2013年8月25日日曜日

恵みの襷をつなぐ ヨシュア記4章1節~8節

 先日、五年に一回のプログラム、日本長老教会の全国修養会が行われました。私たちの属している日本長老教会は、二つのグループが合同しまして今の状態にありますが、今年は合同二十年目。全国修養会も二十周年記念として開催されました。
四日市キリスト教会から約四十名の参加。準備委員の方から、遠方なのに多くの方が参加して下さったと感謝が伝えられました。修養会のテーマソングは、四日市教会員の作詞、作曲。子どもプログラムでは、アワナクラブの奉仕。ゴスペルクワイヤの分科会でのリードや演奏など、様々なところで四日市キリスト教会員の活躍があり、私としては非常に嬉しい時となりました。講師の先生方の話や、久しぶりに会う人、初めて出会う人との交わりも良いものでした。五年後の修養会には、更に多くの人と参加出来ればと願います。
その全国修養会のテーマが「恵みの襷をつなぐ」でした。「恵みの襷をつなぐ」。頂いた恵みを、次の世代へ。神様から頂いた恵みを自分だけのものとするのではなく、次の世代へと引き継いでいく。信仰継承がテーマ。

受けた恵みを引き継ぐ。信仰を継承するというのは、教会にとって非常に重要なテーマです。受けた恵みを次の世代に伝えるようにとは、聖書が度々教えていることですし、それが上手くいかない教会は不幸です。私たちの願うところは、キリストがもう一度来られるまでの間、信仰が継承され、この地に聖書的な教会が立ち続けることです。
「恵みの襷をつなぐ」というのは、全国修養会で扱うのに良いテーマであると思うのと同時に、四日市キリスト教会においても重要なテーマであり、一度、四日市キリスト教会の皆さまとともに、このテーマで聖書から考えたいと思い、今日は説教題を「恵みの襷をつなぐ」としました。
私たちは、受けた恵みを引き継ごうとしているでしょうか。信仰を継承しようとしているでしょうか。そもそも、具体的に何をすることが、恵みの襷をつなぐことなのでしょうか。聖書の中には「恵みの襷をつなぐ」ように教えられている箇所。「恵みの襷がつながれた」場面が、色々とあると思いますが、今日はその中の一つに注目したいと思います。神の民イスラエルが、神様が与えると約束していたカナンの地に突入する場面。

 ヨシュア記4章1節
「民がすべてヨルダン川を渡り終わったとき、主はヨシュアに告げて仰せられた。」

 ご存知の方もいらっしゃると思いますが、この箇所の背景を少し説明いたします。全人類の中で、神様と特別な関係にあった、イスラエル民族。神様はイスラエルに対して、カナンの地(現在のパレスチナ地方)を所有地として与えると約束していました。
その約束が実現にむかうのは、モーセの時代。当時エジプトで奴隷だったイスラエル民族が、指導者モーセによって導かれカナンの地に向かいます。エジプトからカナンの地まで、紆余曲折ありますが、カナンの地の直前でモーセは死に、次の指導者として立てられるのがヨシュア。このヨシュアのもと、イスラエルの民がカナンの地に入る場面。
ここで「民がすべてヨルダン川を渡ったとき」とありますが、これがついに、イスラエルの民がカナンの地に入った場面。記念すべき第一歩でした。

 ところで、四章から読み始めますと、「民がすべてヨルダン川を渡ったとき」と簡単に書いてあるように感じますが、これは一大事件。そもそもイスラエルの民がカナンの地に入る際、大きな障害となったのがヨルダン川です。大軍でヨルダン川を渡るのは不可能と思われるところ。どのようにしてヨルダン川を渡ったのかといえば、それが三章に記されていました。

ヨシュア記3章11節、13節
「見よ。全地の主の契約の箱が、あなたがたの先頭に立って、ヨルダン川を渡ろうとしている。・・・全地の主である主の箱をかつぐ祭司たちの足の裏が、ヨルダン川の水の中にとどまると、ヨルダン川の水は、上から流れ下って来る水がせきとめられ、せきをなして立つようになる。」

 神様のご臨在を示す契約の箱を先頭にして川に入る。すると川がせきとめられるという約束でした。興味深いのは、せきとめられたら、川を渡りなさいではない。まず川に入る。すると、せきとめられると言う約束なのです。神様の約束を信じるかどうか、試された場面でもあります。

この約束を信じて、その通りにした時、どうなったのか。
ヨシュア記3章15節~16節
「箱をかつぐ者がヨルダン川まで来て、箱をかつぐ祭司たちの足が水ぎわに浸ったとき、――ヨルダン川は刈り入れの間中、岸いっぱいにあふれるのだが――上から流れ下る水はつっ立って、はるかかなたのツァレタンのそばにある町アダムのところで、せきをなして立ち、アラバの海、すなわち塩の海のほうに流れ下る水は完全にせきとめられた。民はエリコに面するところを渡った。」

 この地方の気候は雨季と乾季がはっきりと分かれています。ヨルダン川のこの場所は、乾季で川幅三十メートル。雨季になると、川は広くなり深さも勢いも増す。川といって天白川ではないのです。雨季のヨルダン川がせきとめられた。
川がせきとめられる。これが起こると、流れてくる水は、そそり立つことになります。滝の反対、上へ上へと水が登る場面。イスラエルの民がヨルダン川を渡ったのは、エリコに面するところ。川がせきとめられたのは、アダムという町。これは、エリコから北に約三十キロメートル離れたところと考えられていますので、せきとめられた水が天を衝いて上る様が、三十キロメートル離れたところでも確認出来たのでしょう。際立った奇跡。印象的、劇的な場面。
想像出来るでしょうか。この時、この場にいたのは、エジプトを脱出した際には未成人か、荒野で生まれた者たち。これまでの人生の多くを、流浪の民として生きてきました。神様はカナンの地を与えると約束して下さいましたが、攻め上るどころか、川を渡ることも出来ない。溢れかえるヨルダン川を前に途方に暮れるしかない状況。
しかしここで、神様の言われた通りにする。契約の箱を先頭に川に入ると、溢れかえっていた川が、みるみる渇いていき、遥か川の北上ではせきとめられた水が立ち上って行く様が見えたのです。自分がこの場所にいたとしたら、目の前の川が渇き、せきとめられ上り立つ川を見た時にどのように感じるでしょうか。興奮、感動、感謝、喜びの場面。この場所にいたかったと思う、一つの場面です。

 話を四章に戻します。「民がすべてヨルダン川を渡り終わったとき」とありますが、これはつまり、イスラエルの民が大きな恵みを頂いたときです。約束の地に入ることが出来た。それも、大奇跡を通して導かれた場面。この時、イスラエルの民は、一つのことをします。

 ヨシュア記4章4節~8節
「そこで、ヨシュアはイスラエルの人々の中から、部族ごとにひとりずつ、あらかじめ用意しておいた十二人の者を召し出した。ヨシュアは彼らに言った。「ヨルダン川の真中の、あなたがたの神、主の箱の前に渡って行って、イスラエルの子らの部族の数に合うように、各自、石一つずつを背負って来なさい。それがあなたがたの間で、しるしとなるためである。後になって、あなたがたの子どもたちが、『これらの石はあなたがたにとってどういうものなのですか。』と聞いたなら、あなたがたは彼らに言わなければならない。『ヨルダン川の水は、主の契約の箱の前でせきとめられた。箱がヨルダン川を渡るとき、ヨルダン川の水がせきとめられた。これらの石は永久にイスラエル人の記念なのだ。』」イスラエルの人々は、ヨシュアが命じたとおりにした。主がヨシュアに告げたとおり、イスラエルの子らの部族の数に合うように、ヨルダン川の真中から十二の石を取り、それを宿営地に運び、そこに据えた。」

 大きな恵みが与えられた場面。この時、ヨシュアが指示したことは、川の中にあった石をとって来ることでした。その石は背負うように言われていますので、それなりの大きさでしょう。何故、石をとって来るのか。二つの理由が語られています。
 一つは、「あなたがたの間で、しるしとなるため」でした。この時感じた興奮、感動、感謝、喜びを忘れないように。神様から大きな恵みを頂いたことを忘れないため、この石をしるしとするようにとの指示でした。
 これ程の大奇跡。これ程の大きな恵み。しるしなどなくても、忘れるわけがないと思うでしょうか。ところがそうも言えない。恵みに対する私たちの心は、ザルと言って良いでしょうか。すぐに忘れてしまう。そこで、この石を見る度に、神様の恵みを思い出すようにとの指示でした。
 石をとってきたもう一つの理由。それは、この恵みを経験した者たちだけでなく、その子どもたちにも、恵みを伝えるために。神様がどのような恵みを下さったのか、伝える物として、この石を用いるように。恵みの襷をつなぐ、信仰を継承するための、記念の品でした。

 恵みを忘れないように。受けた恵みを次の世代に受け継ぐようにというのは、これはヨシュアの考えたことではなく、神様が命じたことでした。
 ヨシュア記4章2節~3節
「民の中から十二人、部族ごとにひとりずつを選び出し、彼らに命じて言え。『ヨルダン川の真中で、祭司たちの足が堅く立ったその所から十二の石を取り、それを持って来て、あなたがたが今夜泊まる宿営地にそれを据えよ。』」

 大きな恵みが与えられた時、イスラエルの民がしたことは、自分たちが恵みを忘れないように。また、その恵みを子どもたちに伝えるように取り組んだのです。恵みを忘れない。その恵みを次の世代に伝える。これが、神様が神の民に命じていることであり、恵みの襷をつなぐということでしょう。
神様から与えられた恵みを忘れない。その恵みを伝えていく。この場面は、恵みの襷をつなぐ具体的な取り組みとして、記念の品が用意されました。それ以外にも、恵みの襷をつなぐ方法は色々とあると思いますが、何にしろ、私たちが取り組みたいのは、与えられた恵みを忘れないこと。そして、その恵みを次の世代に伝えていくことです。
 私たちは、頂いた恵みを忘れないように。自分が頂いた恵みを、次の世代に伝えるように、取り組んできたでしょうか。

 頂いた恵みを忘れないように。次の世代に伝えるようにと記念のものを用意したのは、この時だけではありませんでした。例えばヤコブ。心細く、逃亡中のヤコブが、神様からの語りかけを聞いた時。次のように記録されています。
 創世記28章16節~19節
「ヤコブは眠りからさめて、『まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった。』と言った。彼は恐れおののいて、また言った。『この場所は、なんとおそれおおいことだろう。こここそ神の家にほかならない。ここは天の門だ。』翌朝早く、ヤコブは自分が枕にした石を取り、それを石の柱として立て、その上に油をそそいだ。そして、その場所の名をベテルと呼んだ。しかし、その町の名は、以前はルズであった。」

 ヤコブは神様の恵みを覚えた時、石の柱を作りました。記念の品を用意し、恵みを忘れないようにと。また、その地名をベテル、神の家と呼ぶことにし、実際にヤコブの子どもたちは、この地をベテルと呼びます。こうして次の世代に恵みを伝えることに取り組んだのです。

 あるいはサムエル。宿敵ペリシテ人との戦いに勝利した際、石を置いて神様の恵みを覚えるように取り組みました。
 Ⅰサムエル記7章11節~13節
「イスラエルの人々は、ミツパから出て、ペリシテ人を追い、彼らを打って、ベテ・カルの下にまで行った。そこでサムエルは一つの石を取り、それをミツパとシェンの間に置き、それにエベン・エゼルという名をつけ、『ここまで主が私たちを助けてくださった。』と言った。こうしてペリシテ人は征服され、二度とイスラエルの領内に、はいって来なかった。サムエルの生きている間、主の手がペリシテ人を防いでいた。」

 サムエルは、ミツパとシェンの間に石を置き、エベン・エゼル、助けの石と名付けました。ここまで神様が助けて下さったと。この場所は、これより少し前に、ペリシテ人に大敗した土地でした(Ⅰサムエル記4章)。失敗、屈辱の土地。そこに、神様が助けて下さった記念の品を置き、エベン・エゼルと名付け、これもまたこの地の名となる。失敗、屈辱の地が、恵みの地として覚えられるようになる。恵みを忘れず、また次の世代に恵みを伝える取り組みが、この場面でもなされているのです。

 神様から頂いた恵みを忘れないように。その恵みを次の世代に引き継ぐように。恵みの襷をつなぐように。これは、聖書で度々教えられていることであり、神の民が取り組んできたことです。
 私たちはこれまで、どのように恵みの襷をつないできたでしょうか。そして、これから、どのように恵みの襷をつなぐでしょうか。神様から頂いた恵みを忘れない。その恵みを次の世代に引き継いでいくことを、私たち皆で真剣に取り組みたいと思います。

 この一週間、私は四日市教会の高校生四名、青年二名、私含めて計七名で、夏期伝道というプログラムに取り組みました。五日間、教会で寝泊まりしながら、皆で教会に仕える経験を味う。もともとは、日本長老教会の他の教会に行き、奉仕をすることに取り組むプログラムですが、今年の夏は四日市キリスト教会で活動となりました。教会のために奉仕をすることも色々と取り組みましたが、奉仕をするだけでなく、教会のことを知ることにも取り組みました。ヨシュアやヤコブ、サムエルが記念の品を残して、その恵みを次の世代に伝えたことを確認し、私たちも信仰の先輩方が味わった恵みを再確認しようと考えました。いわば、恵みの襷を受け取りたいと考えたのです。
 四日市キリスト教会の記念碑は何か。どのようにしたら、信仰の先輩方が受けた恵みを、私たちも知ることが出来るか、夏期伝道に参加した高校生、青年と話し合いました。その結果、教会の記念誌を読むこと。教会員の方に証を聞くこと。自分の両親の救いの証を読む。四日市キリスト教会の最初の礼拝堂となった伊藤勢都子姉宅に行く。教会の墓地に行くこと、などに取り組みました。
 これらのことに取り組んで、よく分かったことの一つは、四日市キリスト教会は本当に多くの恵みを受けた教会。奇跡的な歩みをしてきた教会。多くの信仰の先輩方がなんとか良い教会を建て上げたいと取り組んだ教会であるということです。
 教会の墓地に行き、先輩方の名前を見た後で、ある高校生が言ったことは、これまで多くの先輩方が教会を支えて下さった。今度は僕が教会を支えたい。やがて、このお墓に名前を連ねたいという感想でした。恵みの襷がつながれるのを、目の当たりにした場面でした。

 自分一人の人生を振り返った時、確かに神様は恵みを下さる方。私たちに良くして下さる方であると感じます。しかし、教会の歴史を振り返り、証を読み、記念碑に触れる時、神様は恵みを下さる方、私たちに良くして下さる方なのだという思いは、何倍にも膨れ上がりました。恵みの襷がつながれるというのは、私たちにとって、大きな喜びなのです。
 最後にもう一度お勧めいたします。聖書が度々教えていること。神様が私たちに命じていることの一つは、恵みを忘れないこと。そして、恵みを次の世代に伝えていくことです。具体的な方法は色々あると思いますが、私たちは皆で、恵みの襷をつなぐことに取り組みたいと思います。

モーセの最晩年。遺言説教の一節。イスラエルの民に、神様と共に歩んだ人生を忘れないように。また、そのことを子どもや孫に伝えるようにと語った言葉を、皆さまと共にお読みして終わりたいと思います。今日の聖句です。

 申命記4章9節

「ただ、あなたは、ひたすら慎み、用心深くありなさい。あなたが自分の目で見たことを忘れず、一生の間、それらがあなたの心から離れることのないようにしなさい。あなたはそれらを、あなたの子どもや孫たちに知らせなさい。」