。
父なる神は、私たちを子として愛し養ってくださるお方。子なる神、イエス・キリストは天から降って、人となり、私たちに代わって十字架に死に、罪の贖いを成し遂げ、復活された。ならば、聖霊なる神は一体何をしてくださっているのか。いまひとつピンとこないという人が多いのではないでしょうか。
ところで、良い映画、良いドラマには必ず名脇役がいると言われます。主役と同じ才能、力量を持ちながら、主役を引き立てるのが脇役のつとめ。自らが目立つことは無い、いや目立ってはいけない存在でした。
喩えて言うなら、人間を罪から救うという神のご計画の中で、この脇役に徹したのが聖霊の神と言えるでしょうか。何故なら、聖霊は父と子から遣わされ、ひたすらイエス・キリストの恵みを私達に届け、キリストの栄光を表すため仕えているからです。
今日は、私たちの信仰生活にとって無くてはならないお方、聖霊について、皆で覚える時としたいと思います。
さて、今日取り上げたのは、ヨハネ14:16~21。大きな流れで言いますと、ヨハネの福音書14~16章は、イエス様による惜別説教、別れを惜しむ説教とされます。
この場面、十字架の死を明日に控えた前日のことです。弟子たちは、イエス様から「わたしは天の父の元に行く。しかし、あなた方はわたしの行くところに来ることは出来ない。」と言われ、動揺していました。
自分たちの中に裏切り者がいると聞いたこと、弟子の中でもリーダー格のペテロが、「主を知らない」と三度誓うとの預言も、彼らの不安を一層深くしたと思われます。
「イエス様が去ってしまわれたら、自分たちは一体どうしたらよいのか」。そんな心配顔の弟子たちに、「天の父の元に行ったなら、わたしはあなた方のために願いをささげる」とイエス様は約束されました。
14:16「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。」
十字架の死、復活、そして昇天。贖いの業を成し遂げ、天に帰られたイエス様が、まず父に願ったのは、ご自分への報いでも、祝福でもありませんでした。「もう一人の助け主を与え給へ」と、地上に残された弟子たちのために願うというのです。
地上にいる時も、天に帰られても、イエス様の心はご自分を頼る者にひたすらむけられている。これは今も変わりません。今も、地上にある私たち一人一人を見守り、天の父の前で、日夜祈ってくださるイエス様。その主のお姿を、私たちも心に刻みたいところです。
ところで、もうひとりの助け主とはどのようなお方なのでしょうか。
14:17「その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。」
もうひとりの助け主とは真理の御霊。つまり、私たちに真理であるイエス・キリストの恵みを届け、その栄光を表すために与えられる聖霊でした。
「わたしを信じない人々は見ることも、知ることも出来ないけれど、あなた方は知ることが出来る。何故なら、聖霊は格別に親しくあなた方とともに住み、あなたがたのうちにいつまでもいてくださるから」と心配する弟子たちを励ますイエス様です。
さらに、です。もうひとりの助け主は聖霊と聞かされても、弟子たちの動揺は収まっていないと見られたのでしょうか。イエス様は、ことばを代えて「大丈夫だよ。私はあなた方を捨てて孤児にはしない」と、親が子にする様に語りかけます。
14:18~21「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。いましばらくで世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。その日には、わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現わします。」
幼子は、お母さんが「ちょっと外に出かけてくる」と言うだけで心配します。「夕飯のおかずを買いに店に行くだけですよ」と言っても、泣き止みません。「必ず、すぐに戻ってくるから」と言われて、漸く安心します。
心から信頼するお母さんがともにいてくれる。それが幼子の安心の源であるように、弟子たちにとってイエス様がともにいてくださるのが何よりも心強いことでした。
ですから、「わたしは、あなた方のところに戻ってくる。あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおり、わたしたちは決して離れることはありません」と、イエス様は約束されたのです。
尤も、これは天に昇られたイエス様が直接戻ってくると言うのではなく、弟子たちに聖霊を送り、聖霊によってともにいてくださることを意味すると考えられます。
何度も言いますように、聖霊はイエス・キリストの恵みを届け、その栄光を表すことに専念し、仕えてくださいますから、聖霊を受けた者はイエス様が共におられるのを確信できるわけです。
こうして、約束された聖霊が、十字架の死から50日後、七週の祭りと呼ばれる小麦の収穫を祝う祭りの時、120人もの人々に降り、エルサレムに初のキリスト教会が誕生することとなります。なお、ペンテコステは元々50日目を意味することばでした。
さて、イエス・キリストが遣わす聖霊は、どのように私たちを助けてくださるのでしょうか。今日は三つの事を確認したいと思います。
一つ目は、私たちの心にイエス・キリストを救い主と信じる信仰を与え続けてくださる、ということです。
12:3「ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ。」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。」
ここに、心に聖霊を頂いた者は誰もイエスを否定できず、必ずイエスを主と告白すると教えられます。
皆様の中には、いつの間にかイエス様を信じていたという、クリスチャンホームの子どもに代表されるような信仰の持ち方をした人もいるでしょう。学びをしている内に素直に信じることができたと言う方もいるでしょうし、長い葛藤の末に信じたと言う方もいることでしょう。
いずれにせよ、イエス・キリストを信じることは、私たちの決断であると同時に、聖霊のお働きと助けがあって実現することでした。
「聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません」。ことばを代えて言うなら、「イエスは主、我が救い主」と告白できた者は、その心に聖霊が宿ると確信して良いし、確信すべしと教えられるのです。
ろうそくの灯火は、赤々と燃えているかと思えば、風前の灯で殆ど消えかかってしまう時もあります。私たちの信仰も同じではないでしょか。信仰に燃えて、力強く行動する時もあれば、主を見失って意気消沈、信仰も停滞、深い悩みの中に落ち込む。そんな時もあるでしょう。
信仰の歩みは山あり谷あり。信仰に燃やされる時も、風前の灯の時もあるのです。しかし、私たちの信仰がどんな状態にあろうとも、一度「イエスは主」と告白しえた者のうちに聖霊が宿っておられるという事実は変わらない。必ずや信仰を復活させてくださる。そう教えてくれるこのみことばに、私たち立ちかえる者でありたいと思います。
二つ目は、聖霊は教会つまり兄弟姉妹を愛し、仕える賜物を与えてくださると言うことです。
12:7「しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現われ(賜物、奉仕)が与えられているのです。」
私たちは、己の力ひとつで信仰の道を歩み続けることが出来るほど強い存在ではないことを、聖書は教えています。
私自身それを経験した者です。19歳で洗礼を受けて一年後、あることをきっかけに信仰の確信をなくした私は、教会を離れてしまいました。それから半年余り、日曜日に礼拝に行かない生活にも慣れ始めた頃、町で偶然出会った教会の友人から、水曜日夜の祈祷会へ強引に誘われました。
教会に対し敷居が高く感じていた私は恥ずかしいやら何やら。気持ちは嫌々、渋々の祈祷会出席でした。しかし、そこで、私は自分のような者のことを忘れず、祈り続けてくれた兄弟姉妹がいることを知ったのです。
私には見えなくなっていた神様を心から信じ、教会のために何一つ奉仕せず、生意気にも教会批判、クリスチャン批判をして飛び出した私のような者のために祈り続けてくれた兄弟姉妹。「ああ、これが教会と言うものか」と心動かされた経験が、私を再び信仰の道に戻してくれたのです。
イエス・キリストは、放っておけばすぐに神信仰から離れてしまうような弱い私たちのために聖霊を与えてくださいました。そして、聖霊は私たちがお互いに愛し、仕える交わりを築く賜物を与えてくださったのです。
祈りの賜物、祈りの奉仕は、私たちに与えられた賜物、私たちがなすべき奉仕の一例でした。私たちの信仰は教会の交わりに支えられ、養われていること、同時に私たちは、兄弟姉妹の信仰を支える賜物を与えられていることを自覚したいと思います。
三つ目は、聖霊は私たちをイエス・キリストに似た者へと造り変えてくださるということです。
ガラテヤ5:22,23「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁じる律法はありません。」
自分を捨てて神様と人を愛する愛。どんな試練の時も、神様に愛されていることを喜ぶ心。どのような状況にあっても奪い去られない平安。いかなる人も受け入れる寛容。親身になって相手に尽くす親切。いつも相手の美点、賜物を見出そうと努める善意。人を分け隔てせず接する誠実。どんなにひどいことを言われても、感情的になって言い返さない柔和。いかなる場合も、神の御心に照らして、なすべきことをなし、なさざるべきことに手を出さない自制。
ここに御霊の実として挙げられた性質は、私たちが生まれながらにして持つ罪の性質に反するものばかり。私たちは愛すべき人に冷たく、喜ぶべきことを喜べず、平安よりも不平不満に心が満たされることの多い者です。
寛容とは程遠い心の狭さを捨てられず、親切を尽くすより、親切も程々にと考えがちな者です。相手の美点、賜物には目を瞑り、むしろ欠点、弱さをあげつらいます。人を分け隔てし、そのくせ人から少しでもひどい事を言われようものなら、その二倍、三倍でもおかえしてやろうと腹を立てる者です。何かと理由をつけて、なすべきことには手をつけず、なすべからざることに心をむけること、実に多き者です。
しかし、イエス・キリストを信じた時から、聖霊は罪人の私たちの心に入り、これらの良き性質をすべて持つキリストに似た者へと造りかえる作業を開始しました。
私たちは、この聖霊の尊い奉仕に感謝し、協力しているでしょうか。何度失敗しようとも、聖霊が必ずや実現してくださることを信じて、宝石のようなこれらの性質を身につけるべく日々努めること。その様な者となりたく思います。
最後に、今日の聖句を皆で読みたいと思います。
Ⅰコリント6:19「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。」
愛は愛する者といつもともにいること、そして愛する者に協力し、助け、励まし、慰めることを切に願い、喜びとします。
私たちが聖霊の宮であるとは、罪で汚れた私たちの心を聖霊が自らの住まいとし、いつもともにいたいと願い、心から喜んで仕えたいと思うほど、私たちが聖霊に愛されているということです。
助け主ということばには、いつも近くにいて弁護し、守ってくださるお方、親しい相談相手と言う意味もあるそうです。「聖霊の神様。今私が持つべき考え、とるべき態度、行動はなんですか。それを選べるよう、また実行できるよう力をお貸しください」。
この様な相談相手、人生の守り手として、聖霊が私たちのうちに住んでおられることを自覚し、感謝しつつ、日々歩んでゆきたいと思います。