2013年8月4日日曜日

ヨハネの福音書(23)ヨハネ7:25~53「生ける水の川が」

皆様は、イエス・キリストを信じているけれども、信仰生活が生き生きとしていないと感じることはないでしょうか。平安、内なる力、喜びなどを感じることなく、日々生きているといった経験はないでしょうか。
例えて言うなら水の枯れた井戸、萎んだ花、坂道にさしかかるとエンストしそうな車。何とか格好だけは保っているものの本来のいのち、力に欠けた信仰生活です。
その原因は様々ですが、ひとつ考えられるのは、イエス・キリストを信じた者が頂いている聖霊について理解していないということがあげられるかと思います。今日は、聖霊のお働きについてともに考えたいと思います。
さて、時は紀元30年頃の秋、場所はユダヤの都エルサレム。仮庵の祭りで賑わう都は、突然宮に出現したイエス様についての話題で持ちきりでした。何しろ、男だけでも五千人の群集を二匹の魚と五つのパンを一瞬で増やし、全員を満腹させたという大奇跡の評判は都人の耳にも入っていましたし、宮で語る教えも正規の学問を修めていないものとは到底思えないほど的確で権威があったからです。
一方、そんなイエス様を妬み、亡き者にしようとする宗教指導者がいることを人々は知っていましたから、まさにこの時都はイエス様を巡って騒然としていました。

7:2531「そこで、エルサレムのある人たちが言った。「この人は、彼らが殺そうとしている人ではないか。見なさい。この人は公然と語っているのに、彼らはこの人に何も言わない。議員たちは、この人がキリストであることを、ほんとうに知ったのだろうか。けれども、私たちはこの人がどこから来たのか知っている。しかし、キリストが来られるとき、それが、どこからか知っている者はだれもいないのだ。」
イエスは、宮で教えておられるとき、大声をあげて言われた。「あなたがたはわたしを知っており、また、わたしがどこから来たかも知っています。しかし、わたしは自分で来たのではありません。わたしを遣わした方は真実です。あなたがたは、その方を知らないのです。わたしはその方を知っています。なぜなら、わたしはその方から出たのであり、その方がわたしを遣わしたからです。」
そこで人々はイエスを捕えようとしたが、しかし、だれもイエスに手をかけた者はなかった。イエスの時が、まだ来ていなかったからである。群衆のうちの多くの者がイエスを信じて言った。「キリストが来られても、この方がしているよりも多くのしるしを行なわれるだろうか。」

その頃ユダヤでは、キリストつまり救い主は突然現れるものという説を信じる人々がいたとされます。そうした人々はエリートの議員たちが公然と語るイエス様を止めようとしないのを見て、不思議に思ったのでしょう。「私たちはこの男がナザレ村から来た田舎者であることを知っている。本物のキリストなら出身地など分からないはずだから、この男は本物ではない」と断定しました。
それに対してイエス様は、「あなたがたはわたしの出身地を知っているかもしれない。しかし、わたしが天の父から地上に遣わされた救い主キリストであることを知っていますか」と答えたのです。
それを聞いて、この男はとんでもないことを言うとイエス様を捕えようとする人々あり。他方、こんなにも多くのしるし、奇跡を行われたのだから、この方が救い主ではないかと思う多くの人々あり。否定派肯定派、真っ二つに分かれました。
ところで、この様子を耳にした宗教指導者パリサイ人祭司たち。彼らは「イエスは救い主」と考える人が多数であることに危機感を抱き、ついに役人を遣わしてイエス逮捕を決行します。

7:3236「パリサイ人は、群衆がイエスについてこのようなことをひそひそと話しているのを耳にした。それで祭司長、パリサイ人たちは、イエスを捕えようとして、役人たちを遣わした。
そこでイエスは言われた。「まだしばらくの間、わたしはあなたがたといっしょにいて、それから、わたしを遣わした方のもとに行きます。あなたがたはわたしを捜すが、見つからないでしょう。また、わたしがいる所に、あなたがたは来ることができません。」
そこで、ユダヤ人たちは互いに言った。「私たちには、見つからないという。それならあの人はどこへ行こうとしているのか。まさかギリシヤ人の中に離散している人々のところへ行って、ギリシヤ人を教えるつもりではあるまい。『あなたがたはわたしを捜すが、見つからない。』また『わたしのいる所にあなたがたは来ることができない。』とあの人が言ったこのことばは、どういう意味だろうか。」

しかし、そんな宗教指導者の魂胆などイエス様が気づかぬはずはありません。それなのに身に迫る死の危険を知りながら、イエス様は「まだしばらくの間、わたしはあなたがたといっしょにいて、それから、わたしを遣わした方のもとに行きます。あなたがたはわたしを捜すが、見つからないでしょう」と、人々に語られたのです。
勿論これはイエス様が罪人のために十字架に死ぬこと、復活して天に昇り、父なる神様の元に帰ることを意味していました。
しかし、イエス様の尊い覚悟のことばも不信仰な者には「猫に小判」。さっぱり意味の分からない人々は、「まさかギリシヤ人の中に離散している人々のところへ行って、ギリシヤ人を教えるつもりではあるまい」と頓珍漢な想像をする始末だったのです。
けれども、これがやがてイエス様の弟子たちが、ギリシャを始めとする世界に広く福音を伝えることを知らずして預言していたとは、本当に面白いことでした。
さて、次は今日のクライマックス。祭りの終わりの日、神殿にすくっと立たれたイエス様があらん限りの大声で語られたことばを聞きたいと思います。
7:3739「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。」

ここで言う祭りとは、先にも言ったとおり秋のお祭り、仮庵の祭りです。仮庵の祭りはユダヤの人々にとって収穫祭であり、昔先祖たちが約束の地を目指した時、日毎に仮庵、テントを作って旅から旅を続けた生活を神様が守ってくださったことを記念するお祭りでもありました。
そして、このお祭りのハイライトは最終日でした。その日祭司たちがシロアムの池から水を運び、神殿の祭壇にふりかける行事が行われたのです。これも、荒野の旅で喉の渇きに苦しむ人々のため、モーセが打った岩から水が出てきたので皆が癒されたという神様の恵みを記念する行事でした。
その出来事を背景として、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」とイエス様は約束されたのです。
「あなた方の先祖が飲んだ水は体を潤す水。飲めばまた渇く水。しかし、わたしを信じる者に私が与える水はその人の魂を永遠に潤し生かすいのちの水」。この水はイエス様を信じるものが後になって受ける御霊のこととする説明も含め、この箇所は後でもう一度考えたいところです。
さて、これを聞いた群集たちの反応はまちまちでした。

7:4044「このことばを聞いて、群衆のうちのある者は、「あの方は、確かにあの預言者なのだ。」と言い、またある者は、「この方はキリストだ。」と言った。またある者は言った。「まさか、キリストはガリラヤからは出ないだろう。キリストはダビデの子孫から、またダビデがいたベツレヘムの村から出る、と聖書が言っているではないか。」そこで、群衆の間にイエスのことで分裂が起こった。その中にはイエスを捕えたいと思った者もいたが、イエスに手をかけた者はなかった。」

イエス様を預言者とする者、キリストと信じる者、「まさかガリラヤからキリストはでまい」と否定する者。中には、イエス様を捕えたいと思う者もいたと言う。分裂でした。敵は群集の中にもあり。いよいよイエス様の身は危うしという状況です。
そして、最後に登場するのは、イエス様の存在を妬み憎む宗教指導者たちでした。
7:4553「それから役人たちは祭司長、パリサイ人たちのもとに帰って来た。彼らは役人たちに言った。「なぜあの人を連れて来なかったのか。」役人たちは答えた。「あの人が話すように話した人は、いまだかつてありません。」
すると、パリサイ人が答えた。「おまえたちも惑わされているのか。議員とかパリサイ人のうちで、だれかイエスを信じた者があったか。だが、律法を知らないこの群衆は、のろわれている。」
彼らのうちのひとりで、イエスのもとに来たことのあるニコデモが彼らに言った。「私たちの律法では、まずその人から直接聞き、その人が何をしているのか知ったうえでなければ、判決を下さないのではないか。」彼らは答えて言った。「あなたもガリラヤの出身なのか。調べてみなさい。ガリラヤから預言者は起こらない。」そして人々はそれぞれ家に帰った。」

イエス様を捕まえるために遣わしたはずの役人が、イエス様を尊敬して帰ってくるとは思いもよらなかったのでしょう。パリサイ人、祭司長らは「おまえたちも惑わされているのか。議員とかパリサイ人のうちで、だれかイエスを信じた者があったか。だが、律法を知らないこの群衆は、のろわれている」と怒りに声を震わせました。
自分と考えの違う者を「惑わされている」とか「のろわれている」とか、徹底的に見下し批判する。これは高慢なエリートの特徴です。
しかし、そんな嫌らしいエリートの中に、「まずその人から直接聞き、その人が何をしているのか知ったうえで判決を下すのが筋ではないですか」と、脇の手からイエス様に助け舟を出した人がいました。以前イエス様を尋ねて以来、口にこそ出さねど心でイエスをキリストと信じていたニコデモです。
同僚たちが怒り狂う中、この時ニコデモが勇気を奮い語ったであろう意見は却下されました。しかし、十字架に死なれたイエス様の遺体を「自分の墓に納めさせてください」と願い出たニコデモの姿をやがて私たちは見ることになります。いわば隠れクリスチャンだったニコデモが献身的行動によってイエス様への愛と信仰を示すのです。
群集が様々な考えに分裂し、宗教指導者が怒って興奮する中、少なくともこのニコデモは「誰でも渇いているなら、わたしのもとに来なさい」というあのイエス様のみ声を心に深く受けとめていたのではと思われます。
こうして読み終えたヨハネの福音書の七章。私たち振り返り、考えてみたいのは聖霊について約束されたイエス様のことばです。もう一度、お読みします。

7:3739「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。」
生涯にわたって、イエス様の活力の源となったのはその心に宿る聖霊と聖書は教えています。そうだとすれば、イエス様はご自分にとって宝物のような聖霊を私たちに与えるため、十字架に死に復活し天に昇られたことになります。イエス様が父なる神様の元に帰り天で栄光を受けたのは私たちを離れるためでなく、私たちに聖霊という身近な助け主を与えてくださるためだったのです。
この大切な助け主を本当に私たちの心に届けるために、それを言ったら身の危険が迫ることをよくよく承知の上で、イエス様は人々の前に立ち大声を出し、まさに命がけでこの真理を教えてくださいました。イエス・キリストを信じる者の心に宿る聖霊はどのようなお働きをされるのか。今日の聖句をともに読んでみましょう。

ローマ815,16「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。私たちが神の子であることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。」

「アバ」とはユダヤの小さな子どもが自分の父親に甘える時のことば、幼児語です。聖霊はキリストを信じる者が神の子であることを教えてくださるお方。私たちがこの世界を創造した全能の神様を「天のお父さん」と呼んで、心から信頼し甘えてよいと教えてくださるお方。このような聖霊を心に頂いていることを皆様は自覚しているでしょうか。喜んでいるでしょうか。
ところで、聖書は私たちが受けたのは「人を再び恐怖に陥れるような奴隷の霊ではなく、子としてくださる御霊」と説明しています。奴隷と子では何が違うのでしょうか。
奴隷はどんなに良い奴隷であっても、その働きによってのみ主人に評価される存在です。ですから「自分の働きが悪ければ、少しでも失敗や落ち度があれば、主人に首にされるかもしれない」と恐れながら主人に仕えることになります。あるいは、主人の手前良い奴隷でいようと考えて働きますから心に喜び無く、その行動は表面的偽善的なものとなります。
神様に背いた人間は、生まれながら奴隷の霊奴隷の心を持っていますから、神様との関係も人との関係も、主人と奴隷のような関係になりがちです。しかし、神の子は違います。神様と私たちはお父さんと子ども、愛の関係で結ばれていますから、私たちはその働きの良し悪しや成果のあるなしに関わらず、大切でかけがえの無い存在であることが保証されているのです。
このような父子の関係にあるからこそ、私たちは自分の能力の足りなさや失敗を恐れることなく、心から安心して、自由を感じながら、喜んで神様に仕え、その御心に従う道を選ぶことができるのです。このような生き方へと導いてくださる聖霊を心に頂いていることを自覚し、日々神様に愛されている子として歩む者でありたいと思います。