星野富弘さんにこの様な詩があります。「鏡に映る顔を見ながら思った。もう悪口を言うのはやめよう。私の口からでたことばをいちばん近くで聞くのは、私の耳なのだから。」
星野さんは「自分は細かいことに口うるさいタイプなので、自分のような男と結婚するお嫁さんは何日辛抱できるだろうと思っていた。そういう私と承知の上で結婚したのだから、忍耐強い妻も始めの頃は随分疲れたらしい」と書いています。ですから、「もう悪口を言うのはやめよう」と思った相手のひとりは奥さんかも知れません。
私たちがある人に対して悪口を言う、責めるというのはどういう事なのでしょうか。それは相手のことば、態度、あるいは存在を赦せないと感じている状態です。
「鏡に映る顔を見ながら思った。もう悪口を、人を責める言葉を言うのはやめよう。私の口からでたことばをいちばん近くで聞くのは、私の耳なのだから。」察するに、星野さんは身近な人のことば、態度、存在に腹を立て、赦せないと感じている。そんな自分が嫌で悩みつつこれを書いたのではと思われます。
私自身は共感するところ大です。皆さまは如何でしょうか。
ある心理学者が書いていました。「人生の中で最も大きなストレスは突き詰めて言うと、赦せないと言う苦しみと赦されていないと言う苦しみの二種類ではないか」と。
夫婦、親子、職場の同僚に学校の仲間、地域の隣人、そして教会の兄弟姉妹の関係。考えてみれば「赦すこと」「赦されること」は誰の人生にとっても大きな課題。今日は、聖書の視点から「赦すこと」「赦されること」の意味を考えてみたいと思います。
さて、時は紀元30年頃秋もたけなわ。ユダヤの都エルサレムでは仮庵の祭が盛大に祝われていました。ガリラヤから上って来られたイエス様が、都の中心に立つ宮、神殿で人々を教えていたところです。
そこに、かねてイエス様の存在を妬み、隙あらば亡き者にしようとたくらんでいたユダヤ教の指導者律法学者とパリサイ人がひとりの女を連れて登場します。
8:1~3「イエスはオリーブ山に行かれた。そして、朝早く、イエスはもう一度宮にはいられた。民衆はみな、みもとに寄って来た。イエスはすわって、彼らに教え始められた。すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕えられたひとりの女を連れて来て、真中に置いた。」
仮庵の祭で賑わう都。中でも宮の庭は、有名なイエス・キリストの教えを聴けるというので、朝早くから人々でごった返していたことでしょう。そこへ何と姦淫の現場で捕らえられた女が連れて来られ、真ん中に置かれたと言うのです。
思っても見なかった光景に息を呑む群衆。やがて女を指さし、互いに目配せをして、「一体これはどうなるのか」とひそひそ話す人々。そんな場面が頭に浮かんできます。
そこに響き渡ったのが女を糾弾し、合わせて「あなたはこの事態をどう収拾しますか」と問う宗教指導者の声でした。
8:4~6「イエスに言った。「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。」
姦淫の現場というなら相手の男はどうしたのか。ふたりの当事者のうち女だけを、それも群衆の真中に置き人目にさらしてまでも、イエス様の判断を仰ぎたいという律法学者にパリサイ人。この熱心ないや強引な行動の裏には、「イエスを告発する理由を得るため」という卑劣な魂胆が隠されていたのです。
その頃ユダヤの国はローマに支配されていました。ユダヤ人は石打すなわち死刑など重要な事柄を自分たちの法律に従って執行することは許されていない時代です。
ですからこの場面、もしイエス様が「律法に従い石打」と言うなら、彼らは「あなたはローマに反抗するのか」と告発し、逆に「石打はできない」と答えるなら、「律法を守らぬ者、宗教の教師失格」と告発する。右を選んでも左を選んでも、イエス様が穴に落ちるよう仕組まれた罠でした。
そんな彼らにイエス様は背を向け、身をかがめて指で地面に何かを書くポーズを取られたとあります。「あなたがたのしていることが本当に天の神の前に正しいことなのか。よく考えてみよ。」との思いを込めた無言の叱責でした。
卑しい魂胆のために、哀れひとりの女を辱める。それでいながら、自分たちはどこまでも罪人を糺そうとする正義の味方、神とその律法に忠実な指導者と思い込んで恥じることのない実は偽善者たち。「自分こそ正義の味方と思う人ほど手に負えない存在はない」と言われますが、昔も今もこういう人が存在するのが世間というもののようです。
しかし、イエス様の折角の配慮も「豚に真珠」。今まで全くイエス様を捕らえる機会を見いだせなかった指導者達は「このチャンス逃すものか」とばかり、執拗に問い続けたと言うのです。
8:7~9a「けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。」
「寸鉄人を刺す」と言います。短い言葉で人の心を刺すの意味です。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」このイエス様の一言は流石に心頑なな人々の胸にも突き刺さったようです。
実際姦淫に手を染めたことはなくとも、心情欲に捕らわれ眼や耳で罪を犯したことはなかったかと良心に問えば、誰しも恥じ入るしかありませんでした。
「彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。」またも身をかがめ地面に物を書くイエス様の姿勢、それが今度は功を奏したようです。
もし、イエス様が同じ言葉を語りその行動をじっと見ておられたら、果たしてプライドの高い彼らは自分の罪を見つめることが出来たかどうか。そう思うと、自分を貶めようとするいわば敵である律法学者、偽善のパリサイ人に対するイエス様の愛のご配慮が光っているのを感じ、私たちも嬉しくなるところです。
そして、今日のクライマックス。イエス様と姦淫の女との会話です。
8:9b~11「女はそのままそこにいた。イエスは身を起こして、その女に言われた。「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」彼女は言った。「だれもいません。」そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」」
「女はそのままそこにいた。」自分を捕らえ連れ来たった人々は皆去っていきました。イエス様も「ここに残れ。」と言われたわけではありません。そうだとすればこの女はもはや自由、自分の足で何処へなりと行けたはずではありませんか。
それなのに何故残っていたのか。イエス・キリストのおことばを頂くため、自らの意志で残ったと考えられます。
「婦人よ」とのことばは、その頃女性を敬って言う呼びかけのことば。例え世間が何と言おうと、イエス様は重大な罪を犯した女性であっても、対等で大切な人格として見ておられました。
さらに、「あなたを罪に定める者はなかったのですか。」との問いかけは、イエス様がこの人の罪を大目に見るつもりも、水に流してしまうつもりもなかったこと、罪は罪としてさばかれるべきものと考えておられたことを示しています。
つまりこの婦人はイエス様が自分の罪を知るお方、自分の罪をさばくことの出来るお方であることをわきまえながら、キリストの元に残ることを自分から選んだのです。
その結果、彼女は思いもしなかったであろう恵みを受け取りました。ひとつは「わたしもあなたを罪に定めない。」という罪の赦しの宣言です。
勿論婦人に罪がなかったからではありません。イエス・キリストは彼女の中にさばかれるべき罪があることをご存知の上で、今後一切永遠にあなたを罪に定めない、さばかない、責めないと宣言しました。
この背後には、やがて十字架の上で彼女の罪を背負い、身代わりに天の神のさばきを受けて死ぬというご覚悟があったのは言うまでもないことです。
そして、罪に定めされることがない立場は、イエス・キリストを信じる私たちにも与えられていました。
ローマ8:1「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」
日々思いにおいて、ことばにおいて、行いにおいて罪を犯す者がイエス・キリストを信じるがゆえに決して永遠に罪に定められることがないと言う驚くべき恵み、この大いなる恵みを私たち喜び、確認したいと思います。
第二に、彼女がイエス・キリストから与えられた恵みは罪を犯さない自由です。「行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」とのことばは、この自由を意味していました。
ローマ6:17,18「神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、罪から解放されて、義の奴隷となったの
です。」
聖書は、イエス・キリストを信じる以前、私たちは皆罪を犯さない自由をもってはいなかった、つまり罪の奴隷だったと教えています。そして、イエス・キリストを信じた時から罪を犯さない自由を頂き、義の奴隷となったと告げるのです。皆さまはこのことを自覚しているでしょうか。
もちろん、地上にある間私たちは罪を犯します。その罪を悲しみ、神様の前に悔い改める必要がある存在です。私たちが全く罪を犯さず、完全に義の奴隷となる、神様の御心に従う者となるのは天国に行ってからのこと。地上に生きる間は、罪を犯さない自由も、神様の御心、義に従う自由も未だ不完全なものです。
しかし、例えそうであっても、イエス・キリストを信じた者が罪を犯さない自由、神様の御心を行なう自由を与えられていることを自覚し、感謝することが非常に大切。この恵みのことを、聖書は教えてやまないのです。
さて、こうして読み終えた今日の箇所は「姦淫の女」と呼ばれ、ドラマチックで印象的、かつ絵画的、一度読んだら目に焼き付いて忘れられないところです。けれども、様々な画家や作家がこの場面を題材、話題にしたこともあり、非常に有名なものとなったのです。
しかし、この場面。ドラマチックで絵画的というだけでなく、汲むべき教えは非常に深いものがあります。
一つは赦されることについてです。イエス・キリストによって赦されるとは、私たちが行い、口にし、心に思ってきた罪がどれほど酷いものであろうとも、神様は決して永遠に私たちを罪に定めず、さばかないことです。
私たちは罪を持ったまま、この存在を丸ごと神様が受け入れてくださるので大安心を頂き、恐れなく、自由な心で罪を離れ、神様の御心を行なうことを喜ぶ者に変えられたということです。
イエス・キリストの赦しとは、私たちの罪が完全に赦されるだけでなく、それにプラスして、罪を犯さない自由と神様の御心に従う自由のある幸いないのちが与えられること、そのいのちが私たちのうちに日々成長するよう助けてくださること。そう心に刻みたいと思います。
ふたつめは、人を赦すことです。
エペソ4:31,32「無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」
このことばは、私たちがイエス・キリストに赦されたことと、人を赦すことの間には深い関係があることを教えています。
無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしり、悪意は「あの人のことば、態度、存在を赦せない」と感じる時、私たちの心を支配している感情や思いです。生まれつきの私たちの性質、自我は「人を赦せない、赦したくない。一緒にやって行くのは不可能」と思いがちで、それを正当化する傾向があります。
赦すにしても「相手が先に謝るなら赦しても良い」と考える条件付きの赦し方を好む。それでも赦せばまだ良い方で、相手のあらや欠点を探し、それを見つけると喜び、そこを責める。人をさばき、過度に批判する本当に酷い罪の性質を宿しています。
しかし、イエス・キリストはそんな罪人の私たちに心から同情し、あわれみを抱き、心の底から助けたいと思い、人を赦す自由のある新しいいのちを与えるため十字架に死んでくださったのです。
怒り、憤り、そしり・批判的な思いや悪意、それら自分の感情や思いを満たすためではなく、自分も同じ罪を持つ者として謙遜に、心からの同情心を持って、相手の問題を取り除くようつとめる。本当に難しいこと、イエス・キリストの助けなくして不可能なことですが、私たちみなが人を赦すことに勤める者となりたく思います。