六十六巻からなる聖書、その一つの書を丸ごと扱い説教をする一書説教。これまで断続的に行ってきましたが、今日は十回目。旧約聖書第十の巻、第二サムエル記を扱います。
第二サムエル記といえば、全六十六巻の中でも特に読み物として整い、面白い書。ギリギリのところで事がうまく運ぶ成功譚。目を覆いたくなる失敗談。手に汗握る戦物語。ドロドロの愛憎劇。様々な物語の要素が込められた書となっています。ある日本人作家(保坂和志氏)が「あらゆる物語のパターンは、きっと旧約聖書の中にあり、その後書かれた物語は多かれ少なかれ、そのバリアント(変奏)だろう」と言っていますが、なるほど、第二サムエル記を読みますと、聖書の中にメロドラマやミステリーの要素まであったと納得するのです。
聖書は神様のことば。私たちの神様がどのようなお方か。人間はどのような存在で、私はどのように生きるべきなのか考えながら読むことを基本にしつつ、同時に聖書を読むこと自体も楽しみたいと思います。
毎回お勧めしていることですが、一書説教の時は、説教を聞いた後で、どうぞ扱われた書を読んで来て下さい。一書説教が進むにつれて、教会の皆で聖書を読み進めていくという恵みにあずかりたいと願っています。
さて、第二サムエル記を確認する前に、これまでの流れを少し振り返りたいと思います。
聖書の最初は、この世界が創られた記録からです。非常に良く創られた世界。この世界が悲惨な状態になるのは、人間が神から離れる、神を無視して生きるようになってからでした。このような人間に対して、神様がとられた基本的な方針は、神の民を通して、神から離れた人間にどのように生きるべきか教える。全世界の中から神の民を選び出し、神の民が人間のあるべき生き方、神様との関係を全世界の人に示していくというもの。この神の民に選ばれたのが、アブラハムとその子孫、イスラエル民族でした。神様は、アブラハムに、子孫がおびただしく増えることと、カナンを(地中海とヨルダン川・死海に挟まれた地方)所有地として与えることを約束されました。
そのアブラハムの子孫、イスラエル民族が、カナンの地を所有した後、その地で王を立てることになる。それが第一サムエル記の記録でした。王が立てられるまでのイスラエル民族は、モーセやヨシュア、士師、預言者のように、宗教的指導者と政治的指導者が一体となっていました。ですので、イスラエルにおいて、王を立てるということは、宗教的指導者の役割と、政治的指導者の役割が分かれることを意味します。そしてもし、宗教的指導者と政治的指導者の意見が食い違うことが起こったら。イスラエルにおいては、王が預言者の言葉に従うべきであり、この点他の国とイスラエルにおける王の立場は、異なるものだったのです。
ところが、初代イスラエルの王となったサウルは、この点で失敗しました。預言者サムエルの言葉よりも、自分の思いを優先。それはつまり、神様の言葉よりも、自分の考えを優先させるもの。その結果、やることなすこと裏目になるも、サウルは自分の地位に固執。権力欲の怪物のような姿を晒し、第一サムエル記の最後では、負け戦で討ち死にしたことが記録されていたわけです。
サウルの次に王となるよう、預言者サムエルが選んでいたのがダビデ。ダビデは王になると宣言されるも、なかなか実現しない。それどころか、サウルに命を狙われ、逃亡生活をするはめになる。王どころか、難民のような状態でした。しかし、サウルが戦死した後、いよいよダビデが王となっていく。それが第二サムエル記の前半の記録となります。
第二サムエル記2章3節~4節a
「ダビデは、自分とともにいた人々を、その家族といっしょに連れて上った。こうして彼らはヘブロンの町々に住んだ。そこへユダの人々がやって来て、ダビデに油をそそいでユダの家の王とした。」
預言者サムエルが次の王としてダビデを選んでいることは、広く知られていました(2章9~10節、17~18節)。そしてサウルが戦死した。今や、ダビデが王となるのは規定路線かといえば、そうではなかった。イスラエル民族は十二部族の集まり。ダビデの出身部族、ユダ部族はすぐさまダビデを王として認めるも、他の部族はダビデを王とは認めず、サウルの息子、イシュ・ボシェテを次の王として立てたと言います。
第二サムエル記2章8節~10節
「一方、サウルの将軍であったネルの子アブネルは、サウルの子イシュ・ボシェテをマハナイムに連れて行き、彼をギルアデ、アシュル人、イズレエル、エフライム、ベニヤミン、全イスラエルの王とした。サウルの子イシュ・ボシェテは、四十歳でイスラエルの王となり、二年間、王であった。ただ、ユダの家だけはダビデに従った。」
なぜ預言者によって、次の王はダビデと言われていたのに、ユダ部族以外の人々はダビデを認めなかったのか。どうも、他の人々が認めなかったというよりは、ここに名前が出てくる将軍アブネルの意図したことだったようです。強大な権力を手にしたアブネルは、それを手放すことが出来ず、イシュ・ボシェテを傀儡とし、ダビデに対抗した。ユダ部族以外の人々は、それに従わざるを得なかったようです。
こうして、サウル亡き後のイスラエルは二つに分かれ、争いが起こるも次第にダビデが優勢となります(3章1節)。イシュ・ボシェテ、アブネルの関係もうまくいかなくなり、遂にはアブネルがダビデにおもねるようになる。「自分がユダ部族以外のものたちを束ねて、ダビデに従います。」とです(3章21節)。
ダビデからすれば、これで一件落着。ユダ部族だけの王から、全イスラエルの王となれるという場面。しかし、ここで大きな問題が起こります。ダビデのもとを訪れていたアブネルが、ダビデの家来によって殺されてしまうのです。
白旗を上げ、講和条約を結びに来た将軍アブネル。そのアブネルが暗殺されたとなると、再度戦が始まるかもしれない。ダビデからすると、全イスラエルの王となることが遠のくかという場面。仮に、自分がダビデの立場だったとしたら。皆さまは何をするでしょうか。この問題をどのように乗り切るでしょうか。実際にダビデがどうしたのか。それは是非、第二サムエル記を読んで、確認して頂きたいと思います。
このようにサウル死後も、すぐに全イスラエルの王になることが出来なかったダビデ。ユダ部族のみの王であった期間は七年半に及び、その間に起こった、あれやこれやの事件の記録が第二サムエル記の前半となります。
様々な問題が解決し、状況が整い、遂には全イスラエルの王となったダビデが取り組みたかったこと二つが記されるのが、六章、七章となります。
全イスラエルの王となったダビデが取り組みたかったこと。一つは、神様のご臨在を示す契約の箱、神の箱を都エルサレムに運びこむことでした。神様を第一、礼拝を第一に考えた王。さすがはダビデというところでしょうか(6章)。
全イスラエルの王となり、ダビデがしたかったこと。もう一つは神殿を建てることでした。
第二サムエル7章1節~2節
「王が自分の家に住み、主が周囲の敵から守って、彼に安息を与えられたとき、王は預言者ナタンに言った。『ご覧ください。この私が杉材の家に住んでいるのに、神の箱は天幕の中にとどまっています。』」
自分は杉材の家に。神の箱はテントの中に。これは良くないと思い、預言者に願い出たのは、神殿を建てること。さすがはダビデと言えるでしょうか。教えられたことを実行するに留まらず、自分から神様のためにと願い出る。傑出した信仰者の姿でした。
これに対する神様の答えが7章に記録されています。一般的にダビデ契約と言われるもので、ダビデの王座が続くという約束です。このダビデ契約の言葉は、ダビデの子、ソロモンにおいて成就するものもあれば、イエス・キリストにおいて成就するものもあります。
それにしても、ダビデと神様の関係は、いかにも親しく、羨ましいもの。一被造物が、創造主とこのような関係を築けるとはと驚くと同時に、憧れます。私たちも、神様とのこれ程の親しさを持ちたいと願うところです。
第一サムエル記から読み通して、ここまでダビデは大変な状況を何度も経験してきました。苦しく辛い状況。その都度、神様を信頼し、神様を第一に選ぶ生き方が見てとれました。その結果、全イスラエルの王となり、ダビデの王座は続くと約束まで頂く。苦難を乗り越えての成功譚。後は平穏無事な治世であったと言うならば、ダビデは英雄中の英雄とだけ記憶される人物となったでしょう。しかし、そうではなかった。第二サムエル記の後半は、ダビデの失敗と、その失敗が様々な人に大きな影響をもたらした場面を見ることになるのです。人間ダビデ、罪人ダビデの姿を晒すことになります。
ことの発端は、家来たちが戦争に行っている時、ダビデが王宮で昼寝をしていた場面で起こります。
Ⅱサムエル記11章2節
「ある夕暮れ時、ダビデは床から起き上がり、王宮の屋上を歩いていると、ひとりの女が、からだを洗っているのが屋上から見えた。その女は非常に美しかった。」
家来が戦っている最中に、自分は王宮で寝ていた。この段階で、ダビデらしからぬ行動のように思えます。緩みきったダビデの心は、美しい女性の裸体に釘付けになる。遂には、王の権力を使ってこの女性、バテ・シェバと関係を持ちます。残念無念。王の権力を、自分の欲望のために使うダビデ。
その結果、バテ・シェバは妊娠します。慌てたダビデは、あれやこれやと画策するもうまくいかず、ついにはバテ・シェバの夫を激戦区に送りこみ殺すように命じます。最後には、夫を失ったバテ・シェバを妻とするダビデ。目を覆いたくなるような姿です。
Ⅱサムエル記11章27節
「喪が明けると、ダビデは人をやり、彼女を自分の家に迎え入れた。彼女は彼の妻となり、男の子を生んだ。しかし、ダビデの行なったことは主のみこころをそこなった。」
ダビデの行いは、主のみこころをそこなった。人妻を召し抱え、その夫を激戦区に送りこむ。これはひどい悪ですが、他国の王であれば、珍しいことではなかったかもしれません。しかし、イスラエルにおいて、王であろうとも許されることではない。
一般的に、平穏、安泰は良いこと。苦難、困難は避けるべきことと言われます。しかし、平穏、安泰が人を腐敗させ、堕落させ、不敬虔にさせることがある。苦難、困難が私たちを遜らせ、信仰を強めることがある。平穏、安泰と感じる時こそ、私たちは気を付けるべきなのかもしれません。
このダビデに対して、その罪を告発するのは預言者の仕事でした。預言者ナタンが、ダビデを糾弾します。
Ⅱサムエル12章7節~9節b
「ナタンはダビデに言った。「あなたがその男です。イスラエルの神、主はこう仰せられる。『わたしはあなたに油をそそいで、イスラエルの王とし、サウルの手からあなたを救い出した。さらに、あなたの主人の家を与え、あなたの主人の妻たちをあなたのふところに渡し、イスラエルとユダの家も与えた。それでも少ないというのなら、わたしはあなたにもっと多くのものを増し加えたであろう。それなのに、どうしてあなたは主のことばをさげすみ、わたしの目の前に悪を行なったのか。」
ナタンの言葉をダビデはどのように聞いたでしょうか。無視したか。ナタンを殺そうとしたか。そうではなく、ナタンの言葉を真摯に受け止め、悔い改めたのです。
Ⅱサムエル12章13節
「ダビデはナタンに言った。「私は主に対して罪を犯した。」ナタンはダビデに言った。「主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった。あなたは死なない。」
己の罪を認めるダビデに対して、預言者ナタンは即座に赦しの宣言です。権力を使い、人妻を召し抱え、その夫を殺す。これ程の悪でも、罪を認め悔い改める時、その罪は神様の前で赦される。悔い改める者には赦しを。聖書の教える福音がここでも響いているところです。神様の前で赦されたダビデ。しかし、ダビデが引き起こした事件は、様々な悲劇を引き起こすことになるのです。何が起こったのか。
第二サムエル記13章1節
「その後のことである。ダビデの子アブシャロムに、タマルという名の美しい妹がいたが、ダビデの子アムノンは彼女を恋していた。」
サムエル記の著者は、慎重に「その後のことである。」と記しました。つまり、この十三章以降の出来事は、ダビデが罪を犯した後のことである、とです。
大きな悲劇の引き金となるのは、ダビデの長男アムノンが、異母姉妹であるタマルに対する恋心でした。アムノンは、タマルに対する欲情を募らせ、遂には強姦するという始末。ダビデの子どもの間で、ひどい事件が起こるのです。ダビデのした悪が、子どもに伝播した場面。しかも、この出来事に対して、ダビデはひどく怒った(13章21節)ものの、何の対処もしませんでした。何も出来なかったというべきでしょうか。
長男アムノンと、この出来事に対して何の手も打たないダビデに対して、強い憎しみを抱いたのが、ダビデの三男でタマルの兄、アブシャロムでした。アブシャロムはこの事件が起こってから二年間待ち、何の対処もされないことを見届けると、自ら復讐に手を染めます。まずは長男アムノンに対しては、宴会に招き、そこで殺します。(アブシャロムの狙いは、この時にダビデも殺すつもりだったようですが、それは計画倒れとなります。)父ダビデに対してはクーデターを起こし、復讐を果たそうとする。アブシャロムの計画は綿密で、何年もかけてクーデターの準備をする姿が聖書に記録されています。
そのクーデターは、初めの段階でアブシャロム側が優勢でした(15章12節)。そのため、ダビデは一時、都エルサレムから逃げ出します。逃げているダビデのもとに、一つの情報が届いたことが、聖書に記録されていました。
Ⅱサムエル記15章31節
「ダビデは、『アヒトフェルがアブシャロムの謀反に荷担している。』という知らせを受けたが、そのとき、ダビデは言った。『主よ。どうかアヒトフェルの助言を愚かなものにしてください。』」
急に名前が出てくるアヒトフェルという人物。この人は、非常に優秀。アヒトフェルの助言は神のことばのようであったと言われるほどの人物(16章23節)です。このアヒトフェルが、アブシャロムについたということが、ダビデには恐怖だったのです。
ところで、このアヒトフェルという人物が、なぜアブシャロムに与したのか。是非、聖書を読んで調べて頂きたいと思います。私はここが本当に面白いと思うのですが、サムエル記の著者は、その答えが簡単には分からないように記しています。第二サムエル記を隅から隅まで読んで、やっとアヒトフェルがダビデを裏切る理由が分かるように記されている。ミステリーとして巧みな印象です。第二サムエル記を読み通して頂いて、これが理由というのを見つけた方は、どうぞ教えて下さい。
それはそれとしまして、当初は優勢だったアブシャロムですが、クーデターは最後には失敗し、アブシャロムもアヒトフェルも死ぬことになります。自分の命を狙っているアブシャロムですが、我が子でもあるアブシャロムが死んだことを聞いた時のダビデの言葉が印象的です。
第二サムエル記18章33節
「すると王は身震いして、門の屋上に上り、そこで泣いた。彼は泣きながら、こう言い続けた。『わが子アブシャロム。わが子よ。わが子アブシャロム。ああ、私がおまえに代わって死ねばよかったのに。アブシャロム。わが子よ。わが子よ。』」
ダビデは自分が命を狙われている理由が分かっていたはずです。つまり、自分が犯した罪、バテ・シェバとの事件が発端となり、アムノンとタマルの事件が起こり、その結果、アブシャロムのクーデターでした。
自分の情欲を抑えることが出来ず、バテ・シェバと関係を持ったことから、その夫を殺し(夫ウリヤは優秀な戦士でした。)、娘タマルには悲劇が起こり、長男アムノン、三男アブシャロム、非常に優秀な家来アヒトフェルが死ぬことになった。(その他、アブシャロムのクーデターによる内戦で死んだ者もいました。)
神様の教えを無視する。神様のみこころをそこなうことが、いかに悲劇を生み出すのか。第二サムエル記の後半は、如実に物語っていました。
以上、第二サムエル記を概観しました。最後に二つのことを確認して終わりにしたいと思います。
一つは、罪、悪は避けるべきであること。主のみこころを沿う生き方の重要性です。当然のこと。言うまでもないこと。とはいえ、今日はこの点で自分の生活を振り返りたいと思います。小さな気の緩みから罪に陥り、大きな悲劇を生んだダビデの生涯を確認しました。このダビデの姿は反面教師とするように。主のみこころは何かを聖書から探ること。罪、悪には敏感になることを意識したいと思います。
聖書に従うこと。神様の教えを実践することは、私たちを不自由にするものではありませんでした。罪を避け、聖書に従うことが、本当の幸いでした。
今日の聖句。申命記12章28節
「気をつけて、私が命じるこれらのすべてのことばに聞き従いなさい。それは、あなたの神、主がよいと見、正しいと見られることをあなたが行ない、あなたも後の子孫も永久にしあわせになるためである。」
自分のしたいことをすることが最上とされる世にあって、私たちクリスチャンは、聖書に従う生き方こそ本当の幸せであることを示していきたいと思います。
とはいえ、どれ程気を付けても私たちは罪を犯す者、悪に走る者でした。自分の力だけで自分を制することが出来ないのです。そこで罪を犯した時には悔い改めること。自分が悪いと自覚した時には、神様の前で罪を認めることです。姦淫と殺人を犯したダビデが、己の罪を認めた時、瞬時に赦されたように、私たちも罪の赦しを味わいつつ、生きていくものでありたいと思います。
罪を避けながら、それでも犯してしまう罪を悔い改めること。その重要性を改めて、第二サムエル記から確認し、皆で神の民としての歩みを進めていきたいと思います。