ことわざに「兄弟は他人の始まり」と言います。子供の頃は仲の良かった兄弟も大人となり結婚や利害関係で次第に情が薄くなると、他人の様になってしまう事を言います。
イエス・キリストも「兄弟は他人の始まり」を経験されました。今までナザレの村で兄弟仲良く暮らしてきたものの、イエス様が本来の使命である神から遣わされた救い主としての活動を始めると、弟達のお兄さんイエスに対する無理解が目立ち始めたのです。
時は秋。仮庵の祭りが近づいてきたある日のこと。自分たちも都エルサレムに上ろうと考えた弟たちはお兄さんのイエス様を誘いました。
7:1~5「その後、イエスはガリラヤを巡っておられた。それは、ユダヤ人たちがイエスを殺そうとしていたので、ユダヤを巡りたいとは思われなかったからである。
さて、仮庵の祭りというユダヤ人の祝いが近づいていた。そこで、イエスの兄弟たちはイエスに向かって言った。「あなたの弟子たちもあなたがしているわざを見ることができるように、ここを去ってユダヤに行きなさい。自分から公の場に出たいと思いながら、隠れた所で事を行なう者はありません。あなたがこれらの事を行なうのなら、自分を世に現わしなさい。」兄弟たちもイエスを信じていなかったのである。」
イエス様の兄弟、これはイエス様の弟だけでなく親戚も含まれていたと思われますが、彼らはユダヤ人の宗教指導者がイエス様の命を狙っていた事を知らなかったのでしょう。いかにも暢気に「エルサレムの都にいるあなたの弟子たちも、このガリラヤであなたがしているわざ、奇跡を見ることができるようここを去ってユダヤの都に行ったらどうですか。」と声をかけたのです。
しかも、です。「自分から公の場に出たいと思いながら、隠れた所で事を行なう者はありません。あなたがこれらの事を行なうのなら、自分を世に現わしなさい。」とは要らぬお節介、余計なお世話でした。
故郷ガリラヤを隠れた所、物の分からない田舎者の集まる所と見下し、「どうせ奇跡を行うならユダヤの都エルサレム、しかももうすぐ都は仮庵の祭りで賑わうという絶好のタイミング。さあ一緒に行こう。」との勧めです。
しかし、イエス様はご自分を世に現わす時、つまり公に都エルサレムに入場する時を既に決めておられたのです。それを「自分を世に現わしなさい。」等と、如何にも親切そうな物言い。
しかし、裏側には「今や奇跡を行う教師、預言者として有名人になった者の家族親戚として、自分たちもその人気名声にあやかりたい。」そんな魂胆が透けて見えます。
自分が世に生まれたのは名を売るためにあらず、人に仕えるため。罪のいけにえとして十字架に死に人々の罪を贖うため。そう確信するイエス様の心を兄弟たちは知らなかった、いや知ろうとさえしなかった。これを指して「兄弟たちもイエスを信じていなかった」と言われたのでしょう。
しかし、イエス様は兄弟たちの無理解をあからさまに責めませんでした。むしろ、やんわりと断りました。
7:6~9「そこでイエスは彼らに言われた。「わたしの時はまだ来ていません。しかし、あなたがたの時はいつでも来ているのです。世はあなたがたを憎むことはできません。しかしわたしを憎んでいます。わたしが、世について、その行ないが悪いことをあかしするからです。あなたがたは祭りに上って行きなさい。わたしはこの祭りには行きません。わたしの時がまだ満ちていないからです。」こう言って、イエスはガリラヤにとどまられた。」
「わたしの時」とは福音書には何度か登場する表現です。イエス・キリストが都エルサレムで十字架に死に、復活するその時を指します。父なる神様に従いこの時を非常に重視していたイエス様は、たとえ身内の者に誘われても決意を変えることはありませんでした。だから重ねて「わたしの時がまだ満ちていない。」と言われたのでしょう。
それにしても、「世はあなたがたを憎むことはできません。しかしわたしを憎んでいます。」とは意味深長なことばでした。「わたしの教えは世の人にその行いが悪いことを示すため、世の人はわたしを憎む。しかし、あなたがたが憎まれることはない。」
同じ家族、同じ親族であっても、神様を信じる者とそうでない者とでは、この世の人の見方が違う。これは今日私たちも心に覚えるべき真理と思われます。
しかし、「わたしはこの祭りにはゆかない。」と兄弟たちに言われたイエス様が彼らとは別に、言わば内密に仮庵の祭りに上られたのです。
当時、人々は家族親族知人友人、ひとつのグループになって祭りに出かけるのが慣わしでした。イエス様は人目を惹くグループ行動を避け、単独で都に向かったようです。
7:10~13「しかし、兄弟たちが祭りに上ったとき、イエスご自身も、公にではなく、いわば内密に上って行かれた。ユダヤ人たちは、祭りのとき、「あの方はどこにおられるのか。」と言って、イエスを捜していた。
そして群衆の間には、イエスについて、いろいろとひそひそ話がされていた。「良い人だ。」と言う者もあり、「違う。群衆を惑わしているのだ。」と言う者もいた。しかし、ユダヤ人たちを恐れたため、イエスについて公然と語る者はひとりもいなかった。」
イエス様が何故人目を惹く行動を避けたのか。その理由が良く分かる都エルサレムの状況です。ガリラヤにいた弟子から連絡があったのか、都の弟子たちはイエス様を捜しました。イエス様も彼らと安全に会える場所を捜していたのかもしれません。
他方、群集たちはイエス様の噂でもちきり。「良い人だ」と評価する者もあれば、「群衆を惑わす者ではないか」と不安を感じる人もいる。いずれにしても群集たちはユダヤ教指導者の威光を恐れ、公の場でイエス様について滅多なことは口にできないという有様だったのです。
人々が大勢集まる祭りの場で、イエス・キリストに奇跡など行われたら身も蓋もない。自分たちの権威立場を守るのに必死の指導者は、祭りの間特別警戒網を敷いていたのかもしれません。
そんな状況の中イエス様が満を持したように、神殿に上りました。しかし、そこで行ったのは人気を博すこと間違いない奇跡ではなく、みことばを教えることだったのです。
7:14,15「しかし、祭りもすでに中ごろになったとき、イエスは宮に上って教え始められた。ユダヤ人たちは驚いて言った。「この人は正規に学んだことがないのに、どうして学問があるのか。」」
その頃ユダヤ教にはいくつかの学派があり、それぞれに学校を持っていました。人々は、その様な正規の学校で学んだことがないイエス様の教えのすばらしさに感動し、驚いたというのです。
しかし、謙遜なイエス様はまたも人々の眼が自分に向けられたのを感じると、身を低くして「わたしの教えは父なる神様からのもの」と語られたのです。
7:16~18「そこでイエスは彼らに答えて言われた。「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わした方のものです。だれでも神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります。自分から語る者は、自分の栄光を求めます。しかし自分を遣わした方の栄光を求める者は真実であり、その人には不正がありません。」
「だれでも神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります。」このイエス様のことばは私たちの心を抉ります。
よく人は言います。「キリスト教について完全に理解できないので、イエス・キリストを信じられない。」しかし、イエス様は言います。「神の御心を行なおうと願う人なら、わたしが神から遣わされた救い主であると分かるはずだ。」と。
イエス・キリストを信じるために必要なのはキリストについての知識か、それとも実際に聖書の教えに従うことか。知識と実際に従うこと。どちらも必要でしょう。
しかし、イエス・キリストについて知ることと、イエス・キリストに従い、知ることの間には大きな隔たりがあるように思います。それは、私たちが結婚以前に相手について知ることと、実際に共に生活をしてみて相手を知ることに違いがあるのと同じです。単なる知識と体験的な知識の違いといったらよいでしょうか。
キリスト教には人間の小さな頭では理解できない教えがあります。信じて受けとめるしかないと言う教えがあります。しかし、本気でイエス・キリストの教えを信じ、これに従う生活を送ることで知るイエス・キリストの素晴しさは、理解できないことへの不安など吹き飛ばして余りあるほどなのです。
さて、自分のためにこの世の栄光を求めてやまないユダヤ人の行動には矛盾があることを、次にイエス様は指摘しました。これも自分の身を守るためというより、人々を父なる神様に導くためのことばと思われます。
7:19,20「モーセがあなたがたに律法を与えたではありませんか。それなのに、あなたがたはだれも、律法を守っていません。あなたがたは、なぜわたしを殺そうとするのですか。」群衆は答えた。「あなたは悪霊につかれています。だれがあなたを殺そうとしているのですか。」」
モーセがユダヤ人に与えた律法とは有名な十戒のこと。その十戒には「殺してはならない。」とはっきり神様の御心が記されていました。それなのに、「あなた方の指導者たちは自分たちの権威と立場を守るため、裁判もなしにわたしを殺そうとしている。これは殺人ではないか」とイエス様はずばり群集に指摘したのです。
しかし、指導者を恐れる都の人々は、「それは被害妄想だ。あなたは悪霊につかれている(気が狂っている)。」と答えて、逃れようとします。そこに、イエス様の第二の矢が放たれました。これも、自分の栄光を求めるユダヤ教指導者の矛盾をつくことばとなっています。
7:21~24「イエスは彼らに答えて言われた。「わたしは一つのわざをしました。それであなたがたはみな驚いています。モーセはこのためにあなたがたに割礼を与えました。――ただし、それはモーセから始まったのではなく、先祖たちからです。――それで、あなたがたは安息日にも人に割礼を施しています。もし、人がモーセの律法が破られないようにと、安息日にも割礼を受けるのなら、わたしが安息日に人の全身をすこやかにしたからといって、何でわたしに腹を立てるのですか。うわべによって人をさばかないで、正しいさばきをしなさい。」」
「わたしが行った一つのわざ」とは以前都エルサレムで、安息日にイエス様が38年もの間病に苦しんでいた男を癒し、立たせ、歩かせたことを指します。何故人々がそれに驚いたのかと言えば、ユダヤ教では病人を癒すことが安息日にしてはならない仕事として固く禁じられていたからです。
事実、群集は驚いただけですが、ユダヤ教指導者は腹を立て、彼らがイエス様を殺そうと考えるきっかけとなった大事件でした。
しかし、ユダヤ人が尊敬してやまないモーセの時代に定められた割礼に関しては、たとえ安息日であっても人々はこれを行っていたのです。「そうだとすれば、割礼よりもはるかに大切であり、安息日にふさわしい癒しのわざを行ったからといって、何故あなたがたの指導者はわたしに腹を立てるのか。」
人々にとってはぐうの音も出ない、いや出せないことばです。そして、最後に「うわべによって人をさばかないで、正しいさばきをしなさい。」と念を押され、最早人々には返すことばはありませんでした。
こうして、読み終えた今日の箇所。私たち我が身を振り返り、考えてみたいことが二つあります。
ひとつは神様の栄光を求めることと自分の栄光を求めること、私たちにとってどちらが大切でしょうか。どちらを大切なものと考えているのかではなく、実際にどちらを求めて、私たちは普段考え、語り、行動しているのでしょうか。
兄弟姉妹と交わっている時、奉仕をしている時、この世で学び、仕事をしている時、私たちの心にはこの身をもって神様の素晴らしさを現わしたいという願いがどれほどあるでしょうか。
とかく私たちの関心は世間の評判を受けることに向き勝ちです。しかし、人々相手の評判病に取り付かれたら、私たちは果てしないストレスに苦しむことになると、聖書は教えています。何をするにも神様の栄光を求める生き方こそが真に私たちを自由にし、生きる喜びを覚えさせるもの。イエス様の生き様から、このことを教えられたいと思います。
ふたつ目は、うわべによって人をさばかず、正しいさばきをする者になることです。勿論イエス様はここで私たちが人の意見や能力、行動について評価することを禁じているのではありません。「うわべによって人をさばかない」とは、ユダヤ教指導者がイエス様に示したような、自分を正しいとし、怒りに駆られて人を非難する態度です。人のあら捜しをし、言葉尻をとらえ、人を責め、傷つける様な態度をとることです。
イエス様は私達がこうした態度を無意識の内に取る者である事を教え、戒めています。
マタイ7:5「偽善者たち。まず自分の目から梁を取り除けなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。」
私たちの中にある人を非難し、あら捜しをする態度、それこそ人の目にあるちり、つまり欠点に比べたら大きな梁、重大な罪であると自覚すること。これが自分の目から梁を取り除くことです。そして、自分の罪を思いつつ、謙遜になり、心からの同情心をもって人に接すること。これが正しいさばきつまり神様が喜ばれる態度でした。
私たちも神様に助けて頂きながら、こうした態度を身につけることができたらと願わされます。